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概要
渋谷の稲荷神社二社が合祀され建立
東京都渋谷区渋谷に鎮座する神社。
戦後に渋谷駅近くに鎮座していた「田中稲荷神社」と、道玄坂上に鎮座していた「豊澤稲荷神社」が合祀し、現在地に遷座する形で建立した歴史を持つ。
なお、渋谷駅近くの稲荷橋は「田中稲荷神社」が鎮座していた事が由来。
正式名称は旧字体の「豐榮稲荷神社」であるが、新字体「豊栄稲荷神社」と記される事が多い。
現在は隣にある「金王八幡宮」の兼務社となっている。
神社情報
豐榮稲荷神社/豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ)
御祭神:宇迦之御魂命(倉稲魂命)
社格等:─
例大祭:10月13日
所在地:東京都渋谷区渋谷3-4-7
最寄駅:渋谷駅
公式サイト:─
御由緒
創建は鎌倉時代の頃、渋谷八幡宮(現金王八幡宮)をお祀りした渋谷氏の祖河崎土佐守基家の曾孫高重によって祀られたと伝えられています。当神社は元 渋谷川の辺、渋谷駅の近く(並木街三十一番地、公設市場と渋谷川の間)にありました。渋谷川が渋谷城の壕に利用されておりましたので、江戸時代文化の頃までは「堀ノ外稲荷」、その後「田中稲荷」と称せられておりました。また、川の端にありましたので「川端稲荷」とも申しました。
昭和二十七年道玄坂上(上通り四丁目三十四番地)の豐澤稲荷神社が合祀されました。豐澤稲荷神社は元猿楽町京極家(旧但馬豊岡藩)の下屋敷に祀られておりましたが、明治初年道玄坂上にお移し致し、中豊澤にあった多くの稲荷祠を合祀したということです。東京都の区画整理事業が行われるに当たり、昭和三十六年十月現在地に移り豐榮稲荷神社と申し上げることになりました。
昭和四十七年に新しい朱塗りの御社殿を造営し、昭和五十年には約五十坪の道場を中心とする研修道場「蔵脩館」を建設いたしました。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
渋谷氏によって創建された田中稲荷
社伝によると、「田中稲荷神社」は鎌倉時代に創建されたと伝えられている。
渋谷高重によって創建されたと云う。
「金王八幡宮」を創建した河崎基家の曾孫とされる人物。
系図としては、河崎基家-渋谷重家-渋谷重国-渋谷高重(次男)であり、相模国高座郡渋谷荘を領地とした。
渋谷氏は現在の渋谷一帯も領地としていたため、渋谷の地名由来ともされる。
すなわち当時の渋谷を領地としていた領主・渋谷氏によって創建されたお稲荷様と云える。
渋谷川のほとりに創建したと伝わり、現在の渋谷駅近くが創建の地であった。
渋谷氏は氏神「金王八幡宮」を中心に居を構え、これが渋谷城という平城であった。
現在も「金王八幡宮」の境内には城の石とされる石が1点が保存されている。
渋谷氏は「金王八幡宮」を「渋谷八幡宮」と称し、一族の鎮守として代々尊崇した。
更に当時の渋谷川は、渋谷城の堀として利用されていた。
江戸時代になり田中稲荷と称される
江戸時代に入り、文化年間(1804年-1818年)には「田中稲荷」と称されるようになる。
当時の渋谷は百姓地ばかりの農村であったため、田の中にある稲荷という意味合いだったと思われる。
渋谷川の端にあったため「川端稲荷」と称される事もあった。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当宮についてこう書かれている。
(中渋谷村)
稲荷社
田中稲荷と號す。中豊澤村東福寺の持。
この時代には「田中稲荷」と称されていた事が分かる。
「東福寺」が別当寺であったとされ、これは「金王八幡宮」の別当寺である。
「金王八幡宮」と同じ境内にあり神仏習合のもと崇敬を集めていた寺院。
豊岡藩の邸内社であった豊澤稲荷
社伝によると、「豊澤稲荷神社」は元猿楽町にあった但馬国豊岡藩・京極家の下屋敷に祀られていたと云う。
すなわち豊岡藩下屋敷内に鎮座する邸内社であった。
但馬国城崎郡周辺を領有した藩。
現在の兵庫県豊岡市周辺になる。
明治になり神仏分離。
明治の初めに、道玄坂上に遷座。
明治中期から後期にかけて、中豊澤にあった多くの稲荷祠を合祀している。
豊岡藩下屋敷の邸内社であった稲荷社が、遷座の後に中豊澤の稲荷祠の多く合祀したため、「豊澤稲荷神社」と称されるようになったと云う。
明治の古地図で見る田中稲荷と豊澤稲荷
戦前までは、現在の渋谷駅近くに「田中稲荷神社」が鎮座、道玄坂上に「豊澤稲荷神社」が鎮座という形が続き、二社は別々の神社であった。
明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
橙円で囲っているのが現在の鎮座地。
赤円で囲っているのがそれまでの「田中稲荷」の鎮座地。
現在の渋谷駅近くに鳥居の地図記号が記されている。
青円で囲っているところに「堀内」という地名が見える。
渋谷川が渋谷城の堀に使われていた歴史を伝えるもの。
「田中稲荷」がかつて「堀ノ外稲荷」と称されていたのも、この堀の外に鎮座していた事による。
一方「豊澤稲荷」は道玄坂上に鎮座。
近くに「中渋谷豊澤」の地名を見ることができ、この一帯の稲荷祠を数多く合祀した。
戦後になり2社が合祀・豊栄稲荷神社に改称
戦後になると、渋谷の整備・発展が進む。
昭和二十七年(1952)、道玄坂上の「豊澤稲荷」が、当時はまだ渋谷駅近くに鎮座していた「田中稲荷」に合祀。
2社が合祀された事で、現在の当社となる。
昭和三十六年(1961)、東京都区画整理事業に伴い、「金王八幡宮」に隣接する現在地に遷座。
この遷座を機にして縁起のよい社号「豊栄稲荷神社」と改称された。
昭和四十七年(1972)、現在の社殿を造営。
この社殿が現存。
古くから現在に至るまで「金王八幡宮」の兼務社となっている。
境内案内
金王八幡宮に隣接するように鎮座
本務社「金王八幡宮」と通りを挟んで隣接する形で鎮座。
上画像は「金王八幡宮」の南参道側から見た当社の境内。
東向きに表参道。
「豊栄稲荷神社」の社号碑と、石段が設けられている。
百度石や数多くの奉納鳥居
石段の先に石鳥居。
鳥居前には百度石。
奥に数多くの奉納鳥居があり写真映えする境内。
石鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎。
兼務社ながら水が張られていて管理が行き届いている。
奉納鳥居は皇紀二千六百五十年(1990)を奉祝して奉納されたもの。
数多くの鳥居が奉納。
奉納鳥居を潜り抜けると社殿となる。
朱塗りの社殿・写真映えする境内
社殿は昭和四十七年(1972)に造営されたもの。
鉄筋コンクリート造による朱塗りの鮮やかな社殿。
お稲荷様には朱色の社殿が似合う。
奉納鳥居含め写真映えする一画
綺麗に整備された境内から崇敬の篤さが伝わる。戦後に遷座した当社であり、現在は兼務社であるが立派な社殿。
社殿の扁額は「豊栄稲荷神社」。
社殿内にも扁額が掲げられており、当社の歴史の一端を伝える。
「豊澤稲荷大神・田中稲荷大神」の扁額で、二社が合祀された歴史を伝えている。
数多くの庚申塔が渋谷の歴史を伝える
境内の右手には数多くの庚申塔が保存されている。
その多くが江戸時代中期のもので、「田中稲荷」に置かれていたものを移転。
庚申信仰らしく、三猿を彫られた庚申塔が多い。
青面金剛像が彫られた庚申塔など、当地の信仰を伝えている。
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
研修道場の藏脩館はドローンスクールにも
社殿の左手には「藏脩館」という建物が建つ。
昭和五十年(1975)に建てられた、道場を中心とする研修道場。
一部曜日は「ドローンスクール渋谷」として開放されている。
何ともユニークな組み合わせ。
御朱印は金王八幡宮の社務所にて
御朱印は本務社「金王八幡宮」の社務所にて。
一緒に御由緒書も頂ける。
御朱印は「豊栄稲荷神社」の朱印と社務所印。
墨書きは「豐榮稲荷神社」と旧字体。
2020年に頂いた御朱印。
2023年に頂いた御朱印。所感
渋谷に鎮座していた稲荷社が合祀され成立した当社。
渋谷の信仰の歴史を感じる事ができる稲荷神社となっている。
かつてのどかな農村だった当地において、農耕神の稲荷神は大切に信仰されたのであろう。
兼務社の扱いではあるが、規模の割に綺麗に整備された境内。
それだけ今も崇敬の篤さが伝わる。
ほぼ隣接する本務社「金王八幡宮」と共に参詣したい神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
「金王八幡宮」社務所にて。
※本務社「金王八幡宮」で頂ける。
※以前は初穂料300円だったが、現在は初穂料500円に改定。
参拝情報
参拝日:2023/09/27(御朱印拝受)
参拝日:2020/08/14(御朱印拝受)
参拝日:2019/02/21(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/05/02(御朱印拝受)
参拝日:2016/02/08(御朱印拝受)
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