亀高神社 / 東京都江東区

江東区

神社情報

亀高神社(かめたかじんじゃ)

御祭神:蒼稲魂之命
社格等:─
例大祭:5月15日(春季祭)・9月15日(秋季祭)
所在地:東京都江東区北砂4-25-15
最寄駅:南砂町駅・大島駅
公式サイト:─

御由緒

『南蔦飾郡神社要覧』によれば、寛永年間(1624-1644)の初め、当地開発の際に五穀の神として祀り、寛保元年(1741)徳川吉宗が鷹狩りの際に百姓次郎兵衛に立ち寄られたときにこの社を参詣したという。『砂町銀座史』によれば、昭和20年3月10日の空襲により焼失し、仮宮を造営し、昭和38年に地守稲荷神社を亀高稲荷神社に合祀し、亀高神社と改称した。昭和43年に現社殿が落成した。江東区の民俗城東編より)

参拝情報

参拝日:2018/05/25

御朱印

初穂料:300円
境内の北砂四七丁目会館にて。

※会館は土曜は午後休み・日曜祭日は休み。

歴史考察

旧亀高村鎮守のお稲荷様

東京都江東区北砂に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧亀高村(現・北砂の一部)の鎮守。
亀高新田と呼ばれた当地を開拓された際に、五穀の神として祀られたお稲荷様。
徳川第八代将軍・徳川吉宗が鷹狩の際に参詣したと云う伝承が伝わる。
賑わう砂町銀座商店街に沿う形で鎮座していて人の往来が多い境内が特徴的。

亀高新田(亀高村)の開拓・五穀の神として祀られる

創建年代は寛永年間(1624年-1644年)の初めと伝わる。

当地が開拓された際に、五穀の神としてお稲荷様を祀ったと云う。
開拓された当地は「亀高新田」と呼ばれた。

亀高の由来は、当地には元々「亀戸新田」「高橋新田」の2つの新田が開拓。
この2つの新田が合わさり、2つの頭文字から「亀高新田」となった。

亀高新田は亀高村と称されるようになり、当社は村の鎮守とされた。
現在の社号の「亀高」は、この亀高新田(亀高村)が由来となっている。

徳川吉宗が鷹狩りの際に参詣した伝承

寛保元年(1741)、徳川第八代将軍・徳川吉宗が鷹狩りで当地を訪れる。
亀高村の百姓・次郎兵衛の家に立ち寄った際に、当社にも参詣したと伝わる。

徳川吉宗は、鷹狩りを好み復活させた将軍としても知られる。
古くは家康に始まり家光と、鷹狩りを好んだ将軍が続いたが、「生類憐れみの令」で知られる六代将軍・綱吉によって鷹狩りは廃止され、それは七代将軍・家継も同様であった。
吉宗は将軍に就任すると正徳六年(1716)に鷹狩りを復活させ、以後は好んで行ったため、度々鷹狩りの際に立ち寄った伝承が各地に残っている。

亀高村の百姓・次郎兵衛の家は、吉宗が立ち寄った事から「有徳院殿御休息所」とも呼ばれ、そうした事情は『新編武蔵風土記稿』にも記されている。

有徳院(ゆうとくいん)とは、徳川吉宗の院号・諡号(死後に贈られる名前)。吉宗が鷹狩りの際に使った休憩所だった事が分かる。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(亀高村)
稲荷社
本地十一面観音を安す。弘法大師の作にして長六寸許。台座の内に元禄十二年四月十五日蜂須賀氏納之と記せし。村の鎮守にして持寶院持。

亀高村の「稲荷社」として記されているのが当社。
本地仏として十一面観音像を安置し、弘法大師の作と伝えられたと云う。
元禄十二年(1699)に蜂須賀氏が奉納したものとある。

本地仏(ほんじぶつ)とは、日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の考えの中で、神の正体とされる仏を本地仏と呼んだ。

亀高村の鎮守であり、別当寺は「持宝院」(現・北砂4丁目)が担っていた事も記してある。

江戸切絵図から見る亀高新田(亀高村)

江戸時代の亀高村は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。

(深川絵図)

こちらは江戸後期の本所・深川周辺の切絵図。
亀高村は図の右端に描かれている。

(深川絵図)

亀高村周辺を拡大したのが上図。
赤円で囲ったのが亀高村で「亀高新田」の文字が見える。

大名屋敷が隣接しており、「松平土佐守」は土佐藩主・山内家。

当社はこうした亀高新田の鎮守として崇敬を集めた。

明治以降の歩み・戦後の再建と社号変更

明治になり神仏分離。
当社は「亀高稲荷神社」と称され、無格社であった。

明治二十二年(1889)、市制町村制の施行によって、亀高村・治兵衛新田・荻新田・又兵衛新田・太郎兵衛新田・中田新田・大塚新田・八郎右衛門新田・砂村新田の全域、八右衛門新田・久左衛門新田の大部分など多くの村が合併し、砂村が成立。
当地は砂村大字亀高となる。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地。
「稲荷祠」と記されて神社の地図記号が表記されている。
また砂村や今はなき亀高といった地名も見る事ができる。
当社はこの亀高の鎮守であった。

昭和七年(1932)、城東区が成立した際に大字を廃して北砂町・南砂町が成立。
亀高は北砂町にあたり、これが戦後に北砂となる。

亀高の地名は消滅する事となるが、当社が亀高の地名の名を今も残している。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって一帯は焼け野原となる。
当社も戦災によって社殿が焼失。
その後の長い間、仮殿で存続された。

昭和三十八年(1963)、「亀高稲荷神社」と称されていた当社に「地守稲荷神社」を合祀。
これを機に現在の「亀高神社」に改称。

東京大空襲によって焦土と化した当地に、戦後になって商店が立ち並ぶようになり、この頃には現在の「砂町銀座商店街」の規模となっている。

昭和四十三年(1968)、現在の社殿が竣工。
長らく仮殿のままであった当社が再建を果たした。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

大賑わいの砂町銀座商店街エリアに鎮座

最寄り駅の南砂町駅・大島駅からは、いずれも徒歩15分以上の距離。
常に大賑わいを見せる「砂町銀座商店街」エリアに鎮座しており、参道を行き交う人も多い。

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多くの商店が立ち並ぶ「砂町銀座商店街」の西口エリアと東口エリアの境目、砂町文化センター通りの少し南側が表参道の入口となる。
昭和三十六年(1961)に建立された石鳥居で、扁額には「亀高神社」の文字。
住宅街の路地を兼ねた参道。
この左手には大賑わいの「砂町銀座商店街」が並行するように立ち並ぶ。

参道には台座が立派な二対の狛犬

参道途中に一対の狛犬。
台座が獅子山風になっていて立派な狛犬。
躍動感のある狛犬で再建時に奉納されたもの。

その先に更に参道。
左手に手水舎。
残念ながら水が張られておらず使用する事はできない。

社殿前にも一対の狛犬。
こちらも同様に台座が立派。
昭和四十二年(1967)に修復する形で、岩を模した台座の上に狛犬が置かれている。
社殿の再建に合わせて修復された。

戦後に再建された鉄筋コンクリート造の社殿

社殿は白を基調とした鉄筋コンクリート造。
東京大空襲によって旧社殿が焼失。
長らく仮殿であったが、昭和四十三年(1968)に再建。
簡素な造りではあるが、「砂町銀座商店街」の発展と共に歩んだ社殿と云える。

日清戦争時の砲弾による忠魂碑・百度石など

手水舎の左手には、砲弾による忠魂碑が置かれている。
日清戦争時に使用されていた大小の砲弾で、大正十二年(1923)に寄贈されたもの。

32cm砲弾と15cm砲弾。日清戦争時は通称「三景艦」(松島・厳島・橋立)にカネー社の32cm砲が搭載されていた。

その左手には百度石。
昭和三年(1928)の銘があり、江東区有形民俗文化財に指定されている。

御朱印は境内の北砂四七丁目会館にて

御朱印は境内の北砂四七丁目会館にて。
基本的には町会の方による対応となる。

会館は土曜は午後休み・日曜祭日は休み。

「砂町銀座商店街」エリアに鎮座する当社の会館には多くの人が訪れる。
当地に住む氏子の人々の交流場になっていて、地域に密着した鎮守と云えるだろう。

所感

亀高新田(亀高村)の鎮守とされた当社。
五穀の神としてお稲荷様を祀り、地域から崇敬を集めた事が窺える。
明治になり砂村が成立、さらに戦前の城東区成立によって、亀高の地名は公式からは消滅。
そうした中でも当社が「亀高神社」を称する事で、古くからの旧地名を伝えるのが喜ばしい。
境内や社殿は簡素ではあるが、地域の方が集う鎮守。
大賑わいを見せる「砂町銀座商店街」の多くも当社の氏子地域であり、そうした商店街の発展を支えた良い鎮守と云えるだろう。

神社画像

[ 鳥居 ]



[ 参道 ]


[ 狛犬 ]


[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]






[ 狛犬 ]


[ 御神木 ]

[ 砲弾忠魂碑 ]

[ 百度石 ]

[ 倉庫 ]

[ 神楽殿 ]

[ 藤棚 ]

[ 北砂四七丁目会館 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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