青砥神社 / 東京都葛飾区

葛飾区

概要

青戸・白鳥総鎮守の青砥神社

東京都葛飾区青戸に鎮座する神社。
旧社格は村社で、青戸・白鳥(旧青戸村)の総鎮守。
かつては白髭・諏訪・稲荷の三柱を祀っていた事から「三社明神社」と称された。
明治になり「白髭神社」へ改称、昭和十八年(1943)に「白山神社」を合祀し現在の「青砥神社」へ改称、さらに戦後になり青戸地区の5社を合祀している。
その後、葛西城址の「青砥藤綱神社」も合祀したため現在は9柱の神を祀る。

神社情報

青砥神社(あおとじんじゃ)

御祭神:猿田彦命・建御名方命・宇迦之御霊命・伊邪那美命・高皇産霊神・誉田別尊・菅原道真公・彌都波能目神・青砥藤綱公
社格等:村社
例大祭:9月9日
所在地:東京都葛飾区青戸7-34-30
最寄駅:青砥駅
公式サイト:http://www.aoto-jinja.com/

御由緒

「万葉集」巻十四の東歌に
にほどりの葛飾早稲を贄すとも そのかなしきを外に立てめやも
とありますが、この地は米どころとして葛飾の野に実った早稲の新米を神様に供して新嘗の祭事を営んでいた事が窺えます。また青戸付近は良質粘土の原産地として早くも古墳時代より土器作りを主要とした人々の生活の地でもありました。
このように祭事に深く関わり営まれた信仰の地は葛西御厨(伊勢神宮の神領地)として応年五年(1398)下総国葛西御厨注文(鏑矢伊勢宮方記)に見えています。
その後、幾多の戦や行政の変遷などにも揺らぐことなく受け継がれ、三社明神(稲荷・白髭・諏訪)と称し、この里の鎮守神と崇られた様子が天正丙子年(1576)頃から文献等にみえ、その広大無辺の御神徳はこの里に人々が暮らしはじめてから千有余年変わることなく、今を生きる皆様の上にも遍く日夜加護されております。
明治の御代に入り、詔によって神社の正実を明らかにすることとなり、同五年社名を白髭神社と改称。その後、昭和十八年九月には旧青戸4丁目鎮座の白山神社を合祀して青砥神社と改め直し、さらに昭和三十五年旧青戸町内に鎮座せる高木神社・八幡神社・北野神社・葛葉稲荷神社・水神社を合祀申し上げ今日に至っております。
このように悠久の時を経て、当神社は氏子・崇敬者の方々の『こころの故郷』としてこの地にお鎮まりになっておられます。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2021/05/26

御朱印

初穂料:500円
参集殿にて。

※御朱印を頂いた際に参拝記念のタオルも下さった。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:
参集殿にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
御祭神の一柱である青砥藤綱公をデザインしたもの。
藤綱と銭10文の故事の様子をデザイン。
青系とピンク系の2色展開。

※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

授与品・頒布品

オリジナル御朱印帳
初穂料:─
参集殿にて。

御朱印を頂いた際に下さった参拝記念のタオル。

歴史考察

白髭・諏訪・稲荷を祀った三社明神

社伝によると、天正四年(1576)に創建と伝わる。
白髭・諏訪・稲荷の3柱を相殿として祀ったため「三社明神社」と称された。

当社に祀られている3柱
白髭大神:猿田彦命(さるたひこのみこと)
諏訪大神:建御名方命(たけみなかたのみこと)
稲荷大神:宇迦之御霊命(うがのみたまのみこと)
明治以降に多くの神を合祀したため現在は9柱の神を祀っている。

青戸村の鎮守・中世の葛飾城

当社は青戸村の鎮守として崇敬を集めた。

青戸村(あおとむら)
古くは「青津」「大戸」「大津」とも記され「おおと」と発音されていた事が窺える。
地名に使われる戸は、渡し場や水門を表すため、徳川入府以前は港があったと推測される。

中世には葛西城(当社のやや西側)が築かれ地域の中心を担った。
当社はそうした葛西城の城下に創建したものと思われる。

葛飾城(かつしかじょう)
鎌倉時代に葛西氏が築いたとの伝承が残る中世の城。
15世紀には関東管領家・上杉方の城として整備。
戦国期には下総国への重要な拠点で後北条氏の支配下に置かれた。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐によって廃城。
江戸時代になると三代将軍・徳川家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用され「青戸御殿」とも呼ばれたが、その後は破却されている。
戦後に環七整備による発掘調査で戦国期の陶磁器・漆器・人骨など様々な遺物が発掘されたものの、その後は葛飾城址公園・御殿山公園として整備されている。
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新編武蔵風土記稿に記された三社明神社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(青戸村)
三社明神社
村の鎮守なり。白髭・諏訪・稲荷の三社を祀れり。別当観音寺。

青戸村の「三社明神社」と記されているのが当社。
「村の鎮守なり」とあるように青戸村の鎮守であった。
「白髭・諏訪・稲荷の三社を祀れり」とあり、三社明神と呼ばれた由来と御祭神も記している。

別当寺は現在も近くにある「観音寺」であった。

観音寺(かんのんじ)
葛飾区青戸にある真言宗豊山派の寺院。
天正四年(1576)に真盛法印が創建したと伝わる。
別当寺と同時期に当社が創建したものと思われる。
本尊の十一面観世音菩薩像は弘法大師の作と伝わっていた。(江戸時代の火災で焼失)

明治以降の歩み・白髭神社へ改称・青砥神社へ改称

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列し「白髭神社」へ改称。

「三社明神社」と呼ばれていた当社だが、神仏分離で「明神」の呼び方を避ける必要があったため、3柱祀った白髭・諏訪・稲荷のうち白髭の名を取ったものと思われる。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行によって、青戸村・亀有村・砂原村・上千葉村が合併して亀青村が成立。
当地は亀青村青戸となり地域の鎮守として崇敬を集めた。

亀青村は亀有と青戸を合わせた合成地名。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で、今も昔も鎮座地は変わらない。
当時は現在よりも広大な社地を有していた事が窺える。
亀青村・青戸といった地名も見る事ができる。

橙円で囲ったのが旧葛飾城で現在の葛飾城址公園や御殿山公園で、後に当社に合祀される事になる「青砥藤綱神社」が鎮座していた。
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大正七年(1918)、社殿を建立。

昭和十八年(1943)、旧青戸4丁目に鎮座していた「白山神社」を合祀。
これを機に現在の「青砥神社」へ改称。

青戸と青砥の違い
地名の「青戸」は上述した通り、戸が渡し場や水門を表すため、徳川入府以前は港があったと推測される古い地名。
一方で社号に使用されている「青砥」は、鎌倉時代の武士・青砥藤綱を由来としている。
青砥藤綱は当社からほど近い葛西城址付近に屋敷を構えていたと云う伝承によるもの。
同じ「あおと」の呼び名だが漢字の使い分けがされている。
青砥駅の駅名も同様に青砥藤綱を由来としている。

戦後の歩み・多くの神社を合祀し9柱を祀る

戦後になり境内整備が進む。

青戸地域が発展したのは戦後の事。青戸団地などが建てられ人口が増加していく。

昭和三十五年(1960)、旧青戸町内に鎮座していた「高木神社」「八幡神社」「北野神社」「葛葉稲荷神社」「水神社」を合祀。
昭和三十六年(1961)、社殿の増改築が行われる。

昭和四十二年(1967)、住居表示が実施され旧青戸町は青戸・白鳥が成立。

旧青戸村は現在の青戸・白鳥になるため、当社は青戸と白鳥の総鎮守となっている。

昭和四十五年(1970)-昭和五十五年(1980)、環状七号線の整備が行われる。
これに伴い葛飾城址に祀られていた「青砥藤綱神社」を合祀。

現在は9柱の神を祀る
元々は白髭・諏訪・稲荷の3柱を祀っていた当社。
明治や戦後の合祀によって現在は9柱の神(猿田彦命・建御名方命・宇迦之御霊命・伊邪那美命・高皇産霊神・誉田別尊・菅原道真公・彌都波能目神・青砥藤綱公)を祀る。
まさに青戸地区の総鎮守として崇敬を集めている。

御祭神の1柱に青砥藤綱・銭10文の逸話

創建時は白髭・諏訪・稲荷の3柱を祀り「三社明神社」と呼ばれた当社。
明治や戦後の合祀によって現在は9柱の神を祀り、そのうちの1柱に青砥藤綱命が知られる。

青砥藤綱(あおとふじつな)
鎌倉時代後期の武士。
公正・剛直の人物として知られ、実に質素に暮らし倹約を旨とし、入る俸給は全て生活に困窮している人々に与え、役職を務めた時は役人は行いを慎み風俗は大いに改まったと云う。
江戸時代になると歌舞伎などの題材にされる事が多く、公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として人気を博した。

旧葛飾城址に青砥藤綱の屋敷があったと云う伝承が残る。

こうした伝承から旧葛飾城址には青砥藤綱命を祀る「青砥藤綱神社」が鎮座。
環七整備に伴い当社に合祀された。

青砥藤綱と銭10文の逸話
ある夜に滑川(鎌倉市を流れる川)を通って銭10文を落とした藤綱。
従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。
この話を聞いた人に「10文を探すのに50文を使うのでは損ではないか」と笑われたところ、藤綱は「たった10文であっても探さなければ天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人の手に渡って世の中に流通して益となる。手元に拾い上げた10文と合わせて60文の利は天下の利益である」と返答した。
これを聞いた人々は驚き感じ入ったと云う。

(教導立志基)

『教導立志基』で描かれた青砥藤綱が銭10文を銭50文で買った松明で探させる様子。

当社の「青砥神社」の社号や、駅名の「青砥駅」も、こうした青砥藤綱を由来としている。

境内案内

青戸地区・中川と環七の間に鎮座

最寄駅の青砥駅からは徒歩15分前後。
環七と中川の中間付近の住宅街に鎮座。
石垣で囲われた境内。

南向きに表参道。
鳥居は平成六年(1994)に建立。
青砥神社の文字。

江戸狛犬・江戸後期の灯籠

鳥居を潜ると一対の狛犬。
彫りの深く毛並みの美しい江戸狛犬と思われるが、台座が新しくなっているので奉納年は不詳。
吽形は顔が潰れてしまっていてダメージが大きい。

その奥には一対の石灯籠。
こちらは天保五年(1834)奉納。
境内にはこうした古い石造物も残る。

参道の左手に手水舎。
身を清める事ができる。

戦後に改築された木造社殿

参道の正面に社殿。
石段の上に鎮座する木造社殿。
旧社殿は大正七年(1918)造営。
老朽化に伴い昭和三十六年(1961)に増改築が行われた。
立派な破風が設けられた拝殿。
本殿は1段高い場所に鎮座。

墨東随一とも云われる大神輿

参道の右手に神輿庫と神楽殿。
参集殿と一体化する形で整備された一画。
ガラス張りの神輿庫では中の御神輿を見る事ができる。
四尺千貫の大神輿で安政年間(1855年-1860年)のもの、墨東随一とも呼ばれると云う。

御朱印・青砥藤綱の御朱印帳

御朱印は参集殿にて。
丁寧に対応して下さった。

御朱印は「青砥神社」の朱印。
「葛西城址 御殿山鎮座」と中世の葛西城址を偲ぶ印も。

当社からもほど近い現在の葛飾城址公園・御殿山公園が葛西城址とされる。

オリジナル御朱印帳も用意。
青砥藤綱と銭10文の逸話をデザインした御朱印帳。

所感

旧青戸村の鎮守として崇敬を集めた当社。
かつては白髭・諏訪・稲荷の3柱を祀り「三社明神社」と呼ばれたが、明治や戦後の合祀によって現在は9柱の神を祀り、まさに青戸地区の総鎮守と云えるだろう。
青砥藤綱や葛飾城は中世の当地に残る伝承として興味深い。
現在の境内はそう広いものではないが綺麗に整備された空間。
こうした境内からも地域の崇敬の篤さが伝わる。
青戸鎮守として歴史や信仰を伝える良い神社である。

Google Maps

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