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概要
上野毛鎮守のお稲荷様
東京都世田谷区上野毛に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧上野毛村の鎮守のうちの一社。
かつては「野毛六所神社」と共に上野毛村の鎮守を担い、現在は上野毛全域の鎮守。
上野毛通りの稲荷坂の途中に崖を切り崩して鎮座しているのが特徴。
正式名称は「稲荷神社」であるが、他との区別から「上野毛稲荷神社」とさせて頂く。
現在は神職の常駐がなく「玉川神社」の兼務社となっている。
神社情報
上野毛稲荷神社(かみのげいなりじんじゃ)
御祭神:倉稲魂神
社格等:─
例大祭:10月10日前後の土・日曜
所在地:東京都世田谷区上野毛3-22-2
最寄駅:上野毛駅
公式サイト:https://www.facebook.com/kaminogeinarijinjya.festival/
御由緒
大井町線の上野毛駅のそばで氏子は上野毛全域で、境内より玉川が良く見え隣接地には、五島美術館がある。(頒布の世田谷神社マップより)
歴史考察
野毛村の歴史・上野毛と下野毛の分村
社伝によると、創建年代や由緒は不詳。
当社に隣接する「五島美術館」には稲荷丸古墳、当社の南東には上野毛稲荷塚古墳、更に南東の玉川野毛町公園内には野毛大塚古墳と云う古墳があるように、古代から人の定住があった。
これら広い範囲を「野毛古墳群」と呼び、国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる古墳群となっている。多くが古墳時代中期に造られたものとされる。
古代の古墳が多く見つかる当地周辺であるが、開墾されたのは中世以降。
広い地域が開墾し「野毛村」として成立し、村落としての体裁が整う。
地名由来は古代語で「のげ」が「崖」を意味する言葉。
当地が国分寺崖線にある事から「野毛」と呼ばれていた。
江戸時代に入ると野毛村は、上野毛村・下野毛村に分村。
元来の野毛村の鎮守は「野毛六所神社」。
分村後も両村の鎮守として両村の境界線に鎮座していたが、当社も上野毛村の鎮守の一社とされた。
上野毛村の名主であった田中家・邸内社だった当社
上野毛村が成立すると、村の名主として知られたのが田中家。
当社はこの田中家の氏神・邸内社としての立ち位置であった。
田中家は、世田谷城主・吉良氏の家臣であった田中筑後という人物の家系。
天正十八年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐によって、配下にあった世田谷城主・吉良氏も衰亡する事となり、家臣であった田中家は当地に帰農したと見られる。
その末裔が土着し上野毛の名主となった。
現在の「上野毛自然公園」の他、当社に隣接する「五島美術館」など、当時はこの一帯は殆どが田中家の所有していた土地であり、当社も田中家の屋敷に置かれた邸内社であった。
いつしか上野毛村の鎮守となり、田中家のみならず村民からも崇敬を集めるようになったと云う。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(上野毛村)
稲荷社
除地一畝歩。字橋際の上にあり。上屋二間に九尺。東向なり。中に三尺四方の祠あり。此村の鎮守は下野毛村六所明神なり。されど此社をも鎮守といひて隔年に祭事あり。祭日は九月十二日と定む。
鳥居。両柱の間七尺。
上野毛村の「稲荷社」と書かれているのが当社。
「此村の鎮守は下野毛村六所明神なり。されど此社をも鎮守といひて隔年に祭事あり。」と記されているように上野毛村の鎮守は、下野毛村(村の境界線付近)に鎮座していた「野毛六所神社」であるが、当社も上野毛村の鎮守とされていたと云う。
「野毛六所神社」は上野毛村・下野毛村の両村の鎮守であり、祭礼も1年ごと交互に行っていたと伝わっている。
一方で当社の記述には「隔年に祭事あり」とあるように、こちらも1年おきにあった事から、上野毛村が「野毛六所神社」の祭礼を受け持ったなかった年に、当社の祭礼が行われたと推測できる。
明治以降の歩み・上野毛全域の鎮守
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治二十二年(1889)、 市制町村制の施行に伴い、等々力村・用賀村・瀬田村・上野毛村・下野毛村・野良田村・奥沢村・尾山村の8ヶ村が合併して玉川村が成立。
当社は玉川村上野毛の鎮守として崇敬を集めた。
明治三十一年(1898)、上野毛・下野毛どちらの鎮守でもあった「野毛六所神社」が、下野毛側(現・野毛2丁目)に遷座。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが現在の鎮座地であるが、当時の古地図には神社の地図記号を見る事ができない。
一方で上野毛周辺には橙円で囲ったように、今はなき場所に神社の地図記号を見る事ができ、おそらく明治の合祀政策によってこの前後に当社など周辺の鎮守に合祀されて消滅したのであろう。
玉川村、上野毛といった地名を見ることもできる。
昭和二十九年(1954)、現在の社殿を造営。
これが修復されつつ現存している。
その後も境内整備が進み、上野毛全域の氏神として現在に至る。
境内案内
上野毛通り・急勾配な稲荷坂の途中に鎮座
最寄駅の上野毛駅から程近い上野毛通り沿いに鎮座。
稲荷坂と呼ばれる急勾配な坂の途中に境内が設けられている。
崖を切り崩して平地にして境内を設けたのが伝わる場所。
境内から坂下を見てもかなりの急勾配になっているのが分かる。
村民の協力によって崖を切り崩して当社が整備された。
上野毛通りを挟んで向かい側は「上野毛自然公園」で、かつて当社が田中家の邸内社だったように、この公園は明治期に「桜楓園」と呼ばれた田中家が所有する庭園であった。
当社の北側には「五島美術館」があり、その一帯が古くは「筑後丸」と呼ばれていた。
これは上野毛の名主・田中家の遠祖・田中筑後の館に由来する。
五島美術館は、東急の創始者・五島氏の美術館で、明治時代に邸宅も近くに構えていた。
国宝『源氏物語絵巻』を所蔵する事で知られ、国宝5件、重要文化財50件を含む約5,000件を所蔵する。
鳥居と常夜灯・簡素な境内
鳥居は平成二十七年(2015)に建て替えられたもの。
鳥居を潜って両脇には一対の常夜灯。
奉納年は分からないが「戦勝祈願」の銘。
戦前のものであろう。
緑の屋根が特徴的な神明造社殿
拝殿は緑の屋根が特徴的。
令和になってから屋根の葺き替えが行われた様子。
稲荷信仰の神社では珍しい神明造。
昭和二十九年(1954)に再建された社殿。
幾度も改修整備が行われていて現存。
崖を切り崩した境内・境内社の北野神社
村民の協力によって崖を切り崩して設けられた境内。
社殿の裏手にはその崖の痕跡を見る事ができる。
こうした境内整備からも地域の人々からの崇敬が伝わる。
「野毛」の地名由来は古代語で「崖」を意味する言葉で、当地が国分寺崖線にある事から「野毛」と呼ばれていた。
野毛村が分村の際に、崖上が上野毛・崖下が下野毛となる。
崖を切り崩した地にある当社は、まさに上野毛らしい鎮守と云えるだろう。
境内社は社殿の右手に北野神社。
「北野神社」と記された石碑は、明治三十五年(1902)の菅公千年祭記念に際した記念碑。
その隣に小祠があり、これが北野神社の扱いになるのだろう。
御朱印は玉川神社にて
当社の境内には社務所も用意。
普段は無人で神職の常駐がないため、こちらで御朱印などの対応は行っていない。
所感
上野毛一帯の鎮守である当社。
かつては上野毛村・下野毛村の両村の鎮守として「野毛六所神社」があり、当社は名主であった田中家の邸内社という位置付けであった。
上野毛は田中家の影響も強く、いつしか上野毛村のみの鎮守として当社も崇敬を集めるようになり、明治になって「野毛六所神社」が下野毛(現・野毛)に遷座し、下野毛のみの鎮守となったため、上野毛の氏神は当社となっていく。
当社の周辺は、かつて名主であった田中家、明治以降は東急の創設者・五島氏など、有力者が住んだ地域であり、庶民はもう少し駅側や稲荷坂下に住んでいたようで、そうしたこともあるのか、少し閑散とした印象を受けてしまう。
境内は簡素で手水舎や神狐像なども置かれていないのも、そうした印象を強めるのだろう。
しかしながら、崖を切り崩して整備された境内、建て替えられた鳥居や修復された社殿など、上野毛の鎮守として、今も地域からの崇敬を集めている事が伝わる神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円
「玉川神社」社務所にて。
※神職の常駐がない兼務社のため本務社「玉川神社」にて御朱印を頂ける。
参拝情報
参拝日:2020/08/10(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2018/04/20(御朱印拝受)
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