神社情報
中山神社(なかやまじんじゃ)
御祭神:大己貴命
社格等:村社
例大祭:10月5日(例祭)・12月8日(鎮火祭)
所在地:埼玉県さいたま市見沼区中川145-65
最寄駅:大宮駅からバスで中山神社前停留所
公式サイト:─
御由緒
中山神社は、かつて中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守である。創建を人皇十代崇神天皇の御代二年と伝えられる古社である。明治四十年七月、神社合祀の際に社名を現在の中山神社に改められたが、今でも通称は「中氷川神社」で通っている。「中氷川」の由来は一説には、見沼に面した高鼻・三室(浦和)・中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀り、当社が高鼻(男体)、三室(女体)の中間に位置したところから付けられたという。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康から社領十五石の御朱印を賜った格式のある神社である。
当社の祭礼の中でも、毎年十二月八日に行われた鎮火祭は特に有名で、焚き終った炭火の上を素足で渡り、無病息災及び火難がないよう祈願するものである。ただし、近年は事情によりこの行事は中断している。
現社殿の裏側に旧社殿が保存されているが、これは桃山様式をもつ市内最古の建造物として大宮市指定文化財となっている。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2017/08/29
御朱印
初穂料:300円
拝殿横にて。
※拝殿横に書き置きのものが用意されている事がある。
※普段は神職の常駐がない神社なので要連絡。
拝殿横に書き置きの御朱印が用意されているが、切らしている場合も多く、筆者は8月に2度参詣したもののどちらも切らしていたので、電話で問い合わせたところ快く対応して頂いた。(お忙しい時は対応できない事もあるので注意)
歴史考察
旧中川村鎮守・氷川信仰の神社
埼玉県さいたま市見沼区中川に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧中川村の鎮守。
氷川神社の総本社である「武蔵一宮氷川神社」・その女体社とされる「氷川女體神社」と共に、3社で一体の「氷川神社」を形成していた説が伝わる古社。
かつては「中氷川社」や「簸王子社」と呼ばれ、氷川の名が付く神社であり、現在も氏子崇敬者からは「氷川様」と呼ばれる事が多い。
氷川信仰の御祭神・須佐之男命の子とされる大己貴命を御祭神とする。
中氷川社や簸王子社と称された古社
社伝によると、第十代崇神天皇二年(BC95)の創建と伝わる。
古くは「中氷川社」とも「簸王子社」とも称されたと云う。
現在も二之鳥居には「氷川神社」の文字が掲げられた扁額が残る。
氷川信仰の神社であり、須佐之男命・稲田姫命・大己貴命を祀っていたが、中でも大己貴命を筆頭として祀っていた。
古くから「武蔵一宮氷川神社」と「氷川女體神社」両社との繋がりが深く、3社で一体の氷川神社を形成していたという説が伝えられている。
一直線に並ぶ三社一体の氷川神社説
広大な見沼付近には、当社の他にも氷川信仰の神社が多数鎮座。
その中でも三氷川とも呼ばれる神社がある。
この三社で一体の「氷川神社」とする説が存在。
これら三社は直線上に鎮座しており、Google Mapsで確認してみても、見事に直線のラインに三社が鎮座しているのが分かる。
太陽は夏至に西北西の「武蔵一宮氷川神社」に沈み、冬至には東南東の「氷川女體神社」から昇る。
稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置とも云われる。
また御祭神からも三社一体の姿が窺える。
出雲の神であり、出雲族によって祀られたと伝えられている。
他に稲田姫命・大己貴命も祀るが、平安時代の『延喜式神名帳』には一座と記されているように、古くは須佐之男命のみ祀られていた可能性が高い。
稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐之大蛇退治の際に助けて妃にした姫とされており、社号の「女體(にょたい)」は御祭神に由来する。
大己貴命は大国主(おおくにぬし)の別名で「出雲大社」に祀られている神として知られる。
須佐之男命と稲田姫命の間に生まれた息子であり、大黒様と習合し崇敬を集めた。
御祭神で見ると三社の関係はこうなる。
武蔵一宮氷川神社 | 男体社(須佐之男命) | 夫 |
氷川女體神社 | 女体社(稲田姫命) | 妻 |
中山神社 | 簸王子社(大己貴命) | 子 |
以上の事から、三社一体の「氷川神社」が形成されていたという説。
古代はもっと広大だった見沼を神池として三社が配置され、広大な神域を有する「氷川神社」であったとされている。
旧社殿の造営・徳川家康から朱印地を賜る
安土桃山時代(1573年-1603年)、現存する旧社殿が造営される。
さいたま市(旧大宮市)の指定文化財建造物となっている。
天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
天正十九年(1591)、家康により15石の朱印地を賜る。
「武蔵一宮氷川神社」「氷川女體神社」と共に、氷川信仰の重要な一社として幕府から庇護されただけでなく、当社は中川村の鎮守として、地域からの崇敬を集めた。
新編武蔵風土記稿から見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(中川村)
氷川社
村の鎮守なり。社領十五石の御朱印は天正十九年十一月附せらる。毎年十二月二日圍み三尺の松樹をきりて四つに裂き、數十本を社前につみ、同八日に至り朝より夕まで焚終り、彼松の炭を持来り、神前に供するをもて例祭となせりと云。
素戔嗚尊稲田姫命合社
本社に向て後にあり。奥の院と云。
末社。荒脛社。第六天社。
神主小山泉、吉田家の配下なり。
中川村の「氷川社」と記されているのが当社。
村の鎮守と記されているように、中川村の鎮守として崇敬を集めた。
15石の朱印地を賜った事などが記されている。
注目すべきは、毎年12月に行われたという例祭。
これが一時の中断を経たものの現在も伝わっている「鎮火祭」であり、古くから伝わる伝統神事だった事が窺える。
境内には「奥の院」と呼ばれた、素戔嗚尊稲田姫命合社もあったと記してある。
ここからも当社の御祭神は大己貴命で、父神・須佐之男命と母神・稲田姫命は境内社(奥宮)として祀られていた事が分かり、氷川信仰の神社として少し特殊で「簸王子社」と呼ばれていた理由も分かる。
明治以降の歩み・中山神社への改称
明治になり神仏分離。
当社は中川村の鎮守として、村社に列した。
明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、片柳村・染谷村・加田屋新田・山村・西山村新田・御蔵村・笹丸村・東新井村・南中丸村・南中野村・中川村・上山口新田・新右エ門新田が合併し、片柳村が成立。
当地は片柳村中川となり、当社は当地一帯の鎮守として崇敬を集めた。
明治四十年(1907)、周辺の神社を合祀し、「中山神社」へ改称。
当地の中川の「中」と、隣接する上山口新田の「山」を合わせて「中山神社」となった。
明治四十三年(1910)発行(1906年測図)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
片柳村の文字と、当地周辺の中川という地名、更に隣に上山口新田という地名を見る事ができ、当社はこの一帯の鎮守として「中山神社」に改称されたのが窺える。
昭和四十五年(1970)、旧社殿が大宮市(現・さいたま市)の指定文化財となる。
昭和五十六年(1981)、古くから伝わる鎮火祭が中断。
現在は、鎮火祭が再開され現在に至る。
境内案内
朱色の一之鳥居から社頭の二之鳥居までの参道
最寄駅は大宮駅になるが徒歩ではかなり距離があるため、公共交通機関を利用する際は、大宮駅から乗れる国際興業バスの中山神社前停留所で参道の近くに降りる事ができる。
県道1号線より西側、住宅街の一画に一之鳥居。
朱色の両部鳥居となっていて、細い車道の参道。
その先に車の往来の激しい県道1号線があり、県道を渡った先に参道が続く。
中山神社入口といった看板が立てられているので分かりやすい。
車道となっており、当社の駐車場はこの先にあるため、自家用車の場合はこの参道を通る事となる。
参道を進むと二之鳥居。
二之鳥居の扁額には「氷川神社」の文字。
当社が氷川神社であった事を残しており、氏子崇敬者からは今も「氷川様」と呼ばれる事が多い。
二之鳥居を潜り左手に手水舎。
普段は神職の常駐がない神社であるが、水が張られて綺麗に整備されている。
現社殿と安土桃山時代の旧社殿
参道の正面に社殿。
木造による拝殿で素朴な造り。
拝殿の扁額には「中山神社」と掲げられている。
綺麗に維持されていて、氏子からの崇敬が伝わる。
社殿の裏手に、旧社殿が鎮座する。
覆屋で保護されており、中に旧社殿が置かれた形。
格子の間から僅かに見える社殿は、さいたま市の指定文化財。
放射性炭素年代測定法で、15世紀後半-16世紀前半の木材が使用されていることが判明しており、当時の神社建築を知る事ができる貴重な建造物である。
荒脛神社などの多くの境内社
二之鳥居を潜った参道右手に「荒脛神社」が鎮座。
「武蔵一宮氷川神社」と繋がりの深い境内社。
「武蔵一宮氷川神社」にもかつては「荒脛巾神社」として祀られおり、現在は「門客人神社」という名で鎮座している。
その奥に八社合祀殿。
神明社・飯成社・淡嶋社・疱瘡守護社・磐社・石上社・竈神社・稲田宮主社となっていて、稲田宮主社は「氷川女體神社」の御祭神・稲田姫命と繋がりが深い。
参道の左手には稲荷神社。
さらに社頭の左手にも稲荷神社。
この左手に石祠。
成田の文字が刻まれているため、成田不動尊と思われる。
古くから伝わる鎮火祭・境内裏手の御神池
境内には御火塚と呼ばれる一画がある。
神域として大切にされた一画で、毎年12月8日に「鎮火祭」が斎行される。
かつては薪を積み上げて夜通し焚き、炭を神前に供えていたと云う。
『新編武蔵風土記稿』にも記されているように、江戸時代以前より代々伝わっていた伝統行事であったが、跡継ぎがいなくなった事などから、昭和五十六年(1981)を最後に中断。
その後、現在の宮司が着任した事がきっかけとなり、平成十三年(2001)に小さな規模で火渡りが復活され、現在は少しずつ参拝者が増え規模が広がっている。
境内の裏手にある住宅街の一画には、小さいながら御神池が残る。
現在はあまり整備されていない一画。
かつては鎮火祭の際に、この御神池で禊を行ったと伝わる。
現在は打ち捨てられたような一画であるが、何とかこうして残されているのが喜ばしく、いずれ綺麗に整備される事もあるかもしれない。
明治天皇御親祭150年祭の特別御朱印
当社と古くから繋がりの深い「武蔵一宮氷川神社」では、平成二十九年(2017)10月28日に「明治天皇御親祭150年祭」が斎行。
4日目に明治天皇は、「武蔵一宮氷川神社」を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた。
10日目の10月28日、明治天皇は大宮に行幸し、関東の神社の中で最初に当社に親祭を行った。
大正六年(1917)に50年祭を行い、昭和四十二年(1967)に100年祭が行われた。
当社もこれを記念とした特別御朱印を用意。
旧社号であった「氷川」の名を入れた特別御朱印を期間限定でお受けする事ができる。
氷川の名が付いた御朱印を頂けるのは実に有り難い。
所感
かつて「中氷川社」とも「簸王子社」とも呼ばれた当社。
武蔵国の一之宮で、氷川神社の総本社である「武蔵一宮氷川神社」・その女体社とされる「氷川女體神社」と共に、3社で一体の「氷川神社」を形成していた説が伝わる神社であり、氷川信仰を知る上でも重要な一社と云える。
明治の合祀政策によって地域の神社が合祀され、社号が「中山神社」と改称されたため、現在は氷川信仰の名が薄れているようにも思えるが、今も氏子崇敬者は「氷川様」と呼ぶようで、崇敬を感じる事ができる。
明治以降は、徐々に廃れ、地域の鎮守として小さな規模で維持してたようだが、現在の宮司さんが着任してからは、鎮火祭の再開など少しずつ、かつての姿を取り戻すように頑張っているのだと思うし、そうした気持ちが伝わる良い神社である。
神社画像
[ 一之鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 手水舎 ]
[ 狛犬 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 旧社殿 ]
[ 神楽殿 ]
[ 御火塚 ]
[ 御籤掛・絵馬掛 ]
[ 荒脛神社 ]
[ 八社合祀殿 ]
[ 御神木 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 成田石祠 ]
[ 石碑 ]
[ 案内板 ]
[ 境内裏手 ]
[ 御神池 ]
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