川勾神社 / 神奈川県中郡

神社情報

川勾神社(かわわじんじゃ)

御祭神:大名貴命・大物忌命・級津彦命・級津姫命・衣通姫命
社格等:相模国二之宮・延喜式内社(小社)・郷社(県社の内示あり)
例大祭:10月第2日曜
所在地:神奈川県中郡二宮町山西2122
最寄駅:二宮駅
公式サイト:http://kawawajinja.com/

御由緒

 当神社は、相模国二之宮で古くから二宮大明神又は二宮明神社と称し、二宮町の町名は当社が二之宮であることからきています。又、延喜式式内社とは延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』(平安時代中期に編纂された法律)の延喜式神名帳(全国の神社一覧)に所載された相模国13社の中の名社であります。
創建は、第11代垂仁天皇の時代(約2000年前)、磯長国造(今の県知事のような人)・阿屋葉造という人が国の勅命により、磯長国(今の県西部)鎮護の為創祀。日本武尊が東征途中奉幣祈願をされ、第19代允恭天皇皇妃の衣通姫命安産祈願を始め、建久3年源頼朝安産祈願の為神馬を奉納し、小田原北条氏より鬼門守護社として崇敬深く、徳川家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上、殊の他ほか喜ばれ御朱印地五十石を与えられました。
それ以後、歴代徳川将軍に御朱印地を認められ又、歴代宮司には「二見神太郎」を名乗ることを、正月には必ず江戸城に登城してご挨拶申上げ御祓札を献ずるのが例となりこれが幕末まで続き、明治6年郷社に列っせらます。
現在宮司二見家は、第65代一条天皇の永延元年(987年)粟田中納言次男次郎藤原景平が初代宮司となり二見氏を名乗り、以来1200年、今日まで続き現在の宮司で41代続いています。
敷地2千坪、四方を森に囲まれ閑静典雅にして神聖な霊地であります。社蔵宝物主なるものは、二見家初代宮司が三重県伊勢二見浦より携えてきた雨乞神事の網石、茅葺屋根の神門に県内最古(平安後期)の随神像、旧神領地より発見された田船(奈良時代)、国府祭神揃山祭場古地図(江戸中期)、初代総理大臣伊藤博文公直筆の鳥居額が保存、その他古文書記録多数がございます。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/05/14

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

御朱印帳

初穂料:1,500円
社務所にて。

汎用と思われる御朱印帳が2種類用意されていた。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

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歴史考察

相模国二之宮の格式を有する古社

神奈川県中郡二宮町山西に鎮座する神社。
相模国の二之宮であり、『延喜式神名帳』に記載された式内社(小社)。
旧社格は郷社(県社の内示あり)で、二宮町の総鎮守。
古くより「二宮大明神」「二宮明神社」とも称され、二宮町の町名は当社が由来。
毎年5月5日に相模国の一之宮から五之宮と総社の神輿が一堂に集う国府祭に参加する一社として知られる。

磯長国の一之宮とされた古社

社伝によると、垂仁天皇御代(紀元前29年-70年)に創建と伝わる。
磯長国造・阿屋葉造(あやはのみやつこ)が勅命を奉じて当国鎮護のために創建したとされる。

国造(くにのみやつこ)とは、大和朝廷より地域を治める任命された官職で、その地域の支配者。
古代の相模国は、西部を治める磯長国造(しながのくにのみやつこ)と、東部を治める相武国造(さがむのくにのみやつこ)がおり、いわば「磯長国」と「相武国」に分かれていたと云える。
磯長国(しながのくに)は師長国の字も充てられる事がある。

磯長国造によって創建された当社は、磯長国の中心地に鎮座。
磯長国の一之宮とも云える神社であり、磯長国の開拓神を祀ったと推測できる。

古来「川勾神社」と呼ばれ崇敬を集めたと云う。
古くは現在の鎮座地よりも北方500mほどの宮上と呼ばれた場所に鎮座していたと伝わる。

往古に当地に押切川が曲流していた事から、当地は古くから「川勾」と呼ばれており、「川勾神社」の社名もこの地名に由来している。

古くから磯長国の大社とされた当社は、朝廷からも崇敬を集めた。
日本武尊が東征する途中に当社へ奉幣祈願をされたと伝わる。
第19代允恭天皇の皇妃・衣通姫命も安産祈願を当社で行ったとされる。

相模国一之宮の席次争いを伝える国府祭

西部の磯長国と東部の相武国が合併し「相模国」が成立。

この際、相武国の一之宮であった「寒川神社」と、磯長国の一之宮であった当社の間で、どちらを相模国一之宮とするか争いがあったとされる。

その争いの様子を現在も伝えるのが相模国「国府祭(こうのまち)」である。
相模国の一之宮から五之宮までの主要五社と総社「六所神社」が参加する、古代から伝わる祭りで、祭事の中心は「座問答(ざもんどう)」と云われる神事であり、一之宮「寒川神社」と二之宮「川勾神社」が席次を争い、三之宮「比々多神社」が「いづれ明年まで」と仲裁を入れて終了するといった内容になっている。
神奈川県中郡大磯町のホームページです。

結果として、当社が一之宮を「寒川神社」に譲る形となり、相模国一之宮は「寒川神社」に、相模国二之宮が当社となった。

相模国一之宮。相模国唯一の延喜式内名神大社。寒川大明神の謎・寒川の語源。レイライン・パワースポット・八方除。カラフル御朱印と豊富な御朱印帳。鎌倉幕府からの崇敬・後北条氏による再興。武田信玄奉納の兜。徳川将軍家からの庇護。神門の迎春ねぶた。御朱印。御朱印帳。
相模国総社。良縁や女性厄禍除の湯津爪櫛御守。出雲の女神・櫛稲田姫命の伝承。一之宮から五之宮までの御祭神を祀る。平安時代より続く相模国府祭。江戸時代の史料に描かれた当社。後北条氏寄進の石垣や本殿。拝殿の注連縄や美しい神池。御朱印。御朱印帳。

式内社の格式・二宮大明神と称される

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、小社に列格する「相模国余綾郡 川勾神社」と記載。
これにより当社は延喜式内社(式内社)とされる。

『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。

相模国には計13社の式内社があり、そのため「式内十三座」とも「延喜式内相模十三社」とも呼ばれ、当社はそのうちの一社である。
このように古くから朝廷にまで名が知られた大社であった事が分かる。

また、相模国二之宮とされた事により、「二宮大明神」「二宮明神社」などと称されるようになる。
当地の「二宮町」も当社が二之宮である事に由来する。

永延元年(987)、粟田中納言次男・次郎藤原景平が宮司となり二見氏を名乗る。

以来、現在も宮司を二見家が勤めており、現在は41代となっている。

鎌倉将軍家などから崇敬を集めた中世

平安時代後期、前九年の役(1051年-1062年)と後三年の役(1083年-1087年)では、源義家(八幡太郎)が当社へ立ち寄り奉幣祈願を行う。

建久三年(1192)、源頼朝が妻・北条政子の安産を祈願し、神馬を奉納。
建久年間(1190年-1198年)、頼朝は当社の社殿造営と社領寄進を行っている。

頼朝の安産祈願などは、鎌倉時代の正史『吾妻鏡』にも「二宮河匂大明神」として記載されている。

建長四年(1252年)、宗尊親王が鎌倉に下向。
将軍事始の儀として当社に奉幣神馬を奉納したと伝わる。

応永年間(1394年-1427年)、兵火によって社殿などが焼失。
この際に宝物や古史料なども焼失したと伝えられている。

永禄四年(1561)、上杉謙信の小原田上遠征の際に再び兵火によって社殿が焼失している。

小田原城の鬼門守護・後北条氏から崇敬

元亀年間(1570年-1573年)、後北条氏によって社殿が再建。

後北条氏は、関東(関八州)を支配した戦国大名。小田原城を居城としたため、小田原北条氏とも呼ばれる。

当社は小田原城の丑寅(北東)の方角に鎮座しており、丑寅は「鬼門」と云われる方位である。
そのため当社を小田原城の鬼門守護神とし、篤く庇護した。

後北条氏と密接な関係の中で、後北条氏の隆盛と共に当社も多いに繁栄したと見られる。

徳川将軍家からの崇敬・繁栄した江戸時代

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡。
同年、徳川家康が関東移封によって江戸入り。

天正十九年(1591)、家康が九州名護屋に出陣する際、当社が祈祷札を献上。
家康はこれに喜び、朱印地50石を寄進している。

以後、徳川将軍家より朱印地を賜るようになる。
これは江戸後期の当社の境内図で、右上に「御朱印高五十石」と記されている。
立派な社殿と多くの境内社があり二之宮の格式を感じさせる境内であった。
また参道もとても長く、海岸近くには一之鳥居が立っていたのが分かる。

当社の歴代宮司は「二見神太郎」を名乗る事を許され、毎年正月に江戸城へ登城して御祓札を献ずるのが通例となり、これが幕末まで続いた。

安永九年(1780)、暴風雨によって社殿が破損。
天明七年(1787)、社殿が再建されている。

新編相模国風土記稿から見る当社

天保十二年(1841)に成立した『新編相模国風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(山西村)
二ノ宮明神社
往古は川匂神社と称す。是(延喜式)に載する所、當国十三座の一なり。衣通姫命・大物忌命・経津彦命の三座を祀れりと云(神體は函中に納め秘物とす)。當村、及び川匂・二ノ宮・中里・一色・西久保、六村の鎮守なり。建久三年八月五日、源頼朝神馬を奉納あり。東鑑曰、建久三年八月五日、二ノ宮川匂大明神等仁奉神馬、景時義村奉行之、同九日夫人平産のため神馬を納めらる。八月九日、御臺所御産気、鶴岡相模國神社社佛寺、奉神馬被修誦経、十二社之一、二之宮河匂大明神、建長四年四月、宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として幣帛神馬等を収めらる。(中略)當社應永の頃回禄に罹りしより總て古傳を失へりと云。
例祭。毎年五月五日(神輿を担て国府本郷村、字神揃山に至り祭儀を行ひ帰輿す)、六月晦日(此日には當所の海濱に神輿を担来りて祭事を行ふ)是を大祭と云ひ、又正月元日より十五日迄祭事を行ふ。是を小祭と呼り(元三、六日、七日、御的神事、八日、十一日、十三日、牛王祭、十五日、御筒弼と唱へ祭儀あり)、国府新宿、六所社神主、近藤因幡が蔵する。天文十三年、北條氏の出せし文書(全文は、国府新宿六所社の條に引用せり)中に、一貫五百文、二ノ宮明神端午祭とあるは、即當社五月五日、大祭の資用として彼社より當時配當ありしなり。天正十九年、社領五十石の御判物を賜ひ、元和三年、舊に依て御朱印を賜ふ。拝殿・幣殿あり。
神寳。石一顆。高八寸、圓径四尺三寸餘、綱の如き目理あり。依て綱石と名づく。延永の昔、神主二見氏の祖先勢州二見浦より携来りし物にて旱年には河中に投じ雨を祈るに験ありと云。
末社。神明・八幡・春日合社。當国式内神十二座合社。菊久理姫・耶姫・淡島合社、八百萬神・阿屋葉蓮合社、辨天社、以上東五社と云。仲哀天皇・仁徳天皇・武内大臣合社。素盞嗚命、猿女命、愛宕、天神、以上西五社と唱ふ。香取・鹿島・息栖・道祖神合社、稲荷・山神合社、以上の末社破壊して未再建ならず。
随身門。豊磐間戸・櫛磐間戸の二神を置。
本地堂。(中略)
鐘楼。(中略)

長くなりすぎるので一部を中略とさせて頂いた。

山西村の「二ノ宮明神社」とされているのが当社。
山西村・川勾村・二ノ宮村・中里村・一色村・西久保村の6村の総鎮守であった。
古くは「川勾神社」と称していた事、式内社である事が記されている。
当時の御祭神は衣通姫命・大物忌命・経津彦命の三柱であったと云う。

上述した頼朝の献馬の話などの他、例祭として現在も続く「国府祭(こうのまち)」の様子が記されている。

境内社が多く鎮座していた様子も伝わる。
こちらも江戸後期の境内図であるが、境内社が多く描かれている。
左下には「相州二宮神主」「山西村」「二見神太郎」といった文字を見ることもできる。

明治以降の歩み・古写真で見る当社

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、郷社に列した。
それまで「二宮大明神」「二宮明神社」と称される事が多かった当社であるが、往古の社号「川勾神社」を正式な社号とした。

大正四年(1915)、当社の旧神領地から「田舟」が発掘される。
奈良時代以前のもので当地に古くから人々の生活があった事が伺える史料として、二宮町の重要有形文化財に指定されている。

昭和七年(1932)、県社に昇格の内示を受ける。

県社昇格の内示を受けた事で新社殿の造営に着手するものの、戦争の開始などが重なり難航し、社殿が完成したのは戦後の事となる。そのため県社昇格の内示を受けたものの、郷社のまま終戦を迎え、旧社格制度は廃止となった。

(神奈川縣神社寫眞帖)

上の古写真は昭和十四年(1939)に萬朝報横濱支局より出版された『神奈川縣神社寫眞帖』から、当社の当時の写真。
当時は茅葺屋根の風情ある社殿だった事が伝わり、これが旧社殿であろう。

昭和二十六年(1951)、戦前より着工していた新社殿が漸く完成。
その後も境内整備が進み現在に至っている。

境内案内

茅葺屋根の随神門と平安時代後期の随神像

最寄駅はJR東海道本線の二宮駅となるが徒歩30分ほどの距離で、大通りから外れた奥まった地域に入っていき、田畑も多い自然に囲まれた一角に鎮座。
参道には社号碑と「延喜式内社 相模国二之宮」と書かれた看板が立つ。

参道を進むと鳥居。
この鳥居の左手には大きな扁額が置かれている。
伊藤博文が揮毫した字を使用した扁額で、平成二十六年(2014)に整備され置かれた。

鳥居を潜ると石段があり、その先に随神門。
随神門は今となってはかなり珍しい茅葺屋根。
現在も約20年に1度の割合で葺き替えをしており、最近では平成十九年(2007)に新しくされた。

この随神門には左右に木造の随神像が安置されていて、ガラス越しに見る事ができる。
左に置かれたのが櫛磐間戸神の木像。
右に置かれたのが豊磐間戸神の木像。

この2体の随神像は、平安時代後期の木像とも伝わり、一木造りとしては県内最古のもの。
応永年間(1394年-1427年)、兵火によって社殿などが焼失し、宝物や古史料なども焼失したと伝えられているが、この随神像は運良く難を逃れたと云う。
彫刻には向かない広葉樹で作られていることから、境内にあった御神木を使って作られたと推測されている。

自然溢れる立派な境内・戦後に完成した社殿

随身門を潜ると立派な境内が広がる。
自然に囲まれた立地で境内地は約2,000坪、四方を風致林に囲まれており、県自然環境保全地区に指定。

参道の左手に手水舎。
手水舎の右手にある杉は、かつては「夫婦杉」と呼ばれ縁結びの御神徳で人気であった。

平成二十三年(2011)、台風15号の被害で夫婦杉の1本が倒れてしまったため、現在は1本のみ聳えている。

参道の正面に立派な社殿。
昭和七年(1932)に県社昇格の内示を受けた事で造営に着手されたものの、戦争などの影響を受け滞り、完成したのは戦後の昭和二十六年(1951)のこと。
当時の社殿が現存している。
本殿には細かい彫刻も施されている。

境内社は社殿の左手に西五社。
社殿の右手に東五社。
いずれも氏子崇敬者によって平成二十四年(2012)に社殿が奉納された。

快晴時には富士山が見える境内

手水舎の左手奥からは快晴の日に富士山を眺望できる。
当日は曇りであったので見る事が叶わなかったが、快晴時は綺麗に見えると云う。
公式サイトに富士山の写真が掲載されているのでそちらを確認してみると良いだろう。

その近くには旧石鳥居。
文久元年(1861)に建立されたものだが、現在はこうして崩れ片隅に置かれている。

他に神輿庫や神楽殿など。
神楽殿は夫婦杉の片方が倒壊した時にぶつかり屋根が壊れていたが、現在は修復済。

御朱印は社務所にて。
とても丁寧に対応して頂いた。
色々と教えて下さり有り難い。

所感

相模国の二之宮として崇敬を集めた当社。
かなりの古社であり、まだ相模国が磯長国と相武国に分かれていた頃、当社は磯長国の一之宮として崇敬されていたようで、合併し相模国となった際に一之宮の席次を「寒川神社」と争ったという歴史がとても興味深い。
古くから現在も行われている、相模国主要神社が集結する「国府祭」の神事「座問答」では、正にそうした「寒川神社」と当社の一之宮争いが再現され、最終的に「いづれ明年まで」と決着しその祭事が1,000年以上続いているので、円満解決した様子を表しているとも云えるだろう。
その後も時代の権力者達から崇敬を集めた当社であるが、現在は奥まった場所に鎮座する地域の立派な鎮守といった形となっている。
静かな地に鎮座し、地域の氏子崇敬者たちから親しまれているのが伝わる、清々しくも心地よい良社である。

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神社画像

[ 参道・社号碑 ]


[ 鳥居 ]

[ 伊藤博文揮毫扁額 ]


[ 忠魂碑 ]

[ 石段・随身門 ]

[ 随身門 ]




[ 参道 ]

[ 手水舎 ]


[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 絵馬掛 ]

[ 西五社 ]

[ 東五社 ]

[ 旧石鳥居 ]

[ 扁額 ]

[ 神楽殿 ]

[ 杉の木 ]

[ 富士山眺望場所 ]


[ 社務所 ]

[ 古札納め所 ]

[ 御籤掛 ]

[ 神輿庫 ]

[ 案内板 ]


Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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