葛西神社 / 東京都葛飾区

御由緒

史跡 葛西神社
(葛西ばやし発祥の地)
 当社は、むかし香取宮と称し元暦元年(1184)下総国香取神宮の御分霊を勧請し葛西三十三郷の総鎮守として創立したものと伝えられ、天正十九年(1591)十一月徳川家康より御朱印十石を賜わった。享保年間当社の神宮能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「はやし」として流行し、今なお当地方の郷土芸能の一つとして伝わり、昭和二十八年十一月三日、東京都無形文化財に指定され今日に至る。
葛飾区
葛飾区観光協会
(※境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2015/11/16
参拝日:2015/04/01

御朱印

初穂料:300円
参集殿の授与所にて。

※当社の印だけでなく、境内社の金町弁天・葛西天神の印も押してあるのが特徴。

葛西神社

授与品・頒布品

御守護シール
初穂料:200円
社務所にて。
写真 2015-11-16 14 18 58


歴史考察

香取信仰の神社として創建

葛飾区東金町に鎮座する神社。
旧社格では郷社に列し、金町・東金町を合わせた11町会の総鎮守。
香取信仰の神社となっている。
祭囃子発祥の神社とも言われている。

幅広い地区の鎮守

社伝によると、元暦二年(1185)に創建とある。
上葛西・下葛西合わせた三十三郷の総鎮守として、領主の葛西三郎義重が下総国一之宮「香取神宮」から勧請したものと伝えられれている。
この周辺は、現在は東京都葛飾区ではあるが、当時は下総国葛飾郡という区分となっていた。
そのため下総国一之宮である「香取神宮」から勧請というのは自然な流れであり、香取信仰の神社という事になり、当時は「香取宮」「香取社」と呼ばれていたようだ。

上葛西・下葛西合わせた三十三郷とは、現在の行政区分では、東京都葛飾区、江戸川区の全域、墨田区、江東区、足立区の一部地域にあたる。
かなり広いエリアの総鎮守であり、それだけこの地においての重要性が伝わってくる。
現在も金町・東金町を合わせた十一町会の総鎮守を担っており、地域の崇敬を集めている。

鎮座地である金町の地は、創建当時は「葛西御厨」と呼ばれる「伊勢神宮」の神領でもあった。
上述の領主の三十三郷を葛西氏が「伊勢神宮」に長寛三年(1165)に寄進しており、その後に当社が創建されたという形になる。

そういった「伊勢神宮」との繋がり、そして「香取神宮」を勧請した繋がりから、両宮との深い関わりが資料として残っている。
「葛西御厨」として「伊勢神宮」の御神税を掌っていたのは間違いないし、「香取神宮」側の資料によると、古来二十一年ごとに「香取神宮」宝殿造営の賦役を務めていたとある。

以後、地域の崇敬を集めていて、天正十八年(1590)には豊臣秀頼から朱印地10石を賜っている。
その後も天正十九年(1591)に徳川家康により御朱印10石を賜っていたりと、庇護された。

祭囃子発祥の神社

江戸時代になると当社にて祭囃子(葛西囃子)が成立する。
そのため当社は祭囃子発祥の地と呼ばれる。

通説としては享保年間(1716年-1736年)、葛西神社の神官が和歌囃子として村の若者に教え、御神霊をお慰めしたのがその起源とされている。
宝暦三年(1753)頃より関東代官であった伊奈半左衛門忠順が天下泰平・五穀豊穣を祈願すると共に一家和合並びに青少年の善導を目的としてこれを奨励。
毎年各地で葛西囃子代表者の選出会が催される事となり、選出された者を代官自ら江戸総鎮守であった「神田明神」の将軍家御上覧祭りに推薦した事により大流行し、その後「神田祭」があると当社の氏子衆が囃子の奉仕をするようになった。

やがてそれらの技能を身に付けた「神田明神」の氏子達の手でお囃子が行われる様になる。(神田囃子の成立)
江戸総鎮守の「神田明神」で流行したのだから、それは自然に関東周辺に大いに伝わる事になり、神田囃子、深川囃子といった江戸の各地、さらに秩父、川越、石岡、また東北地方、東海地方の囃子の流儀を生んでいる。
現在は当社の囃子を「葛西囃子」と呼んでいるが、これは戦後に保存会が結成されてからの呼称であり、それまではただ単に「おはやし」と呼ばれていたようだ。
そのためその起源となった当社が「祭囃子発祥の地」と言えるだろう。

香取神社とされた江戸時代

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

香取社
村の鎮守なり。社領十石。御朱印は天正十九年十一月附せらる。例祭は九月九十の両日にて、神輿を神楽殿へ移し、破風柱等に葵御紋の金具を打附て、機関を設けたる三番叟の人形を飾り、神酒を備て天下泰平五穀成就を祈誓す。下に出せる浅野長吉カ文書に記せる村々よりも警固を出し時ノ御代官より非常のことありしとき、指揮の備へとして手代の者を出せりと云。相伝ふ、古、東照宮此辺へ成せられし時、神事を上覧ありて、奇特のことに思召され、社領を附せられると云。
神楽殿、供所庵、末社、太神宮、天神、道祖神、三社権現稲荷合社、開道明神発道明神合社、別当吉祥院、新義真言宗村内金蓮院末。竜香山と号す。本尊十一面観音は香取の本地仏なり。薬師堂 寺宝 御茶碗一 東照宮御放鷹の時、当社ヘ御腰を掛させ給ひ、御茶を召上られし器なりと云。

当時は「香取社」と呼ばれており、御朱印を賜わった東照宮(徳川家康)とのエピソードが多く描かれている。
当時の例祭になると葵御紋も使用したとあり、徳川家から庇護されていた事が伝わる。
現在も御祭神に徳川家康命がおり、こういった逸話からお祀りしているのだろう。
別当寺は「吉祥院」という寺院だったようだが、現在は廃寺となっている。

神仏分離と葛西神社への改称

明治になり、神仏分離にて別当寺とは分離し「香取神社」と改める。
別当寺の「吉祥院」の住職が改名し神主となったため、別当寺は廃寺となった。
このような事は各地で起こっており、当時の神仏分離・廃仏毀釈を感じられるエピソードかもしれない。

明治五年(1872)には村社に列し、明治八年(1875)には郷社に昇格。
その後、明治十四年(1881)に現在の「葛西神社」に改称している。

広く見処の多い境内

表参道側の鳥居は嘉永七年(1854)に建立。

この奥にさらに大きな二の鳥居が建っている。

現在の社殿は、昭和三十九年(1964)に造営されたもの。

権現八棟造りで中々立派な造りとなっている。
旧社殿の一部は現在は宝物殿に使われている。

境内は中々広く見どころも多い。
大変多くの境内社があり、周辺の神社が当社に合祀・遷座されたものが多い。
この地の信仰を集めたのが当社なのだろう。

「厳島神社」は天明七年(1787)に造営。

かつて瀬崎の里(現在の埼玉県草加市)に鎮座していたのだが、信仰者達が金町に移り住むようになったため、その弁財天を当社の境内にお祀りしたもので、「金町弁天社」として崇敬を集めた。
「葛西天神社」は明治十年(1877)に再建されたもの。

この両境内社は御朱印をお受けすると、両社の印も押して頂ける。
他にも多数の境内社が鎮座。

さらには当社奥に富士塚も存在。
富士山を模して築山し明治四十四年(1911)に竣工。

現在も登拝する事が可能となっている。

御朱印は参集殿の授与所にて。
4月に参詣した時は書ける方がいない時間だったためお受けできなかったのだが、11月に再参詣した際に無事お受けする事ができた。
当社の印だけでなく、境内社の金町弁天・葛西天神の印も押してあるのが特徴。

境内社の酉の市も有名

当社の例大祭は9月中旬に行われるのだが、11月の酉の日に行われる「酉の市」も有名。
葛飾区唯一のお酉様として、酉の市になると熊手商などの屋台や、神楽殿において素人演芸大会も開催されたりと大いに賑わう。
この日は二の酉の前日だったため、境内に屋台などの設置がされていた。

また、毎月第一土曜日になると境内にて青空骨董市が開催。

所感

金町周辺の総鎮守として崇敬を集める当社。
古くから「伊勢神宮」「香取神宮」との密接な関係もあり、重要な地だった事が分かる。
そして「祭囃子発祥の地」として、「神田明神」との関係も興味深い。

昔も今も、この地域の崇敬を集め、現在でも規模も中々大きく、綺麗に整備された境内は清々しい気持ちにさせてくれる。
葛飾区を代表する良社だと思う。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]
[ 手水舎 ]

[ 大鳥居 ]

[ 拝殿 ]




[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]


[ 厳島神社鳥居・福神殿 ]

[ 神池・神橋 ]

[ 厳島神社(金町弁天社) ]
[ 道祖神 ]

[ 神楽殿・大鳥居 ]
[ 葛西天神 ]
[ 勝海舟直筆社号石碑 ]

[ 三峯社・鍾馗像 ]

[ 富士社(富士塚) ]

[ 祓所 ]

[ 稲荷社 ]

[ 葛西ばやし発祥の碑 ]
[ 諏訪神社・神明社 ]

[ 宝物殿 ]

[ 招魂社 ]

[ 西側・社号碑 ]

[ 参集殿・授与所 ]
[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
スポンサーリンク
御朱印ブログランキング
投票する

にほんブログ村 コレクションブログ 御朱印へ

フォローする

オススメ記事 by Google