代田八幡神社 / 東京都世田谷区

神社情報

代田八幡神社(だいだはちまんじんじゃ)

御祭神:応神天皇
社格等:村社
例大祭:9月第3土・日曜
所在地:東京都世田谷区代田3-57-1
最寄駅:世田谷代田駅
公式サイト:─

御由緒

 天正十九年(1591年)代田地区(旧下代田、本村、中原、大原)の鎮守の神様として、宇佐八幡宮より御分霊を勧請してお祀りしたことを縁起としております。
 以来、代田の発展に伴い、幾多の変遷を経ながらも自然崇拝、祖先崇拝を基調に、氏子中より氏神(産土神)として篤く信仰されています。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/08/17

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

御朱印帳

初穂料:1,000円(朱印代込)
社務所にて。

御朱印帳を用意している。
各色違う柄で、汎用の御朱印帳と思われる。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

代田地区鎮守の八幡さま

東京都世田谷区代田に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧代田村鎮守。
境内には世田谷区内で2番目に古い石鳥居が残る。
環七沿いに鎮座しており、境内の脇に環七を横断する歩道橋が設置されているため、境内を通り抜ける人々が多く、地域の方々からは大変身近な神社として親しまれている。
また毎年1月第3日曜に、江戸時代から伝わる「代田餅つき」(世田谷区無形民俗文化財)が行われる事でも知られる。

代田村の開墾・鎮守として創建

社伝によると、天正十九年(1591)に創建したとされる。
代田村の開墾と共に、「宇佐八幡宮(現・世田谷八幡宮)」より勧請されたと伝わる。

かつて世田谷一帯は、世田谷城主・吉良氏が治めていた領地であった。

世田谷城とは、現在の「豪徳寺」付近にあった平山城。現在の「豪徳寺」付近が城の主要部とされ、現在の世田谷城阯公園まで広がる吉良氏の居城であった。天正十八年(1590)に廃城になるまで、世田谷に本拠を置いた吉良氏が代々居を構えた。
昭和15年に開園した世田谷区内唯一の「歴史公園」で「東京都指定文化財」にもなっています。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡。
後北条氏方についた吉良氏も滅亡している。

吉良氏の滅亡の際に、吉良氏の家臣であった7家が当地周辺に土着し、土地を開墾。
これが代田村となったとされる。

天正十九年(1591)、吉良氏の旧家臣の人々によって当社が創建。
吉良氏が篤く庇護した「世田谷八幡宮」より勧請し、代田の氏神としたのであろう。

世田谷総鎮守。江戸郊外三大相撲の一社。境内の土俵や力石・奉納相撲。源義家(八幡太郎)による創建。世田谷城主・吉良頼康による再興。世田谷村の鎮守として発展。江戸時代に描かれた当宮。広く立派な境内・荘厳な社殿・綺麗な弁天池。御朱印。

代田の地名由来はダイダラボッチ伝説

代田村の地名は、「ダイダラボッチ」と云う巨人伝説が由来という説が残る。

ダイダラボッチとは、日本各地で伝承が残る巨人の事。
各地で山を作ったり足跡や手の跡を残したりといった伝承が残っている。
ジブリ制作の劇場アニメ『もののけ姫』ではデイダラボッチとして描かれた事でも知られる。

かつて当地には大きな窪地があったと云う。
この窪地は、ダイダラボッチの歩いた足跡だと云われており、それが「代田(だいだ)」の地名由来になったと伝わるもの。

民俗学者として知られる柳田國男の著書『ダイダラ坊の足跡』(昭和二年/1927年)では、以下のように記してある。

ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研になって居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に湧き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。

柳田國男によると、代田には長さ約100間(180m程)の窪地があり、これがダイダラボッチの右足跡であるとしている。

こうしたダイダラボッチ伝説を地名由来にもつ代田の鎮守として、当社は崇敬を集めた。

天領となった代田村の氏子による崇敬

江戸時代に入ると、開墾された代田一帯も村として発展。

天和元年(1681)、社殿が造営。
別当寺であった「円乗院」の代法印定賢や氏子によって造営されたと云う。

旧別当寺「円乗院」(現・世田谷区代田2丁目)は、当社同様に吉良氏の家臣であった7家によって、代田の村民の菩提寺として創建したと推測されている。

元禄八年(1695)、代田村は天領に指定される。

天領(てんりょう)とは、江戸幕府の直轄地の俗称で、代田村は幕末まで幕府の領地とされた。

享保二十年(1735)、遷宮祭が斎行。

天明五年(1785)、氏子などによって石鳥居が建立。
この石鳥居が現存し、世田谷区指定有形文化財となっている。

世田谷区指定有形文化財 代田八幡神社鳥居の紹介

新編武蔵風土記稿から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(代田村)
八幡社
社地三段。免畑一段一畝十五歩。小名本村の内高札場より耕地を隔て北の方にあり。本社は小山の上にたてり。宮作りにて横四尺に長さ六尺八寸、覆屋は二間四方。鎮座の年代詳ならず。元文年中の棟札あり、是は今の社を修造せし年代なるべし。此社の内に奇石あり、其状雷槌の如くにして青石なり、長さ四尺二寸餘径太き所にて四寸、周一尺三寸五分、細き所一寸三分、これは昔より此ほとりの百姓が宅地の内に在しを近き頃此社へ納めしと云。
末社
春日社。本社に向ひて右の方にあり。
神明社。夷子社。大黒社。以上春日祠の右にあり。
辨天天神合社。是は本社に向て左にあり。

代田村の「八幡社」と記されているのが当社。
高台の上に宮造りの社殿を有していたとある。
元文年中(1736年-1741年)の棟札が残っていて、これが当時の社殿の記録だと云う。

別当寺「円乗院」が享保年間(1716年-1736年)に火災によって記録含め焼失したと云い、当社の記録もこの頃に失われたものと思われる。当社も「円乗院」と共に再建されたと推測できる。

境内に雷槌のような形をした青石の奇石があったと云うが、これは現在は残っていない。
末社は現在より多く、春日社・神明社・夷子社・大黒社・辨天天神合社とあり、地域の信仰を集めていた。

この後の天保年間(1831年-1845年)、「代田の餅つき」が開始。

現在も「代田の餅つき」は毎年1月第3日曜に行われ、世田谷区無形民俗文化財に指定されている。

明治以降の代田と当社の歩み

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、境内の樹木を売却し、石垣・鳥居などを整備。
明治七年(1874)、村社に列した。

明治十三年(1880)、暴風雨によって社殿が壊滅的被害を受ける。
明治二十年(1887)、社殿の再建を果たす。

明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、世田ヶ谷村・経堂在家村・池尻村・若林村・三宿村・太子堂村・下北沢村・代田村が合併し、世田ヶ谷村が成立。
当地は世田ヶ谷村代田となった。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当社の鎮座地は今も昔も変わらない。
まだ環七ができる前で、当社の社地は東側にも伸び、現在の環七の一部も当社の境内であった。
世田谷村と代田という地名も見る事ができ、当社は代田一帯の鎮守として崇敬を集めた。

当時の代田(旧代田村)は、現在よりも大変広い地域を有しており、現在の代田1-6丁目の他、大原1-2丁目や更に飛び地なども有した広い町域であった。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
鳥居が東海するなど被害を受けている。

昭和十六年(1941)、当社の分社の扱いであった「大原稲荷神社」が村社に昇格し独立。

大原は旧代田村の一角で当社の氏子地域であったが、昭和七年(1932)の世田谷区成立に際して代田地域から切り離された。そのため大原の鎮守として「大原稲荷神社」が村社として分離した経緯を持つ。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿など焼失。
境内の建物は悉く焼失し、灰燼に帰したと云う。

昭和二十四年(1949)、社殿が再建。
昭和三十五年(1960)、神楽殿・参集殿が再建された。

昭和三十九年(1964)に開催された東京オリンピックのために、オリンピック道路として整備されたのが環状七号線(環七)であり、当社境内も環七整備の際に社地の東側を収用されている。

平成二十三年(2011)、鎮座四百二十年祭が斎行され、社殿が改築。
現在に至っている。

境内案内

環七沿いに鎮座・新旧2つの鳥居と手水舎

最寄駅の世田谷代田駅からすぐの距離、環七を渡った環七沿いに鎮座。
環七沿いには当社境内へ繋がる歩道橋が架かっているため大変分かりやすい。

かつては現在の環七部分までが当社の境内であり、環七が整備される際に収用された歴史を持つ。

環七沿いにあるのが大鳥居で、石段を上った左手に境内が広がる。
左手に社殿があり、右手に環七の歩道橋があるため、境内を突っ切る人々も非常に多い。

大鳥居の左手に石垣と玉垣が続く。
この先は社殿への表参道となっている。
こちらが古くからの参道と云えるだろう。
この石鳥居が天明五年(1785)に奉納されたもので、世田谷区内で2番目に古い鳥居として世田谷区指定有形文化財となっている。

世田谷区内で最も古い鳥居は承応三年(1654)建立の「喜多見氷川神社」の鳥居。
喜多見総鎮守。自然溢れる静謐な参道・区内最古の石鳥居・再建された立派な社殿。古い土地である喜多見の歴史。当地に移入した江戸氏。江戸氏が喜多見氏に改称・喜多見氏の氏神に。江戸郊外に立藩された喜多見藩。江戸名所図会に描かれた当社。御朱印。

社殿の向かいには2つの手水舎。
右手にあるのが新しい手水鉢による手水舎。
左手にあるのが宝歴十二年(1762)の古い手水鉢を使用した手水舎となっている。

天明五年(1785)建立の石鳥居の左手にも手水舎(こちらは使用不可)があるため、合計3つの手水舎が整備されている事となる。そのうち社殿前の2つの手水舎はどちらも使用可能。

改築された社殿・屋根の上に屋根が乗る拝殿

社殿は平成二十三年(2011)に改築されたもので新しい。
当社の社殿は特に拝殿に個性的な特徴を持つ。
流造の拝殿の上に、神明造りの屋根が乗っており、屋根が2つ重なるという構図。
改築の際に旧拝殿の一部を利用したため、こうした特徴的な拝殿となっていて、上に乗る神明造りの屋根部分が旧拝殿の一部を利用したものとなっている。
本殿も綺麗に維持されている。

拝殿前には一対の狛犬。
建立年代は不明であるが、台座のみ新しく造られたようだ。
阿吽共に子持ちの狛犬で柔和な表情。

境内社・銀杏の御神木・江戸時代から続く代田餅つき

境内社は社殿の右手に一社。
御嶽社となっており、『新編武蔵風土記稿』に記載されていた春日社・神明社・夷子社・大黒社・辨天天神合社は現在は祀られていない。

境内の右手には御神木が2本。
いずれも銀杏の木となっていて立派にそびえ立つ。
両木の間には注連縄が巻かれている。

他に神楽殿・参集殿が一帯となった建物が整備。
昭和三十五年(1960)に造営されたものとなっている。
2017年の例大祭は、9月16日(土)・17日(日)の2日間。

また毎年1月第3日曜に、江戸時代から伝わる「代田餅つき」(世田谷区無形民俗文化財)が行われる事でも知られる。

御朱印は社務所にて。
御朱印帳も用意しており、丁寧に対応して頂いた。

所感

旧代田村の鎮守として崇敬を集める当社。
ダイダラボッチの伝説を地名由来に持つ代田が開墾された際に、鎮守として創建された歴史を持ち、以後地域の氏子より崇敬を集めていたのが伝わる。
現在は環七沿いに鎮座しているが、かつては環七のある東側まで社地を有していたようで、もっと広さのある境内だったのであろう。
境内の脇から環七に架かる歩道橋へと繋がっているため、世田谷代田駅方面に向かう方などが、境内を通り抜ける事が多く、地域の方にとって馴染み深い神社となっている。
そのまま参拝に立ち寄る方、通り道として使うだけの方と様々であるが、地域の鎮守が身近な存在として感じる事ができるのが伝わる良い神社である。

神社画像

[ 大鳥居・社号碑 ]

[ 石垣・玉垣 ]


[ 参道 ]


[ 石鳥居・社号碑 ]

[ 石鳥居 ]



[ 手水舎(使用不可) ]

[ 石段 ]

[ 手水舎(新) ]

[ 手水舎(旧) ]

[ 拝殿 ]




[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 御嶽社 ]

[ 石碑 ]

[ 狛犬(本殿裏) ]

[ 御神木 ]


[ 神楽殿・参集殿 ]

[ 社務所 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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