神社情報
前鳥神社(さきとりじんじゃ)
御祭神:菟道稚郎子命・大山咋命・日本武尊
社格等:相模国四之宮・延喜式内社(小社)・郷社
例大祭:9月28日
所在地:神奈川県平塚市四之宮4-14-26
最寄駅:平塚駅(距離有り/バスにて前鳥神社前下車)
公式サイト:https://sakitori.jp/
御由緒
相模國を始め、関八洲総鎮護の神として古くから朝野の信仰が殊のほか篤く、およそ千六百年前、雄略天皇の御代に奉幣のことが記されており、以後、御歴代の奉幣、勅祭が行われたとあります。醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模國唯一の名神大社と定められました。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2019/10/09
御朱印
初穂料:500円
授与所にて。
※境内社「神戸神社」「奨学神社」の御朱印も頂ける。
御朱印帳
初穂料:1,500円
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
当社の赤鳥居と神輿渡御を描いたもの。
裏面には「相模國四之宮前鳥神社」の文字。
歴史考察
相模国四之宮・学問修学就職の神様
神奈川県平塚市四之宮に鎮座する神社。
相模国の四之宮、延喜式内社の小社とされる古社。
旧社格は郷社で、四之宮周辺の鎮守。
「前鳥」と書いて「さきとり」と読む。
御祭神は大変珍しい菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)を祀る。
古くより修学の神・学問の神・就職の神として信仰を集めており、相模国四之宮とされる事から「四之宮大明神」とも称され崇敬を集めた。
緑溢れる境内は「森の前鳥神社」として平塚八景に指定、趣のある境内が特徴的。
古い地名「さきとり」の氏神とされた古社
創建年代は不詳。
大変古い歴史を持つ古社として知られている。
相模川沿いにあった当地周辺には古くから集落があり、石器や土器などが発掘されている。
そうした当地は古くから「さきとり」と呼ばれていたと云う。
・岬のように相模川へ突き出した地形から、岬などと同義の崎・埼から起こった地名。
諸説あるもののこれが有力な説で当社でも採用している。
古くは「さきとり」を「埼取」「前取」「左喜登利」とも書かれた。
現在も拝殿に掛かる扁額には「左喜登利」の文字を見る事ができる。
「さきとり」の地に住んでいた人々が、最も清浄な地を選定し、当社が創建されたと云う。
「さきとり」の氏神として祀られた事から「さきとり神社」の社号となった事が窺える。
大変珍しい菟道稚郎子命を祀る神社
当社の御祭神は菟道稚郎子命。
第15代応神天皇の皇子。
菟道(うじ)の読み方から分かるように京都の宇治地域と関連が深い人物で、百済から来朝した阿直岐(あちき)と、日本に千字文と論語を伝えたとされる王仁(わに)を師に漢籍を学び習熟した人物とされる。
応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄である大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したと『日本書紀』に記されている。
当社の社伝によると、主祭神の菟道稚郎子は京都の宇治から「さきとり」の地へ移住し、当地で没したと伝わり、後に子孫によって菟道稚郎子の遺徳を偲び祀る神社として当社が建立された。
東国の地に菟道稚郎子が祀られたのは大変謎めいているが、社伝の通り子孫が当地に祀ったものと考えるのが自然であろう。
延喜式内社に列する・相模国四之宮
仁寿二年(852)、朝廷から正六位の神階を賜ったと伝わる。
延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』には「相模国大住郡 前鳥神社」と記載。
これにより当社は延喜式内社(式内社)とされる。
『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。
こうして古くから朝廷にも名が知られた当社は、いつしか相模国の四之宮とされた。
四之宮とされた事から「四之宮大明神」とも称され崇敬を集めたと云う。
四之宮とされた当社を由来として、当地は四之宮と呼ばれるようになる。
平安時代には四之宮の地名が残る事から、この頃には四之宮として崇敬を集めた事が窺える。
国府祭に参加する相模六社のうちの一社
相模国には古くから「国府祭(こうのまち)」と呼ばれる祭礼が続けられている。
相模国の有力な5つの大社を国府に近い「六所神社」に祀り総社とした故事によるもので、国司が国の天下泰平と五穀豊穣を神々に祈願した祭礼。
参加する神社は、相模国の有力な5つの大社と総社の計6社。
相模国一之宮「寒川神社」
相模国二之宮「川勾神社」
相模国三之宮「比々多神社」
相模国四之宮「前鳥神社」
一国一社八幡宮(相模国五之宮格)「平塚八幡宮」
相模国総社「六所神社」
毎年5月5日、神揃山(神集山)に六社の神輿が一堂に集う祭り。
約1,200年近くも続けられ、多くの神事が行われる。
当社は四之宮として参加。
国府祭に集う相模国六社の一社とされている事からも、当社が相模国を代表する古社であり大社だった事が窺える。
鎌倉幕府からの篤い崇敬・鎌倉幕府の滅亡と共に荒廃
中世に入ると相模国と関わりの深い武将からの崇敬を集めている。
建久三年(1192)、源頼朝・北条政子が安産祈願をして、神馬を奉納。
この時に生まれたのが後の鎌倉幕府第三代将軍・源実朝。
建暦二年(1212)、将軍家御祈祷所と定められた。
このように鎌倉幕府よりも篤い崇敬を受けた事が窺えるが、その後の記録が途絶える事となる。
この時の戦乱の影響を受け戦火に巻き込まれたと見られており、当社は長らく荒廃した状態が続く。
関東に勢力を有した後北条氏による再興
再興となるのは、後北条氏が相模国を平定した後となる。
関東の戦国大名の氏族。
室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる北条早雲の名で知られる伊勢盛時を祖とする。
鎌倉幕府執権の北条氏とは直接の後裔ではないことから、後北条氏として区別される。
小田原城を居城とした事から小田原北条氏とも呼ばれる。
後北条氏は鎌倉幕府の滅亡と共に荒廃した寺社を多く再建。
相模国一之宮「寒川神社」などもそうした一社に挙げられる。
再建復興をする際に後北条氏は「相州太守」を名乗った事で、内外に相模国の支配者としての立場を示したと云える。
戦乱の世で相模国を治めた後北条氏も当社を篤く崇敬したと云う。
徳川家康より朱印地を賜る・徳川家武運長久祈願所
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡。
同年、徳川家康が関東への領地替え(関東移封)によって江戸入り。
天正十九年(1591)、徳川家康から10石の朱印地を賜る。
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。
江戸時代を通じて、徳川将軍家の武運長久祈願所として庇護を受けた。
当時の当社は「四之宮明神社」と称された。
また民衆からは、御祭神の菟道稚郎子命の伝説から「学問・修学・就職の神様」として「四之宮大明神」と称され信仰を集めた。
新編相模国風土記稿に記された当社
天保年間(1830年-1844年)に編纂された『新編相模国風土記稿』には当社についてこう書かれている。
(四ノ宮村)
四ノ宮明神社
社地東西四十間餘。南北百五十間。村の鎮守とす。延喜式神名帳に載する所。前鳥神社是なり。祭神菟道稚郎子尊。神體束帯木像。(中略)建久三年八月、頼朝當社に神馬を奉らる。(中略)天正十九年十一月、社領十石の御朱印を附せらる。例祭五月五日淘綾郡国府本郷村。神揃山へ渡輿あり。(中略)幣殿拝殿神輿殿供所等あり。社前に相模國十三座之内、前取神社と彫たる、石標を建つ。
社寶。面一枚。日本武尊の面と云。圖左の如し。
鐘楼。鐘は寛政二年の再鑄なり。
末社。牛頭天王。天神。稲荷二。聖天。
別當鏡智院(以下略)
大住郡の四ノ宮村に鎮座していた「四ノ宮明神社」が当社。
「村の鎮守とす」とあるように四ノ宮村の鎮守として崇敬を集めた。
式内社として「前鳥神社」と記載されている事や、御祭神が菟道稚郎子命である事、頼朝が当社に神馬を奉納した事、家康から朱印地10石を賜った事などが記してある。
また現在も続く5月5日に大磯町国府本郷の神揃山(神集山)で行われる国府祭(こうのまち)に参加する1社である事が既に記されている。
寛政二年(1790)に鋳造された鐘楼も記載。
現在も当社境内にその姿が残る。(現物は御鎮座1600年祭で昭和四十三年に復元されたもの)
別当寺は「鏡智院」(現・廃寺)が担った。
相中留恩記略に描かれた当社
天保十年(1839)に成立した『相中留恩記略』に当時の様子が描かれている。
四之宮村の「四之宮明神社」と記されているのが当社。
『新編相模国風土記稿』同様に、当時は「四之宮明神社」と称されるのが一般的であった。
広く緑に囲まれた境内。
立派な社殿が描かれていて、広く崇敬を集めた事が窺える。
明治以降の歩み・戦後の整備事業
明治になり神仏分離。
「四之宮明神社」と称されていた当社は『延喜式神名帳』に記されていた「前鳥神社」に復した。
明治五年(1872)、郷社に列した。
明治四十一年(1908)、神饌幣帛供進神社に指定。
明治四十二年(1909)、四之宮大火と呼ばれる四之宮地域の火災が発生。
社務所などが類焼に遭い、社宝や縁起書ならびに古文書一切を焼失している。
同年測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
平安時代から現在にも残る四之宮の地名は、相模国四之宮とされた当社が由来。
また相模川には現在ある多くの橋が架かっておらず、当社は相模川に面している事も窺える。
こうした地域一帯の鎮守として崇敬を集めた。
明治四十三年(1910)、村内にあった「日枝神社」を合祀。
昭和四十三年(1968)、御鎮座1600年祭を斎行。
記念行事として境内の大整備事業が行われ、境内社「奨学神社」を建立。
昭和五十三年(1978)、境内社「神明神社」「八坂神社」の老朽化につき、2社を合わせて祀り「神戸神社」を建立した他、「祖霊社」も建立された。
平成三十年(2018)、御鎮座1650年式年大祭が行われ、それまでに参道・社殿の敷石工事、一之鳥居の建立などが行われた。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
建立されたばかりの一之鳥居・桜並木の参道
最寄駅からは大変距離があるため、公共交通機関を使用の場合は、平塚駅からバスを使用して前鳥神社前で下車するのがよいだろう。
湘南新道(県道44号)の前鳥神社入口の交差点を北に向かうと一之鳥居が見えてくる。
一之鳥居は平成二十九年(2017)に建立されたばかりでまだ新しい。
平成三十年(2018)の御鎮座1650年式年大祭を記念した建立。
社号碑には「延喜式内社 相模國第四之宮」の文字。
一之鳥居を潜ると同じく御鎮座1650年式年大祭に合わせて整備された参道。
こうして現在も多くの整備が行われるのは、今も地域からの崇敬が篤いからこそ。
途中には朱色の欄干が設けられていて、神橋として整備が行われている。
この参道は桜並木となっていて、桜の時期になると美しく咲く。
地域の方からは美しい花見スポットとして知られる。
参道途中の鐘楼は鳴らす事も可能・二之鳥居
参道を進み、二の鳥居の手前右手に鐘楼。
かつては別当寺「鏡智院」(現・廃寺)と共に神仏習合の中で崇敬を集めた当社。
江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』にも載るように、当社には寛政二年(1790)に鋳造の鐘楼があった事が分かっていて、こちらは御鎮座1600年祭で昭和四十三年(1968)に復元されたもの。
1人1回鳴らす事も可能で、ゴーンと大きな音が響く。
鐘楼のすぐ近くに忠魂碑。
こちらは柵がかかり普段は入れないようになっている。
参道途中に二之鳥居。
昭和十年(1935)に建立された二之鳥居で、手前には岡崎現代型の一対の狛犬。
二之鳥居の先にも長い参道が続く。
参道の先、左手に手水舎。
綺麗な水が流れ身を清める事ができる。
立派な社殿・修学と学問と就職の神
参道の正面に社殿。
立派な木造社殿。
地域の鎮守、相模国四之宮としての格式が伝わる造り。
鳥居の扁額や拝殿前の提灯には現在の社号である「前鳥神社」の文字。
一方で扁額には「左喜登利神社」の文字が記されているのが特徴的。
本殿はやや朱色の塗装が見えるもの。
御祭神は大変珍しい菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)を祀る。
御祭神の菟道稚郎子命は、百済から来朝した阿直岐(あちき)と、日本に千字文と論語を伝えたとされる王仁(わに)を師に漢籍を学び習熟した人物とされる。
そのため古くより修学の神・学問の神・就職の神として信仰を集めている。
神戸神社・勉学の神である奨学神社などの境内社
境内の右手に境内社が2社。
奥にあるのが神戸神社(ごうどじんじゃ)。
昭和五十三年(1978)に境内社「神明神社」「八坂神社」を合祀して造営された。
その右隣に奨学神社(しょうがくじんじゃ)。
昭和四十四年(1969)に整備された学問の神を祀る神社で、天神さまこと菅原道真公の他、本社の御祭神である菟道稚郎子命に漢籍を教授した、百済から来朝した阿直岐(あちき)と王仁(わに)を勉学の神として祀る。
社殿内に多くのだるまが奉納されているのが特徴的。
さらに右手に神楽殿。
例祭などでは平塚市重要文化財の前鳥囃子が奉納される。
少し分かりにくいが本殿の右手に稲荷社。
かなり低いがこの渡り廊下の下を潜る先に置かれている。
文化五年(1808)に「伏見稲荷大社」より勧請されたと云う。
参道の左手に祖霊社。
昭和五十三年(1978)に整備された一画。
手前の狛犬は大正七年(1918)に奉納されたもの。
子持ちの吽形は毛並みが特徴的。
東京市京橋区からの奉納とあり、当社が広く崇敬を集めていた事が分かる。
四本の松葉を身につけると幸せになる「幸せの松」
拝殿手前右手に立派な松の木がある。
「幸せの松」と呼ばれ信仰を集める松の木。
稀に四本の葉を付けるといい、その松葉を身につけると幸せになると伝えられている。
そのため松の木の周囲では参拝者が松葉を探す姿をよく見かける事ができる。
授与所には松葉ではないが、松かさなど取れた場合置かれているので、有り難く頂くとよいだろう。
御朱印は境内社含め3社・オリジナル御朱印帳も
御朱印は「前鳥神社」の朱印。「相模國四之宮前鳥神社」の墨書きが映える。
本社の他に境内社「神戸神社」「奨学神社」の御朱印も用意されている。
オリジナルの御朱印帳も用意。
手水舎の裏手にある赤鳥居を潜る神輿渡御の様子をデザインしたもの。
所感
相模国四之宮として崇敬を集める当社。
奈良時代以前の「さきとり」の古い地名から、その鎮守「さきとり神社」とされ、相模国四之宮とされたことで「四之宮神明社」、そして地名も四之宮となっていった事が窺える。
現在は『延喜式神名帳』に記された「前鳥神社」の字に復し信仰を集めている。
御祭神は京都の宇治に縁の深い菟道稚郎子命で、大変珍しい御祭神。
社伝では菟道稚郎子命が生き延びて当地に移り住んだとされるが、東国である当地にどういった経緯で祀られる事になったのか、謎も多く興味深い神社である。
境内は緑が多くそれでいて整備も行われていてとても綺麗。
清々しい気持ちで参拝でき、さらに四之宮周辺の歴史や謎などを感じる事ができるとても良い神社である。
神社画像
[ 一之鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 鐘楼 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 幸せの松 ]
[ 神戸神社 ]
[ 奨学神社 ]
[ 児童遊具 ]
[ 神楽殿 ]
[ 御籤掛・絵馬掛 ]
[ 稲荷社 ]
[ 納札社 ]
[ 祖霊社 ]
[ 狛犬 ]
[ 御神木・大欅 ]
[ 授与所 ]
[ 社務所 ]
[ 石碑 ]
[ 案内板 ]
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