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概要
尾久の総鎮守・おぐはちまん
東京都荒川区西尾久に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上尾久村・旧下尾久村・旧船方村といった尾久一帯の総鎮守。
正式名称は「八幡神社」だが、地名から「尾久八幡神社」と称される事が多い。
現在は社頭に都電荒川線が通っていて、鳥居の目の前が宮ノ前停留所となっている。
そのため都電と神社のレトロな雰囲気が楽しめる一社。
令和元年(2019)秋より都電神社めぐりの一社に参加している。
神社情報
尾久八幡神社(おぐはちまんじんじゃ)
御祭神:応神天皇
社格等:村社
例大祭:8月第1土・日曜
所在地:東京都荒川区西尾久3-7-3
最寄駅:宮ノ前停留場・熊野前駅
公式サイト:https://oguhachiman-jinja.org/
御由緒
江創建は不詳ですが、鎌倉時代の末期の正和元年(1312)に尾久一帯が鶴岡八幡宮の神領になった頃と考えられています。神社に残る棟札からは、至徳二年(1385)には社殿が再建された事が確認でき、古くから農工商の神様として尾久の人々に信仰されてきました。八月の第一土曜・日曜に例大祭が行われ、四年に一度の神幸祭は本社神輿などが盛大に尾久の町を練り歩きます。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
鎌倉時代に鶴岡八幡宮へ寄進された尾久一帯
社伝によると、創建年代は不詳。
正和元年(1312)、鎌倉幕府により小具郷(尾久一帯の旧地名)は「鶴岡八幡宮」に寄進される。
この事からそれ以降に鎌倉の「鶴岡八幡宮」より勧請されたと推測されている。
古くは「おうぐ」と発音したとされる尾久一帯。
鎌倉時代にかけては「小具郷(おぐのさと)」と称され、「鶴岡八幡宮」の社領となる。
一説では「豊島郡の奥」「江戸の奥」が由来とされる。
「鶴岡八幡宮」の社領であったため八幡信仰の神社として創建。
その後は小具郷の鎮守とされた。
当社を取り囲んでいた八幡堀
江戸時代に入ると、小具郷は上尾久村・下尾久村・舟方村(後の船方村)に分村。
当社は上尾久村・下尾久村・船方村の鎮守として崇敬を集めた。
当時の当社は王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水に囲まれ、それらを八幡掘と称した。
かつての社地は現在よりももっと広大で、現在の都電荒川線の南側まで広がっていた。
また当社へ向かう参道は「大門通り」と呼ばれ、当社(別当寺含む)に大きな門が置かれていた事が窺える。
江戸切絵図から見る尾久一帯と当社
江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。
こちらは江戸後期の日暮里やその北側の切絵図。
左が北の地図で、当社は中央やや左に描かれている。
江戸時代の切絵図であるため実際の位置関係にズレが生じている事と、かなり大雑把で細かい部分が描かれていない事に注意が必要だが、赤円で囲った箇所が当社。
隅田川(当時は荒川)から程近い位置に「八幡別當」といった事が記されている。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(上尾久村)
八幡社
上下尾久舟方三村の鎮守なり。神体木像神秘なりと云。願勝寺の持。
末社。疱瘡神。稲荷。天神。諏訪。弁天。
上尾久村の「八幡社」として記されているのが当社。
「上下尾久舟方三村の鎮守なり」とあるように、上尾久村・下尾久村・舟方村の鎮守であった。
末社として幾つか神社があり、弁天社は現在も当社の境内社として残る。
別当寺は「願勝寺」(現・廃寺)であった。
明治以降の歩み・戦前は花街だった尾久・戦後の再建
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列する。
明治十一年(1878)、周辺の稲荷神社・鹿島神社・神明社・胡録神社・熊野神社・調神社を合祀。
明治二十二年(1889)、上尾久村・下尾久村・船方村の一部が合併し尾久村が成立。
当社は尾久村の鎮守として崇敬を集めた。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
尾久村や上尾久といった地名を見ることもできる。
明治四十五年(1912)、王子電気軌道(現・都電荒川線)の路線が敷かれる。
大正二年(1913)、宮ノ前停留場が開業。
大正三年(1914)に尾久温泉(ラジウム鉱泉)が湧き出たことにより尾久一帯は発展。
料理屋・芸妓屋・待合といった三業地(花街)として発展することになる。
有名な「阿部定事件」は、尾久三業地の待合「満佐喜」(現・西尾久)で起きた事件として知られる。
昭和十一年(1936)に発生した猟奇性の高い事件。
阿部定と云う芸妓が性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件で、その猟奇性から当時の日本国民の注目を集めた他、小説や映画などの題材にもされた。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
昭和三十年(1955)、社殿を再建。
その後も境内整備が進み現在に至る。
令和元年(2019)秋より都電神社めぐりの一社に参加している。
境内案内
都電荒川線・宮ノ前停留場の目の前に鎮座
最寄駅は都電荒川線の宮ノ前停留場。
愛称は「東京さくらトラム」、軌道路線(路面電車)。
王子電気軌道によって敷設された路線を東京市が買収したものを起源とする路線。
ピーク時に40路線展開していた都電路線は荒川線を残し全て廃止されているため、現存する唯一の都電で、三ノ輪橋-早稲田間(12.2km/30停留場)を運行している。
戦前の大きな鳥居・新しい狛犬
宮ノ前停留場の目の前に当社の大きな鳥居。
その先に一対の狛犬。
戦後に再建された立派な社殿
参道の先に立派な社殿。
古くから末社だった厳島神社
境内社は社殿の左手に一社。
厳島神社の左手には弁天池の名残。
この厳島神社の裏手には公園。
古い扁額と江戸時代中期の水盤・力石
社殿の手前、右手に古い扁額と水盤が置かれている。
拝殿前の狛犬の近くに力石。
社殿の左手には立派な神輿庫。
2022年2月には駐車場側に慈徳庵なる建物が竣工。
月替りのカラフル御朱印・都電神社巡りの一社
御朱印は「八幡神社印」の朱印、左下に「尾久八幡神社参拝證」の印。
都電に乗って神社巡りができる施策で当初は3社が参加。
令和元年秋より当社が加わり現在では4社が参加している。
「尾久八幡神社」(荒川区西尾久)(宮ノ前停留場)
「七社神社」(北区西ヶ原)(飛鳥山停留場)
「大塚天祖神社」(豊島区南大塚)(大塚駅前停留場)
「雑司が谷大鳥神社」(豊島区雑司が谷)(都電雑司ヶ谷停留場)
都電神社めぐりの御朱印帳も用意。
枝垂れ桜や例大祭の切り絵御朱印
2022年3月12日より桜の季節に合わせて枝垂れ桜の切り絵御朱印を数量限定で授与。
更に2022年8月からは例大祭に合わせた切り絵御朱印を用意。
2023年3月13日より枝垂れ桜の御朱印を授与。
2024年3月26日より授与の桜の切り絵御朱印。
所感
尾久一帯の総鎮守として崇敬を集めた当社。
かつて「鶴岡八幡宮」に寄進された小具郷と呼ばれていた地に創建された八幡さまで、後に上尾久村・下尾久村・船方村に分村後も当社は一帯の鎮守を担った。
現在も氏子区域はほぼ引き継いでいてかなり広く、地域一帯から崇敬を集めている。
大正時代以降の尾久は、尾久温泉によって花街として発展した歴史を持つ。
かの有名な阿部定事件は、現在の西尾久で発生した事件であり、尾久の歴史の1つでもあろう。
現在はそうした花街としての面影を残していないものの、何より素敵なのが都電との組み合わせ。
唯一現存する都電荒川線と当社の組み合わせが何ともレトロで良い光景。
尾久一帯の歴史を伝えるだけでなく、現在も当社らしさがある光景を残す良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円(通常・限定)・1,000円(切り絵御朱印)
社務所にて。
※月替りの御朱印や祭事などに応じて特別御朱印を用意。
※2019年秋より都電神社めぐりの一社に参加。
9月中旬-「十五夜特別御朱印」(予定)
9月1日-30日まで「月替り御朱印」
8月20日-9月16日まで「重陽の節句特別御朱印」
※御朱印は書き置きのみ。詳細は公式X(Twitter)にて。社務所休みの日もあり。
御朱印帳
都電神社巡り特別御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。
都電神社巡りの特別御朱印帳を用意。
定期的にデザインが変わる予定。
※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。
参拝情報
参拝日:2024/03/27(御朱印拝受)
参拝日:2023/03/15(御朱印拝受)
参拝日:2022/08/02(御朱印拝受)
参拝日:2022/03/14(御朱印拝受)
参拝日:2021/09/29(御朱印拝受)
参拝日:2021/08/02(御朱印拝受)
参拝日:2020/02/10(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
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