目次
神社情報
廣尾稲荷神社(ひろおいなりじんじゃ)
御祭神:宇迦魂之命(倉稲魂命)
社格等:─
例大祭:9月15日
所在地:東京都港区南麻布4-5-61
最寄駅:広尾駅
公式サイト:─
御由緒
慶長年間徳川二代将軍秀忠公の勧請と伝えられる。此の頃麻布広尾辺は萩の名所で当社の俗称「ハギナメ稲荷」は可憐な萩が地をナメル様に咲き乱れていたことによる。
社殿は木造明神造り、御神体は木造翁の立像。商売繁昌、五穀豊穣、火伏の神として信仰を聚めている。(東京都神社庁より)
参拝情報
参拝日:2017/01/20(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/10/15(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。
歴史考察
広尾鎮守のお稲荷様
東京都港区南麻布に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、広尾の鎮守。
社号碑には「廣尾神社」の文字があるが、現在の正式名称は「廣尾稲荷神社」。
旧字体の廣尾だけでなく、新字体の広尾が使われる事も多い。
江戸時代の拝殿が現存しており、拝殿の天井には日本最初の洋画家と呼ばれる高橋由一が描いた墨龍画がある。
徳川秀忠による勧請
社伝によると、慶長年間(1596年-1615年)に二代将軍・徳川秀忠が鷹狩をした際に当地に休息のため立ち寄り、その際に稲荷神を勧請したと云う。
別当寺を「千蔵寺」担っていたため「千蔵寺稲荷」と呼ばれた。
また当時の麻布広尾辺は萩の名所として賑わったため「ハギナメ稲荷」とも称された。
秀忠による勧請のため徳川家との繋がりも深かったのか、明治中期まで葵の紋所のついた大提灯が掲げられてあったと伝わっている。
富士見御殿の鎮守・富士見稲荷の謎
当社については1つ大きな謎がある。
『麻布區史』などの史料には、当社を徳川将軍家の別荘である「富士見御殿」の鎮守として「富士見稲荷」と称されたと記しており、他の資料にもそうした記述をよく見る事ができる。
「富士見御殿」は別名「麻布御殿」「白金御殿」とも呼ばれた徳川将軍家の別荘。
かつて当地近くに「麻布薬園」と呼ばれた御花畑があり、薬草の栽培が行われていた。
こちらは延宝三年(1675)の『延宝三年江戸全図』から当地周辺を切り出したもの。
赤円で囲ったのが麻布総鎮守「麻布氷川神社」であり、これを目印にすると分かりやすい。
緑円で囲ったところに「御薬園」と書かれており、これが「麻布薬園」である。
これが後に徳川将軍家の別荘「富士見御殿」となっていく。
元禄十一年(1698)、「富士見御殿」が開設。
この鎮守として祀られたのが「富士見稲荷」だと云う。
しかしながら、宝永五年(1708)に四谷より発生した家事で類焼。
御殿も焼失してしまい、別荘であった「富士見御殿」は取り壊しとなってしまう。
「富士見稲荷」はその後も当地の旗本などから崇敬を集めたと云う。
江戸切絵図から見る当社と富士見稲荷
当社の御由緒では、当社と上述の「富士見稲荷」は別の神社であったとされている。
しかし、江戸時代の切絵図を見ると少し謎が深まる事になる。
こちらは江戸後期の麻布周辺の切絵図。
左が北の切絵図となっており、当社は図の中央に描かれている。
図を時計回りに90度回転(北を上に)させ、当社に関連する場所が入るように拡大したものが上図。
まず注目したいのが赤円で囲った部分。
ここには「富士見稲荷」と書かれている。
すぐ隣に「廣尾町」の文字が見えるように、ここが広尾の地であり、当社の鎮座地とほぼ重なる。
そして広尾周辺には稲荷社はおろか神社はこの一社しか記されていない。
この切絵図はかなり細かい神社まで記されているため、記載漏れは少し考えにくい。
よって「富士見稲荷」と記されているのは、当社だと推定できる。
青円は別当寺「千蔵寺」であり、この事から「千蔵寺稲荷」と称されていたとも伝わる。
緑円は後述する堀田摂津守の下屋敷である。
弘化四年(1847)に再建・高橋由一の墨龍画とその経緯
明和元年(1764)、社殿の造営が行われている。
弘化二年(1845)、青山火事によって社殿が焼失。
弘化四年(1847)、社殿が再建された。
この再建された当時の拝殿が現存している。
社殿の再建にあたって高橋由一が拝殿天井に墨竜画を描いている。
まだ20歳前後の青年だった由一が描いたもので、その後は洋画家となっているため、この墨竜画が日本画最後の大作とも云われている。
これは当時、高橋由一が仕えていた堀田摂津守の下屋敷が当社と隣接していた事による。
この堀田摂津守の下屋敷が上の切絵図で緑円で囲った場所。
「富士見稲荷」と記された当社と隣接している事が分かる。
このように地域から崇敬を集めた神社だった事が伺える。
明治以降の歩み・関東大震災からの再建
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治四十二年(1909)、社号を現在の「廣尾稲荷神社」に改称。
「富士見稲荷」は、現在のドイツ連邦大使館敷地内に旧跡があり、祠が残っていると云う。
大正十二年(1923)、関東大震災によって本殿が著しく破損。
以前は土蔵造りの本殿であったと云うが、大正十四年(1925)に木造にて本殿・幣殿が再建されている。
昭和十五年(1940)、境内整備が行われ、氏子崇敬者の寄進により、鳥居や社号碑、常夜燈、手水舎などが建立され、参道も整備された。
同年、三基の庚申塔を社殿裏側道路に移し、現在も残っている。
昭和二十年(1945)、東京大空襲では戦火を免れている。
江戸時代の拝殿や大正時代に再建された本殿などが現存。
昭和五十七年(1982)、社務所が改築。
昭和六十一年(1986)、社殿の屋根葺替工事が行われている。
平成二年(1990)、左翼過激派のゲリラ活動によって時限発火装置による放火が発生。
全焼は免れたものの、江戸時代の貴重な拝殿の床下を焼失している。
その後「被災神社復興支援募金」が行われ復興されている。
平成四年(1992)、神楽殿や参集殿などが建立され現在に至っている。
境内案内
江戸時代の拝殿と天井に描かれた圧巻の墨龍画
広尾駅から近く、有栖川記念公園へ向かう道沿いに鎮座している。
社号碑には「廣尾神社」の文字で、鳥居の左に大きな常夜燈が置かれている。
これら鳥居や社号碑、常夜灯などは昭和十五年(1940)に建立されたもの。
鳥居を潜ってすぐ右手に参道が伸び手水舎。
その先に素朴で時代を感じさせる社殿となる。
拝殿は江戸時代のものが現存し、本殿や幣殿は大正十四年(1925)に再建されたもの。
弘化四年(1847)に再建された拝殿。
この拝殿の天井に高橋由一が描いた墨竜画がある。
拝殿から屈んで覗く形でも少し見る事ができるのだが、社務所に声をかけると昇殿させて頂ける。
高橋由一が洋画家となる前の20歳前後の若い時代の作品。
圧巻の出来となっているので、ぜひ昇段した上でご覧頂きたい。
現在は港区指定有形文化財となっている。
境内に残る古い奉納物や御神木・境外の庚申塔
境内には無造作に古い奉納物が残っている。
社殿の右手には小さな神狐像が所狭しと置かれている。
社殿左手には神輿庫などが並ぶ。
その間に小さな稲荷社の祠が置かれている。
苔むした神狐像が置かれていて古いものなのが伝わる。
また無造作に置かれた石灯籠も古いもの。
弘化四年(1847)の文字を見る事ができる。
弘化四年(1847)は現存する拝殿が再建された年であり、社殿再建を祝して奉納されたものであろう。
社殿の左手には御神木。
弘化二年(1845)に発生した青山火事で社殿が焼失してしまうのだが、この御神木も内部が焼かれてしまったと云うが、外皮が残り再生してこうして現在も残っている。
また境外の社殿の裏手、道路に面したところに庚申塔が三基置かれている。
昭和十五年(1940)にこの場所に移されたもので、中央の庚申塔には元禄三年(1690)、左の庚申塔には元禄九年(1696)の年号を確認でき、右は状態が悪く確認できないもののそれより更に古いと推測できる。
全国的に根強く信仰された庚申信仰を残す貴重なもので、港区指定有形文化財となっている。
所感
広尾の鎮守として崇敬を集める当社。
徳川秀忠による創建の御由緒を持ち、地域からの崇敬を集めた。
徳川将軍家の別荘「富士見御殿」の鎮守「富士見稲荷」が当社であると云う資料が多い中、当社の御由緒では別の神社であるとしており、この点は謎が多い。
江戸時代の切絵図を見るに、当社が「富士見稲荷」と呼ばれていたか、もしくは同じ境内にあったのは間違いないように思うし、戦後には御神体が当社に合祀されている事からも、古くから繋がりの深い神社ではあったのであろう。
江戸時代の拝殿が現存しており、何より素晴らしいのが高橋由一による拝殿天井の墨龍画。
こうして現存しているのが素晴らしく、いつでも拝観できるのが嬉しい。
広尾という外国人が多い異国情緒溢れるエリアにおいて、昔ながらの神社が維持され、古い建造物・奉納物なども残っているのは素敵で、とても良い神社である。
神社画像
[ 常夜灯・鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 狛犬 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 拝殿・本殿 ]
[ 高橋由一墨龍画 ]
[ 手押しポンプ ]
[ 石碑 ]
[ 神狐像 ]
[ 常夜灯 ]
[ 神楽殿・社務所・参集殿 ]
[ 神輿庫 ]
[ 御神木 ]
[ 稲荷社 ]
[ 石灯籠 ]
[ 御籤掛 ]
[ 庚申塔 ]
私の夫は外国人ですが、40年近く日本に住んでおります。厄年にはお祓いもしていただいております。昨年は怪我が多く気持ちを浄化する為に、お祓いをして頂こう⋯どうせなら氏子である地域の神社と思い、正月7日に広尾稲荷神社に参りました。宮司は通常在住していないのか、本日はいらっしゃるとの事で、お祓いをお願い致しました。所が着替えるのがお嫌だったのか、外国人への差別からなのか⋯説教が始まりました。外国人ならキリスト教の方に行った方が良い。怪我は神社では治らないのでヨガをした方が良い。信心が無ければ神様は聞き届けない⋯とか長い時間宮司とは思えぬ意地悪さを感じ、主人共々嫌な思いを致しました。外国人へのお祓いをしたくないのなら何故、異教徒・外国人へのお祓いはお断りの表示をしないのか⋯外国人の多い広尾にて宮司の考えは如何なものか、考える必要があると思います。
そう言う差別的な言葉を吐きながら、御守りをお持ちくださいと⋯
二度とこの神社には行かないつもりです。