目次
神社情報
五條天神社(ごじょうてんじんしゃ)
御祭神:大己貴命・少彦名命
相殿神:菅原道真公
社格等:村社
例大祭:5月25日
所在地:東京都台東区上野公園4-17
最寄駅:上野駅・京成上野駅
公式サイト:─
御由緒
当社は、景行天皇の御代、日本武尊が、蝦夷征伐の為、忍ヶ岡を御通行の際、二柱の大神が奇瑞を現し、難儀を救い給うた事に感じ、茲に両神をお祀りなされましたのがその創祀であります。
大己貴命は大国主命とも申し、「山またの大蛇」を退治なされました須佐之男の命の御子で「いなばの白兎」「大国様と白ねずみ」等、神話や童話で知られて居り、又縁結びの信仰も厚い神様です。
少彦名命は、大国主命の手のひらに乗ったと云はれる非常に小さな神様で、神産日神の御子、蛾の皮の着物に豆の実のさやを舟にして出雲の国に御到着になり、ここで大己貴命と兄弟の縁を結び始めて国民に薬の術と病をなをす方法、又お酒の作り方等もお教えになり、国土の開発に力を尽くされました。
相殿にお祀りしてあります菅公は、江戸初期、寛永十八年に合祀になりました。(相殿とは、主神に対して後から合祀、又は配祀せられた神様の事です)
社地は寛永寺の境内拡張により、当時の神職、瀬川の屋敷内に、大正に至る迄遷座されましたが、昭和三年に現地に遷座されました。
当社は古くから「天の神」を祀ることにより「五條天神」と呼ばれ、昔から薬祖神としての尊崇が篤く、平成二十二年五月、御鎮座壱千九百年の記念大祭が斎行された、東都有数の古社であります。
次の神社大神輿の神幸祭は、平成二十九年五月を予定しています。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2017/02/15(ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/04/08(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※隣接する兼務社「花園稲荷神社」の御朱印も拝受できる。
歴史考察
病気平癒・健康祈願の薬祖神
東京都台東区上野公園に鎮座する神社。
旧社格は村社で、幾度かの遷座を経て現在は上野公園内に鎮座。
菅原道真公を起源にもたない天神さまであるが、現在は東都七天神の一社に数えられる。
同じ境内に「花園稲荷神社」が隣接しており、当社の兼務社という扱いではあるが、それぞれ独立した神社という形になっている。
日本武尊が薬祖神を祀り創建
社伝によると、景行天皇の御代(71-130)に日本武尊によって創建と伝わる。
日本武尊が東夷征伐で、上野の忍ヶ岡を通過。
その際に大己貴命と少彦名命が奇瑞を現し、日本武尊の難儀を救ってくれたため、上野忍が岡に両神をお祀りしたとされている。
当社は古くから「五條天神」と呼ばれており、創建当時は天神信仰の菅原道真公は生誕しておらず祀ってもいなかったため、道真公を起源にもたない天神さまという事になる。
当社は両神を日本武尊の難儀を救った「薬祖神」としており、医学の神として信仰を集めた。
創建時は天神山(摺鉢山)に鎮座していたと伝わり、現在よりもやや東側の上野公園内・摺鉢山古墳に鎮座していたとされる。
少なくとも室町時代には鎮座していた記録が残っており、かなりの古社だった事が分かる。
「寛永寺」拡張によって遷座・菅原道真公の合祀
寛永二年(1625)、徳川家と天海によって「寛永寺」が創立。
現在の上野公園一帯は、後に徳川将軍家の菩提寺となった「寛永寺」の社地となる。
寛永十八年(1641)、菅原道真公が相殿神として合祀される。
当社が古くから「五条天神」と呼ばれていた事から、「寛永寺」住職も担った天海によって合祀されたと伝わっている。
明暦三年(1657)、「寛永寺」の境内拡張の影響を受け、上野広小路の黒門前右脇に遷座。
元禄十年(1697)、更に「寛永寺」の境内拡張の影響を受け、神職であった瀬川家の屋敷内(現在のアメヤ横丁入口付近)に遷座となった。
それ以降は下谷の地名から「下谷天満宮」と称される事が多かった。
江戸切絵図から見る当社
当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。
こちらは江戸後期の上野・下谷の切絵図。
右が北の切絵図となっており、当社は図の中央付近に描かれている。
画像を反時計回りに90度回転させ(北を上に)、当社周辺を拡大したものが上図になる。
赤円で囲ったところに「五条天神」の文字を確認でき、その隣には瀬川の文字。
神職であった瀬川家の屋敷内に鎮座していた事が分かる。
左にあるのが不忍池で、緑のエリアが「寛永寺」、すなわち現在の上野公園。
もともと現在の上野公園内にあった当社だが、「寛永寺」の影響を受けて、その外に出されてしまった事が見て取れる。
明治以降の歩み・幾度もの遷座
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列した。
大正十二年(1923)、当社近くの鉄道を高架化するため、境内の大半を接収されたが、代わりに山下町(現・JR上野駅のやや東)にあった鉄道省所有地に仮社殿が設けられた。
しかしながら同年、関東大震災が発生し、仮社殿は焼失。
大正十三年(1924)、不忍池の南西に仮社殿を造営したものの、都市計画事業のため頓挫。
大正十四年(1925)、現在の鎮座地(「花園稲荷神社」の境内隣)に仮殿を造営し遷座。
昭和三年(1928)、社殿が竣工され遷座祭を行った。
この時の社殿が現存している。
戦後になり境内整備が行われ、現在に至っている。
なお、隣接する「花園稲荷神社」は独立した神社の扱いであるが、現在は当社の兼務社となっている。
古くから薬祖神として崇敬され、現在も病気平癒・健康祈願の神として信仰されている。
境内案内
上野公園内に鎮座・隣には花園稲荷神社
上野公園内に鎮座し、不忍池側から忍坂へ入る道が表参道となる。
忍坂を進むと目の前に大きな鳥居。
大正十五年(1926)に奉納された鳥居だが、東日本大震災の際に被災し、亀裂がはいったため支柱のみ新しく修繕しており、支柱と鳥居の上の部分では色合いが違い、年代が違う事が分かる。
当社の隣には「花園稲荷神社」が鎮座。二社が並び立つ形で鎮座しており、「花園稲荷神社」は当社の兼務社であるが、それぞれ独立した神社という形になるため、こうして鳥居や参道も個別に用意されている。
当社の鳥居を潜ると下りの石段となる。
参道より低い位置に鎮座しているのは比較的珍しい。
石段を下りた参道右手に手水舎。
水盤が丸い蓮の花の形になっているのが特徴的。
参道の正面に社殿。
昭和三年(1928)に遷座した時のものが現存。
幾度も遷座を余儀なくされた当社であるが、社殿は立派なもので、当時からの崇敬の篤さが伝わる。
境内社の七福社・3年に1度の大神輿御渡・毎月10日の医薬祭
境内社は参道の右手に七福社。
江戸時代に「寛永寺」境内であった摺鉢山内各門に祀られていた祠の一つと云われており、七福神をお祀りしている。
他に神楽殿や神輿庫などが整備されている。
神輿庫に置かれるのは千貫神輿と呼ばれる大神輿で、3年に1度御渡が行われる。
天狗や巫女舞などの大行列となって巡幸するもの。
また薬祖神の神を祀る当社は、毎月10日に医薬祭が行われる。
病気平癒・健康祈願の祈祷であるが、参列ではなく人形(ひとがた)を依代に行われる。
他に相殿神として祀られる道真公に由来する天神信仰の神社でお馴染みの「鷽(うそ)替えの神事」も有名。
毎年1月25日に行われ、木彫りの鷽が授与されるが、これは宮司による一刀彫となっている。
御朱印は社務所にて。
隣接する兼務社「花園稲荷神社」の御朱印もこちらで拝受できる。
所感
上野公園に鎮座する天神さま。
古くから「五條天神」と呼ばれていたようだが、菅原道真公を起源としない天神さまであり、薬祖神の神を祭り、医学・医療の神様として崇敬を集めた。
江戸時代には相殿神として道真公を祀るようになり、天神信仰の要素も持ち合わせた。
江戸時代、大正から昭和にかけてと幾度も遷座を余儀なくされた歴史をもつのだが、現在は創建の地にかなり近い場所に鎮座しているように、戻ってきたと云う事ができる。
隣接する「花園稲荷神社」とは、それぞれ独立した別々の神社であるが、古くから神職が兼務していたようで、そうした関係から当社がこの地に遷座したと云えるだろう。
上野公園に来た際には、当社と「花園稲荷神社」の両社に、ぜひ参詣したい。
神社画像
[ 社号碑・参道入口 ]
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 狛犬 ]
[ 参道・拝殿 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 拝殿・本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 七福社 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 神楽殿 ]
[ 西鳥居 ]
[ 神輿庫 ]
[ 社務所 ]
[ 梅の花 ]
[ 案内板 ]