神社情報
相模国総社六所神社(さがみのくにそうじゃろくしょじんじゃ)
御祭神:櫛稲田姫命・素戔嗚尊・大己貴尊・寒川神社祭神・川勾神社祭神・比々多神社祭神・前鳥神社祭神・平塚八幡宮祭神
社格等:相模国総社・郷社
例大祭:9月第1日曜(櫛魂祭)・5月5日(国府祭)
所在地:神奈川県中郡大磯町国府本郷935
最寄駅:二宮駅
公式サイト:http://www.rokusho.jp/
御由緒
第十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、櫛稲田姫命を主祭神とし御創建、『柳田大神』と称されました。
大化改新後、相模国の有力大社五神社の分霊を併せ祀る『相模国総社』となり、『六所神社』と称されるようになりました。
鎌倉時代以降、源頼朝公の崇敬誠に篤く、治承四年富士川の合戦の戦勝祈願を始め、奥方の北条政子の安産祈願がなされました。
戦国大名の小田原北条家より六十五貫の『相州六所領』を賜り、後に、徳川家康も五十石(相模国では2番目の大きさ)の御朱印地を寄進しております。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2017/05/14
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。
全国の一部総社で頒布されている総社巡り御朱印帳を用意。
他に「相模六社めぐり」御朱印帳も用意されていた。(無料頒布)
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
授与品・頒布品
湯津爪櫛御守
初穂料:800円
社務所にて。
櫛形交通安全ステッカー
初穂料:500円
社務所にて。
歴史考察
相模国総社とされた古社
神奈川県中郡大磯町国府本郷に鎮座する神社。
相模国の総社であり、旧社格は郷社で、大磯町周辺の総鎮守。
古くから当社に祀られる「柳田大神」の他、相模国の一之宮から五之宮格の御祭神も祀られている。
毎年5月5日に相模国の一之宮から五之宮と総社である当社の神輿が一堂に集う「国府祭」に参加し催行する神社として知られる。
出雲国より移住した出雲族による創建
社伝によると、崇神天皇御代(紀元前97年-紀元前68年)に創建と伝わる。
出雲国(島根県)より出雲族が当地に移住・開墾し、当地を「柳田郷」と名付けた。
出雲族の祖神である櫛稲田姫命を主祭神として祀り「柳田大明神」「柳田大神」と称したと云う。
創建時は当地よりも北西(現・大磯町石神台付近)に社殿を築いたとされている。
一般的に稲田の神として信仰されており、夫の素戔嗚尊(すさのおのみこと)や子の大国主(おおくにぬし)と共に祀られる事が多く、当社も「柳田大明神」「柳田大神」として三柱を祀っている。
このように相模国総社として創建した訳ではなく、古くは当地を開墾した出雲族によって創建された神社だった事が窺え、出雲の神であり稲田の神である櫛稲田姫命を祀ったのであろう。
相模国総社となり有力五社の御祭神を祀る
養老二年(718)、元正天皇の勅命により国司が、当社を相模国八郡の神祇の中心に定める。
これにより国府に近い現在地に遷座したと伝わる。
平安時代になり、当社に相模国の有力な5つの大社の御祭神を勧請。
こうして相模国の総社に定められたと見られている。
当社に祀られた神社は以下の5社。
当社に古くから祀られていた「柳田大明神」に加え、5神社の御祭神を祀った事から「六所大明神」「国府六所宮」と称された。
現在も当社の拝殿扁額には「惣社六所大明神」の文字が掲げられている。
総社の成立と役割
国府の近くには「総社(そうじゃ)」と呼ばれる神社が置かれる事が多かった。
特定地域内の神社の御祭神を集めて祀った神社を「総社」と呼ぶ。
当時の律令制において、国司が着任後に行う最初の仕事は、任国内の諸社に神拝する事であり、国司が赴任後、一番最初に神拝していた神社が一之宮、次が二之宮と云う形で続いていく事になる。
しかしながら、国は広く移動などには多大な労力がかかる。
そこで平安時代になると、国府の近くに有力な御祭神を集めて祀った「総社」を設け、総社を詣でることで各社の巡拝を省く事が制度化された。
効率化によって誕生したのが「総社」と云う事ができるだろう。
総社として新たに創建する事もあれば、既に国府近くに鎮座していた神社を総社とする事もあり、当社は後者であった。
相模国総社として定められ、有力な5つの大社を祀り、国司や地域からの崇敬を集めた。
平安時代より続く相模国府祭
相模国には古くから「国府祭(こうのまち)」と呼ばれる祭礼が続けられている。
相模国の有力な5つの大社を国府に近い当社に祀り、総社とした故事によるもので、国司が国の天下泰平と五穀豊穣を神々に祈願したものと伝わる。
催行される場所は、当社よりほど近い「神揃山」と「大矢場」(現・馬場公園)。
参加する神社は当社に祀られる相模国の有力な5つの大社と、総社である当社である。
5月5日にこれら六社の神輿が一堂に集う祭り。
約1,200年近くも続けられ、多くの神事が行われる。
中でも祭事の中心は「座問答(ざもんどう)」と云われる神事。
一之宮「寒川神社」と二之宮「川勾神社」が席次を争い、三之宮「比々多神社」が「いづれ明年まで」と仲裁を入れて終了するといった内容になっている。
鎌倉将軍家から崇敬を集めた中世
中世以降は、鎌倉将軍家より崇敬を集める事となる。
治承四年(1180)、源頼朝が富士川の戦いに向かう際、当社に立ち寄り戦勝祈願。
文治二年(1186)、社殿を修復。
建久三年(1192)、頼朝が妻・北条政子の安産祈願をし、神馬を奉納。
建長四年(1252年)、宗尊親王が鎌倉に下向。
将軍事始の儀として当社に奉幣神馬を奉納したと伝わる。
こうして鎌倉将軍家より、相模国総社として庇護を集めた。
その後、戦乱の世となり戦火によって一時的に荒廃したと見られている。
後北条氏から崇敬と現存する石垣
戦国時代に入ると、後北条氏より崇敬を集める。
永正年間(1504年-1520年)、北条氏綱が社殿を造営。
天文十三年(1544)、後北条氏より65貫78文の知行高を安堵。
造営方として30貫500文の追加が認可され、後北条氏が篤く庇護した事が分かる。
天正年間(1573年-1593年)、北条氏政が本殿を修復し、これが現存する本殿とされる。
同様に石垣も寄進しており、これが現存。
後北条氏と密接な関係の中で、後北条氏の隆盛と共に当社も多いに繁栄したと見られる。
徳川将軍家からの崇敬
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡。
同年、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
天正十九年(1591)、家康が当社に朱印地50石を寄進している。
以後、徳川将軍家より朱印地を賜るようになる。
正保四年(1647)、制札を幕府より賜る。
江戸時代の史料に描かれた当社
天保十二年(1841)に成立した『新編相模国風土記稿』には当社についてこう書かれている。
(国府新宿)
六所明神社
当社は本州の総社と唱へ、当村、及び国府本郷、生澤、虫窪、四村の鎮守なり。(中略)古は柳田大神と號せしと云う。柳田は、所在の古ななり。祭神は、稲田姫命にして、素戔嗚、大己貴の二尊を合祀す。崇神天皇の御宇、勧請ありしと云。例祭正月三が日、護摩を修行す。五月五日、國中一の宮(中略)、二の宮(中略)、三の宮(中略)、四の宮(中略)、及び平塚新宿に鎮座する、八幡の神輿、神揃山(中略)に集まり、一人は三種と號せる、鉾の如きものを馬上に押立、又一人は守公神と號して榊を持。次第に列して神揃山の下、高天原と云所に至る。彼五社の神輿、次第に山を下り爰に至り。神事終りて歸社す。此祭事は、養老年間に始むと云へど、未詳にせず。治承四年、頼朝参詣ありし事、東鑑に見ゆ。(中略)文治二年、当社修造の結構あり。(中略)建久三年、頼朝夫人平安産祈の為神馬を奉る。(中略)建長四年、宗尊親王京師より下向し将軍の事始とそ、幣帛神馬等を納めらる。(中略)天文十三年、北条氏より、社領六十五貫七十八文の地を寄附あり。(中略)永禄に改し役帳に依れば、其地生澤村に在しと見ゆ。天正十九年先規に任ぜ、社領五十石を宛らる、旨御判物を賜ふ。其地今国府本郷村にあり。正保四年四月制札を賜ふ。(中略)
幣殿・拝殿。神楽殿あり。
鐘楼。寛永八年の鋳鐘を掛く。
宮守庵。
別當眞勝寺。(中略)
国府新宿の「六所明神社」とされているのが当社。
国府新宿・国府本郷村・生澤村・虫窪村の4村の総鎮守であった。
別当寺は「眞勝寺」(現・国府本郷1660)であった。
上述した歴史について詳しく記されている。
さらに国府祭についても詳細が記してあり、古くからの祭礼だった事が伝わる。
当社の境内図も描かれていて、江戸時代の頃の当社の様子を窺う事ができる。
参道には古い大木が立ち並び、石段を上った先に立派な社殿。
鐘楼は神仏習合の時代を思わせてくれる。
このように地域一帯の鎮守として、かつての総社として崇敬を集めた。
明治以降の歩み・古写真で見る当社
明治になり神仏分離。
「六所明神社」から現在の「六所神社」へ改称。
当社は、郷社に列した。
上の古写真は昭和十四年(1939)に萬朝報横濱支局より出版された『神奈川縣神社寫眞帖』から、当社の当時の写真。
当時は茅葺屋根の風情ある社殿だった事が伝わる。
戦後になり境内整備が進み、平成になってから社殿の大修復も行われ現在に至っている。
境内案内
国道1号に面した大鳥居と参道の大木
最寄駅は二宮駅からはかなり距離があるが、国道1号沿いに朱色の大鳥居が立つので分かりやすい。
大鳥居の先には参道があり、しばらくは住宅街の路地を通る形となる。
東海道線の線路の下を潜る形で進むとさらに住宅街の路地。
古くから当社の参道であったこの場所には、今も樹齢の古い大木が保護され残る。
樹齢600年-700年ともされる欅の大木が2本。
民家と隣接するように今も聳えていて、当社の参道の大木として地域から大切にされているのが伝わる。
後北条氏寄進の石垣や本殿・拝殿の注連縄
参道を進むと社頭へ突き当たる。
玉垣は平成御大典記念で造営されたもの。
境内は道路よりやや低い位置となり、下る形で広がる。
参道を進んだ右手に手水舎。
正面、石段の上に社殿となる。
石段に沿って石垣が置かれている。
この石垣は戦国時代に当社を庇護した後北条氏による寄進とされ現存している。
石段を上った先に拝殿。
拝殿にはとても立派な注連縄。
出雲の地(島根県)で作られた注連縄で、当社が出雲族によって再建され出雲の神を祀る事にちなむ。
本殿は拝殿同様に修復され整備されているが、覆殿のような形となる。
内部に朱色の古い本殿があり、天正年間(1573年-1593年)に北条氏政が本殿を修復したものが現存しており、本殿の画像は公式サイトに掲載されているのでそちらをご覧頂きたい。
当社の御神像として、県指定文化財「男神立像・女神立像」がある。
平安時代後期の作とされており、年に1度、毎年1月3日のみ特別公開されている。
神池など綺麗に整備された境内
境内に入り、参道の左右に神池が整備されている。
左には六所龍神大神社。
御祭神の櫛稲田姫命を当地に祀った際に、櫛稲田姫命が龍神を連れてきたと伝わっている。
右手には六所ひぐるま弁天社。
近くには水神社も祀られている。
神池には多くの鯉が泳いでおり、授与所にて鯉の餌も100円で頒布している。
持ち込みの餌はあげないように気を付ける事。
美しく整備された境内で、地域からの崇敬の篤さが伝わる。
境内左手に境内社の稲荷神社。
その近くには神輿庫。
5月5日の相模国府祭の際に渡御される大神輿となっている。
社殿の裏手は広い公園として整備されていて、子どもたちの姿を多く見る事ができ、地域の鎮守としての姿を感じる事もできる。
良縁や女性厄禍除の湯津爪櫛御守・櫛稲田姫命の伝承
御朱印は社務所にて。
全国総社の御朱印帳や、相模六社巡りの御朱印帳も用意されていた。
相模六社巡り御朱印帳は無料頒布されており、相模国府祭に参加する六社を巡るものとなっている。
当社の授与品として人気が高いのは、「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)御守」。
当社の御祭神である櫛稲田姫命の伝承に基づく櫛形の御守。
八岐大蛇の生贄にされそうになったところ、出雲に降り立った素戔嗚尊(すさのおのみこと)が結婚を条件に八岐大蛇退治を申し出て、素戔嗚尊の神通力によって湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に姿を変えられ、素戔嗚尊はこの櫛を頭に挿して八岐大蛇と戦い退治したという伝承に基づくもの。
この御守には下記のような御神徳があるとされる。
以下、掲示されていたものを記載。
一、このお守りを女性が身に付けると、御神縁の良縁の道が開かれます。
一、このお守りを女性から困っている男性に真心こめて念じ贈ると、男性に霊力が湧き、困難打開の道が開かれます。
一、このお守りを男性から女性に贈ると「かけがえのない大切な女性」の証となります。
他にも櫛形の授与品を多く用意している。
所感
相模国の総社として崇敬を集めた当社。
かつて出雲族が当地を開墾した際に出雲神である櫛稲田姫命を祀った神社であり、その後、国府が近くにあった事から総社とされ、当社に相模国主要五社が祀られた歴史を持つ。
総社の多くは中世に廃れ、再興されず規模がかなり縮小したり所在不明となる例もある中、相模国総社の当社は、相模国では今も国府祭という1,200年近い歴史を誇る祭礼が続けられている事で、こうして多くの崇敬を維持できたものと思われる。
総社として、地域の鎮守として、綺麗に整備された境内が美しく清々しい良社である。
神社画像
[ 大鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 社頭・玉垣 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 御籤掛 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 神輿庫 ]
[ 社務所 ]
[ 境内風景 ]
[ 神楽殿 ]
[ 龍神大神社 ]
[ 神池 ]
[ 六所ひぐるま弁天社 ]
[ 神池 ]
[ 水神社 ]
[ 案内板 ]
[ 参道脇の地蔵 ]
コメント