神社情報
十寄神社(とよせじんじゃ)
御祭神:新田義興命・世良田右馬助義周命・井伊弾正左衛門直秀命・大嶋周防守義遠命・由良兵庫助命・由良新左衛門命・新藤孫六左衛門命・堺壱岐権守命・土肥三郎左衛門命・南瀬口六郎命・市河五郎命
社格等:─
例大祭:4月10日(春大祭)・10月10日(例大祭)
所在地:東京都大田区矢口2-17-28
最寄駅:武蔵新田駅
公式サイト:http://tokumochi-jinja.tokyo-jinjacho.or.jp/keidai00.html
御由緒
正平七年二月十五日(1352年)足利尊氏追討のため宗良親王を奉し挙兵した新田義興公に祭神らも従って、人見原(府中市)、金井原(小金井市)、小手指原、高麗原(埼玉県)で戦い遂に鎌倉を占領、一時は東国八州を治めた。世にこの戦いを武蔵野合戦と云う。
正平十三年(1358)四月三十日、足利尊氏の死により足利基氏は新田義興公の勢力を恐れ、北武蔵野合戦で義興公に従った竹沢右京亮、江戸遠江守、江戸下野守と奸計をめぐらし、それぞれの所領没収の罪科に処されたと偽称せしめ、義興公に救援挙兵を求めさせた。義興公はこの謀略にかかり竹沢・江戸らと合流して足利基氏・畠山国清を討つべく、正平十三年十月十日、その支族および近習の将兵十数名とひそかに鎌倉に向かうため、多摩河矢口の渡し舟に乗った。江戸遠江守らは予めこの舟に穴をあけていたため、義興公らは河中において進退谷まり遂に壮烈な自刃、或は渡岸し江戸・竹沢の軍勢と奮戦したが悉く憤死した。(矢口渡、津の戦)
その後、祭神らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き社祠を興し、一社の神として合祀して十騎神社と名付け南朝につくした功績を称賛した。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2017/05/29(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/10/04(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
「徳持神社」社務所にて。
※普段は神職が常駐していないため、本務社「徳持神社」にて拝受できる。
歴史考察
新田義興公と御家来衆を祀る神社
東京都大田区矢口に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、新田義興公と近習の将兵(御家来衆)を祀る神社。
「十寄神社」と書いて「とよせじんじゃ」と読む。
現在は多摩川七福神の毘沙門天を担っている。
神職の常駐はなく「徳持神社」の兼務社となっている。
南朝の忠臣・新田義興という武将
社伝によると、正平十三年/延文三年(1358)に創建とされる。
謀殺された新田義興と、同様に討ち死にした御家来衆を祀る神社として創建された。
南朝の総大将・新田義貞の次男。
南朝の忠臣とされ、無類の勇将として名を馳せた。
南朝の総大将であった父の義貞は、鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となったものの、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立。
後醍醐天皇側について南朝方の武将として戦死した人物であり、その義貞の次男が新田義興。
元服に際して吉野で後醍醐天皇に謁見した際に「誠に武勇が器用である。義貞の家を興すべき人なり」として義興の名を給るほど無類の勇将と伝えられていた。
詳しくは新田義興公を祀り当社の近くに鎮座する「新田神社」の記事をご覧頂きたい。
父の義貞、さらに兄の義顕が戦死した後も、南朝方の中心として、弟の義宗や従兄弟の脇屋義治ら新田一族を率いて鎌倉奪還を目指し、武蔵野合戦など各地を転戦していたとされている。
この事から南朝の忠臣として知られる。
矢口の渡しでの謀殺
新田義興については『太平記』に顛末を記されている。
足利尊氏が没した半年後の正平十三年/延文三年(1358)、義興は好機と捉え鎌倉奪還のため挙兵。
これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、関東管領の畠山国清は、義興の進出を畏れ奸計を用いて殺害しようとする。
新田の元家臣であり足利側に寝返った竹沢右京亮を使い奸計。
江戸遠江守とその甥・江戸下野守が密かに300騎余を率い参加。
竹沢は協力する兵が鎌倉に多数いるので、密かに鎌倉入りするべきだと義興を唆し、これを信じた義興は、少数の側近のみを従え夜明けに多摩川「矢口の渡し」に誘い出された。
竹沢は背後に射手150人を隠し、江戸遠江守や江戸下野守は300騎余を率いて対岸の茂みで待ち伏せをし、更に船頭を買収して舟底に穴を空けさせ、両岸から挟撃する手はずとなった。
義興と家臣が川の中ほどに漕ぎ出したところで、船頭が穴の栓を抜き逃げてしまう。
背後からは射手による矢が飛んできたため、進退窮まった義興ら主従は対岸に泳ぎ着いて江戸遠江守側の敵兵と斬り合いとなり討死。(自刃したとも伝えられる)
こちらは香蝶楼国貞(三代豊国)が、天保十四年(1843)から弘化四年(1847)にかけて制作した『神霊矢口之渡』と云う錦絵。
窮地に立たされた義興とその御家来衆が描かれている。
こうして無類の勇将と讃えられた南朝の忠臣、新田義興は謀殺されてしまう。
この時、義興に従った少数の側近たちも悉く討ち死にしてしまう。
祟りを鎮めるため新田神社と当社の創建
義興を謀殺した江戸遠江守、竹沢右京亮は鎌倉公方の足利基氏のもとへ馳せ参じる。
関東管領の畠山国清に褒賞され、それぞれ数ヶ所の恩賞地を拝受した。
ここから義興の祟りと伝わる出来事が始まる。
驚いた遠江守は引き返すも義興の怨霊が現れて落雷により落馬。
遠江守はその数日後に狂死した。
畠山国清の夢にも義興が現れ、陣地近くの家や仏閣などが落雷により焼失。
こちらは『江戸名所図会』に描かれた矢口古事の様子。
謀殺された義興が現れ、遠江守の祟る様子を描いている。
このように義興の祟りと思われる事態が、謀殺した側の人物に相次ぐ事となった。
さらに謀殺の現場となった矢口付近には夜ごと光り物が現れて人々を悩ますようになる。
そこで、正平十三年/延文三年(1358)、当地の村民たちが墳墓を築き、義興の霊を鎮めるために神としてお祀りし、墳墓の前に創建したのが「新田神社」である。
同様に村民たちが、義興に従った近習の将兵たちの墳墓も築き、社祠を興した。
これが当社であり、当社は義興の御家来衆の霊を鎮めるための御霊信仰の神社である。
その事から当時は「十騎神社」「十騎明神」と称された。
当社に参拝後に新田神社へ参拝すると願い事が叶う伝承
江戸時代になると「新田神社」が、徳川将軍家より篤い庇護を受けるようになる。
徳川将軍家からの庇護、さらには武家諸氏より信仰を受ける神社として発展。
さらには「新田神社」は、更に天才・奇才とも言われる平賀源内とも深い繋がりがあり、お祀りしている新田義興公やその弟の逸話を平賀源内が脚色した脚本『神霊矢口渡』の浄瑠璃や歌舞伎が上演され、江戸庶民からも絶大な人気を誇る事となる。
こうして「新田神社」と共に、御家来衆を祀る当社も、江戸庶民からの崇敬を集めるようになっていく。
江戸時代の史料から見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(矢口村)
十寄明神社
新田明神より三町ばかり西にあり。義興の具せし従者の霊を祀れり。故に十騎明神といふべきを、いつの頃よりか十寄に書来れりと。又云左にあらず、昔徒寄とかきしとぞ、義興の人徒をあつめて祀りしと云義なりと。いづれもたしかなることなし。ことに太平記によれば、従者十三人と云ふ。その人々は世良田右馬助、井弾正忠、大嶋周防守、土肥三郎左衛門、市川五郎、由良兵庫助、同新左門入道信阿、南瀬口六郎、その余り五人の姓名は傳はらずといふ。按に太平記異本に、井弾正を井伊弾正興種とあり、井伊家譜によれば、弾正左衛門直秀と記せり。又異本太平記に市川五郎を五郎右衛門とし、南瀬口六郎が氏を大瀬口とあり、此八人の他に松田興市、宍道孫七、堺壱岐権守、進藤孫六左衛門等四人の姓名を加へ、又十三人といへるをも十二人に作れり。されは普通の本に十三人とあるは字の誤哉。あるひは義興を加へて主従十三人のことなるもしるべからず。是によれば従者は十三人、或十二人なるを十騎と云も疑ふべし。此十三人の人々、義興と同く亡ひしことは己に前に見えたれば略せり。本社二間に九尺、拝殿二間四方、前に鳥居をたて十騎明神の四字を扁せ、本社の後背に古塚あり。これ十三人の印の墳にて、そのさま新田の社の塚に似たり。是も真福寺の持。
矢口村の「十寄明神社」として記されており、この頃には既に「とよせ」の振り仮名が振ってある事からも「十寄」の名でも呼ばれるようになっていたのだろう。
御家来衆について詳しく記載されており、やはり13人とも12人とも描かれている。
元々の社号であった「十騎」は、おおよそ10人といったニュアンスだったのかもしれない。
さらに「新田神社」境内にある、新田義興公の墳墓のように、当社にもよく似た御家来衆の墳墓があると記されている。
別当寺は「新田神社」同様に「真福寺」であった。(現在は廃寺)
江戸時代に描かれた当社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「十騎社」として描かれ、「じっきのやしろ」とふりがなが振ってある。
『新編武蔵風土記稿』には「十寄」と記されていた事からも、江戸時代には「十騎」と「十寄」は併用されていたと見る事ができるだろう。
「十騎」に「十寄」という字が当てられて、いつしか「とよせ」と読むようになったものと思われる。
これが新田義興の御家来衆の墳墓であったと推測できる。
明治維新後の歩み・戦後の再建
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は今も昔も変わらない。
赤円で囲ったのが当社で、橙円で囲ったのが「新田神社」。
当時の地図にも「新田神社」と記してあるように、目印になるような規模の大きな神社だった事が分かる。
周囲は田畑が多いが「新田神社」と当社前は開けた地域であった事からも、この一帯を中心に発展した地域なのが伝わる。
昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿を焼失。
昭和二十八年(1953)、木造の旧社殿が再建。
昭和五十五年(1988)、旧社殿の老朽化によって新たに社殿が造営。
これが現在の社殿である。
平成二十六年(2014)には、多摩川七福神が開始。
当社は毘沙門天を担っている。
現在は神職の常駐はなく「徳持神社」の兼務社となっている。
境内案内
社頭に置かれた古い社号碑
最寄駅の武蔵新田駅から多少歩いた距離で、駅から商店街を抜けた先の「新田神社」からほど近い住宅街に鎮座。
右手はセブンイレブン、参道は駐車場となった一画。
社号碑は上述した通り江戸時代後期の古いもの。
享和二年(1802)の文字と「是より本社 江 二丁」の文字を見る事ができる。
参道の一画は月極駐車場となっている。
境内が狭いため参道まで駐車した車がはみ出してしまっているのは残念であるが、昨今の事情から致し方ない事だろうか。
朱色の社殿と江戸後期の狛犬
鳥居を潜ってすぐ左手に手水石。
使用する事はできないが、歴史と崇敬を感じる。
社殿は昭和五十五年(1988)に造られたもの。
造りとしては現在の本務社である「徳持神社」の社殿と大変似ているのが興味深い。
戦時中に消失した社殿を、昭和二十八年(1953)に木造にて再建されたが、昭和五十五年(1988)に鉄筋コンクリート造によって新たに造営された。
狛犬は2対あり、特に社殿入口にある小さな狛犬がとても良い形。
享保三年(1803)に奉納された狛犬。
細かい造形を見る事ができる。
社殿裏は御家来衆の墳墓「十騎塚」
社殿の裏手は今も不思議なスペースができている。
住宅街に挟まれた大変狭い一画ながら、社殿の奥に青々と茂った木々を見る事ができる。
立ち入る事ができないのだが、『江戸名所図会』を見るに、ここが御家来衆の墳墓「十騎塚」であったのだろう。
鳥居を潜ってすぐ左手には「十騎神社」の小さな社。
扁額には「十騎神社」と記されていて、旧社名を残しているのが興味深く、御家来衆を祀っているのだろう。
多摩川七福神巡りの毘沙門天・神社の御朱印は徳持神社にて
平成二十六年(2014)、町おこしの一環で当社を中心とした「多摩川七福神巡り」が開始。
矢口・下丸子地域は、1358年(正平13年)、新田義興が多摩川の矢口渡で謀殺されたという伝説に関連する様々な逸話や史跡が残っている地域です。
2014年、この地域に『多摩川七福神』が設置され、新しい歴史が始まります。
多摩川七福神は、この地で暮らす人々や、この地域を訪れる人々の”心のよりどころ”として、未来への希望と生きる力を与えてくれる神様達です。
この機会に「多摩川七福神パワースポット巡り!」で、ご自身やご家族の福運祈願を行いながら、先人たちの思いや数々の歴史の証(地域資源)との出会いをお楽しみください。(頒布の資料より)
七福神巡りの色紙の頒布(1,000円)は「新田神社」のみで行われる。
色紙は通年販売しており、一年を通して巡ることができる七福神巡りとなっている。
「多摩川七福神巡り」については、筆者が平成三十年(2018)に巡拝した記事があるので、下記を参照して頂きたい。
当社は多摩川七福神の毘沙門天を担っている。
社殿内部には多摩川七福神の毘沙門天が置かれていた。
境内右手に社務所があるのだが、世話人の民家となっている。
各種対応などは本務社の「徳持神社」で行っているため、御朱印も「徳持神社」にて頂く事ができる。
所感
新田義興の御家来衆を祀っている当社。
かつては十騎塚とも呼ばれた墳墓があり「新田神社」と共に崇敬された事が記されている。
今も社殿の裏手はそうした空気が残っており、今も地域の人々から大切にされているのが伝わる。
平賀源内が脚色した脚本『神霊矢口渡』の浄瑠璃や歌舞伎が上演されて以降、江戸庶民から絶大な人気を誇った新田義興とその御家来衆を祀った当社は、そうした江戸庶民からの巡拝ルートに組み込まれており、今で言う聖地巡礼的な意味合いもあったのだと思う。
現在は参道脇は月極駐車場になっており、大変小さな神社ではあるが、当社を参拝してから「新田神社」へお詣りすると願い事が叶う、といった言い伝えが残っているように「新田神社」と共に参詣したい神社である。
神社画像
[ 社頭・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 鳥居 ]
[ 手水石 ]
[ 狛犬 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 社務所 ]
[ 倉庫 ]
[ 社殿裏 ]
[ 十騎神社 ]
[ 案内板 ]
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