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住吉神社 / 東京都中央区

中央区

概要

佃・月島・豊海・晴海を鎮守する住吉神社

東京都中央区佃に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、佃・月島・豊海・晴海の鎮守。
江戸時代に佃島が築島される際に創建。
以後は埋め立て地域一帯の産土神とされている。
佃島は江戸湊の入口に位置するため、海上安全・渡航安全の守護神として広く信仰を集めた。
境内には様々な文化財が残る他、宮神輿の八角神輿が知られている。

神社情報

住吉神社(すみよしじんじゃ)

御祭神:住吉三神(底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命)
相殿神:息長足姫命(神功皇后)・東照御親命(徳川家康)
社格等:郷社
例大祭:8月6日(3年に1度が本祭)
所在地:東京都中央区佃1-1-14
最寄駅:月島駅
公式サイト:https://www.sumiyoshijinja.or.jp/

御由緒

 「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕れた伊邪那岐大神の御子・底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命の三柱の神です。
 神功皇后三韓征伐の際、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御加護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(現・大阪市西淀川区佃)にて、住吉三神を遥拝なさいました。これが大阪佃の住吉の社(現・田蓑神社)の起こりです。
 その後、天正年間より大阪田蓑島の人々と徳川家康公とが深い関わりを持つようになり、家康公の漁業の傍ら田も作れとの命により、村名を田蓑から佃へと改め、また田蓑の名を残すため神社名を住吉神社から田蓑神社へと改めることとなりました。
 その後、家康公が関東下降の際、摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社の神職平岡権大夫好次が分身霊を奉戴し江戸へ下り、寛永年間に幕府より鐵砲洲向かいの干潟を賜り築島しました。そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、正保三年(1646)六月二十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起源です。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2020/12/15(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/04/13(御朱印拝受)
参拝日:2016/01/28(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※境内社「龍神社」の御朱印も頂ける。

御朱印帳

初穂料:1,000円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
縁起物が色々と記されたもの。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

徳川家康と摂津国(大阪)佃村の漁民

社伝によると、正保三年(1646)に創建とされる。

当社の創建には、佃島を築島した摂津国佃島の漁民たちと徳川家康の関係が深く関わってくるので、まずはその関係について述べたい。

天正年間(1573年-1592年)、徳川家康が清和源氏の霊廟「多田院(現・多田神社)」(現・兵庫県川西市)に参詣の時、摂津国西成郡田蓑島(現・大阪市西成区)の漁民たちが神崎川の渡御を担った縁で、家康は田蓑島に立ち寄り島の鎮守であった「住吉神社(現・田蓑神社)」にも参詣。

田蓑神社(たみのじんじゃ)
大阪市西淀川区佃に鎮座する神社。
かつては「住吉神社」とも称された住吉信仰の神社。
神功皇后が三韓征伐よりの帰途、田蓑島に住吉三神を祀ったと伝わる。
宗教法人田蓑神社公式ホームページ:トップページ

家康が漁業の傍ら田も作れと命じた事で、田蓑村は「田を作」で「佃村」へ改められた。
村民たちは田蓑の名を残すために村の鎮守であった「住吉神社」を「田蓑神社」へと改称。

他説として、本能寺の変が起こった際に堺にいた家康は、少数のお供を連れていた危機的状況にあり、その際に田蓑島の漁民たちが舟を出し窮地を助けたという伝承も伝わっている。

以後、佃村(さらに近隣の大和田村)の漁民たちは家康から重宝されるようになり、恩賞として全国での漁業権を与えた。

家康と共に移住・佃島の築島と当社の創建

天正十八年(1590)、関東移封により徳川家康が江戸入り。
家康の命により、摂津国(現・大阪府)の佃村・大和田村の漁夫33人と「田蓑神社」の神職が江戸に移り住む事になる。

寛永七年(1630)、鐵砲洲の向かいにある干潟を幕府から下賜されたので埋め立てて築島。
正保二年(1645)、島が竣工し故郷の摂津国佃村にちなんで「佃島」と命名。

佃島は人工の島
佃島は江戸初期に築造された人工の島。
その隣には石川島と呼ばた島があった。
江戸後期に佃島と石川島が一体となり、現在の佃地区となっている。

正保三年(1646)、故郷の「田蓑神社」でお祀りしている住吉三神と共に、息長足姫命(神功皇后)・東照御親命(徳川家康の霊)を祀り「住吉神社」として創建。
これが当社の始まりとされている。

元禄七年(1694)、講組織「佃嶋氏子中」が結成され、佃島の鎮守として崇敬を集める。

以後、周辺地域の埋め立てが拡張される度に当社はそれら一帯の鎮守となった。

江戸切絵図から見る当社と佃島・海上安全の守護神

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(築地八町堀日本橋南絵図)

こちらは江戸後期の築地八町堀日本橋周辺の切絵図。
右が北の切絵図となっており、当社は図の中央下に描かれている。

(築地八町堀日本橋南絵図)

北を上に(反時計回りに90度回転)して、当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲った箇所が当社で「住吉社」と記されている。
佃島と石川島があり、この時代には両島が一体となっているのが分かる。

現在のように陸地と橋が架かっていた訳でもないので当時は完全な人工島であった。

佃島から橋が伸びた先に当社が鎮座。
当社周辺の一画は漁師町と呼ばれた。

海上安全・渡航安全の守護神
地域からの鎮守としてはもちろん、江戸湊(東京湾)の玄関口にあるため、船乗りから海上安全、渡航安全の守護神として広く信仰をされるようになる。

江戸名所図会に描かれた当社と佃島

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「佃島・住吉明神社」として見開きで描かれている。

本来は4ページに渡り描かれており、左の見開きには鐵砲洲と「鐵砲洲稲荷神社」が描かれている。

江戸湊にあって船が出入りする様子と、当時の佃島の様子が分かる。
遠くには上総・安房といった房総半島を見る事ができる。

(江戸名所図会)

当社と佃島を中心に拡大したものが上図。

佃島は百間四方の干潟を埋め立てたといい、四角い地形なのが分かる。
船の往来も多く、海上安全でもある住吉信仰との相性は抜群だったのだろう。
赤で囲った左手に見えるのが「住吉」と記された当社。
境内の規模は今とそう変わらない。

歌川広重の浮世絵に描かれた当社の例祭

当社と佃島は歌川広重が描く浮世絵の題材としても取り上げられている。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(名所江戸百景)

歌川広重の『名所江戸百景』より「佃しま住吉乃祭」。

手前の幟には「住吉大明神」の文字。
当社の例祭で使う幟は、高さ20mに及ぶ大幟で、佃島にはこの大幟が6本立ったと云う。
その姿は江戸城からも見えるとまで云われ、江戸の名物となっていた。

例祭時の海中渡御の様子を描いている。
神輿は八角形で「八角神輿」。
これが現在も受け継がれている。

海中渡御と船渡御は昭和三十七年(1962)に廃止されたが、船渡御は平成二年(1990)に復活。現在は3年に1度の本祭の時に行われている。

明治以降の歩みと大正時代の古写真

明治になり神仏分離。
明治三年(1870)、幕末に類焼した社殿を再建。

明治五年(1872)、村社に列した。
明治六年(1873)、郷社に昇格している。
現在も社号碑には郷社の文字がうっすらと残る。

明治後期になると周辺地域の埋め立ても完成していく。

明治二十八年(1895)、月島が竣工。
明治三十三年(1900)、新佃島が竣工。

埋め立て地域の鎮守
月島などこれら周辺の埋め立て地域も当社の氏子に編入。
さらには晴海や豊海の埋め立ても完成し、こちらも当社の氏子に編入している。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で現在の鎮座地と同じ場所に鎮座。
佃島・石川島・新佃島の名を見る事ができ、これらは現在の佃地区にあたる。
さらに月島も完成していて一帯の鎮守が当社であった。

築地方面と繋ぐ佃大橋はまだ完成していなく「佃渡」の文字が見える。当時は渡し船で往来していた。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

上の古写真は大正十一年(1922)に東京市公園課が出版した『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』より当社の様子。

屋根が現在と少し違いはあるものの、拝殿・幣殿は当時のものが受け継がれている。
現在とかなり近い姿を見る事ができ、鳥居に掲げられている扁額も受け継がれている。

昭和二十二年(1947)、講組織「佃嶋氏子中」が「佃住吉講」に変更。

昭和三十七年(1962)、東京湾の汚染などの原因で例大祭の海中渡御・船渡御が廃止。
平成二年(1990)、汚染状況の改善などから船渡御が復活。

現在は3年に1度の本祭の年に船渡御が行われている。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

珍しい陶製の扁額・文化財の手水舎

最寄駅の月島駅から佃大橋通りを進み、やや奥まった下町らしさが残る一画に鎮座。
一之鳥居は隅田川に面した位置に置かれている。
旧一之鳥居は平成二十七年(2015)に撤去され、この朱色の一之鳥居が新たに建てられた。
一之鳥居側からは佃公園を望む事ができ桜の季節は名所となる。

住宅街の参道を進むとその先に境内。
右手には社号碑。
戦後にGHQからの追求を躱すために「郷社」の文字が埋められているが「郷社 住吉神社」と記しされている。

境内に入ってすぐ右手に手水舎。
明治二年(1869)に再建され、明治四十四年(1911)に改築されたもの。
欄間には当時の佃島の情景が彫られており中央区民有形文化財に登録。
水盤は天保十二年(1841)に寄進されたもの。

二之鳥居は扁額はとても珍しい陶製の扁額。
額字は有栖川宮幟仁親王の筆によるもの。
大正時代の写真にも同じ扁額が写っており中央区民有形文化財に登録。

明治時代に再建された重厚感ある社殿

社殿は重厚感のある神明造り。
拝殿と幣殿は、明治三年(1870)に再建されたものを修復しつつ現存。
大正時代の古写真とは屋根の部分が少し違う。
木材は年季を感じさせる色合い。
重厚感を伝える立派な社殿。
本殿はその後に再建されたもので木材の経年変化が拝殿とは少し違う。

巳の守で知られる龍神社などの境内社

境内の左手に龍神社。
文政五年(1822)、当社境内に造営。
天保九年(1838)、佃小橋にあった竜王弁財天の祠が龍神社に合祀。
白蛇縁起が伝わっており巳成金(みなるかね)の御守が授与される。
また毎年最初の巳の日である「初巳の日」に「巳の守」を授与。
個人や家庭の徳・出世・開運を導く御守として信仰されている。

令和三年の巳の守
授与期間:2021年1月9日 7時-18時

境内の右手に疱瘡神社・疫神社。
嘉永三年(1850)に鎮座し疫病を抑えるために創建された。

その左隣りに船魂神社。
文久三年(1863)に当社境内に創建。
佃島の船大工が祀っていた船魂神を遷座させたと云う。

さらに奥に入船稲荷神社。
明治二年(1869)に遷座されたと伝わる。

旧神輿庫側に御祭神不詳の古河神社の祠。
川を守る神社で通称「かっぱ様」と呼ばれている。

佃島に悪さをする獺(カワウソ)がいて、その霊を祀ったという説が残る。

レンガ造の旧神輿庫・江戸時代の八角神輿

社殿の左隣に旧神輿庫。
明治四十三年(1910)に建てられたレンガ造。
現在でも倉庫として使われている。

社殿の右手奥に新しい神輿庫。
右手のガラス越しから納められている神輿を確認する事ができる。
関東では珍しい八角神輿で、天保九年(1838)のものと平成二十三年(2011)新調のもの2基が納められている。
広重が浮世絵にも描いた八角神輿。

3年に1度の本祭
佃住吉神社の例大祭である佃祭の本祭は3年に1度。
その際には平成に新調された八角神輿で船渡御も行われ、高さ20mに及ぶ6本の大幟が佃島に立つ。
住吉神社オフィシャルサイト | 例祭
東京都中央区佃に鎮座する住吉神社のオフィシャルサイトです。住吉神社の本祭りは3年に1度開催されます。この時、獅子頭の宮出し(中央区区民無形民俗文化財)や八角神輿の宮出し、神輿を船に乗せて氏子地域を巡る船渡御が行なわれます。また佃島の中には6本の幟が立てられ、龍虎の獅子頭、黒駒の獅子頭も飾られます。

岡崎雪聲による銅製燈籠・鰹塚などの文化財

参道途中に銅燈籠。
大正四年(1915)に奉納されたもので著名な鋳像師・岡崎雪聲の作。

岡崎雪聲(おかざきせっせい)
明治から大正にかけて活躍した鋳造師。
鋳造技術が高く評価され数多くの彫刻家の作品の鋳造に携わった事で知られる。
上野公園の西郷隆盛像は高村光雲が原型を造り雪聲が鋳造。
他に日本橋の麒麟像は渡辺長男が原型を造り雪聲が鋳造。
このように現在も広く知られる著名な彫刻に携わっている。
また二宮金次郎像(薪を背負った像)を初めて制作したのも雪聲である。

手水舎の裏手に鰹塚。
昭和二十八年(1953)に東京鰹節類卸商業協同組合から奉納。
鰹の大漁祈願と慰霊のために建立。

住吉神社と龍神社の御朱印・御朱印帳も用意

御朱印は社務所にて。
住吉神社の御朱印の他、龍神社の御朱印も頂ける。

住吉神社の御朱印は丸に鷺の社紋、左下に「住吉神社社務所印」。
龍神社の御朱印は2020年12月に参拝時は書き置きのみ。

オリジナルの御朱印帳も用意。
縁起物が色々と記されたもの

所感

佃島の歴史と共に歩んできた当社。
佃島が築島されると共に当社が創建され、佃島の名称由来は大阪からというのも面白いエピソード。
江戸から東京と古くから埋め立てられてきて拡張された当地周辺。
佃のみならず月島・豊海・晴海といった明治以降に埋め立てられた地域の氏神として崇敬を集める。
いつ参拝しても参拝者の姿を見る事ができ、地域にとって重要な存在なのがよく伝わる。
裏手に周ると水路に囲まれた境内になっていて、これは昔の佃島の海岸線の名残りだろう。
境内には明治の建物も多く、佃島の歴史を伝える実に良い神社である。

神社画像

Google Maps

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