神社情報
女塚神社(おなづかじんじゃ)
御祭神:誉田別命
社格等:─
例大祭:7月下旬の土・日曜
所在地:東京都大田区西蒲田6-22-1
最寄駅:蒲田駅・京急蒲田駅
公式サイト:https://www.kamatahachiman.org/トップページ/兼務社の御案内/女塚神社/
御由緒
当社は以前、八幡社と呼ばれ女塚村429番地(国電蒲田駅東口付近)に鎮座していましたが、明治5年、京浜間に鉄道が敷設されるため、明治21年現在地に遷座され、女塚神社と改称されました。
現在の社地は、新田義興憤死のおり、侍女であった少将局が忠節を尽くしてともに害せられたのを村民が憐れみ、この地に祀ると伝えられ、八幡社を遷座する以前より村民の崇敬の厚い聖地でありました。現在も境内の一隅に女塚霊神の塚が残っています。(公式サイトより)
参拝情報
参拝日:2019/05/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/05/04(御朱印拝受)
参拝日:2016/10/04(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
「蒲田八幡神社」授与所にて。
※2020年6月より書き置きのみの授与に変更。(初穂料300円に改定)
※2019年5月より御朱印のデザインが変更。(初穂料300円から500円に改定)
※2017年5月よりカラフルなスタンプ付きの御朱印に変更。
※本務社の「蒲田八幡神社」で御朱印を頂ける。
歴史考察
西蒲田鎮守・少将局を祀る女塚と八幡神社
東京都大田区西蒲田に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧女塚村(現・西蒲田)・旧御園村の鎮守。
当地には新田義興の侍女である少将局の墳墓があると伝わり、女塚の地名由来もそれに因む。
少将局を祀っていた当地に、女塚村・御園村の鎮守であった「八幡社」が明治以降に遷座し、女塚村のみの鎮守となった経緯を持つ。
現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。
南朝の忠臣・新田義興と云う武将
創建年代は不詳。
南北朝時代(1336年-1392年)の創建と推定されている。
当社の歴史を紐解く上で大事なのが、新田義興と云う武将とその侍女の少将局。
南北朝時代の武将。
南朝の総大将・新田義貞の次男。
南朝の忠臣とされ、無類の勇将として名を馳せた。
鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった武将。
同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立。
後醍醐天皇側について南朝の総大将として奮戦したものの、越前藤島で戦死。
南朝の総大将として忠節を尽くし続けた忠臣と知られる。
南朝総大将・新田義貞の次男が、当社に祀られている新田義興。
元服に際して吉野で後醍醐天皇に謁見した際に「誠に武勇が器用である。義貞の家を興すべき人なり」として義興の名を給るほど無類の勇将であった。
父の義貞、さらに兄の義顕が戦死した後も、南朝方の中心として、弟の義宗や従兄弟の脇屋義治ら新田一族を率いて鎌倉奪還を目指し、武蔵野合戦など各地を転戦。
この事から「南朝の忠臣」として知られる。
新田義興の侍女・少将局の悲劇
新田義興については『太平記』に顛末を詳しく記されている。
足利尊氏が没した半年後の正平十三年/延文三年(1358)、義興は好機と捉え鎌倉奪還のため挙兵。
これに対し尊氏の子で鎌倉公方・足利基氏と、関東管領・畠山国清は、義興の進出を畏れ奸計を用いて殺害しようとする。
室町幕府が関東における出先機関として設置した鎌倉府の長官。
その鎌倉公方を補佐するための役職が関東管領(かんとうかんれい)。
足利基氏や畠山国清らは、新田の元家臣であり足利側に寝返った竹沢右京亮を使い、再び新田側に寝返ったと装わせ義興に近づかせた。
しかし容易に信用される事がなく、そこで竹沢は京都から選りすぐりの美女を義興に与えて巧みに取り入り、時間をかけ謀殺の機会を狙う事となった。
竹沢が義興に取り入るために与えた美女が少将局。
京都から来た16-17歳ぐらいの上臈(高級女官)であったとされており、義興は大変気に入り侍女としたと伝えられている。
こうして少将局を与えた竹沢は義興に取り入る事に成功。
少将局も、竹沢と共に義興謀殺の企みに参加する事になるが、次第に義興に心惹かれていった。
いよいよ時期到来と見た竹沢は、義興を自宅へ招いて謀殺するために、一族郎党を集めて自宅付近に隠れ、宴の際に謀殺しようと試みた。
それを知った少将局が義興へ「夢見が悪いので7日間は外へ出ないように」といった文を届け、竹沢の招待に応じないように懇願。
義興はその文を見て外出をせず、窮地を脱する事となる。
しかし、この事が露見して少将局は竹沢一族郎党によって殺害されてしまう。
殺害された少将局の遺骸は打ち捨てられたままであったが、村人が憐れんで塚を建てて祀った塚が「女塚」であると云う。
現在も社殿の左手の一画が、円墳らしき形となっていて、ここが少将局の墳墓であったとも伝わる。
女塚村の成立と鎮守の八幡社
少将局の伝承以来、当地周辺は「女塚」がある事から「女塚村」と呼ばれるようになる。
女塚村には、聖地として「女塚」があったものの神社ではなくあくまで墳墓であった。
神社としては、女塚村と隣接する御園村の両村鎮守として「八幡社」が崇敬を集めていた。
この「八幡社」が後に当社になるのだが、当時はまだ女塚とは別の場所に鎮座している。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(女塚村)
八幡社
除地四畝。村の東南にあり。當村及ひ御園村の鎮守なり。鎮座の年代を傳へす。棟札に慶長十九年落成のよしを記せり。此頃始めて造立せしにや。本社六尺四方拝殿に間に九尺、前に石の鳥居をして八幡宮の三字を扁す。祭禮年々正月十日、神楽を奏す。村内妙成寺持。
女塚村の「八幡社」と記されているのが後の当社。
「當村及ひ御園村の鎮守なり」と記されているように、女塚村と御園村の鎮守であった。
「村の南東にあり」とあり、現在の蒲田駅東口付近に鎮座していたようだ。
別当寺は「妙成寺」(西蒲田6丁目)が担っていた。
(女塚村)
女塚
除地一畝六歩。村の南にあり。一坏の小墳なり。小笹雑木おひ茂りて寂々たり。村老のつたへに、往昔当所に長者あり。その女の死しけるとここに葬りしと。又云いづこの人とも知らず美婦人この地にて害せられしに、里人あはれみてここに埋めし印の墳なりと。かかるいひ傳へのみにて其年代もつたへず。とにかくさだかならぬことあり、村名の由来する所なれば、別にゆへある人の墓なるべし。
一方で女塚村に「女塚」と記されているのが、現在の当社鎮座地。
雑木林になっていて物静かで寂しい一画であったと記してある。
『新編武蔵風土記稿』には女塚は不詳な事が多いとしながらも、以下の説を挙げている。
・長者の娘を葬った塚
・旅の美しい婦人が殺されたのを哀れんで葬った塚
更に社伝にあるように少将局の墳墓との伝承もあり、色々な伝承が伝わる中、いずれにせよ女性を祀った墳墓であり、村名になる程の聖地であった。
明治になり八幡神社が女塚に遷座・女塚神社へ改称
明治になり神仏分離。
女塚はあくまで村名になった聖地・墳墓としての扱いであった。
明治五年(1872)、日本最初の鉄道として「新橋駅-横浜駅」間に鉄道(現・東海道線)が敷設される事となり、女塚村・御園村の鎮守であった「八幡神社」の社地が収容。
明治二十一年(1888)、女塚村と御園村はそれぞれ鎮守を構える事にして、女塚村鎮守として「八幡神社」を女塚があった当地に遷座させ、これを機に「女塚神社」へ改称。
村民たちより古くから崇敬された聖地に、鎮守を遷したと云う形。
明治二十二年(1889)、町村制の施行に伴い、女塚村・御園村・北蒲田村・蒲田新宿村・鵜ノ木村が合併し、蒲田村が成立。
当地は荏原郡蒲田村女塚となり、その後は女塚町となっていく。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
橙円で囲っているのが御園村鎮守となった「御園神社」。
蒲田村「女塚」の文字を見る事ができ、当社は女塚地域の鎮守であった。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
昭和四十年(1965)、社殿が再建。
これが現在の社殿である。
昭和四十二年(1967)、順次行われていた住居表示によって女塚町が廃止され、西蒲田1・3・4・5・6・7、池上5といった住居表示に変更。
旧女塚村は西蒲田周辺で、当社は西蒲田の鎮守とも云える。
現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。
境内案内
小学校裏の小さな鎮守
蒲田駅からほど近い位置に鎮座する当社。
大城通り商店街沿いに社号碑。
昭和十三年(1938)に奉納された社号碑。
その先、住宅街となっていて先に鳥居となる。
境内は大田区立相生小学校の裏手に鎮座。
石垣に囲まれた境内。
扁額には「女塚神社」の文字。
鳥居を潜ると右手に手水舎。
比較的新しく整備された手水舎で、水も張ってあり清める事ができる。
無人社ながらこうして綺麗に維持されているのは、氏子による手入れが行き届いているのだろう。
戦後に再建された鉄筋コンクリート造の社殿
参道の正面に朱色の社殿。
明治二十一年(1888)に女塚村と御園村の鎮守であった「八幡社」が当地に遷座。
当時の社殿は東京大空襲にて焼失するが戦後の昭和四十年(1965)に再建。
鉄筋コンクリート造による再建。
塗り替えなども行われ、朱色が鮮やかで状態も良く維持されている。
社殿手前に一対の狛犬。
社殿再建と同年の昭和四十年(1965)に奉納されたもの。
岡崎現代型の狛犬。
少将局を祀る女塚が今も残る・愛の神
社殿左手にあるのが「女塚」の由来となっている塚。
鳥居の先に小さな社殿。
少将局を祀る女塚霊神。
社殿の右側には「愛の神」の文字。
命を賭けて愛する新田義興の危機を救った少将局を「愛の神」として祀る。
全体を見ると円墳らしき姿を見る事ができ、こちらがかつての女塚で墳墓だったと推測できる。
現在はこうして立派な木が聳えている。
古くから村民にとって聖地とされ、村の地名由来にもなった当地に、鎮守であった「八幡社」を遷座させたとあって、当地の歴史と信仰が伝わる境内。
境内社の稲荷社と白山社
社殿の右手には境内社が2社。
左が女塚稲荷社。
右が白山社。
八幡社と共に遷座したものと見られる。
他には境内に神輿庫。
旧女塚村であった地区の町会の名があり、小さいながらも地域の鎮守として崇敬を集める。
御朱印は蒲田八幡神社にて・少将局のカラフル御朱印
境内には町内会館を兼ねた社務所も置かれているが兼務社のため神職の常駐はない。
御朱印は本務社である「蒲田八幡神社」にて。
蒲田八幡神社では兼務社含め6社のカラフルな御朱印を頂ける。
上画像は令和元年以降に頂ける御朱印で、それぞれの神社に由来したスタンプを押しており、各社を深く知る事に繋がる良い施策。
女塚の地名由来にもなった、少将局(しょうじょうのつぼね)のスタンプが押される。
新田義興に肩入れしたため殺害された少将局の遺骸は打ち捨てられたままであったが、村人が憐れんで塚を建てて祀った塚が「女塚」であると伝わる。
所感
女塚の地名由来にもなった少将局の伝説が残る当地。
古くから村民たちより聖地として崇敬され、村名の由来ともなった「女塚」のある当地に、女塚村・御園村の鎮守であった「八幡社」が遷座してきて、明治になり女塚村のみの鎮守となった。
結果的に女塚と、古くから村の鎮守であった当社が同じ敷地にある事で、より地域からの崇敬を集める事になり、こうして現在でも大切にされているのではないだろうか。
普段は無人の兼務社でありながら、境内は大変綺麗に整備されているのも、氏子崇敬者から大切に維持されているからこそ。
「新田神社」「十寄神社」と共に、新田義興公にまつわる神社のうちの一社であり、比較的近くに鎮座しているので、一緒に参詣してみるのもよいだろう。
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