神社情報
浅間神社(せんげんじんじゃ)
御祭神:木花咲耶姫命
社格等:村社
例大祭:6月1日
所在地:神奈川県横浜市西区浅間町1ー19ー10
最寄駅:横浜駅・平沼橋駅
公式サイト:─
御由緒
元神奈川区浅間町に鎮座し浅間町一円の氏神なり、創祀は承歴四年(1080)といわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり、然る処武蔵国橘樹群神奈川在芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし、報賽の至誠を致せる由といふ。薾来九百余年威嚇灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2018/09/11
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
袖すり山に鎮座する浅間さま
神奈川県横浜市西区浅間町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧芝生村(現・浅間町一帯)の鎮守。
横穴古墳が密集する「袖すり山」と呼ばれる丘の上に鎮座。
江戸時代には横穴が「富士の人穴」と呼ばれ、東海道の名所の1つであった。
現在も高台に鎮座し、本殿は全国的にも珍しい浅間造となっているのが特徴。
他との区別から「浅間神社(西区浅間町)」とさせて頂くが、旧村名より「芝生浅間神社」、袖すり山に鎮座する事から「袖すり山の浅間神社」と称される事もある。
源頼朝によって社殿が造営・芝生村の鎮守
社伝によると、承暦四年(1080)に創建と伝わる。
浅間信仰の総本社「富士山本宮浅間大社」より勧請されたと云う。
文治元年(1185)、平氏を滅亡させた源頼朝によって社殿が造営。
当地(武蔵国橘樹群神奈川在芝生村)に富士山の形状の山地があった事から、頼朝が社殿を造営し、戦勝報賽を行ったと云う。
以後、芝生村(しぼうむら)の鎮守として崇敬を集めた。
横穴古墳が密集する袖すり山
当社が鎮座した丘は、「袖すり山」と呼ばれた。
御由緒では、富士山の形状の山地であったと伝えられている。
この袖すり山には、横穴古墳(おうけつこふん)が多く残されていた。
古墳時代の有力豪族の墓と見られており、当社の境内だけでも10以上の横穴古墳があったと云う。
古墳時代以前の古くから当地が聖地とされていたと見られ、当地を開拓した有力豪族たちのゆかりの地であったと見られている。
そうした神聖な地に、当社が創建した事になる。
富士講の聖地・富士山に繋がるとされた「富士の人穴」
江戸時代に入ると、東海道の整備により、芝生村も栄える事となる。
芝生村は、東海道の宿場町である神奈川宿と保土ヶ谷宿の間にあり、更に「芝生の追分」と呼ばれた甲州街道に分岐する地点であったため、人馬の休憩所である立場(たてば)として賑わった。
芝生村の鎮守であった当社も崇敬を集め、中でも当社の境内にあった横穴古墳は「富士の人穴」と呼ばれ信仰の対象となった。
当社境内の西側にあった横穴古墳は、富士山につながると伝えられた。
富士講の聖地、東海道の名所として崇敬を集めた。
残念ながら現在は取り壊され現存していないが、中からは須恵器の瓶や平瓶が発掘されている。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(芝生村)
富士浅間社
江戸の方より海道の入口右にあり。前に石の鳥居を建つ。東南に向ふ。小山の上に社あり。二間に二間半。是は西南に向ふ。神輿は郡内帷子町香象院に納めたれば其寺の持也。按に元禄年中になりし浅間の宮并人穴の縁起と云ものあり。妄誕の説にして取べき事なし。思ふに此社の傍に昔より穴あるにより、世に名高き富士の人穴のことを思ひ合せてかかる説をねせしにや。又此古穴を人穴など云により、富士浅間の社を祝ひそめしも知るべからず。いづれかかる穴は此邊に所々ありて、何れも土人附会の説をなせり。是も其一穴なるべし。此ほとりは昔の武蔵野の末にて人家もまれなりしころ、此所へ来り住んと思ひしもの小山の麓などうがちて穴居せしあとにもやあるべきか。昔武蔵野には白浪多かりしなど古き物にも見ゆるは、かくよからぬふるまひをなす野ぶしなど云もの、かかる所をすみかとなせしにや。又別に土民らが財宝など入るる為の用に備へし穴なるも知るべからず。
末社妙見社
社に向て左にあり。小祠。
人穴二所
一は本社鳥居の内石階少許を上り左の方山の半伏にあり。穴の口五尺余其内低き所二坪許深さ一間余。一は石階の腹右の方にあり。
芝生村の「富士浅間社」として記されているのが当社。
東海道に面して鎮座していて、別当寺は「香象院」(現・保土ヶ谷区岩間町2)が担っていた事などが記してある。
江戸時代に描かれた当社と富士の人穴
富士講の聖地、東海道の名所の1つであった当社は、江戸時代の浮世絵・地誌などに描かれている事が多い。
文政七年(1824)に神奈川宿の住人・煙管亭喜荘によって記された『金川砂子』には当時の様子が描かれている。
芝生村周辺を描いたもの。
当社は「浅間社」として描かれ、その左手には「人穴」が描かれている。
手前の通りが東海道で、埋め立てが行われる前は、社前に海が人がっていた。
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』にも当時の様子が描かれている。
「浅間社」として描かれている。
右手に描かれたのが当社の社殿で、左手には同じく「人穴」。
人穴に向かって参拝する人々の姿も見られ、当時は「富士山につながる」として富士講の中では聖地とされ、多くの信仰を集めた事が窺える。
歌川広重の東海道五十三次にも描かれた当社
天保三年(1832)、歌川広重が東海道を初めて旅した時に作製したと云われ、浮世絵としても大変有名な『東海道五十三次』にも当地が描かれている。
『東海道五十三次』より神奈川を描いたもので、題名は『浅間下より台を見る図』。
浅間下というのが当社の社前の事であり、当社の前から神奈川宿方面を見た様子。
当時の芝生村は、まだ埋立される前で海がもっと近く、袖ヶ浦と呼ばれた美しい入江に面した帷子川の河口港でもあった。
同じく歌川広重が描いた『東海道五十三次細見図会』というシリーズ。
こちらでは「神奈川」の一枚に当社について描かれている。
全体的には入江に沿って東海道が続いており、現在の横浜駅周辺の様子とも云える。
当社を中心に拡大したのが上図。
追分、芝生、軽井沢という当時の地名の他、赤円で囲った箇所に「せんげん社」、青円で囲った箇所に「こんげん人穴」とあり、これが当社と「富士の人穴」であった。
広重の浮世絵にも紹介されるように、当地の名所の1つであった事が窺える。
明治以降の歩み・芝生村から浅間町への改称・社殿の再建
明治になり神仏分離。
当社は後に村社に列している。
明治三十四年(1901)、芝生(旧芝生村)の町名を浅間町(せんげんちょう)に改称。
同年、横浜市に編入される際に、住民の懇願を受け、鎮守である当社「浅間神社」から浅間町に改称となった。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
既に「芝生」の旧地名を見る事はできず、当地は「浅間」と呼ばれていた事が分かる。
明治四十一年(1908)、同町にあった「神明宮」「鹿島神社」と合祀。
大正十二年(1923)、関東大震災により社殿が焼失。
昭和三年(1928)、御大典記念として社殿が造営。
昭和六年(1931)、社殿が竣工。
同年、村社に列する。
上画像は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
「村社 浅間神社」として紹介されているのが当社。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が分かる。
既に2階建ての浅間造社殿だった事が窺える。
当時は「富士山本宮浅間大社」と当社の2社のみが浅間造であった。
昭和二十年(1945)、5月29日に横浜大空襲が発生。
甚大な被害を受け、上述の浅間造の社殿が焼失。
昭和三十四年(1959)、現在の社殿が竣工。
旧社殿と同じく浅間造の本殿として再建された。
昭和五十七年(1982)、社殿前崖が急斜面崩壊危険区域に指定され工事着手。
翌年、社殿及び境内整備の奉賛会が結成され社殿塗装、神輿庫新築、神輿修理、玉垣工事が行われた。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
旧東海道沿い・袖すり山に鎮座
最寄駅の横浜駅や平沼橋駅から徒歩数分の距離、旧東海道沿いに鎮座。
古くから袖すり山と呼ばれた一画に鎮座しており、現在も高台となっている。
旧東海道沿いに一之鳥居。
明治三十二年(1899)に造営された鳥居が現存。
昭和五年(1930)の玉垣は損傷著しく、昭和五十七年(1982)に補修。
更に平成になって新たに作り直されたもので、玉垣や石垣の年代差が面白い。
急な石段を上ると左手には、かつて「富士の人穴」と呼ばれた横穴古墳があった一画。
奥の崖がかつ「富士の人穴」があった一画であろう。
現在は完全に取り壊されその影を見る事ができないが、左手には古い灯籠や碑が並ぶ。
文政十二年(1826)の銘が残る古い灯籠は、表参道の両脇に置かれている。
朱色が映える二之鳥居・横浜を見晴らせる境内
表参道は右手に続くが、江戸時代の地誌などに描かれた当社も、参道の右手に社殿、左手に「富士の横穴」があったので、その後の整備などで違いはあるものの、境内の立地は今も昔も変わらない。
石段を上った先に朱色の二之鳥居があり、遠くからでも見る事ができる。
二之鳥居を潜ると、左手は隣接する「浅間幼稚園」の遊具が置かれ、右手にはベンチ。
ベンチからは横浜の景色を一望する事ができる。
奥には横浜みなとみらい21のシンボルでもある横浜ランドマークタワーの姿。
参道を進むと右手に手水舎。
綺麗に管理されていて身を清める事ができる。
全国に四社しかない美しい浅間造本殿
参道を進むと左手(南東向き)に社殿。
社殿の前には鳥居が立つ。
旧社殿は横浜大空襲で焼失。
現在の社殿は昭和三十四年(1959)に再建されたもの。
昭和五十八七年(1983)に社殿の塗装も行われた。
木鼻には塗装された獅子の姿。
扁額には「浅間神社」の文字。
当社の中で特徴的なのは、浅間造の本殿。
拝殿よりも高い本殿があるが、これは2階建てになっているからである。
浅間造の社殿は、1300社以上ある「浅間神社」の中で全国で4社のみ。
浅間信仰の総本社「富士山本宮浅間大社」の形状を縮小設計し再建されたもの。
当社の本殿が再建された際は、「富士山本宮浅間大社」と当社のみであった。
江戸時代の狛犬・浅間幼稚園が隣接
社殿の前には一対の狛犬。
慶応二年(1866)に奉納された狛犬。
阿吽ともに開口で子持ちの狛犬となっている。
社殿の手前、右手には浅間幼稚園が隣接。
社会福祉法人「木花咲耶会」が運営し、当社と密接な関係にあり、境内では子どもたちの笑い声が響く。
境内社の小嶽社・稲荷社・招魂社
社殿の右手に境内社の小嶽社。
御祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)で、浅間信仰の御祭神・木花咲耶姫命(このはさくやびめのみこと)の姉にあたる。
社殿前には天狗像。
古い碑や像が置かれている。
社殿の左手に稲荷社。
さらに社殿の向かいに招魂社。
その横に「誠愛剣法発祥地」と記された碑。
昭和四十五年(1970)に「己に勝つ事の出来る子供を育てる」という目的で横浜市西区に設立された「誠愛剣友会」を記念したもの。
黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』は当社境内でクランクイン
昭和十八年(1943)に公開された黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』は、当社のロケでクランクインした事で知られる。
黒澤明監督のファーストカットは、姿三四郎が師・矢野正五郎と共に神社の石段を上るシーン。
当時とは景色が変わっている部分があるものの、戦前の境内を偲ぶ事ができる。
御朱印には浅間宮と富士
御朱印は社務所にて。
不在の場合もあるようだが、いらっしゃる場合は丁寧に対応して頂ける。
朱印は「浅間宮」の文字と富士。
横浜市西区浅間町鎮座の墨書きが添えられていた。
所感
西区浅間町周辺の鎮守である当社。
古くは芝生村と呼ばれた一帯の鎮守であり、芝生(しぼう)の縁起が悪いと云う事で、現在の浅間町に改称されたように、当地と大変繋がりの深い鎮守である。
江戸時代には「富士の人穴」と呼ばれた、横穴古墳が富士講の聖地として信仰を集めていて、東海道の名所の1つとして賑わった事が、当時の地誌などから見てとれる。
かつては社前に東海道、そして海が広がっており、現在とは景色は違うとは思うが、おそらく境内からは富士山を綺麗に遥拝する事ができたのであろう。
横穴古墳は全て取り壊されてしまったが、現在も当時の配置とほぼ変わらない境内となっていて、中でも全国で四社しかない浅間造の本殿は素晴らしい。
横浜開港以前より名所として崇敬を集めた当社は、今も地域の方からの崇敬が篤い。
幼稚園も隣接しているため、地域の方々との繋がりが今もなお大事にされている、そんな良い神社である。
神社画像
[ 社前 ]
[ 一之鳥居 ]
[ 石碑 ]
[ 玉垣・石垣 ]
[ 参道 ]
[ 石灯籠 ]
[ 石碑 ]
[ 参道 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 石碑 ]
[ 参道 ]
[ 浅間幼稚園遊具 ]
[ 参道からの景色 ]
[ 手水舎 ]
[ 石碑 ]
[ 参道 ]
[ 鳥居 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 小嶽社 ]
[ 神楽殿 ]
[ 稲荷社 ]
[ 社務所 ]
[ 授与所 ]
[ 招魂社 ]
[ 石碑・御籤・絵馬掛 ]
[ 石碑 ]
[ 案内板 ]
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