讃岐小白稲荷神社 / 東京都港区

神社情報

讃岐小白稲荷神社(さぬきこはくいなりじんじゃ)

御祭神:倉稲魂神
社格等:─
例大祭:5月14・15日
所在地:東京都港区浜松町2-9-8
最寄駅:浜松町駅・大門駅
公式サイト:─

御由緒

当社は、讃岐小白の両稲荷を合祀しています。
御創建は、江戸時代の文政の頃、書上によれば今より約弐百年前になります。
讃岐社は、四国の高松藩の大名である松平氏の下屋敷の邸内社として御鎮座し、明治維新以降に芝新網町に開放されたといわれている。
一方、小白社は、芝湊町(現浜松町二丁目十三番地)古川際辺りに御鎮座しており、昭和十三年の区画整理の為協議の上当社に合わせ祀られた。
御祭神は、倉稲魂神(お稲荷様)で、生成発展の守護神とともに火伏せの火神として古来より崇敬をあつめています。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/03/22

御朱印

初穂料:300円
芝大神宮」社務所にて。

※普段は無人のため、本務社「芝大神宮」で御朱印を拝受できる。(書き置きのみ)

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歴史考察

讃岐稲荷と小白稲荷が合祀された神社

東京都港区浜松町に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
昭和十三年(1938)、「讃岐稲荷」と「小白稲荷」が合祀されて成立したお稲荷さま。
社頭にそれぞれの鳥居が置かれ、社殿にもそれぞれの扁額が掲げられているのが特徴。
現在は「芝大神宮」の兼務社となっている。

高松藩松平家の下屋敷に祀られた讃岐稲荷

「讃岐稲荷」は、高松藩松平家の下屋敷に祀られていたと伝わっている。

文政年間(1818年-1830年)の書上によると、「今より約200年前」の創建と記されていると云う。
この事から寛永年間(1624年-1644年)に創建したものと推測できる。

高松藩が成立したのが寛永十九年(1642)であるため、それ以降の創建であろう。

下屋敷に祀られる、いわゆる邸内社という形の神社。
そのため、江戸庶民の参拝は許されていなかった。
高松藩松平家の下屋敷の中で、崇敬を集めていたと思われる。

江戸時代の讃岐国は丸亀藩と高松藩に二分される

「讃岐稲荷」の名の通り、讃岐国(現・香川県)と関わりが深い事を伺い知る事ができる。

江戸時代の讃岐国は、生駒氏が一国を領して讃岐高松藩となっていた。
しかし、寛永十七年(1640)、第4第藩主の代にお家騒動により改易。
その後は一時的に、隣国の3藩の藩主が分割当地される事となる。

寛永十八年(1641)、讃岐国西部(西讃)に丸亀藩が成立。
寛永十九年(1642)、讃岐国東部(東讃)に高松藩が成立。

こうして讃岐国には半国ずつ二分して藩が置かれる事となった。

高松藩の藩主となったのは、徳川御三家である水戸徳川家の初代藩主・徳川頼房の長男である松平頼重。
そのため水戸徳川家の分家という扱いであり、松平家が代々の藩主を務め高い家格を有した。

高松藩初代藩主・松平頼重の弟が、水戸黄門の名でも知られる水戸藩主・水戸光圀である。頼重が長男で、光圀が三男という間柄。水戸藩を継いだのは光圀であったが、水戸藩の世継ぎは頼重の子に譲り、高松藩の世継ぎは光圀の子が担う事となり、高松藩は水戸藩の分家でありながらも御三家・水戸徳川家と密接な関係であった。

そうした讃岐国の東部を有した高松藩松平家の下屋敷の邸内社として祀られていたのが「讃岐稲荷」という事になる。
この事から寛永十九年(1642)頃に創建したと推測できる。

高松藩松平家の下屋敷の位置

高松藩松平家の下屋敷に鎮座していた「讃岐稲荷」。
しかし、現在の鎮座地に高松藩松平家の下屋敷は置かれていなかった。

下屋敷(しもやしき)とは、江戸に置かれた各藩の藩邸(武家屋敷/江戸屋敷)の事。一般的に大名は、江戸城周辺から江戸郊外にかけて、複数の屋敷用地が与えられており、屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷(かみやしき)、中屋敷(なかやしき)、下屋敷(しもやしき)などと呼ばれた。

それは江戸の切絵図からも見て取れる。

(芝愛宕下絵図)

こちらは江戸後期の芝・愛宕周辺の切絵図。
上が北の切絵図となっており、当社の現在の鎮座地はやや右下に位置する。

(芝愛宕下絵図)

当社が現在鎮座している周辺を拡大したのが上図。
左手に見えるのが「増上寺」で、上には「飯倉神明宮」と記された現在の「芝大神宮」が見える。

赤円で囲ったのが当社が現在鎮座している一角。
新網北丁・新網南丁といった区画で、これらは後に「芝新網町」と呼ばれるようになる。
当社は新網北丁・新網南丁の間の掘の位置あたりに鎮座している事になる。
この一角は網干場として開かれた漁村であり、下屋敷の姿は見えない。

高松藩松平家の下屋敷が置かれたのは、2箇所。

1つ目が、旧飯田町(現・水道橋)で、現在の後楽園の近くである。
こちらには現在も「金比羅宮 東京分社」が鎮座している。
2つ目が、旧白金(現・白金台)で、現在の国立科学博物館附属自然教育園あたりである。
おそらくこちらの下屋敷に祀られていたのが「讃岐稲荷」ではなかろうか。

(目黒白金辺図)

こちらは江戸後期の目黒・白金の切絵図。
右が北になっており、高松藩松平家の下屋敷は地図の中央にある。

(目黒白金辺図)

北を上にして下屋敷周辺を拡大したのが上図。
赤円で囲った「松平讃岐守」というのが、高松藩松平家の下屋敷。
青円で囲ったのが現在の目黒駅周辺だというと分かりやすいだろうか。
現在の国立科学博物館附属自然教育園の位置に下屋敷があった事が分かる。

おそらくこの下屋敷で祀られていたのが「讃岐稲荷」。
現在の鎮座地へ遷った事情は定かではないが、江戸時代は邸内社として一般参拝はできない神社であった事が伺える。

芝湊町の邸内社であった小白稲荷

「小白稲荷」は、芝湊町の古川沿いに鎮座していたと伝えられる。
現在の鎮座地とかなり近い位置に鎮座していた。

(芝愛宕下絵図)

先程使用した当地周辺の江戸切絵図を見てみると分かりやすい。
現在の当社は、新網北丁・新網南丁の間の掘の位置あたりに鎮座していると書いたが、その隣に「芝湊丁」という一角が見えるであろう。
これが元々「小白稲荷」が鎮座していた、芝湊町(現在の浜松町2-13付近)であり、隣町に鎮座していた事が分かる。

邸内社であったとされ、おそらく地域の町民が祀った小さな稲荷社であったのだろう。
そのため切絵図にも載っておらず、史料などもほぼ残っていない。

明治以降の歩み・昭和に合祀され現在の形に

明治になり神仏分離。
下屋敷の邸内社であった「讃岐稲荷」は、町内に開放され一般参拝ができるようになったと云う。
明治三年(1870)、「讃岐稲荷」が現在の鎮座地(芝新網町)に遷座。

鉄道施設の敷地となるため遷座したと伝わるが、白金の下屋敷は、明治には陸海軍の火薬庫として使用されたため、遷座を余儀なくされたと思われる。
明治に入ると、当社が鎮座していた芝新網町は貧民街(スラム街)として知られるようになる。
現在はその面影が全く残っていないが、四谷鮫河橋(現・新宿区南元町周辺)、下谷万年町(現・上野郵便局周辺)と共に、東京の三大貧民街とも云われるくらいであった。
当社が当地に遷座した理由は不明であるが、崇敬者が土地を寄進したものと思われ、そうした貧民街だからこそ土地を活用できたのかもしれない。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
貧民街も崩壊し、当地は整備されていき、芝新網町は芸能関係者が多く移り住むようになった。

昭和十一年(1936年)、町名改正で芝新網町や芝湊町は廃止され、現在の浜松町の地名となる。
昭和十三年(1938)、区画整理のため隣町の旧芝湊町に鎮座していた「小白稲荷」が「讃岐稲荷」に合祀。
こうして現在の「讃岐小白稲荷」が成立した。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
昭和四十年(1965)、現在の社殿が再建。
当社の玉垣の奉納者を見ると、昭和の芸能関係者や任侠系の名が多く見る事ができ、当地の歴史の一端を伝えている。

現在は「芝大神宮」の兼務社となっている。

東京十社・芝神明と呼ばれた関東のお伊勢様。だらだら祭りと称される例祭・女性人気の千木筥(ちぎばこ)。伊勢神宮を勧請し創建。源頼朝による寄進。徳川将軍家からの庇護。め組の喧嘩の舞台。浮世絵に描かれた当宮。江戸有数の盛り場。御朱印。御朱印帳。

境内案内

鳥居や扁額が別々に用意された境内

浜松町駅から徒歩数分の商店やオフィスビルが並ぶ一角に鎮座。
鳥居が2つあるのが特徴で、扁額にはそれぞれの神社の社号が記されている。
左手の鳥居には「讃岐稲荷神社」の扁額。
右手の扁額には「小白稲荷神社」の扁額。

鳥居を潜るとその中央に手水舎。
小さな神社ながら水が張られており、綺麗に管理されているのが伝わる。

社殿は、昭和四十年(1965)に再建されたもの。
鳥居同様にこちらにも扁額が2つ掲げられている。
神狐像が至る所に置かれており、崇敬の篤さを感じる。

狐穴や力石・面白い造形の狛犬

拝殿の向いには溶岩で出来た小さな祠。
いわゆる狐穴になるのであろう。
こちらにも小さな神狐像が置かれている。

その隣には力石が置かれている。
力比べに使われたもので、漁師町であった当地の歴史を伝える。

お稲荷さまらしく神狐像が至るところに置かれているが、社頭の狛犬も特徴的。
狛犬というよりも狛ライオンとでも云えばよいだろうか。
獅子よりもライオンの容姿に近く面白い造形で、いずれも平成二十四年(2012)に奉納された。

さらに通り沿いに1体の狛犬。
出世お獅子台とあり、平成十九年(2007)に奉納されたもので、狛ライオンと同じ奉納者による。

境内には社務所が用意されているが普段は無人となる。
社務所の窓に御朱印についての掲示がされている。
御朱印などは本務社の「芝大神宮」で対応して頂ける。
書き置きでの対応となる。

東京十社・芝神明と呼ばれた関東のお伊勢様。だらだら祭りと称される例祭・女性人気の千木筥(ちぎばこ)。伊勢神宮を勧請し創建。源頼朝による寄進。徳川将軍家からの庇護。め組の喧嘩の舞台。浮世絵に描かれた当宮。江戸有数の盛り場。御朱印。御朱印帳。

所感

かつて高松藩松平家下屋敷の邸内社であった「讃岐稲荷」と、芝湊町の邸内社であった「小白稲荷」が合祀される形で誕生した当社。
いずれも江戸時代には当地に鎮座していなかったと見られ、明治になり「讃岐稲荷」が遷座し、隣町にあった「小白稲荷」も遷ってきたという形になるのであろう。
当地に遷座された理由は不明であるが、明治時代の芝新網町は東京でも有数の貧民街であり、そうした土地の中で、守護神として地域から信仰を欲されていたのかもしれない。
関東大震災、戦後は貧民街の面影はなく、ビル街となり発展していく事となる。
そうした中で、小さな敷地ながら綺麗に整備されているのも、崇敬者から大切にされている証拠であろう。
芝新網町・芝湊町という今はなき町名の歴史の一端を伝える神社である。

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神社画像

[ 鳥居 ]

[ 讃岐稲荷神社鳥居 ]

[ 小白稲荷神社鳥居 ]

[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]



[ 神狐像 ]


[ 力石 ]

[ 狐穴 ]

[ 方位盤 ]

[ 神狐像 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 狛犬 ]


[ 百度石 ]

[ 社務所 ]

[ 神輿庫 ]

[ 出世お獅子台 ]

[ 案内碑 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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