平田神社 / 東京都渋谷区

渋谷区

神社情報

平田神社(ひらたじんじゃ)

御祭神:神霊真柱平田篤胤大人命
社格等:─
例大祭:11月3日
所在地:東京都渋谷区代々木3-8-10
最寄駅:南新宿駅・代々木駅
公式サイト:http://hirata-jinja.org/

御由緒

御祭神
平田篤胤(ひらたあつたね)大人命
1776-1843
近代日本の夜明け前を開き、宗教改革と古典文化復興を通じて、明治維新の指導、原理の基となった偉大な宗教家、学者、教育者として知られています。国学の四大人の一人として崇められ、没後に神霊真柱上人という謚名霊神号を賜り、神として祀られました。
御神徳
御祭神は次のことを司り、御導き下さる神様です。
一、文化(学問、芸術、道徳、宗教)
一、健康(医薬)
一、豊かな生活(財運)
一、世直し(社会開発)
由来
明治初年、東京柳島横川町(江東区)の平田家邸内に邸内社として創祀。
明治十四年十一月、明治天皇の御下賜金をもとに東京小石川第六天町(文京区)に遷座。
昭和三十四年十一月、現在地に遷座。
昭和六十二年六月、社殿その他施設全面新築完成(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2018/12/09

御朱印

初穂料:各300円
社務所にて。

※神代文字と通常の2種類を用意。
※書き置きでの授与。(稀に御朱印帳に頂ける事も)
※御朱印をお受けする際に手作りの栞も頂ける。

(神代文字)

(通常)

御朱印帳

初穂料:2,500円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
日本初、ウィーン伝統刺繍のプチボアンの御朱印帳。
限定150冊で、3種3色、合計9種類。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

国学者で神道家・平田篤胤を祀る神社

東京都渋谷区代々木に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
復古神道を大成させ、国学四大人の1人に数えられる平田篤胤を御祭神とする神社。
明治の初めに平田家の邸内社として創建し、その後2度の遷座で現在地に鎮座。
建物の一部が社殿となった珍しい形が特徴的。
近年では神代文字の御朱印が授与される事でも知られる。

国学四大人の1人・平田篤胤

社伝によると、明治二年(1869)に平田家の京都屋敷に邸内社として創建。
御祭神は国学者・神道家として知られる平田篤胤。

平田篤胤(ひらたあつたね)
江戸時代後期(1776年生-1843年没)の国学者・神道家。
出羽国久保田藩(現・秋田県秋田市)出身。
復古神道の大成者で、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と共に国学四大人の1人とされる。
死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
篤胤の思想は、後に尊皇攘夷運動の支柱となり、明治維新に多大な影響を与えた。

(平田篤胤肖像)

渡辺重石丸によって描かれた『平田篤胤肖像』の一部を抜粋。早稲田大学図書館より)

20歳で江戸に出て、様々な職に就きながら苦学し、多くの学問を学んだ篤胤は、27歳の享和三年(1803)に国学者・本居宣長(もとおりのりなが)の著作に触れ国学に出会う。

国学(こくがく)
江戸時代中期に勃興した学問で、『古事記』『万葉集』などの古典に基づいて、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代日本にあった独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとした学問。

既に宣長没後2年経った時の事であったが、夢のなかで宣長より入門を許可されたとして「宣長没後の門人」を自称した。

夢の中で篤胤が本居宣長と対面する様子を描いた『夢中対面図』(渡辺清)が当社所蔵で残されている。

篤胤が大成させた復古神道・平田派国学の成立

文化九年(1912)、37歳の篤胤は、最愛の妻を亡くす。
妻の死によって、死後の世界・幽冥へ強い関心を持ち、幽界研究を進める事となり、生死感や幽冥界を論じた『霊能真柱(たまのみはしら)』を執筆。

(霊能真柱)

その後も、幽冥界・霊魂など、霊界に関わる研究で著名な成果をあげ、復古神道を大成させる事となる。

復古神道(ふっこしんとう)
儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうと云う思想。
賀茂真淵が古道の存在を訴え、本居宣長が日本固有の神道の復活を目指す復古神道の成立に大いなる貢献をし、平田篤胤が復古神道の形成に大きな役割を果たし大成させた。
復古神道は、町人や農民にも支持され、幕末の志士たちにも多大な影響を与え、尊皇攘夷運動の支柱として明治維新の原動力となった。

さらに篤胤は、法華宗、密教、キリスト教、道教などの他宗教を参照した「平田派国学」を大成させた。

篤胤の私塾「気吹舎(いぶきのや)」では、多くの門人が誕生し、篤胤没後の明治維新の頃には大きな影響力を持った。神仏分離と神道国教化を推進したのも平田派国学者らであった。

幽界研究・天狗小僧寅吉のエピソード

復古神道や平田派国学を大成させた篤胤は、精力的に幽界研究を行った。

上述した通り、最愛の妻の死により、死後の世界・幽冥へ強い関心を示したのと、学問をするには、自らの死後の魂の行方を知って心の安定を得て向き合う事ができると考えた。

特に篤胤の幽界研究を表すエピソードが、天狗小僧寅吉のエピソードであろう。

天狗小僧寅吉
7歳の時に天狗攫いに遭い行方不明となり、その際に幽界を訪れたとされ、幽界の住人たちから呪術の修行を受けて、数年後に江戸に戻ってきた事で、江戸の人々を驚かせた少年で、幽界より授かったという異能を使えたと云う。
江戸の随筆家・山崎美成のもとに寅吉が寄食していたところ、それを聞きつけた篤胤は、山崎美成の家に訪れて寅吉を家に招き、様々な話を聞き出した。
20代後半になると異能は消え失せ平凡な人物となり、晩年は風呂屋の主人になったと伝わる。

篤胤は寅吉から聞き出した幽冥界の様子を『仙境異聞』として出版。
幽冥界で寅吉が見た師仙の神姿を絵師に描かせ、その絵を家宝として大事にした。

『仙境異聞』の「七生舞」を絵師に描かせた「七生舞の図」が当社に残る。
現代語訳版『仙境異聞』
この『仙境異聞』については現代になっても意訳したものが色々と出版。
当社の境内には『天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞』と云う現代語訳された本が紹介されていたので、興味がある方は読んでみるのもよいだろう。

篤胤は他にも死んでから生まれ変わったと云う武蔵国多摩郡の農民・勝五郎からの聞き書き『勝五郎再生記聞』を出版していたりと、幽界へ大変な興味を示していた事が分かる。

こうした幽界研究を行った篤胤の平田派国学では、幽冥界は出雲の神・大国主命(おおくにぬしのみこと)が司る世界であるとし、復古神道の基本的な教義となっていった。

晩年は神代文字や暦学の研究も・江戸追放

国学者・神道家として活躍した篤胤だが、医業も兼ねるなど多才であった。
晩年は、暦学や易学に傾倒し多くの著作を残している。
更に神代文字など、言語や文字の起源も研究対象とした。

神代文字(じんだいもじ/かみよもじ)
漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされる多様な文字の総称。
真贋が議論の対象となる事が多く、贋作とされるものも多い。
ヲシテ、筑紫文字、阿比留草文字など多くの種類がある。

篤胤は神代文字について否定論から肯定論に転じており、幾つかの著作を残した。
中でも筑後国の重定古墳にある壁画を文字とする筑紫文字は篤胤が紹介した事で広まった他、現在も神社の神璽や守符になどで使用される事がある神代文字の代表格・阿比留草文字(あひるくさもじ)についても『神字日文伝上』で、各地の寺社に伝えられる文字だと紹介。

当社の御朱印には神代文字(阿比留草文字)の御朱印も用意されており、それはこうした篤胤の神代文字研究を基にしている。

天保十二年(1841)、西洋のグレゴリウス暦に基づき幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版した事により、幕府に著述差し止めと江戸追放を命じられる。
同年、久保田藩(秋田県秋田市)に戻り、以後は久保田城下で暮らし、江戸に帰還すべく活動を続けるものの許可される事はなかった。

天保十四年(1843)、68歳で病没。
弘化二年(1845)、白川神祇伯は篤胤に「神霊能真柱大人」の称号を贈る。

当社の御祭神が「神霊真柱平田篤胤大人命」となっているのはこのため。

明治になり篤胤の子孫や門人により神社が創建

明治になり神仏分離。

神仏分離と神道国教化を推進したのが平田派国学者らであった。

明治二年(1869)、篤胤の養子・平田銕胤が、当時居住していた京都の屋敷の中に平田篤胤を祀る祠(邸内社)を創建し、これが当社の始まりとされる。

平田銕胤(ひらたかねたね)
篤胤に師事し養子となり、篤胤の私塾「気吹舎」の当主も継いだ。
幕末から明治にかけて、京都では新政府参与となって神祇官判事、内国事務局判事を担い、更に明治天皇の最初の侍講を務めた。
明治十二年(1879)、大教正(教導職の最高位)に任命されている。

明治五年(1872)、銕胤が江戸に戻る事になり、葛飾郡柳島横川町(現・東京都墨田区)に平田家の邸内社として祠が遷され「平田神社」とされた。
明治十一年(1878)、銕胤の子・平田胤雄が当社を正式な神社として認めてもらうため、東京府知事宛に上申書を提出。
上申書には篤胤の門人総代たちや平田派国学者など19名が名を連ねた。

明治十四年(1881)、創建運動が実り神社としての許可を得る。
明治天皇の下賜金をもとに、小石川区小日向第六天町(現・東京都文京区)に遷座。

現在の文京区小日向、文京区春日の周辺。明治後期は徳川慶喜の屋敷が置かれ慶喜の終焉の地となった事でも知られる。

昭和三十四年(1959)、現在の渋谷区代々木の地に遷座。
昭和六十二年(1987)、現在の社殿が竣工。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

代々木の住宅街に鎮座・小さな神社

最寄駅の南新宿駅や代々木駅から徒歩数分の距離。
渋谷区代々木の住宅街に鎮座。

3階建ての建物があり、敷地内が境内と云う扱い。
東に面して鳥居。
左の柱には平田神社の表札。
その左に御由緒書きなどの案内板。

鳥居を潜るとすぐ左手に手水舎。
水は張られていて綺麗に整備されている。

建物の一部が社殿・学問の神としての信仰も

3階建ての建物の一回部分が社殿という形。
横から回ると奥に本殿を見る事もできる。
何とも珍しい造りの社殿であるが、元々、平田家の邸内社として創建された歴史を踏まえると、現在もそうした建物の一部を社殿とした造りはしっくりくる。
扁額があり建物内部が拝殿。
本殿へと続く美しい空間。

学問の神としても信仰を集める
御祭神である平田篤胤は、上述したように多才な人物として知られた。
国学者・神道家として復古神道や平田派国学を大成させただけでなく、医業も兼ね、さらに暦学や易学、神代文字など言語の研究、私塾「気吹舎」など諸学に通じた。
そのため「学問の神」としても崇敬が篤い。
その他、文化(学問、芸術、道徳、宗教)、健康(医薬)、豊かな生活(財運)、世直し(社会開発)など様々な御神徳があるとされる。

神代文字の御朱印・プチボアンの御朱印帳

御朱印は拝殿内右手の社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

受付日・時間
新型コロナウイルス対策のため6月は水曜・金・土曜のみ開所。
基本的に月曜・木曜は神社が閉まっているため御朱印は頂けない。
他にも閉まる日がある場合があるので公式サイトを要確認。
受付時間:平日9:00-15:00、土日9:00-16:00
平田神社 | 渋谷区代々木にある平田篤胤をお祀りする神社
渋谷区代々木にある平田篤胤をお祀りする神社

御朱印は2種類用意。
左が神代文字の御朱印で、右が通常のもの。

神代文字(じんだいもじ/かみよもじ)
漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされる多様な文字の総称。
真贋が議論の対象となる事が多く、贋作とされるものも多い。
ヲシテ、筑紫文字、阿比留草文字(あひるくさもじ)など多くの種類があり、当社の御朱印に用いられているのは阿比留草文字。
当社の御朱印には「かんながら(惟神)」と墨書きをしてあり、これは神々の意志をそのまま体現すると云う意。
ご朱印 | 平田神社
漢字と神代文字の2種類を社務所にて受け付けております。   神代文字のご朱印の説明読み方:「かんながら」or「かむながら」意味:「神の御心のまま人為を加えないさま」神代文字とは古代...

オリジナルの御朱印帳も用意。
「秋の交流会」記念として奉製され、日本初、ウィーン伝統刺繍のプチボアンの御朱印帳との事で、限定150冊で、3種3色、合計9種類。

他にも授与品は色々とあり、篤胤直筆の神代文字のコピーなどが特徴的。

所感

平田篤胤を祀る神社として崇敬を集める当社。
諸学に通じた篤胤を、様々な御神徳、特に学問の神として信仰を集めている。
平田篤胤の復古神道は、幕末の志士に多大な影響を与え、尊皇攘夷運動の支柱として明治維新の原動力となった。
平田派国学は神仏分離を推し進めたため、宗教的観点から見ると、現在の神社の形成に多大な影響を及ぼした人物であると云える。
明治維新後の祭神論争や国家神道の形成に伴い、平田派国学者たちは中枢から排除される形で影響力を失っていく事となるが、復古神道、後の神道系新宗教の勃興にも繋がったため、宗教的観点ではもっと評価されるべき人物だと思う。
住宅街の一画に鎮座する小さな神社だが、篤胤の功績を知れる良い神社である。

神社画像

[ 鳥居 ]




[ 社殿 ]



[ 社号碑 ]

[ 手水舎 ]

[ 石灯籠 ]

[ 社殿 ]



[ 絵馬掛 ]

[ 社務所 ]

[ 裏手 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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