寒川神社 / 神奈川県高座郡

高座郡

神社情報

寒川神社(さむかわじんじゃ)

御祭神:寒川大明神(寒川比古命・寒川比女命)
社格等:相模国一之宮・延喜式内社(名神大社)・国幣中社・別表神社
例大祭:9月20日
所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916
最寄駅:宮山駅・寒川駅
公式サイト:http://samukawajinjya.jp/

御由緒

相模國を始め、関八洲総鎮護の神として古くから朝野の信仰が殊のほか篤く、およそ千六百年前、雄略天皇の御代に奉幣のことが記されており、以後、御歴代の奉幣、勅祭が行われたとあります。醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模國唯一の名神大社と定められました。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2019/10/09(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/11/04(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2016/01/11(御朱印拝受)
参拝日:2015/07/15(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:志納
社務所/客殿にて。

※祭事などに応じて限定御朱印を用意する事あり。
※2016年秋よりカラフルな御朱印に変更。
※以前は頂けた「八方除」の御朱印は現在はやられていない。

[2019/10/09拝受]
(奉祝天皇陛下御即位/銅)

[2019/10/09拝受]
(通常)

[2016/11/04拝受]
(通常)

[2016/11/04拝受]
(八方除/旧)

[2016/01/11拝受]
(旧御朱印)

[2015/07/15拝受]
(旧御朱印)

御朱印帳

初穂料:1,500円(2016年購入時は1,300円だったが2019年参拝時は1,500円に変更)
売店にて。

オリジナルの御朱印帳を複数用意。
黒を基調とし、渾天儀と北斗七星を描いたもの。
裏には方位盤がデザインされている。
防水カバーも付けて下さる。
御朱印をお受けする客殿/社務所や頒布品の置いてある授与所ではなく売店にて販売。

[ 表面 ]
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[ 裏面 ]
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[ 御朱印帳一覧 ]

授与品・頒布品

八方除 中式 授与品
初穂料:3,000円以上
御祈祷後に社殿内にて。

※八方除など御祈祷をお願いした際に頂ける授与品。

交通安全ステッカー
初穂料:300円
御祈祷待合室/人形奉斎殿前にて。

授与所ではなく御祈祷待合室や人形奉斎殿の前などにセルフ式で置かれている。

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歴史考察

相模国一之宮・八方除の守護神

神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する神社。
相模国の一之宮、延喜式内社であり相模国唯一の名神大社。
旧社格では国幣中社、現在は神社本庁の別表神社となっている。
八方除の守護神と知られる大社で、神奈川県を代表する神社。
日本で最も昇殿祈祷者が多い神社としても知られる。

古代より土着の神を祀った古社・相武国造の宗社

創建年代は不詳。
極めて古い歴史を持つ古社として知られている。

古代より土着の神として祀られていたものと推測されている。

古代の相模川流域を支配した相武国造の宗社・氏神として造営されたと推定される。

相武国造(さがむのくにのみやつこ)
相模国(さがみのくに)東部の地域を支配した国造(地方を治めた官職)。
相模国の古代の中心地は、中央の相模川流域の平野部の「相武国(さがむのくに)」、西の酒匂川の流域の「師長国(しながのくに)」、三浦半島の西脚部にある「鎌倉別(かまくらわけ)」の三つの地域があった。
政治圏も別で、相武国造・師長国造・鎌倉別がそれぞれ支配。
このうち相武国造が最も勢力があったとされている。
高座郡(現在の海老名市付近)には、相模国の国府が置かれていて、海老名市国分付近に相模国分寺があった。当社は国府から10km圏内にあり、相模国一之宮としての格式を持っている。

相武国造の宗社として創建され、古代の国造や土着の豪族によって崇敬を集めた。

古代より朝廷に知られた大社

雄略天皇御代(457年-479年)、朝廷より幣帛の奉勅があったと云う。
神亀四年(727)、社殿建立の記録が残る。
承和十三年(846年)、『続日本後紀』によると仁明天皇から従五位下を賜っている。

続日本後紀(しょくにほんこうき)
日本の正史とされる六国史(りっこくし)の第四にあたる歴史書。
平安時代に編纂され、天長十年(833)から嘉祥三年(850)までの18年間を扱う。

このように周辺を支配した相武国造だけでなく、古くから朝廷にも知られた大社であった。

相模国唯一の名神大社に列する・相模国一之宮

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』には「相模国高座郡 寒川神社」と記載。
これにより当社は延喜式内社(式内社)とされる。

延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。
相模国には計13社の式内社があり、そのため「式内十三座」とも「延喜式内相模十三社」とも称される。

相模国の式内社のうち、当社は相模国唯一の国幣大社に列し、特に名神祭に預る名神大社に列した。

名神大社(みょうじんたいしゃ)
日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社。
古代における社格の1つとされ最高位。

いつしか相模国の一之宮とされ崇敬を集めた。

一之宮(いちのみや)
律令国で最も社格の高いとされた神社。
「一の宮」「一宮」とも。

寒川大明神の謎・寒川の語源

当社において興味深いのがその御祭神。
「寒川大明神」と称され信仰を集めている。

寒川大明神(さむかわだいみょうじん)
・寒川比古命(さむかわひこのみこと)
・寒川比女命(さむかわひめのみこと)
2柱を総称して「寒川大明神」とする。

この二柱は『古事記』や『日本書紀』に登場せず、詳細が不明な神。
当地一帯では縄文や弥生時代の遺跡なども発掘されており、相当古い時代から土着の信仰があったのではと推測できる。

江戸時代の史料などを見ると当社の御祭神は「八幡神(応神天皇)」とされている事も多い。史料によってまちまちで、その多くは寒川神とも八幡神ともされている。元々土着の神であった寒川大明神が、鎌倉幕府からの庇護などによって、後に源氏の氏神である八幡神と習合していったものと思われる。

当社の御祭神が現在の「寒川比古命」と「寒川比女命」に定まったのは明治になってからの事。

明治七年(1874)に、教部省が『皇太神宮儀式帳』に載る末社牟瀰神社の祭神が寒川比古命・寒川比女命であるから当社の御祭神も同様であろうという説を出し、明治九年(1876)にこの説を採用した。

御祭神として古くから一定を見なかったのもやはり土着の神であった故に、時代によって変遷が起こったものではないだろうか。

寒川(さむかわ)の語源
寒川の語源については諸説あり、やはり有力な説がない。
民俗学者の柳田国男はサムの古い意味を「清い」という意味で「聖なる水」の意味と記している。

他にも諸説あり、やはり謎の多い土着の神社である。
相模川の治水の神とし、この国の開拓神として崇められてきたのは間違いないと思われる。

国府祭に参加する相模六社のうちの一社

相模国には古くから「国府祭(こうのまち)」と呼ばれる祭礼が続けられている。
相模国の有力な5つの大社を国府に近い「六所神社」に祀り総社とした故事によるもので、国司が国の天下泰平と五穀豊穣を神々に祈願した祭礼。

参加する神社は、相模国の有力な5つの大社と総社の計6社。

国府祭に参加する相模国六社
相模国一之宮「寒川神社」
相模国二之宮「川勾神社
相模国三之宮「比々多神社」
相模国四之宮「前鳥神社
一国一社八幡宮(相模国五之宮格)「平塚八幡宮」
相模国総社「六所神社
川勾神社 / 神奈川県中郡
相模国二之宮。延喜式内社・延喜式内相模十三社の一社。茅葺屋根の随神門と平安時代後期の随神像。磯長国の一之宮。相模国一之宮の席次争いを伝える国府祭。二宮大明神と称される。鎌倉将軍家・徳川将軍家からの崇敬。小田原城の鬼門守護。御朱印。御朱印帳。
前鳥神社 / 神奈川県平塚市
相模国四之宮。延喜式内社。学問・修学・就職の神様。古い地名「さきとり」の氏神とされた古社。大変珍しい菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)を祀る神社。四本の松葉を身につけると幸せになる・幸せの松。神戸神社・奨学神社。御朱印。御朱印帳。
相模国総社六所神社 / 神奈川県中郡
相模国総社。良縁や女性厄禍除の湯津爪櫛御守。出雲の女神・櫛稲田姫命の伝承。一之宮から五之宮までの御祭神を祀る。平安時代より続く相模国府祭。江戸時代の史料に描かれた当社。後北条氏寄進の石垣や本殿。拝殿の注連縄や美しい神池。御朱印。御朱印帳。

毎年5月5日、神揃山(神集山)に六社の神輿が一堂に集う祭り。
約1,200年近くも続けられ、多くの神事が行われる。
中でも祭事の中心は「座問答」と云われる神事。

座問答(ざもんどう)
一之宮「寒川神社」と二之宮「川勾神社」が席次を争い、三之宮「比々多神社」が「いづれ明年まで」と仲裁を入れて終了するといった神事。
古代の相模国は、相武国造・師長国造・鎌倉別と政治圏があり、相武国造の氏神である「寒川神社」と、師長国造の氏神である「川勾神社」が、席次争いしたと云う相模国の歴史を伝える内容。
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/matsuri_event/matsuri/sagamikounomachi.html

当社は一之宮として参加。
古くから一之宮として信仰を集めた事が窺える。

鎌倉幕府からの篤い崇敬・鎌倉幕府の滅亡と共に荒廃

中世に入ると相模国と関わりの深い武将からの崇敬を集めている。

治承三年(1179)、社殿再建の記録が残る。
寿永元年(1182)、源頼朝・北条政子が嫡男の安産祈願をし、嫡男誕生の時には奉幣の使を立て神馬などを奉納。
建久三年(1192)、源頼朝・北条政子が再び安産祈願をしている。

源頼朝と北条政子の子
頼朝・政子夫妻の間には、子は4人(頼家・実朝・大姫・三幡)。
嫡男は鎌倉幕府第二代将軍・頼家で、当社に最初の安産祈願をした時の子。
次男は鎌倉幕府第三代将軍・実朝で、当社に次に安産祈願をした時の子。

このように頼朝・政子夫妻からの崇敬も篤かった。

建久五年(1194)、社殿修理の記録が残る。
建保二年(1214)、鎌倉幕府二代執権・北条義時による奉幣御使。
宝治元年(1247)、「宝治合戦」と呼ばれる鎌倉幕府の内乱があり、その時にも当社へ神馬や御剣の奉納がされている。

鎌倉時代には、鎌倉将軍家・そして執権北条氏など、鎌倉幕府の有力者から相模国の一之宮として篤い崇敬を集めた。

鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国一之宮とされたことが分かる。

しかし、その後の記録が途絶える事となる。

これは後醍醐天皇の討幕運動で、足利尊氏・新田義貞らにより鎌倉幕府と北条氏一門が滅亡した影響を強く受けたのだろう。

この時の戦乱の影響を受け戦火に巻き込まれたと見られており、当社は長らく荒廃した状態が続く。

関東に勢力を有した後北条氏による再興

再興となるのは、後北条氏が相模国を平定した後となる。

後北条氏(ごほうじょうし)
関東の戦国大名の氏族。
室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる北条早雲の名で知られる伊勢盛時を祖とする。
鎌倉幕府執権の北条氏とは直接の後裔ではないことから、後北条氏として区別される。
小田原城を居城とした事から小田原北条氏とも呼ばれる。

大永二年(1522)、北条氏綱によって社殿が再興される。
この時納められた棟札に「北条」と署名したのが、北条姓を名乗る初見とされている。

北条氏綱(ほうじょううじつな)
戦国時代の武将、後北条氏第二代当主。
伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵国の半分・下総国の一部そして駿河国の半分にまで拡大させ、後北条氏の隆盛時代を作った。
「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。
氏綱は当社の他にも「箱根三所大権現(現・箱根神社)」相模国総社「相模六所宮(現・六所神社)」「伊豆山権現(現・伊豆山神社)」を再建したり寺社造営事業を盛んに行っている。

いずれも鎌倉幕府の滅亡と共に荒廃した寺社で、再建復興をする際に氏綱は「相州太守」を名乗った事で、内外に相模国の支配者としての立場を示したと云える。

天文十五年(1546)、氏綱の嫡男である北条氏康が社殿を再建。
永禄二年(1559)、後北条氏により社領を寄進されている。

このように戦乱の世で相模国を治めた後北条氏によって、当社は篤く庇護されていく事となる。

武田信玄による参拝・自身の兜と太刀を奉納

戦国時代には武田信玄が行軍中に当社を参拝。
その際に、自身の纏っていた兜と太刀を奉納し除災招福を祈願している。

後北条氏との戦いで、小田原城包囲をした時と思われるので、永禄十一年(1568)の事であろう。
武田信玄(たけだしんげん)
戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名、甲斐武田家第19代当主。
越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる「川中島の戦い」が知られる。
甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した。

信玄が奉納したうち兜は、現在も当社の方徳資料館に「六十二間筋兜鉢」として所蔵されている。
こちらは方徳資料館で展示されている信玄の兜とその復元品。

現在は国指定重要美術品・神奈川県指定重要文化財となっている。
http://www.town.samukawa.kanagawa.jp/chosei/bunkazai/jyuuyou/kanagawaken_shitei/1361327963084.html

徳川家康から100石の朱印地を賜る

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡。
同年、徳川家康が関東への領地替え(関東移封)によって江戸入り。

天正十九年(1591)、徳川家康から100石の朱印地を賜る。

朱印地(しゅいんち)
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。
徳川将軍家より朱印地を賜った神社は数多くあれど、100石以上賜った神社は数少ない。

100石というのは相当なものであり、相模国一之宮へ対する崇敬の現れと云えるだろう。
このように江戸時代には徳川将軍家からの庇護も篤く、その後も社殿の造営などがされている。

新編相模国風土記稿に記された当社

天保年間(1830年-1844年)に編纂された『新編相模国風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(宮前村)
寒川(左牟加波)神社
社地二萬千四百五十九坪なり。幣殿拝殿あり。神名帳に載る所、當國の大社にして、今も一宮と號す。(中略)社傅に祭神は、應神天皇なり。鎮座の年代は貞観十一年十一月十九日と云へと、是神位を授けられし年月を誤りしなり。(中略)承和十三年九月從五位下を授をる。(中略)寿永元年八月、頼朝の嫡男誕生の時、當社へも奉幣の使を立てれ、神馬以下寄納せらる。(中略)其後建久三年八月、右府誕生の時も例によりて奉幣あり。(中略)同五年十一月、社頭修理の事あり。(中略)健保二年十月にも奉幣使を立てる。(中略)寶治元年八月、怪異によりて使を立てれ、奉納等の事あり。(中略)其後大永二年九月、北條氏氏綱願主として社頭再興あり。(中略)天文十五年三月、左京太夫氏康も再興せり。(中略)其頃北條氏より社領として二十七貫文の地を寄附せらる。(中略)御入國の後、天正十九年十一月、社領百石の御朱印を下さる。例祭五月五日。當國諸折に散在せる五社(中略)の神輿を淘綾郡國府六所宮社地神揃山に集會し、神事あり。
神寶。兜一頭。武田信玄着領の物と云ふ。鉢乃鉢附板の三存し、餘は損失す。總て、黒漆鉢の内に天照太神宮、八幡大菩薩、春日大明神と三行に掘り、三月とあり。其餘に般若心經全部を彫れり。
本地堂。護摩堂。供所。
鐘樓。文化十一年再鋳の金を掛く。
隨神門。
末社。稲荷。山王。日月天。辨天二。
別當薬王寺。

詳細説明部分などは大変長くなるため中略とさせて頂いた。

高座郡の宮前村に鎮座していた「寒川(左牟加波)神社」が当社。
式内社としての記述や一之宮としての記述、上述したような中世の歴史などが記されている。
現存する武田信玄の兜も神宝として記されている。
本地堂や護摩堂などから神仏習合の様子を見て取れ、別当寺は「薬王寺」(現・廃寺)であった。

注目すべしは「祭神は應神天皇なり」の部分。
こちらには八幡神として信仰された応神天皇(誉田別命)が御祭神と記してある。
一部では当社を八幡信仰の神社として信仰された事が窺える。

史料によってまちまちで、その多くは寒川神とも八幡神ともされている。鎌倉幕府からの庇護などによって、後に源氏の氏神である八幡神と習合していったものと思われる。

明治以降の歩み・国幣中社に列する・別表神社

明治になり神仏分離。

別当寺「薬王寺」は廃寺となっている。

明治四年(1871)、国幣中社に列した。
現在も三之鳥居横にある社号碑には「相模國一之宮 国幣中社 寒川神社」の記述が残る。

明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、高座郡一之宮村・中瀬村・岡田村・小谷村・大蔵村・小動村・宮山村・倉見村・田端村・下大曲村・大曲村が合併し、寒川村が成立。

これが現在の高座郡寒川町であり、寒川の地名は当社から取ったものである。

明治二十八年(1895)、本殿を新築造営。
この時の旧殿は高座郡寒川町倉見の「倉見神社」に払い下げられ現存。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当社の鎮座地は今も昔も変わらない。
寒川村の地名、宮山や一之宮の地名など古くからの地名が今も引き継がれているのが分かる。

(全国有名神社御写真帖)

上の写真は大正十一年(1915)に皇国敬神会が発行した『全国有名神社御写真帖』。

「国幣中社寒川神社」として撮影された写真。
茅葺き屋根のように思われ、現在の社殿とは形や規模も違いを見ることができる。
かつての社殿の貴重な写真。

大正十二年(1916)、関東大震災により社殿が破損。
大正十四年(1918)、国費と氏子崇敬者の浄財によって社殿の造営を着工。
昭和七年(1932)、社殿が竣工した。

(神奈川県神社写真帖)

上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。

形は違うものの規模などは現在の社殿に近い姿となっている。
国費と氏子崇敬者の浄財によって竣功したばかりの社殿。
現在の社殿はこの社殿を大改築したものになっている。

戦後になると旧社格制度は廃止。
現在は神社本庁の別表神社となっている。

平成九年(1997)、現在の社殿に大改築が行われた。
現在も八方除の守護神として関東一円から参拝者が集まり、正月の三が日にはのべ40万人が初詣に訪れる。

TV放送の関係者には古くから「視聴率祈願の神社」として知られ、新番組開始前に参拝を行うことが多い他、近年は日本で最も昇殿祈祷者が多い神社としても知られている。

境内案内

境内から1km離れた一之鳥居・二之鳥居

当社の参道は当社境内から南に1kmほど続く。

通常は三之鳥居から参拝する事になるが、一之鳥居は1kmほど南に置かれている。

県道44号線の大門踏切前交差点近く、JR相模線の踏切近くに一之鳥居。
昭和四年(1929)に相模鉄道株式会社によって寄進されたもの。
参道は車道になっていて車両で通る1kmほどの参道。

参道途中には鉄筋コンクリート造による大鳥居(二之鳥居)。
明治五年(1872)に老朽化によって撤去されたものの、氏子崇敬者の浄財によって昭和四十一年(1966)に再建されたもの。
鉄筋コンクリート造りで当時は関東一と呼ばれた大鳥居。
このまま三之鳥居まで車道での長い参道が続く。

三之鳥居と神池橋(太鼓橋)・綺麗な神橋池

参道を進むと、三之鳥居。
この先が境内となっていて、一般的にはこの三之鳥居を潜る事が多いだろう。
平成二年(1990)に建立された三之鳥居。
その手前にあるのが太鼓橋の形をした神池橋。
平成二十三年(2011)に架け直された神池橋。

神池橋は見た目以上に急勾配になっているので渡る際は足元に気をつける事。過去の参拝で何人かこの神池橋で転んでいる方を見かけた事がある。

三之鳥居右手には整備された神池。
参拝者の憩いの場。
境内が美しく整備されている。

三之鳥居の先には綺麗に整備された参道が続く。
一之宮としての大社ならではの広々と整備された参道。

参道途中にも多くの石碑や旧鳥居の柱など色々と置かれている。

美しい神門・正月から節分まで迎春ねぶたを展示

参道を進んだ先、左手に手水舎。
大きな手水舎で大勢が同時に見を清める事ができる。

神門の前に巨大な狛犬。
力強く睨めつける表情。
大社らしい巨大な狛犬となっている。

参道の先に神門。
神門は平成五年(1993)に竣工したもの。
重層の門となっていて、実に重厚感のある造り。
令和元年に参拝した時は「奉祝天皇陛下御即位」の提灯が掛かっていた。

正月から節分まで新春ねぶたを展示
神門では正月から2月の節分まで、神話にちなんだ「迎春ねぶた」が飾られる。
夜にはライトアップもされていて新たな名所となっている。
%e7%a5%9e%e9%96%80こちらは平成二十八年(2016)正月に参拝した時の迎春ねぶた。
迎春ねぶたが開始されたのは、平成十三年(2001)の事。
平成二十四年(2012)まではその年の干支にちなんだ干支ねぶたが飾られていたが、干支が一巡した平成二十五年(2013)からは神話ねぶたが飾られている。

現在の神門が造られるより前の旧神門は南門として移築。
昭和四年(1929)に竣工した門で、現在の神門のようなスケールではないものの当時を偲ぶ事できる。
南門側にも一対の狛犬。
凛々しい体躯の招魂社系狛犬。

スケールの大きな圧巻の社殿

神門の先には広い空間。
実に立派な社殿で、これぞ一之宮の大社と言うべき風格。
大正十四年(1918)に国費と氏子崇敬者の浄財によって社殿の造営を着工し、昭和七年(1932)に竣工した社殿で、平成九年(1997)に大改築され現在の姿となった。
青空が映える美しい社殿。
一之宮としての格式のある良い社殿。

拝殿の右手前に八方除にまつわる渾天儀のモニュメント。
古い渾天儀は当社の方徳資料館(神嶽山神苑内)に展示。
方位除信仰の一端を伝えるモニュメント。

末社の宮山神社・神馬舎や人形奉斎殿など

境内社は参道左手、車道を挟んで宮山神社。
古くより宮山地区にあった7社をまとめて祀っている。
明治の合祀政策の際にまとめられたものが多い。

神門の左手に神馬舎。
本物の馬は置かれていないものの、神様の乗り物である神馬の彫刻が収められている。

南門側の参道に人形奉斎殿。
人形やぬいぐるみを納める場所で、利用される方も多い。

御祈祷を受けた人のみ入れる神嶽山神苑・方徳資料館

社殿左手の西廻廊先には神嶽山神苑(かんたけやましんえん)。
平成二十一年(2009)に開苑した神苑。
池泉回遊式の日本庭園や茶屋や資料館も併設している。

神嶽山神苑は御祈祷を受けた方のみ入れる場所
各種御祈祷・大祓祈願申し込みを人のみ入苑できる形となっている。
御祈祷を受けた際に入苑券を頂く事ができる。
入苑期間
3月上旬-12月13日まで(毎週月曜日は休苑/祝祭日は開苑)
9:00-16:00まで(15:30受付終了)

神苑内には本殿の真裏にある神聖な場所「難波の小池」。(撮影禁止)
更に裏参拝所など参拝できる箇所もあり。
神苑内にある御祖神社。

神苑の中央付近には泉。
八氣の泉と呼ばれる美しい泉。
実に美しく整備された池泉回遊式の日本庭園。
茶屋も設けられていて中でお茶菓子を楽しむ事もできる。

神苑内で更に特筆すべきは方徳資料館と云う資料館があること。
入場は無料で、八方除についての資料を数多く展示。
かつて使われていた古い渾天儀。
武田信玄奉納の兜。
様々な資料など実に素晴らしい一画なので、ぜひ直接ご覧頂きたい。

レイライン・パワースポットとして人気

当社が鎮座する場所はレイラインとも関係していると云われる。

レイライン
古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがあるという仮説の中で、その遺跡群が描く直線を指す。

具体的には当社から見る、日没がこうなる。

当社から見る日没
夏至には丹沢の大山に日が沈む。
春分・秋分には富士山に日が沈む。
冬至には箱根の神山に日が沈む。
大山には「大山阿夫利神社」、富士山には「富士山本宮浅間神社」、神山には「箱根神社」と、それぞれ古くから信仰の対象になった聖地の山であり、そうした聖地と当社が、夏至・冬至・春分・秋分の特別な日に直線状に並ぶ事になる。

こうした太陽との関係は偶然とは思えず、古くから当地が霊地として選ばれ、古来信仰対象の地であった事を窺わせてくれる。
そのため現在ではパワースポットとしても名高い。

こうした当社を含むレイラインを結んだ延長線上には、上総国一之宮「玉前神社」、富士山山頂、七面山、竹生島、「伊勢神宮」内宮が遷座したとされる「元伊勢皇大神宮」、大山の「大神山神社」、「出雲大社」が並ぶ。

上の地図がレイラインを直線状に結んだもの。

正確には位置がズレている箇所もあるものの、当社はこのレイラインに鎮座している。

八方除・日本で最も昇殿祈祷者が多い神社

当社では古くから方位除信仰が盛んであった。

方位除(ほういよけ)
古代中国から伝わる民間信仰の他、日本の陰陽道で信仰されたもの。
魔法陣を起源とした九星から生じたもので、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられた。
どの方向に向かってもすべて不吉の結果を招く事を意味する「八方塞がり」といった言葉も、こうした方位除け信仰に基づく言葉。

中でも当社では八方除と呼ばれる御祈祷で信仰を集めた。
八方除の守護神として現在に至るまで篤く崇敬され続けている。

八方除(はっぽうよけ)
地相・家相・方位・日柄などからくる全ての禍事・災難を取り除き、家業繁栄・福徳円満をもたらす、寒川大明神の全国唯一の御神徳。
方災厄除とも言える、方位除信仰にまつわるもので、境内にも渾天儀などが置かれている。
占星術・陰陽五行・天体信仰といった方位に関する信仰によって多くの崇敬を集める。

朝廷からの崇敬、源頼朝、武田信玄、徳川将軍家などから篤い崇敬を集めた当社。
現在もそうした御神徳を求め、全国各地から八方除の御祈祷を求める人が集まる。

近年は日本では最も昇殿祈祷者が多い神社としても知られている。

八方除など御祈祷をお願いしたい場合は客殿(御祈願受付)にて申込用紙に詳細を書いた上で提出。
その際に神職が相談に乗ってくれた上で御祈願の内容を色々と決めて下さる。
御祈祷が終わると様々な授与品を頂ける上(画像は中式の授与品)、上述した「神嶽山神苑」への入苑する事も可能。

御祈願料によって式階が違い、中式(3,000円以上)・大式(5,000円以上)・当座式(10,000円以上)・一代式(30,000円以上)・永代式(50,000円以上)と分けられ授与品に違いがある。
八方除 | 八方除 寒川神社
八方除についてご案内します。古来唯一、八方除の相模國一之宮 寒川神社公式サイトです。寒川神社は、古くより八方除の守護神として信仰されています。

カラフルになった御朱印・限定御朱印も

御朱印は、客殿もしくは社務所にて。
日によって対応場所が違うので尋ねるのがよいだろう。(どちらでも対応している場合も多い)

初穂料はお気持ちで。基本的には300円以上納めるのが良いだろう。

御朱印は2016年10月中旬よりカラフルなものに変更。
「相模國一之宮寒川神社」の朱印に、八方除の金印、ハマゴウの植物のスタンプが押印。

ハマゴウは、毎年7月の海の日の神輿渡御の祭典「浜降祭」の際に、寒川大明神のしとね(御座)として伝承されている、当社と縁深き植物。

祭事などに応じて稀に限定御朱印を用意する事がある。
上画像は令和元年(2019)5月1日から年末まで授与の「奉祝天皇陛下御即位御朱印」。

過去に頂いた御朱印
御朱印が変更される前に頂いた際の御朱印。
八方除の御朱印は現在はやられていない。

オリジナル御朱印帳は売店にて複数用意

オリジナル御朱印帳は複数用意。
こちらは授与所や客殿では頒布されておらず、境内入ってすぐ右手にある売店にて販売。
他にも駐車場側にある「鎮守の杜Koyo」も1Fが売店、2Fがレストランになっていて販売している。

御朱印帳はかなり豊富に用意されている。
特に方位除信仰にまつわる渾天儀がデザインされた御朱印帳の人気が高い。
img_2428筆者が頂いたのは黒を基調としたものだが白を基調としたものも用意されている。

境内にはこうした売店の他、軽食を食べる場所などもある。
名物の八福餅はあんこで包んだ美味な餅。
お土産にも人気となっている。

所感

相模国一之宮として格式高い当社。
八方除の御神徳や歴史から、当地が古くから霊地として選ばれていた事が推定できる。
謎の多い御祭神も、相模川の治水の神とされ、相模国の開拓神として崇められてきたと思われ、土着の人々により崇敬され続けてきたものであろう。
鎌倉幕府からの崇敬と荒廃、後北条氏の再興、徳川将軍家からの庇護と、相模国や関八州に関わる武将たちからの崇敬を集め、一之宮としての歴史を感じる事ができる。
境内にある建物などの多くは明治以後・戦後に造られたものが大半であるが、それらも崇敬者達の浄財によるものであり、多くの崇敬者によって支えられているのが伝わる。
私事としては、当社に毎年参拝しているのだが、その度に快晴となるのが嬉しい。
一之宮らしい格式のある大社で、一之宮の中でも実に良い一社である。

神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]


[ 二之鳥居(大鳥居) ]


[ 参道 ]

[ 神池橋・三之鳥居・社号碑 ]








[ 神池 ]


[ 参道 ]


[ 手水舎 ]

[ 狛犬 ]


[ 神馬舎 ]

[ 神門 ]



[ 社殿 ]








[ 渾天儀 ]




[ 御神木 ]

[ 授与所 ]

[ 社務所 ]

[ 客殿 ]

[ 納札殿 ]

[ さざれ石 ]

[ 南門 ]

[ 狛犬 ]


[ 旧一之鳥居 ]

[ 人形奉斎殿 ]

[ 御籤掛 ]

[ 絵馬掛 ]


[ 末社・宮山神社 ]




[ 平和塔 和光 ]

[ 売店・土産屋 ]



[ 神嶽山神苑 ]









[ 御祖神社(神苑内) ]


[ 方徳資料館(神苑内) ]



[ 石碑 ]

[ 鎮守の杜 Koyo ]

[ 参集殿 ]


[ 案内板 ]

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