於岩稲荷田宮神社 / 東京都中央区

中央区

概要

四谷怪談のお岩さんを祀るお稲荷様

東京都中央区新川に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、『東海道四谷怪談』で知られるお岩さんを祀るお稲荷様。
古くは四谷左門町の田宮家に鎮座していた屋敷神として創建しお岩夫婦が篤く信仰。
その後、お岩さんは鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の題材として脚色され、結果的に当社はお岩さんの神社として人気を博した。
明治までは四谷左門町に鎮座していたが、明治の火災で社殿が焼失した際、再建にあたり歌舞伎役者・市川左團次の協力もあり当地に遷座する形で再建。
戦後には四谷にも再建されたため「四谷於岩稲荷田宮神社」(新宿区左門町)は当社の飛地と云う扱いになっている。

神社情報

於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ)

御祭神:豊受比賣大神・田宮於岩命
社格等:─
例大祭:3月22日
所在地:東京都中央区新川2-25-11
最寄駅:八丁堀駅
公式サイト:─

御由緒

四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の主人公お岩の伝承をもつ神社。(飛地 四谷於岩稲荷田宮神社 新宿区左門町17)。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2023/08/24(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2020/12/07(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
鐵砲洲稲荷神社」の社務所にて。

※「鐵砲洲稲荷神社」にて御朱印を頂ける。
※「四谷於岩稲荷田宮神社」(新宿区左門町)の御朱印は現地にて。(不在率高め)

授与品・頒布品

言葉守
初穂料:─
拝殿前のBOX内にて。(現在は置かれていない事も多い)

※田宮家当主の宮司さんによる言葉守でお気持ちを賽銭箱へ。

歴史考察

田宮家の屋敷神として創建・お岩夫婦による信仰

社伝によると、創建年代は不詳。
徳川家の御家人・先手鉄砲組同心である田宮家の屋敷神として祀られたお稲荷様であった。

田宮家に伝わる仲睦まじいお岩夫婦
貞享年間(1684年-1688年)、四谷左門町に田宮伊右衛門とお岩と云う夫婦がいた。
仲睦まじい夫婦であったと云うが大変貧しい生活であったと云う。
お岩は御家人の娘であったが、家計を支えるために商家へ奉公に出た。
お岩夫婦は田宮家の庭にあるお稲荷様(屋敷神)を篤く信仰し、商家への奉公が成功した事もあり、田宮家は再興する事ができた。
『四谷怪談』は田宮伊右衛門とお岩との間で起こった怨念による怪談話となっているが、田宮家には仲睦まじい夫婦であったと伝わっていて、怪談と実際はかなり違いがある事が窺える。

お岩夫婦によって田宮家が再興、夫婦は屋敷神を篤く信仰していた。
こうした噂は四谷界隈でたちまちに評判となり、田宮家の屋敷神を信仰する人が増えたと云う。

屋敷まで参拝する人が増えた事から、田宮家では小祠を造り「於岩稲荷(お岩稲荷)」と命名。
屋敷神である「於岩稲荷」への参拝も許可するようになり人気を博した。

「於岩稲荷」「四谷稲荷」「左門町稲荷」など呼ばれ、商売繁盛・悪事や厄除けの神様として信仰されたと伝わっている。

鶴屋南北による『東海道四谷怪談』での創作

文政八年(1825)、江戸三座のひとつ中村座で『東海道四谷怪談』が初演。
これは鶴屋南北作の歌舞伎狂言で今も「四谷怪談」として広く知られる物語である。

鶴屋南北(つるやなんぼく)
四代目鶴屋南北と称される江戸時代後期の歌舞伎狂言の作者。
独創性に富んだ作風で怪談物、生世話物を得意とし、舞台装置も想像して歌舞伎の新しい表現を開拓した。
『東海道四谷怪談』は代表作の1つ。
東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)
鶴屋南北による通称「四谷怪談」で知られる歌舞伎狂言の演目。
大人気作となり怪談物の定番となる。
「四谷怪談」を元に後世には落語・浮世絵・小説・映画・TVドラマなどが創られた。
田宮伊右衛門とお岩を中心とした怨念溢れる怪談話。

(神谷伊右衛門 お岩のぼうこん)

歌川国芳が『東海道四谷怪談』を描いた『神谷伊右衛門 お岩のぼうこん』。

上述の通り田宮家の言い伝えでは、お岩夫婦は仲睦まじい夫婦であったと云われている。
しかし「四谷怪談」では、悪人として描かれている夫・田宮伊右衛門と、その被害者である妻・お岩の間での殺人、怨念が描かれた怪談物と全く違う姿で描かれていて、これらは鶴屋南北による創作とされている。

元々、当時の江戸時代で実際に起きた様々な怪奇や怨念のある事件を合わせ「お岩」と云う名だけを拝借したと見られている。

既に「於岩稲荷」などと称されて評判だったお岩さんの名を借りて、その死後から150年近く経ってから怪談として脚色をして仕立てあげたと云えるだろう。

『東海道四谷怪談』の題名からも実際の四谷とは関係のない(東海道に四谷はない)物語と云うようなニュアンスを残している。

歌舞伎役者から信仰された於岩稲荷

文政八年(1825)、初演された『東海道四谷怪談』であるが、お岩を三代目・尾上菊五郎、伊右衛門を七代目・市川團十郎が演じ大ヒットして、江戸中の話題となった。
必然的にお岩さんが信仰した四谷の「於岩稲荷」(当社)も更に注目浴びる事となる。

文政十年(1827)、町年寄の孫右衛門と茂八郎が幕府に『於岩稲荷由来書上』を提出。
これは各町に伝わる逸話や地誌をまとめた調査報告書の付録と云う扱いであった。

『東海道四谷怪談』があまりの人気となり「於岩稲荷」が注目されたため、幕府の指示で調査書を提出させたとされている。初演から2年後の事である。
調査書は『東海道四谷怪談』よりの話に
田宮家での伝承では仲睦まじいお岩夫婦であったが、この『於岩稲荷由来書上』と云う調査書では、話題となっている『東海道四谷怪談』よりの話が報告される事となった。
そのため鶴屋南北が創作した話を元に作らえたとも、南北が自作を宣伝するために袖の下を使ったとも推測されている。

田宮家に伝わるお岩夫婦の姿とはかけ離れた怪談物の舞台として注目される事となった当社。
結果的には当社も大いに崇敬を集め、田宮家も潤ったと云う。

特に『東海道四谷怪談』を演じる歌舞伎役者からの崇敬は相当なものであった。
いつしか当社に参拝しないで演じると祟りが起きるなどとも云われるようになる。

怪談であった故に祟りと結びついて話題となったのであろう。

江戸切絵図から見る四谷に鎮座していた当社

当社の四谷時代の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

%e5%88%87%e7%b5%b5%e5%9b%b3(四ツ谷絵図)

こちらは江戸時代後期の四谷周辺の切絵図。
北が左となっている切絵図で、下にあるのが内藤新宿(現・新宿付近)、上にあるのが四谷御門という地理関係になっている。
当社はそのうちの寺社が密集している中央地帯に見る事ができる。

(四ツ谷絵図)

四谷の「於岩稲荷田宮神社」周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ってあるのが四谷の「於岩稲荷田宮神社」で「於岩イナリ社」と記されている。
緑円で囲ってあるのが四谷総鎮守の「四谷須賀神社(旧・四谷天王社)」。

四谷須賀神社 / 東京新宿区
四谷総鎮守。『君の名は。』の聖地・男坂の石段。男坂の限定御朱印。『鬼滅の刃』『呪術廻戦』などアニメスタッフのヒット祈願絵馬。通年授与の茅の輪守り・蘇民将来の説話。稲荷社が起源・牛頭天王が合祀された四谷天王。酉の市。三十六歌仙絵。大國社。
当時の「於岩稲荷社」の鎮座地のあたりには、現在は当社の飛地扱いである「四谷於岩稲荷田宮神社」が鎮座している。

明治の火災で現在地に遷座・戦後に四谷にも再建

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

明治十二年(1879)、四谷左門町で火災が発生し当社の社殿も焼失。
再建にあたり初代市川左團次など歌舞伎役者の協力によって、四谷から現在地(現・中央区新川)へ遷座する形で再建を果たした。

芝居小屋に近い当地に遷座
元々は四谷左門町にある田宮家の屋敷神として祀られていた当社。
四谷の地を離れて現在地(中央区新川)に移転する事になったのは、当時『東海道四谷怪談』を手掛けていた初代市川左團次ら歌舞伎役者の希望によるところが大きい。
『東海道四谷怪談』を演じるにあたり当社に参拝しないと祟りがあるなどとも噂されるが、芝居小屋から四谷は比較的距離がある事で不便となっていた。
そこで火災で四谷の社殿が焼失した事を機に、歌舞伎役者の芝居小屋から近かった当地を社地として提供され再建される事となった。
これが現在の当社である。
当地へ遷座後も歌舞伎役者などの信仰が篤く門前には茶屋が開かれていたと云う。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で現在の鎮座地と同じ場所に鎮座。
「田宮稲荷」として記されていて地図上でも目印になるような神社であった。
社号からも田宮家のお稲荷様といったのが伝わり、お岩さんの神社として、歌舞伎役者からの崇敬の他、一般参拝者からの崇敬も篤かった。

越前堀(えちぜんぼり)と云う地名も見る事ができる。江戸時代初期に福井藩主松平越前守の屋敷地周辺にめぐらされた水路が由来で、この頃には埋め立てられていたようだが地名として残された。ちなみに現在の地名である新川は越前堀とは別に徳川家康によって普請された堀を由来とする。

大正十二年(1923)、関東大震災で社殿を焼失。
その後再建されている。

昭和六年(1931)、四谷左門町の「於岩稲荷田宮神社跡」が東京都史跡に指定。

既にこの頃には当社は四谷から現在地に移転していたが「於岩稲荷田宮神社跡」として指定された。

昭和二十年(1945)、東京大空襲にて社殿を焼失。

昭和二十七年(1952)、社殿を再建。
同年、四谷左門町の旧社地にも「於岩稲荷田宮神社」を再建している。

四谷にも再建した事情
明治に四谷左門町から現在の新川の地に移転する事となった当社。
しかし戦後になり直接お岩さんと縁のない「陽運寺」と云う寺院が四谷の旧社地近くに移転してくる形で、「於岩稲荷」を自称し「お岩さん」の伝承を喧伝するようになってしまう。
当社もこれには苦慮したようで、結果的に旧社地である四谷左門町の地にも再建する形を取り、これが現在四谷に鎮座している「四谷於岩稲荷田宮神社」である。
そのため「四谷於岩稲荷田宮神社」の目の前に「陽運寺」があるが、寺院と神社は全く関係がないので注意が必要。(そもそもお岩さんとも関係のない寺院)
現在も田宮家の当主が当社の宮司を担っている。
陽運寺 – 縁結び お岩さまの寺
東京四谷にある陽運寺公式サイト。当寺は江戸、文政年代に活躍した四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」で有名なお岩様をお祀りしていることから「於岩稲荷(おいわいなり)」とも呼ばれています。
現在は四谷の「四谷於岩稲荷田宮神社」は当社の飛地という扱いとなっている。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

中央区新川の路地裏に鎮座

最寄駅の八丁堀駅から徒歩数分の距離、亀島川を渡った先の路地裏に鎮座。
路地裏に面して鳥居や玉垣などは設けられていないのでやや分かりにくい。
壁に「於岩稲荷田宮神社」の社号碑が埋め込まれているのでこれが目印。

社地へ入ると整備された境内。
参道には石灯籠などが設置。
参道の右手に手水舎があり身を清める事ができる。

戦後に再建された社殿・明治座から奉納の賽銭箱

参道の左手に鳥居。手水舎のほぼ向かいに鳥居がある形。
路面に面して鳥居は設けられていなかったが、こうして社殿前には鳥居を設置。

鳥居の先にお稲荷様とお岩さんを祀る社殿。
明治に当地へ移転した後も関東大震災や東京大空襲で旧社殿は焼失。
昭和二十七年(1952)に社殿が再建され改修しつつ現存。
社号は「於岩稲荷田宮神社」であるが、扁額には「田宮於岩稲荷神社」の文字。
賽銭箱は明治座からの奉納で今も役者界隈などから信仰が篤い。

明治座(めいじざ)
東京都中央区日本橋浜町にある劇場。
東京を代表する劇場の1つ。
戦前から戦後昭和の一時期は歌舞伎や新派の殿堂として知られた。
本劇場の前身は江戸時代末期に両国にあった芝居小屋であったが、その後幾度も改称を経て、明治二十六年(189)に初代市川左團次が買収して座元となり明治座と命名。
明治座 公式サイト
各月の公演案内、座席表、交通案内などの劇場詳細。中央区。
明治座の座元となり名付け親にもなった初代市川左團次は、当社を四谷左門町から当地へ遷座させるのに協力した歌舞伎役者である。

社殿前には一対の神狐像。
にこっと笑うような表情。
こちらは子狐の首が取れてしまっている。

文化財に指定された鳥居や百度石

社殿の右手にも鳥居。
明治三十年(1897)に建立された鳥居。明治十二年(1879)に当地へ移転した当社への信仰を伝える。
関東大震災や戦災で社殿など焼失した当社だが、この鳥居は状態もよいまま現存していて、中央区の区民有形民俗文化財に指定。

於岩稲荷田宮神社の鳥居(おいわいなりたみやじんじゃのとりい)

鳥居の先に藤棚。
その奥に百度石が設置。

百度石も当社への崇敬の歴史を伝える。
大正三年(1914)に大阪浪花座でお岩を演じた四代目市川右団次が当社へ奉納。
お百度参りが盛んだった当時や、歌舞伎役者からの崇敬が伝わる。
上に置かれた球体は田宮家の家紋である陰陽曲玉を形取ったもの。

於岩稲荷田宮神社の百度石(おいわいなりたみやじんじゃのひゃくどいし)

狐塚(白狐社)・神狐像・顕彰碑など

百度石の奥には狐塚。
境内社の白狐社という位置づけ。
元々は田宮家の屋敷神のお稲荷様だった当社。
稲荷信仰の神使である狐を大切に信仰している。

手水舎の奥には一対の神狐像。
境内にはこうした神狐像がいくつも置かれて信仰の篤さを物語る。

その近くに顕彰碑。
町火消第一區十番組々頭・村田竹次郎之碑。
当社が四谷から当地に遷座する際に鳶職として地業を行ったと云う。

御朱印は鐵砲洲稲荷神社にて・社殿前には言葉守

境内には社務所も整備。
但し平時は無人なので御朱印は「鐵砲洲稲荷神社」の社務所にて。

鐵砲洲稲荷神社(鉄砲洲稲荷神社) / 東京都中央区
京橋地域の産土神。鉄砲洲富士と称される中央区唯一の富士塚。平安時代創建の古社。江戸湊の海岸線と共に東へ遷座。八丁堀や鉄砲洲の由来。江戸名所図会や浮世に描かれた当社や富士塚。湊稲荷とも称される。昭和初期の神社建築を残す社殿や境内。御朱印。
当社の宮司はお岩さんの田宮家の当主が担っているが四谷の「四谷於岩稲荷田宮神社」のほうにいる事が多いため、近くの「鐵砲洲稲荷神社」が御朱印対応などをして下さる。

御朱印は「田宮神社」の朱印、田宮家の家紋である陰陽曲玉。
「於岩稲荷 田宮神社」と墨書きをして下さる。
こちらは2023年に頂いた御朱印。

四谷の「四谷於岩稲荷田宮神社」の御朱印は現地にて。不在の事も多い。

社殿前にご由緒書などが入ったケースが置かれている。(現在は置かれていない事も多い)
こちらにお岩さんの田宮家当主による言葉守が置かれている。
様々な言葉と「四谷於岩稲荷田宮神社」の印が押された言葉守で、気に入ったものをセルフで頂ける。

これらは「四谷於岩稲荷田宮神社」にも同様のものが置かれている。お気持ちを賽銭箱に入れておくのがよいだろう。

所感

「四谷怪談」で有名なお岩さんを祀る当社。
田宮家に残る伝承ではお岩夫婦は仲睦まじい夫婦だったと云う。
それが150年近く後になり鶴屋南北によって『東海道四谷怪談』として脚色。
お岩さんの名前を拝借し、当時起こった奇々怪々な事件など虚実織り交ぜて創作した怪談話。
これが江戸で大ヒットし必然的にお岩さんが信仰した当社は歌舞伎役者を筆頭に俳優や芸妓などから信仰を集めた。
その後、明治の火災で市川左團次などの協力もあり当地に遷座したのが当社。
四谷ではなく新川の地に鎮座しているが、明治の火災での遷座を考えるとこちらが本社格。
四谷の「四谷於岩稲荷田宮神社」は当社の飛地という扱いになっている。
「四谷怪談」の詳しいストーリーは知らない人でも「お岩さん」の名は殆どの人が知っていると思うが、今もなお怪談話、そして人々の頭の中に残るのがお岩さんである。
様々な経緯を経て今に至るお岩さんを祀り、お岩さんが信仰したお稲荷様。
歴史だけでなく人々の信仰やそれにまつわるストーリーを含めて、とても面白い良い神社である。

Google Maps

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