宮益御嶽神社 / 東京都渋谷区

神社情報

宮益御嶽神社(みやますみたけじんじゃ)

御祭神:日本武尊・秋葉の神・大国主神・菅原の神
社格等:─
例大祭:9月中旬・11月酉の日(酉の市)
所在地:東京都渋谷区渋谷1-12-6
最寄駅:渋谷駅
公式サイト:http://www.shibuyamiyamasu.jp/mitake/main.html

御由緒

当神社は、大和国吉野郡金峰神社の分祭社でありまして、創起年暦等は不明ですが、室町時代初期(1400)に創設されたと言われております。 祭神は次の四神をお祀りしてあります。
 日本武尊 秋葉の神 大国主神 菅原の神
元亀年間(1570-72年)甲府武田家の陪臣、石田勘解由茂昌なる武将が所持していた尊像を神社に合祀しました。その後茂昌の子孫で石田茂兵衛が当社に居住し、茂兵衛の婿、太郎兵衛が尊像を護持していたと言います。そして、太郎兵衛は、延宝九年三月六日不動尊石像・庚申石像、延宝九年三月二十三日勢至菩薩石像を建立しました。
当所、渋谷新町の町名が元禄十三年六月に宮益町と改称されたのも鎮守御嶽神社より起きたと言われています。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/05/02

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※通常は書き置き(社名部分は印判)のみ授与している。
※11月「酉の市」開催日のみ御朱印帳に揮毫して頂ける。

歴史考察

渋谷宮益坂に鎮座する旧宮益町の氏神

東京都渋谷区渋谷に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧宮益町の鎮守。
渋谷宮益町(宮益坂)の地名由来とも云われる。
正式名称は「御嶽神社」であるが、他との区別から「宮益御嶽神社」とさせて頂く。
境内には珍しい日本狼による狛犬が置かれている。
現在は11月の酉の日に「酉の市」が開催される事でも知られる。

蔵王権現を祀る御嶽神社と当社の推測

社伝によると、室町時代初期に創建と伝わる。
大和国吉野郡「金峯神社」の分祭社として創建したと云う。

「金峯神社(きんぷじんじゃ)」は、大和国(奈良県)吉野山の地主神として知られ、式内社(名神大社)に比定される古社。吉野山は、古代から山岳信仰の聖地であり山岳霊場として古くから崇敬を集めた山。現在は高野山・熊野三山ともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。蔵王権現を祀る「金峯山寺(きんぷせんじ)」を中心として多くの寺社が今も鎮座している。

当社は「金峯神社」の分祭社とされたとあるが、古くは「金峯山寺」の「蔵王権現堂」を総本社とする蔵王権現に対する信仰が根底にあったのだと推測できる。

全国的にも「御嶽神社(みたけじんじゃ)」の社名を持つ神社の多くは、神仏習合時代は蔵王権現を祀る神社であった場合が多く、当社もそうした神社であった可能性が高いが、現在は日本武尊を祀る神社となっている。

関東における蔵王権現の信仰を集めたのが「武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)」(東京都青梅市)である。
中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、特に武蔵国・相模国での信仰圏を持ったため、当社は「武蔵御嶽神社」からの勧請の可能性が高いように思うが、御由緒には「金峯神社」分祭社としか記されていない。

いずれにせよ江戸時代の頃には「御嶽神社」と呼ばれており、地域からの信仰を集めていた。

神仏習合の中で地域から崇敬を集める

元亀年間(1570-1572)、甲府武田家の陪臣、石田勘解由茂昌と云う武士が所持していた尊像を当社に合祀。

『東京都神社名鑑』には元亀元年(1570)に創建とも記してあり、この年代を創建年代とする説も残る。

茂昌の子孫が当地に居住し、当社と尊像を護持したと伝わる。

延宝九年(1681)、子孫である太郎兵衛が、不動尊石像・庚申石像・勢至菩薩石像を建立。
現在も「不動尊」として境内に置かれ、古くから「炙り不動」と呼ばれ信仰を集めたと云う。

神仏習合の中で、当地周辺の鎮守として崇敬を集めた。

宮益町の地名由来・富士見坂と呼ばれた宮益坂

当地周辺は、江戸時代になると「大山阿夫利神社」(神奈川県伊勢原市)へ詣でるための大山道の一角となり、街道沿いには茶屋が出るなど賑わいを見せるようになった。

古くは上渋谷村の一角であり、古くから渋谷の中心であった渋谷・青山の総鎮守「金王八幡宮」一帯に対し、新たに栄えた町という意味で「渋谷新町」と呼ばれるようになる。

元禄十三年(1700)、「渋谷新町」から「宮益町」に改称。
正徳三年(1713)、町奉行の支配下となり上渋谷村からは分離して「宮益町」となった。

宮益町(みやますちょう)の町名は、当社が由来とされていて、お宮の御利益による町という意味になるのであろう。

現在の宮益坂は「富士見坂」と呼ばれていた。
その名の通り、古くは坂上や坂途中から富士山を眺望する事ができた事によるもの。

昭和九年(1934)に東横百貨店ができるまでは宮益坂から富士山を望む事ができた。

そうした富士見坂も、町名が宮益町になったため、いつしか「宮益坂」と呼ばれるようになっていく。

当社はそうした宮益町の鎮守として崇敬を集めた。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(青山渋谷絵図)

こちらは江戸後期の青山渋谷周辺の切絵図。
右上が北の地図で、当社は図の左に描かれている。

(青山渋谷絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当社で「御嶽神社」として記されている。
江戸時代よりそう呼ばれていた事が伝わる。

当社の前に「宮益町」とあり当社はここの鎮守であった。
当時の渋谷は大変な農村であり、百姓地や畑ばかりの地であったが、この宮益町までは町屋として栄えており、宮益坂上には諸大名の下屋敷なども多く置かれている。
宮益町が町としての境目だったと云えるだろう。

江戸名所図会に描かれた当社と渋谷

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「富士見坂一本松」として描かれた見開きの一枚。
左奥が富士見坂(宮益坂)で、手前が道玄坂を上った先となる。
現在の渋谷駅周辺から円山町あたりまでとも云え、当時の渋谷が大変な田舎であった事が伝わる。

(江戸名所図会)

富士見坂(宮益坂)周辺を拡大したのが上図。
富士見坂(宮益坂)がある宮益町までは町屋として栄えている様子が伝わるが、その先の渋谷川に架かる富士見橋を渡ると、道玄坂に少し町屋が並ぶくらいで、後は一気にのどかな光景となる。

この富士見坂(宮益坂)の左手に、小さくだが鳥居が描かれているのが分かる。
これが今も宮益坂途中に鎮座している当社である。
当社の一帯はやや高台になっていて木々が生い茂った境内だったのだろう。

明治天皇の聖蹟に指定・古地図から見る渋谷

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

明治三年(1870)、国内初の観兵式が駒場野練兵場で行われた際、明治天皇は観兵式を統覧するために行幸され、御召替のため往復とも当社を御小休所としている。
同年、素木鳥居・駒寄などを賜ったと伝わる。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で、当社の鎮座地は現在と変わらない。
当時はまだまだ現在ほど発展していない渋谷の町並みが分かる。
橙円で囲ったように宮益町には当社以外にも神社が鎮座していた事が分かり、そのうちの一社は「千代田稲荷神社」(現在は道玄坂に遷座)であった。

宮益町の古い写真などは、渋谷宮益商店街振興組合の公式サイトに「宮益地域の歴史」として載っているので、そちらをご覧頂きたい。

昭和三年(1928)、地名の変更が行われ宮益町周辺は「美竹町(みたけちょう)」となる。
この町名も氏神である当社を由来としたもの。

昭和十二年(1937)、明治天皇の聖跡に指定。
現在も境内に残る碑はこの時のものである。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿を焼失。
社殿以外にも神楽殿、社務所、神輿や獅子頭などを焼失している。

戦後は長い間、崇敬会によって仮殿で維持された。

昭和四十一年(1966)、住居表示法が施行され美竹町は、現在の渋谷1丁目に変更し現在に至る。

昭和五十五年(1980)、現在の社殿が再建。
崇敬者によって念願の再建を果たした。

現在は日本武尊を御祭神とする事から、大鳥信仰である「酉の市」を開催。11月の酉の日になると、酉の市が開かれ境内が賑わう。

境内案内

渋谷の街中の宮益坂途中に鎮座

渋谷宮益坂の坂途中、渋谷郵便局の手前に鎮座。
繁華街として発展した渋谷の街中に鳥居と参道が出現する不思議な空間となっている。

鳥居を潜ると参道が伸び、やや急勾配な石段。
古くから丘上に鎮座しており当時の地形を利用するように整備されている。

石段を上ると二之鳥居。
二之鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎。
手水舎の正面が参道となる。

社殿の手前にも三之鳥居がありその先に社殿。
社殿は昭和五十五年(1980)に再建されたもの。
空襲で焼失してから長い間、仮殿で運営しており、社殿の再建は念願であった。
鉄筋コンクリート造で、ビルに囲まれた境内は、渋谷という街を象徴している。

珍しい日本狼の狛犬・炙り不動と呼ばれた不動尊堂

社殿の前には一対の狛犬が置かれている。
珍しい日本狼の狛犬で青銅製。
この狛犬は複製であり、延宝年間(1673年-1681年)に奉納された実物の日本狼狛犬は、社務所で大切に保管されていると云う。

日本狼を神使としたり祀るというのは、山岳信仰の神社に見る事ができる。
特に武蔵国の山岳地方である秩父や奥多摩で多く見かける事ができ、当社と同じ「御嶽神社」であり、関東圏の蔵王権現信仰として広まった「武蔵御嶽神社」(東京都青梅市)にも、日本狼の狛犬が置かれるだけでなく、日本狼を神格化した大口真神(おおくちのまがみ)を祀る「大口真神社」も鎮座している。
この事からも当社は「武蔵御嶽神社」との繋がりが深かったように思う。

参道の左手には「不動尊堂」が置かれる。
延宝九年(1681)、に建立された不動尊石像・庚申石像・勢至菩薩石像が置かれており「炙り不動」と呼ばれた。

疫病などを香煙で炙り出したと古くから伝わっている。現在も「札炙り不動」として、商人や金融関係の崇敬者がお札を炙ると倍々に富を増やすと云われている。

御朱印は授与所にて。
日本狼の狛犬が押された書き置き(印判)のみの授与となる。

11月酉の日の「酉の市」では、御朱印帳に揮毫して頂けるとの掲示がされていた。

所感

渋谷宮益坂で知られる旧宮益町の氏神として崇敬を集めた当社。
かつては蔵王権現を祀った「御嶽神社」であったと思われ、御由緒には「金峯神社」の分祭社と記されているが、おそらく「武蔵御嶽神社」との繋がりが深かったものと思われる。
宮益町・宮益坂の地名由来は当社とされており、氏神として崇敬を集めた事が伝わる。
繁華街として発展した渋谷の中では、宮益坂周辺は比較的地味な印象を受けるエリアであるが、江戸時代は当地周辺の宮益町までが町屋として栄えており、それより先は大変田舎ともいえる農村であった。
この事からも渋谷の発展の基礎を作った一角とも云え、街中にこうして境内が維持されているのも、宮益商店街を始めとした氏子崇敬者の崇敬の賜物であろう。

神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]

[ 参道・石段 ]


[ 二之鳥居 ]

[ 手水舎 ]

[ 三之鳥居・社殿 ]


[ 社殿 ]




[ 狛犬(日本狼) ]


[ 宮益不動尊 ]


[ 授与所 ]

[ 石碑 ]


[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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