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日比谷神社 / 東京都港区

5.0
港区

神社情報

日比谷神社(ひびやじんじゃ)

御祭神:豊受大神・祓戸四柱大神(瀬織津比売大神・速開都比売大神・気吹戸主大神・速佐須良比売大神)
社格等:村社
例大祭:5月第2週の金・土・日曜
所在地:東京都港区東新橋2-1-1
最寄駅:新橋駅
公式サイト:https://www.hibiyajinja.net/

御由緒

日比谷神社は、古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、日比谷稲荷明神旅(さ)泊(ば)稲荷明神と称しておりました。慶長11(1606)年、江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子と共に芝口に移動となりますが、町名は従来のまま、日比谷となっておりました。
しかし、寛永7(1630)年、新橋に新しく芝口御門を造営することになり、町名も日比谷町から芝口町へと改称することになりましたが、神社の社号は変えることなく現在に到ります。
芝口の地に御鎮座して四百有余年となる古社であります。
御霊験著しいことから崇敬者も多く、江戸幕府の時代には毎年1月6日に神札を捧持して登城する慣例があったといわれ、それ以外にも伊達、脇坂、中川、肥後、本堂、毛利、井上、片岡家の諸公から篤い崇敬を集めていたといわれます。
明治5(1872)年に村社に列せられ、その後、関東大震災(大正12年)の影響で昭和三年の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地されて、現在の新橋四丁目に日比谷神社の御社殿が造営されました。
以降、日比谷神社は新橋の鎮守様として広く崇敬を集め幾多の災厄に遭うも、その都度氏子崇敬者の方々の御厚意をもって再建して参りました。
平成21年に、都市道路計画(環状2号線)の建設により、御社殿を東新橋二丁目に建造されました。現在では新橋四丁目町会・新橋五丁目町会・汐留町会・新橋二丁目町会・新橋駅前ビル自治会・東新橋一丁目町会及び汐留シオサイト地区の氏神様として変わらぬ崇敬を集めております。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2020/12/10(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/10/08(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

新型コロナウイルス対策のため当面の間は社務所の開所を11時-16時に短縮。

歴史考察

新橋・東新橋・汐留の鎮守さま

東京都港区東新橋に鎮座する神社。
旧社格は村社で、現在の新橋・東新橋・汐留の鎮守。
古くは現在の日比谷公園あたりに鎮座していたお稲荷様。
当時は日比谷地区の鎮守であり、現在は社号に「日比谷」の名を残す。
江戸城増築にあたり遷座、別名「鯖稲荷(さばいなり)」と呼ばれ崇敬を集めた。
明治以降は戦前と戦後に遷座を行っており、平成二十一年(2009)に現在地に遷座。
第一京浜と環状2号線(新虎通り)が交わる交通の要衝に鎮座する神社となっている。

現在の日比谷公園内に創建・旅泊(さば)稲荷と称される

社伝によると創建年代は不詳。
古くは現在の日比谷公園内にあった大塚山という地に鎮座していたと伝わる。

日比谷公園|公園へ行こう!
徳川入府前の江戸は「日比谷入江」と呼ばれる入江があり、現在とは随分と地形が違う。

当時の入江の様子をGoogle Mapsに重ねてみると以下のようになる。

(筆者作・日比谷入江と江戸湊)

筆者が作成したものなので正確な地図ではないが、大まかにこのような入江となっていた。

現在の東京駅と皇居の間まで海が食い込んでいたとされる。
半島のように伸びていたのが「江戸前島」と呼ばれた一画で、この先端が現在の銀座。
現在の日比谷公園の大半は日比谷入江と呼ばれた海の中で一部が入江沿いの海岸だった事が分かる。
当社はこの日比谷入江に面した大塚山と呼ばれた地に鎮座していたと思われる。

当社はそうした日比谷地区の鎮守であった。

当時は地名から「日比谷稲荷明神」と称された他、「旅泊(さば)稲荷明神」とも呼ばれ崇敬を集めたと云う。

旅泊稲荷(さばいなり)の由来
「旅泊稲荷明神」と称されるようになったのは、旅人たちのために神社の社務所を開放し無病息災の祈願を受けさせた事に由来する。
霊験あらたかだった事から、旅人たちから「旅泊稲荷(さばいなり)」と呼び信仰されたと云う。
後にこれが転じて「鯖稲荷」となるのだが、それは江戸時代になってからである。

江戸城増築のため遷座・日比谷鎮守から芝口鎮守へ

慶長十一年(1606)、江戸城増築のため日比谷御門が造営される。
旧社地からの遷座を余儀なくされ、当社は芝口(現・東新橋)へ遷座。

埋め立てられた日比谷入江
徳川入府以降は神田山切崩しなどの土で日比谷の入り江が埋め立てられて行く。
現在の日比谷交差点付近に日比谷御門が造営。
日比谷周辺には大名屋敷が造られていった。

当社の氏子であった日比谷一帯の住民も当社と共に芝口(現・東新橋)へ移転。
芝口にありながら暫くの間は町名も元々いた地名である日比谷町を使用していたと云う。

寛永七年(1630)、芝口御門を造営にする事になり、町名を日比谷町から芝口町へ改称。
しかし、当社は日比谷の名を変える事なく現在まで使用を続けている。
日比谷の鎮守であった当社は、当社と共に移ってきた氏子が住む芝口町(現・東新橋)の鎮守とされ崇敬を集めた。

「日比谷神社」の社号でありながら日比谷の地に鎮座していないのはこうした事情がある。

鯖稲荷と呼ばれ江戸市中から崇敬を集める

日比谷から芝口町に移転した当社であるが「日比谷神社」「日比谷稲荷」を使用し続けた。
そうした中で、江戸市中からは通称「鯖稲荷」として親しまれるようになっていく。

鯖稲荷(さばいなり)と称された由来
かつて旅人たちから「旅泊稲荷(さばいなり)」と呼ばれていた当社を、語呂遊び的な当て字で「鯖稲荷」と書くようになったものと見られている。
いつしか、その当て字から「鯖」にまつわる御神徳が広まるようになる。
鯖断ちで虫歯虫封じの御神徳
虫歯に苦しむ人が当社で御祈祷を受けると霊験あらたかと信仰を集めた。
鯖を食べることを断つ(鯖断ち)をすると治ったと云う。
治った人々はお礼に当社へ鯖を奉納する風習があったと伝わる。

こうして「鯖稲荷」称されて江戸市中からの信仰を集めた。

現在も授与品には鯖が描かれた絵馬が存在している。

江戸切絵図から見る日比谷稲荷

江戸時代の当社は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。

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こちらは江戸後期の愛宕下周辺の切絵図。
現在の新橋周辺はやや北に位置している。
多くの武家屋敷が並ぶ一画。

(芝愛宕下絵図)

北が上にくるように回転させ当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲った小さな場所が当社。
「日比谷いなり」と記してあるのが分かる。
青円で囲っているのが共に新橋鎮守の「烏森神社」。

烏森神社 / 東京都港区
新橋烏森鎮守。カラフル御朱印の先駆け。心願色みくじや朱印護符など豊富な授与品。烏森の由来・烏森稲荷と称される。平将門を討った藤原秀郷による創建。足利成氏の祈願状。徳川将軍家や江戸庶民からの崇敬。近代建築の鳥居と社殿。御朱印帳・黒朱印帳。

現在の新橋駅がその中間あたりにあると思えば地理関係が把握し易い。
当社周辺は芝口という表記があるように、この一帯の鎮守であり当社の別当寺は「寂静院」(現・廃寺)が担っていた。

日陰町とも呼ばれた当地周辺
緑で囲った箇所に「日カゲ丁通り」と記されており、当社周辺は日陰町とも呼ばれていた。
これはこの道がとても狭かった事によるものだと云う。
少し余談になるが、地図の下に「遠山左衛門尉」と記してある。これは遠山景元の事で、名奉行として知られた旗本。「遠山の金さん」と云えば、分かる方も多いであろう。当社からすぐそこが金さんの屋敷であった。

江戸名所図会に描かれた日比谷稲荷

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

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「日比谷稲荷社」とされているのが当社。
人の様子を大きく描いており、当時の賑わいが窺える描写となっている。
当社前の通りが日陰町通りで、狭いながらも人の往来が多かった事が伝わる。
当時の祭礼は、稲荷信仰に従って初午の日に行われた事も記されている。

初午(はつうま)
2月最初の午の日の事。
稲荷信仰の総本社である「伏見稲荷神社」の御祭神・宇迦御霊神が伊奈利山へ降りた日が2月11日であり、この日が初午であった事から稲荷信仰の祭の日として知られる。

浮世絵に描かれた当社の初午祭

江戸庶民から人気を集めた当社の初午祭は浮世絵にも描かれている。

(江戸の花名勝会)

歌川豊国による『江戸の花名勝会』。

当時流行りの浮世絵形式で名勝や人気の人物などをまとめて描いたもの。
左上に描かれたのが「日比谷稲荷初午」とあり当社の初午の様子。
提灯や幟、昼行灯などが飾られ賑わった。
このように江戸の季節の名物の1つとして江戸庶民に親しまれた事が分かる。

右上に描かれているのが歌舞伎役者の五代目松本幸四郎。『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の仁木弾正を演じた姿で、松本幸四郎の当たり役であった。

明治以降の歩み・戦前と戦後に2度の遷座

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列した。

旧別当寺の「寂静院」は廃寺。

同年、日本初の鉄道路線の起点として新橋駅(後の汐留駅)が開業。
同時に武家屋敷の多かった当社周辺は、新たに日陰町や烏森町となる。
当社は日陰町の鎮守であった。

明治四十二年(1909)、鉄道院の烏森駅が開業。

今の新橋駅はかつて烏森駅と呼ばれた
烏森駅は同年開業した現在の山手線に相当する電車専用駅であった。
新橋駅は別に開業していて今とは別の場所(汐留)にあった。
大正三年(1914)、東京駅開業により、新橋駅(初代)を汐留駅に改称し、烏森駅を新橋駅(2代目)に改称。
江戸時代には銀座寄りを新橋と呼んでいたが、新橋駅が設けられてからは現在の港区側を新橋地区と呼ぶようになっていく。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、当時は現在と若干違う場所に鎮座していたと思われる。
地図上に「日陰町通」という文字を見る事ができる。
当社はこの日陰町の一画に鎮座していた。

また現在の新橋駅の駅名は「からすもり」駅だった事も分かる。烏森町の鎮守であった「烏森神社」から付けられた。
烏森神社 / 東京都港区
新橋烏森鎮守。カラフル御朱印の先駆け。心願色みくじや朱印護符など豊富な授与品。烏森の由来・烏森稲荷と称される。平将門を討った藤原秀郷による創建。足利成氏の祈願状。徳川将軍家や江戸庶民からの崇敬。近代建築の鳥居と社殿。御朱印帳・黒朱印帳。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
新橋地区は焦土と化し当社も焼失。

昭和三年(1928)、震災復興の都市計画のため当社は愛宕下町2丁目(現・新橋4丁目)に遷座。
社殿が造営され以後、80年余りの間は新橋4丁目に鎮座する事となる。

遷座先は現在の新橋プラザビルのあたり。

昭和四十一年(1966)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地。
橙円で囲っているのが昭和三年(1928)から80年余り当社が鎮座していた地。
まだ環状2号線(新虎通り)が開通する前なのが分かる。

平成二十一年(2009)、都市道路計画で環状2号線を建設のため再度遷座。
これが現在の鎮座地となる。

現在の鎮座地は、上述の江戸時代の切絵図にあった当社とかなり近い鎮座地となっており、かつて日陰町と呼ばれていた一画に戻ってきたと云えるだろう。

その後も境内整備が進み現在に至る。
現在は新橋・東新橋・汐留の鎮守として崇敬を集めている。

当社と共に新橋鎮守に「烏森神社」があり大祭は当社と交互に隔年で行われている。
烏森神社 / 東京都港区
新橋烏森鎮守。カラフル御朱印の先駆け。心願色みくじや朱印護符など豊富な授与品。烏森の由来・烏森稲荷と称される。平将門を討った藤原秀郷による創建。足利成氏の祈願状。徳川将軍家や江戸庶民からの崇敬。近代建築の鳥居と社殿。御朱印帳・黒朱印帳。

境内案内

第一京浜と環状2号線(新虎通り)の交差点に鎮座

新橋駅から第一京浜を品川方面に歩くとすぐに当社が見えてくる。
第一京浜沿いにありJRの高架線もあるため、車で通る方や山手線に乗る方からはその境内を見ることができるのでお馴染みの光景。
交差する環状2号線は虎ノ門方面へ抜ける事ができ、新たに新虎通りの名が付けられている。

立派な朱色の鳥居。
社号碑には「日比谷神社」とあり、かつて日比谷の地に鎮座していた事を偲ぶ社号。

石段を上り左手に手水舎。
龍の吐水口より水が出て清める事ができる。

平成の遷座で新造営された社殿

石段を上った先に社殿。
平成二十一年(2009)に当地へ遷座した際に造営された社殿。
そのためまだ新しさを感じる美しい社殿。
大変狭い境内ではあるが社殿は中々に立派な造り。
氏子崇敬者からの崇敬の篤さを伝えてくれる。
社殿は境外(JR高架線下あたり)から見るとよく見える。

境内社の稲荷社・日陰町の旧社号碑

社殿の左手に小さな稲荷社。
当社が旧鎮座地(新橋4丁目)に鎮座していた時にも鎮座していた境内社。
奉納年は不詳の狛犬だが造形から江戸から明治の古いものと思われる。
やや豚鼻になっているのが特徴的でサイズ感もあって可愛らしい。

その向かいに古い社号碑。
裏面には「日陰町」の文字を見る事ができ、当時周辺が日陰町と呼ばれていた事を偲ぶ。

江戸時代の頃は当地周辺の道がとても狭かった事から日陰町通り呼ばれていた。

日比谷神社の御朱印

御朱印は社務所にて。
インターホンを押すと対応して頂ける。

新型コロナウイルス対策のため当面の間は社務所の開所を11時-16時に短縮。

御朱印は「日比谷神社」の朱印、下に「日比谷神社印」の朱印。
現在は東京港区東新橋鎮座の印も押印されている。

所感

新橋・東新橋・汐留の鎮守である当社。
古くから「鯖稲荷」と称され親しまれており、今もそう呼ぶ方がたまにいらっしゃる。
江戸時代に1度の遷座、戦前に1度の遷座、戦後に1度の遷座と、合計3回の遷座をしている中でも、依然としてかつての創建当初の鎮座地である「日比谷」の社号を冠しているのが何とも興味深い。
「日比谷神社」の社号なのに最寄駅は新橋で、日比谷公園や日比谷駅からはやや距離があるのは、こうした事情による。
いずれも区画整備が理由に遷座をしていて、現在は大通りや高架線に面した都会の環境の中で、こぢんまりとした境内ながら維持できているのは、やはり氏子による崇敬によるものであろう。
日比谷から新橋にかけての歴史を伝える良い神社である。

神社画像

Google Maps

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