伊豆山神社 / 静岡県熱海市

神社情報

伊豆山神社(いずさんじんじゃ)

御祭神:正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・拷幡千千姫尊・瓊瓊杵尊
社格等:延喜式内社(小社論社)・国幣小社・別表神社
例大祭:4月15日
所在地:静岡県熱海市伊豆山上野地708-1
最寄駅:熱海駅
公式サイト:http://izusanjinjya.jp/

御由緒

 関八州総鎮護伊豆山神社は、かつて伊豆御宮、伊豆大権現、走湯大権現と称され、略して伊豆山、走湯山と呼び親しまれてきた、強運守護、福徳和合、縁結びの神様です。
 祭祀の創まりは遥か上古に遡り、本殿に祀られる木造男神像(平安時代中期、日本最大の神像)は、『走湯山縁起』が応神天皇の御代に相模国大磯の海に出現し、仁徳天皇の御代に日金山に飛来し祀られたと伝える伊豆大神の御神影をあらわしています。
 その神威の源は、涌き出づる霊湯「走り湯」です。走湯権現とはこれを神格化した呼び名で、伊豆の国名は湯出づる神である当社の神徳に由来します。
 神威を被るところは、沖合にうかぶ初島をはじめとする伊豆の島々、伊豆半島、共に二所と呼ばれた箱根や、富士山に及びます。後白河院御撰『梁塵秘抄』に「四方の霊験所」のひとつとうたわれたように、平安時代後期には山岳修験霊場として名を馳せ、顕密神道を学ぶ名高い道場となりました。熊野信仰とも結びつき、全国に末社が祀られています。
 平安時代後期、この伊豆山に修行して富士登拝を重ね、富士上人と呼ばれた末代上人は、鳥羽上皇をはじめ貴族と民衆に勧進し、富士山に一切経を奉納する偉業を達成しました。伊豆山から富士につながる修行の道は、そののち平治の乱によって伊豆国に配流された源頼朝が、北条政子とともに当社に深い信仰を寄せ、当社の加護のもとで平家を打倒し、鎌倉幕府を樹立して征夷大将軍となるに至る、いわば東国王権神話とも呼ぶべき歴史の舞台になります。鎌倉将軍の参詣する二所詣の聖地となった当社は、威光を輝かし、格別の尊崇を集め、戦国時代には後北条氏、江戸時代には徳川将軍も崇敬して興隆がはかられました。武家が誓いを立てる時の起請文には、誓詞証明の社として、当社の名が必ず連ねられています。
 そうした神徳を讃え、鎌倉三代将軍源実朝が参詣の途に詠じた和歌は『金塊和歌集』に収められています。平安時代の女流歌人として名高い相模や鎌倉時代の阿仏尼も、参詣して百首和歌を奉納しました。その伝統は、仲秋の名月に熱海市が主催する伊豆山歌会に受け継がれています。
 明治維新の神仏分離令により伊豆山神社と改称されてからも、伊豆大神の神威は絶ゆることなく、大正三年一月十三日には皇太子であられた昭和天皇、昭和五十五年九月十二日には皇太子浩宮徳仁親王殿下が御参拝になられました。
 平成二十三年九月十九日には、新たに『走湯山秘訣絵巻』が奉納されました。関八州総鎮護伊豆山神社の歴史は、東日本大震災からの復興ひいては日本と世界の平和の歩みを支え、未来永劫に築かれていきます。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/05/14

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

御朱印帳

初穂料:1,500円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
当社の縁起に伝わる「赤白二龍」をデザインしたもの。
強運の文字と裏面には「関八州総鎮護」そして社紋の九曜紋がデザイン。

[ 表面 ]

[ 裏面 ]

授与品・頒布品

強運ステッカー
初穂料:500円
社務所にて。


歴史考察

関八州総鎮護として多大なる崇敬を集めた古社

静岡県熱海市伊豆山上野地に鎮座する神社。
古くは「伊豆山権現」「走湯権現」と称された古社。
「箱根権現(現・箱根神社)」と共に「二所権現」とも称され「関八州総鎮護」とされた。
旧社格では国幣小社、現在は神社本庁の別表神社となっている。
延喜式内社「火牟須比命神社」に比定する説もある式内社(論社)。
修験者が修行を積んだ霊場として知られ、現在は強運の御神徳で信仰を集める。
源頼朝と北条政子が逢瀬を重ねた場所としても知られるため、縁結びや恋愛成就の神社ともされ人気を博している。

日金山-本宮山-伊豆山(走湯山)への遷座の歴史

創建年代は不詳。
社伝によると、孝昭天皇御代(紀元前475年-紀元前393年)の創建と伝わる。

古くは日金山の山上に鎮座していたとされる。

日金山(ひがねさん)は、現在の当社鎮座地より東寄りの十国峠付近。現在の日金山「東光寺」(熱海市伊豆山968)あたりになる。日金とは火之峯(ほがね)と云われていたとも言い、「火神」を意味する。

その後、本宮山に遷座。
本宮山は現在の当社摂社「本宮」鎮座地で、「本宮」が当社の元宮という事になる。

承和三年(836)、甲斐国の僧・賢安により現在地へ遷座された。
現在に鎮座地は「伊豆山」とも「走湯山(そうとうざん)」とも云う。
その事から当社は「伊豆山権現」とも「走湯山権現」とも称された。

相当な古社である事や、勢力争いによる御由緒の改竄・焼失、御神域の一部が沈下によって海底遺跡となっているなどから、当社については謎や不明な点も多く、あくまで有力な説という形になる。

天皇の勅願所とされ歴代皇族からの崇敬

当社は古くは天皇の勅願所とされ、歴代皇族から崇敬が篤かったと云う。

第16代仁徳天皇(313年-399年)が当社を勅願所して以降、その後も第22代清寧天皇、第30代敏達天皇、第33代推古天皇、第36代孝徳天皇が当社を勅願所にしたと社伝に伝わっている。

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、小社に列格する「伊豆国田方郡 火牟須比命神社」(ほむすひのじんじゃ)と記載。
これを当社と比定する説があり、当社は「延喜式内社(式内社)」論社とされる。

当社摂社の「雷電神社」を比定する説もある。

第105代後奈良天皇も当社を勅願所とし、直筆の般若心経一巻を奉納。
これが社宝として現存しており、国の重要文化財となっている。

後奈良天皇の御立願により諸国の一之宮に納められたものであり、伊豆国宛に奉納されたもの。
伊豆国一之宮は「三島大社」であったが、当社に奉納されているように、後奈良天皇が当社を篤く信仰していた事が伝わる。

修験者が修行を積んだ霊場

かつての当社は神仏習合の色合いが強い神社であった。
「伊豆山大権現」と称された当社の他に、別当寺「般若院」が置かれており、当社が鎮座していた「日金山-本宮山-伊豆山(走湯山)」はいずれも修験者たちの修行の霊場としても知られた。

治承年間(1177年-1181年)に編纂された『梁塵秘抄』には、「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されている。
「伊豆の走湯」と記されているのが当社の事になる。

『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は、第77代天皇・後白河天皇勅撰した歌謡集。平安時代には、当社が修験者が修行を積む代表的な霊場であった事が分かる。

伝承として、役小角が伊豆に配流された際に当社で修行したと伝わる。

役小角(えんのおづの)は、修験道の開祖とされる呪術者。
文武天皇三年(699)、人々を言葉で惑わしているとされ伊豆島に流罪となる。
流刑先は伊豆大島と伝わるが、伊豆国の当社で修行をしたと伝えられている。
伊豆山温泉の源泉「走り湯」は、役小角が発見したと云う伝承も残る。

空海(弘法大師)も当社で修行したと伝承が残り、平安時代後期に「富士上人」と称された村山修験の祖である末代も、当社で修行をして富士登拝を重ねた。

走り湯と当社のシンボル赤白二龍

当社への信仰は、当社が鎮座する「伊豆山」と、伊豆山温泉の源泉「走り湯」に集まった。
当社が古くは「走湯山権現」と称されたのは、「走り湯」を神格化した事による。

「走り湯」は、養老年間(717年-724年)に発見されたとされるが、上述したように役小角が発見したとする伝承もあり、古くから伊豆山温泉の源泉とされていた。
洞窟の中から源泉が湧出する大変珍しい形で、現在も横穴式の源泉が史跡として残る。
海岸から当社へ続く長い長い参道の途中にあり、共に信仰を集めた。

現在、走り湯の洞窟には自由に入る事ができ、中は温泉サウナのようになっている。

『走湯山縁起』には、伊豆山と走り湯についてこう記されている。

伊豆山の地底に赤白二龍和合して臥す。其の尾を箱根の湖水(芦ノ湖)に漬け、その頭は日金嶺(伊豆山)地底に在り、温泉の沸く所は此の龍の両目二耳並びに鼻穴口中なり(走り湯)。

当社の地底に赤龍・白龍の二龍がいて、尾は箱根の芦ノ湖まで伸び、頭は日金山(当社の最初の鎮座地)、両目二耳と鼻穴口中は走り湯にあるという信仰。

赤龍は火の力、白龍は水の力を操るとされ、二龍は温泉の守護神ともされ信仰を集めた。
現在も当社のシンボルとされ、手水舎にも「赤白二龍」(せきびゃくにりゅう)が置かれている。

鎌倉三代将軍・源実朝は、伊豆山や走り湯を詠った歌を残している。

わだつみの 中にむかひて いづる湯の 伊豆のお山と むべもいいけり
走り湯の 神とはむべぞ 言いけらし 速き験の あればなりけり
伊豆の国 山の南に 出づる湯の 速きは神の 験しなりけり

こうして当社は修験者たちの霊場の他、温泉の神としても信仰を集めていく事となる。

源頼朝と北条政子との逢瀬の場・関八州総鎮護とされる

中でも当社を篤く信仰した人物として、鎌倉幕府を開いた源頼朝が挙げられる。

平治元年(1159)、「平治の乱」が発生。
平家に敗れた父・義朝は謀殺され、兄・義平と朝長も死亡。
当時13歳であった頼朝も捕まり、死刑が確実視されていたが、嘆願などもあり伊豆国へ流刑処分となった。

伊豆の流人となった頼朝は、当地周辺で霊場として信仰されていた「足湯権現(現・当社)」「箱根権現(現・箱根神社)」、に深く帰依して源氏の再興を祈願。
その間に、当社に身を匿ってもらうなど深い関わりを持ったとされる。

また後に頼朝の妻となる北条政子とも、当社を逢瀬の場としていた。
当社境内には今でも、頼朝と政子が利用したと云う「腰掛石」が残されている。

頼朝と政子の逢瀬の場であったため、縁結びや恋愛成就の神社として崇敬を集めている。

後に頼朝は、源氏を再興させ平家を滅ぼし鎌倉幕府を開く。
当社と「箱根権現(現・箱根神社)」を「二所」として崇敬。
「関八州総鎮護」として、多くの社領を寄進し、当社は最盛を迎える事となった。

関八州(かんはっしゅう)とは、関東8か国の総称。相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8か国。すなわち関東の総鎮守とされ、鎌倉幕府より最高の崇敬を集めた。当社と「箱根権現」を詣でる事を「二所詣」と呼び、歴代将軍が参詣に訪れている。

徳川将軍家による再興・武家からの崇敬と牛王宝印

戦国時代になると、関東を支配した後北条氏(小田原北条氏)から篤い崇敬を受ける。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡。
この際に伊豆山は焼かれて荒廃したと伝わる。

同年、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
家康が熱海温泉へ当時として訪れた事で、徳川将軍家御用達の名湯となる。
当社も徳川将軍家より篤い崇敬を受ける事となり、社殿も再建された。

文禄三年(1594)、家康より200石の朱印地を賜る。
慶長十四年(1609)、さらに追加で100石の朱印地を賜った。

以後、代々の徳川将軍家より寄進を受け、崇敬を集めた。
その他、湯治に訪れた諸大名などからの崇敬も篤かったと云う。

武家より崇敬を集めたため、武家が誓いを立てる時の「起請文」には、誓詞証明の社として当社の名が連ねらた。

起請文(きしょうもん)とは、人が契約を交わす際にそれを破らないことを神仏に誓う文書。各地の寺社で頒布される牛王宝印(ごおうほういん)という護符の裏に書くのが通例となり、「熊野三山」の牛王宝印(熊野牛王符)がよく用いられた。

神仏習合の色合いが濃かった当社は、熊野信仰とも結びついており、牛王宝印が今も頒布されている。
「走湯山宝印」と記してあり、「赤白二龍」を図案化したもの。
当時の武家は起請文をこうした牛王宝印の裏に書いて当社へ約束を破らない事を誓ったのであろう。

神仏分離と現在の歩み

明治になり神仏分離し、神仏習合の色合いが濃かった当社だが、別当寺「般若院」とは分離。
「伊豆山権現」から「伊豆山神社」へ改称。
明治六年(1873)、県社に列した。

(日本之名勝)

上の古写真は明治三十三年(1900)に史伝編纂所が出版した『日本之名勝』。
「伊豆山権現神社」として撮影されており、かつての社殿前の様子を伺える。
現在の社殿はこの社殿を修造したものとされている。
石段の前に佇む人々は、和装に帽子や洋傘など、文明開化の時代が伝わる。

大正三年(1914)、皇太子であった後の昭和天皇が当社に参詣。
本殿脇に黒松を手植している。

昭和三年(1928)、国幣小社に昇格。
昭和六年(1931)から昭和十一年(1936)にかけて、内務省によって本殿・拝殿・石段・手水舎などの修造や整備が行われた。
この社殿が現存している。

戦後になり神社本庁の別表神社に指定。
その後も境内整備が進み現在に至っている。

境内案内

本殿まで837段に及ぶ長い長い石段参道

当社の社殿は伊豆山の中腹に鎮座。
公共機関の場合は、熱海駅からバスに乗り「伊豆山神社前」で下りるとご覧の社頭となる。

但し、海岸まで長い長い石段となっていて、参道の入口は海岸から始まる。
その途中の海岸近くにあるのが、上述した伊豆山温泉の源泉「走り湯」であり、摂社「走湯神社」。
途中で国道を横切り更に長い石段。
これを上りきると、先程の社頭に出てくる。

海岸の参道入口から、バス停までの石段は648段もあるため、社頭から参拝する形が一般的。社頭には駐車場も整備されている。

バス停の先がすぐ一之鳥居。
ここから再び長い石段が続き、途中に立派な二之鳥居。
一之鳥居から本殿までは380段の石段を上る事となる。

石段の途中右手に祖霊社。
さらに上った右手に足立権現社があり、走り湯を発見したと伝わる役小角が祀られている。
さらに上った左手に結明神社。
当社のさらに奥に上った先に本社があり、こちらは里宮となっている。

海岸の参道入口からは合計837段の道のり。
足腰に自信がある場合は全ての石段を上ってみるのもよいだろう。
なお、駐車場は一之鳥居前と本殿横に整備されているため、車の場合はこれらの石段を飛ばして本殿横に着ける事ができるが、足腰が悪くない限り、せめて一之鳥居からは石段を上って欲しい。
伊豆山地区全体が度々沈下していて、海には古い海底遺跡が沈んでいる。そのためかつては現在の海の底まで参道が伸びていたものと推測できる。

赤白二龍の手水舎・極彩色の社殿

石段を上りきると綺麗に整備された境内。
境内からは伊豆山温泉の一帯を見晴らせる。
遠くには初島と伊豆大島を望める。

参道左手に手水舎。
手水舎には当社のシンボルである赤白二龍が吐水口となって整備。

社殿は朱色に塗られた立派な社殿。
昭和六年(1931)から昭和十一年(1936)にかけて、内務省によって修造された社殿。
朱色の中に一部極彩色で塗られた彫刻が映える。
細かい彫刻でとても見事なもので、ところどころに菊紋があしらわれている。
この社殿は、かつては「新宮」と呼ばれており、当社よりももっと高い山の上に「本宮」が鎮座している。

パワースポットの光り石・雷電社・頼朝と政子の腰掛石など

参道の左手に「光り石」と呼ばれる石が置かれている。
『走湯山縁起』と『吾妻鏡』の大磯高麗山「高来神社」から道祖神とともに来たと伝わる光の石。
自由に触る事ができ、触ったり座ったりすると力を頂けると伝わり、パワースポットとして信仰を集めている。

その奥に摂社「雷電社」。
鎌倉時代の正史『吾妻鏡』に「光の宮」とあり、これがこちらとされていて、式内社「火牟須比命神社」はこちらを充てる説もある古社。

社殿の左手前には腰掛石。
頼朝と政子が逢瀬を重ねた時に座ったと伝わる古石となっている。

この一帯が駐車場になっていて、車の場合は石段を上らなくてもこちらまで来る事が可能で、駐車場入口には朱色の大鳥居。
この大鳥居は、小泉今日子氏が奉納した事で知られる。

他に郷土資料館などが整備されている。

御朱印は社務所にて。
オリジナルの御朱印帳も用意しており、授与品にも赤白二龍をデザインしたものが多い。

片道約1時間・本宮までの道のり

社殿の右手奥に白山社遥拝所が置かれている。
この先にある険しい道のりを上ったところに鎮座する白山社を遥拝する場所。

ここから本宮(ほんぐう)へ、片道約1時間ほどの道のりが続く。
道中は中々険しい道もあり、ほぼ登山となるため、登拝される方はある程度の装備で望む事。

本宮まで登拝される方は殆どいない。しかし「本宮まで参拝してこそ本当の参拝」とする崇敬者もいるように、足腰に自信がある方のみ登ってみるのがよい。

参拝路入口は路面が整備されているが、途中からは未舗装の山道となる。
そのため参拝路入口には注意書きも。
しっかり読んだ上で自己責任の上、登拝を開始して欲しい。

注意!
本宮までの道程は修験道の修験の道です。多少険しいところがあります。パンプス・サンダル・ヒールの高い靴では登らないでください。特に雨上がりの道は滑りやすいので登らないで下さい。山道での怪我は自己責任ですので十分に注意して登りましょう。

参拝路入口から約20分ほど登ると白山神社が見えてくる。
古来、病気平癒、厄難消除の神として崇敬を集めている。
この付近が最も急で危険な一角なのでこの付近をクリアできれば余裕が出てくるだろう。

その先更に登ると「子恋の森森公園」という少し整備された一角に出る。
こちらにはトイレも用意されているので休憩などはこちらでするのが良い。

熱海市公式ウェブサイト

公園内を進み右手には民家を見ながら進むと、その先に結明神社で、順調に登れば約40分程で到着。
御祭神は結明神(日精・月精)で、男女の縁結びを叶えてくれる神様とされる。
古くは「一名恋祭り」という神事があり、各地から若い男女の参列があり行われていたと伝わる古来信仰されてきた縁結びの神である。

この先は再び山道となる。
白山神社までの道のりよりは険しくないので気を付けながら進むこと。

結明神社から約15分ほど登ると、本宮の鳥居が見えてくる。
鳥居を潜った先に朱色の本宮。
左手に簡易の手水舎があるので身を清めるのが良い。
近くにはベンチなども整備されている。

本宮は現在の鎮座地に遷座するより前に鎮座していた場所。
いわば当社の元宮とも云える。
かつては本宮よりももっと登った西側にある日金山で創建したため、2番目の遷座地が本宮である。

江戸時代初期には、もっと立派な拝殿、鳥居三基、付近に求聞持堂や建物等があったと云うが、江戸時代後期に全焼しており、現在は簡素な形となっている。
それでも本宮まで参拝すると達成感があるため、余裕がある方はぜひこちらまで登拝して欲しい。
本宮からは伊豆の海を見る事ができ、遠くに初島と伊豆大島を眺望できる。

なお、本宮の御朱印は用意されていない。

所感

古くから「伊豆山権現」と呼ばれ崇敬を集めた当社。
修験道の修行の霊場とされ、多くの伝承が残る当社は、伝説と謎も多い神社である。
海の底には海底遺跡が発見されており、かつては更に先まで社地を有していたのだろう。
天皇の勅願所とされたりと皇族からの崇敬も篤く、源頼朝が「関八州総鎮護」として多大な崇敬をして以降は、武家からの信仰を集めた。
伊豆山への信仰、温泉の源泉である走り湯への信仰、赤白二龍の伝承、こうした要素に神仏習合の中、様々な信仰が絡み合い成立した信仰であり、とても今回の記事で説明できない程の歴史に溢れている。
余裕がある場合は、海岸の参道入口から約837段の石段を上り本殿へ参拝した上で、さらに本宮まで約1時間の登山を行いたいところであるが、無理はせず自分のできる範囲で参拝を心がけたい。
かつて関東の総鎮守とされた日本を代表する霊場の当社は、語り尽くせぬ程の歴史と魅力が詰まった良社である。

神社画像

[ 社頭・一之鳥居 ]

[ 赤白二龍 ]

[ 一之鳥居 ]

[ 二之鳥居 ]


[ 祖霊社 ]


[ 石段 ]

[ 足立権現社 ]


[ 結明神社(里宮) ]



[ 手水舎 ]




[ 参道 ]

[ 狛犬 ]


[ 拝殿 ]









[ 本殿 ]

[ 境内風景 ]


[ 光り石 ]


[ 雷電社 ]


[ 頼朝・政子腰掛石 ]


[ 神輿庫 ]


[ 裏参道鳥居 ]


[ 社務所 ]

[ 石碑 ]

[ 郷土資料館 ]

[ 境内からの眺望 ]

[ 案内板 ]



[ 白山神社遥拝所 ]



[ 本宮参拝路 ]


[ 白山神社 ]

[ 結明神社(本社) ]





[ 参拝路 ]

[ 本宮鳥居 ]


[ 本宮手水石 ]

[ 本宮 ]




[ 本宮からの眺望 ]

[ 伊豆山神社参道 ]




Google Maps