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概要
黄金町一帯の鎮守・横浜の大国主さま
神奈川県横浜市中区日ノ出町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、日ノ出町・初音町・黄金町・赤門町・英町・東ヶ丘町の鎮守。
かつては「人不入斗宮(いといれずのみや)」とも称されたと云うが、現在は「子神社(ねのじんじゃ)」と読み、子年(ねどし)でお馴染みの「ねずみ」を由来とする社号を有する。
大国主命を祀り「横浜の大国主さま」とも称され崇敬を集め、縁結びの神としても知られる。
現在は「伊勢山皇大神宮」の兼務社となっている。
神社情報
子神社(ねのじんじゃ)
御祭神:大国主命
社格等:村社
例大祭:8月21日
所在地:神奈川県横浜市中区日ノ出町2-132
最寄駅:日ノ出町駅
公式サイト:─
御由緒
創建は遠く推古天皇の時代(西暦600年頃)と伝えられる。中世の頃より赤門の東福寺が別当(兼務)として管理して来た。神社の古事や伝記は、たびたびの火災や内戦のため焼失霧散してしまい、その間の事ははっきりしていない。この地域に伝わっている事には、この神社は昔、里鎮守とか不入斗宮と稱していた。文禄三年の時、松平越前守が、神社の霊地保護の為、御本社の四隅に禁制札を掲げ、人の入場を禁じた。享保八年には神社境内地を、東西四十三間(約78m)南北九間(約17m)と改められた。慶応元年(1865年)には、当時の太田村に原村、西中村、上太田地区に祀られていた諸々の神社を合わせて祀ることとなった。明治六年(1873年)七月村社に列せられる。(神祇院)大正四年(1915年)九月境内を拡張し諸般の設備を完成した。大正五年(1916年)十月十三日神饌幣帛料供進社となった。戦後は神社本庁に属す宗教法人となる。 (境内の掲示より)
歴史考察
推古天皇御代に創建と伝わる古社
社伝によると、推古天皇御代(593年-628年)に創建と伝わる。
寛元年間(1243年-1247年)、当社から近い「東福寺」が明治まで別当を担ったと云う。
神奈川県横浜市西区赤門町にある高野山真言宗の仏教寺院。
寛元年間(1243年-1247年)に創建され、後嵯峨院の勅願所だったと伝えられる。
江戸城を築城した事で知られる武将・太田道灌が中興したと云う。
近郷に24の末寺を擁する中本寺格の寺院であった。
朱塗りの山門である「赤門」が知られ、「赤門町」の町名は東福寺の山門が由来。
古くは特別な社号があった訳でなく「里鎮守」と称され、地域の鎮守として信仰された。
古くから当地周辺を「子の森(ねのもり)」とも称したようで、大国主命を祀る神社であった。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、武力交渉の末に、天津神に国土を献上した事から「国譲りの神」とも呼ばれる。
国津神(天孫降臨以前より国土を治めていた土着の神)の最高神ともされ、古くから「出雲大社」の御祭神として知られる。
民間信仰によって「大国」が「だいこく」と読める事から、七福神でもある「大黒天(大黒様)」と習合していった。
人不入斗宮と称される・疫病神の伝承
天正三年(1575)、兵火に罹り社殿などを焼失。
天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
これにより江戸が発展していく事となるが、黒船来航・開港する以前の横浜は、長らく横浜村と云う寂れた漁村であり、周辺の村々も寒村(貧しく寂れた村)であった。
当社近くは太田村と云う村の一画で、当社はその一部の鎮守とされた。
文禄三年(1594)、松平越前守が霊地保護のため本社の四隅に禁制札を掲げる。
この事から「人不入斗宮(ひといれずのみや)」と称された。
禁令・法規などを箇条書きに記して、寺社の境内などに立てた札。
当社の霊地保護のため人の立ち入りを禁止にしたようで「人不入斗宮」と称された。
当時の当社は今より150mほど大岡川の川辺にあり、土手に松がなびき樹木鬱蒼たる社叢であったと云う。
戦前の『神奈川県神社写真帖』に記された当社の御由緒によると、古くから当地近くの人々が疫病神を追い出すには「子の森」と称された当社へ疫病神を捨ててくるのが常であったと云う。
そのため不用意に当社へ近づくと、当社へ封じ込められた疫病神に取り憑かれると恐れられていたと伝わっていて、こうした伝承からも「人不入斗宮(ひといれずのみや)」と称された。
文政八年(1825)、火災によって社殿などを焼失。
この祭の火災によって古記なども焼失してしまったと云う。
開港により急速な発展を遂げた横浜
安政五年(1858)、江戸幕府がアメリカ合衆国と日米修好通商条約(安政五カ国条約)を締結。
これにより神奈川の開港が定められたものの、幕府は国防の面から東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け、対岸の寂れた漁村であった横浜村に開港場を新設することを決定。
東海道五十三次の3番目の宿場。
現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近。
近くには神奈川湊(かながわみなと)と呼ばれる港があった。
安政六年(1859)、横浜港が開港され貿易を開始。
横浜絵の第一人者と呼ばれた歌川貞秀の作品。
多くの外国の商船が往来している横浜を描いている。
古くは寂れた漁村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展していく。
江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式。
横浜港、商館風建物、異国人の風俗などが描かれているのが特徴。
古くは寂れた漁村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展。
外国人居留地が形成され、我が国最初の洋風の近代都市計画が導入。
横浜港が開港した事で、横浜周辺も急速に発展。
明治になると当地周辺も発展して町屋が立ち並ぶようになる。
慶応元年(1865)、周辺諸村の神社を当社へ合祀。
明治以降の歩み・子神社の由来は神使のねずみ
明治になり神仏分離。
明治二年(1869)、黄金町(こがねちょう)が成立。
明治四年(1871)、日ノ出町が成立。(良い意味の言葉から創作された瑞祥地名)
明治六年(1873)、村社に列し「子神社(ねのじんじゃ)」と称した。
他にも初音町・赤門町なども成立し、当社は日ノ出町・初音町・黄金町・赤門町・英町・東ヶ丘町といった一帯の鎮守を担った。
当社の御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。
大国主命は神話でねずみに救われた伝説から、神使が「ねずみ」とされている。
そのため古くから当地が「子の森(ねのもり)」と称されていた他、60日に1度回ってくる甲子(きのえね)の日に「甲子大黒」「甲子祭」と呼ばれた祭事を行っており、「子の神様」と俗に呼ばれ、神社の名称も「子神社」となった。
大国主命は、民間信仰によって「大国」が「だいこく」と読める事から、七福神でもある「大黒天(大黒様)」と習合。
そのため、古くは疫病神に取り憑かれると恐れられた当社も、町が発展し瑞祥地名の「日ノ出町」と改められた事で、縁起のよい大黒様として信仰を集めるようになった。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が現在の鎮座地。
橙円で囲ったのが創建当時からの鎮座地で、当時は今よりも大岡川沿いに鎮座していた。
黄金橋の近くに鎮座していた、土手に松がなびく鬱蒼とした樹木に囲まれた神社であったと云う。
日ノ出町の地名も見る事ができ、当社はこれら一帯の鎮守とされた。
大正四年(1915)、境内を拡張して境内整備を行う。
大正五年(1916)、神饌幣帛料供進社に指定。
関東大震災後の再建と遷座・戦後の黄金町
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社を含め、日ノ出町・黄金町周辺は壊滅的な被害を受け死者も多数発生。
関東大震災の壊滅的な被害によって、復興にあたり道路網整備と土地区画整理事業が行われ、日ノ出町・黄金町・初音町など周辺の町並みはガラっと変化していく事となった。
当社もかつて「陣屋の原」と呼ばれた原っぱだった現在地へ遷座する形で再建された。
やや黒く潰れてしまっているものの、戦前の当社の様子が写真で残る。
関東大震災後に現在地へ遷座して再建された当社の様子。
既に現在の境内とかなり近く、拝殿も当時のものが改修されているのが窺える。
昭和二十年(1945)、横浜大空襲によって黄金町一帯は多大な被害を受ける。
当社の境内も一部被災したと云う。
戦後の黄金町はいわゆる「ちょんの間」が現れ、関東屈指の「青線地帯」(日本で売春防止法施行以前に非合法で売春が行われていた地域の俗称)となっていく。
日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸にはバラック群がずらりと建ち並び「大岡川スラム」と呼ばれた他、ヒロポンやヘロインといった麻薬密売の温床でもあった。
平成になってからも風俗街としての様相は残り、特に外国人風俗街として発展。
平成中期になると黄金町周辺の環境改善運動が活発になる。
平成十六年(2005)から「バイバイ作戦」と名づけられた警察による集中的な摘発が行われ、その後も県警による監視が行われた結果、風俗店が全店閉店。
現在はアートを生かした新しいまちづくりを目指し、若者向けのオシャレな街へと変貌を遂げている。
戦後になり当社も境内整備が進み現在に至る。
現在は横浜総鎮守である「伊勢山皇大神宮」の兼務社となっている。
境内案内
日ノ出町の一画に鎮座する子神社
最寄駅の日ノ出町駅から南へ徒歩数分の距離に鎮座。
平戸桜木道路(県道218号)から1つ路地に入った場所に鎮座。
昭和四年(1929)に建立された鳥居を、昭和三十三年(1958)に復元した鳥居。
鳥居の左手前にはかつて使われていた「子神社(ねのじんじゃ)」の扁額が残る。
鳥居を潜るとまっすぐ参道。
参道の右手に小さな公園。
当社に由来する「子の前公園」と名付けられた公園。
参道を進むと石段。
石段を上り、すぐ左手に手水舎。
古い水盤の簡素な構成。
しかし水道から水が出るようになっていて身を清める事ができるのが有り難い。
社殿・彫刻が施された拝殿
参道の正面に社殿。
関東大震災後に現在地へ遷座し再建された当社。
当時の拝殿の一部が修されつつ現存している。
拝殿には龍の彫刻。
木鼻の獅子の躍動感もよく、氏子崇敬者によって再建に関する思いが伝わる。
本殿は新しく再建されたもので拝殿と年代の違いがよく分かる。
猿田彦命の石像・名木古木のクスノキなど
拝殿前に一対の狛犬。
デザインとしてはよくある岡崎現代型の狛犬。
昭和三年(1928)奉納で戦前のものが現存。
拝殿前左手に猿田彦命の石像。
平成二十三年(2011)に再建された新しい石像であるが、戦前の『神奈川県神社写真帖』によると当社では古くから道祖神を境内社として祀っていたため、猿田彦命を祀る石像として再建された。
『古事記』『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する神。
天孫降臨の際、天照大神(あまてらすおおみかみ)に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した神であるため、「導きの神」とされる。
国土の神・道案内の守神であり、中世には庚申信仰や道祖神(どうそじん)と結びつき、民間信仰としても広く信仰を集めた。
参道途中に立派なクスノキ。
昭和四十八年(1973)に横浜市より名木古木に指定。
縁結びの御朱印・御朱印は伊勢山皇大神宮にて
境内の左手には社務所も用意。
但し御朱印などは本務社である「伊勢山皇大神宮」の社務所にて対応している。
通常の御朱印は「子之神社之印」の朱印に、「横濱の大国主さま」の印判。
墨書きで「縁結び 子神社」と記されているのが特徴的。
こちらは令和二年(2020)の御朱印で子年と社号の「子神社」の繋がりから特別仕様。
御祭神の大国主命は「出雲大社」の御祭神としても知られる。
「出雲大社」は古くから全国的な崇敬を集め、縁結びの神様としても信仰を集める。
そのため同じ大国主命を祀る当社も、現在は「良縁結びの神」として信仰される。
その他、商売繁盛の神・旅行の神・医薬の神・病気平癒の神としての御神徳があると云う。
所感
日ノ出町・初音町・黄金町・赤門町・英町・東ヶ丘町の鎮守とされる当社。
古くは疫病神を当社へ捨てたといった伝承が残っており、当社へ近づくと封じ込められた疫病神が取り憑かれるなんて云われ恐れられた神社であったと云う。
その後、横浜開港によって一帯が発展、日ノ出町や黄金町といった町が出来た事で、当社は福の神である大黒様と習合して縁起の良い神社として信仰を集めた。
特に黄金町は戦後の変遷がとても激しく、スラム化した町、麻薬街、風俗街と関東でも有数の治安の悪い地域として知られていた時代が長く続いた。
現在はそうした姿が一新され、健全で明るい街となっていて、当社はそうした一帯の鎮守として時代の変遷を見守ってきたと云えるだろう。
また、神使である「ねずみ」に由来する「子神社(ねのじんじゃ)」と云う社号のため、子年である令和二年(2020)にはぜひ参拝したい一社だと思う。
日ノ出町や黄金町などの歴史を伝える良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円以上
「伊勢山皇大神宮」社務所にて
※本務社である「伊勢山皇大神宮」にて御朱印を頂ける。
参拝情報
参拝日:2020/09/02(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2019/12/28(御朱印拝受)
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