神社情報
下総府中六所神社(しもうさふちゅうろくしょじんじゃ)
御祭神:大己貴尊・伊弉諾尊・素盞嗚尊・大宮売尊・布留之御魂・彦火瓊々杵尊
社格等:下総国総社・村社
例大祭:10月20日
所在地:千葉県市川市須和田2-22-7
最寄駅:市川真間駅・市川駅
公式サイト:─
御由緒
当六所之宮は、いまを去る1881年前人皇十二代景行天皇の勅願によって
大己貴尊 伊弉諾尊 素盞嗚尊
大宮売尊 布留之御魂 彦火瓊々杵尊
六神を祭礼した宮と伝えられ国府台字府中の六所の森(現在の国府台スポーツセンター内市民体育館)北に鎮座していました。
その後下総国の総社として国守による祭礼が行われて来ましたが戦国時代には里見氏、北条氏、千葉氏の各諸将の守護を受け、さらに徳川氏からは朱印賜り、篤崇敬されていました。
御神徳勇武の神として宏く、幸運招来、厄払い、縁結びさらに学問の神として須和田、真間、根本、市川の四カ村の鎮守として古くから崇められて来ました。
明治十九年境内が陸軍用地となったため此の地に遷座されました。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2018/10/31(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/06/15(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:500円
「葛飾八幡宮」社務所にて。
※本務社の「葛飾八幡宮」にて御朱印を拝受できる。
※以前は御朱印帳に頂けたが現在は書き置きのみ。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
歴史考察
下総国総社と伝わる六所之宮
千葉県市川市須和田に鎮座する神社。
旧社格は村社で、須和田の鎮守。
下総国の総社に比定される神社で、かつては「六所之宮」とも称された。
現在は大変規模の小さな神社であるが、古くは「六所の森」と呼ばれた地(現・国府台公園/市川市スポーツセンター)に鎮座していた古社とされる。
正式名所は「六所神社」であるが、他との区別のため境内にある記念碑から「下総府中六所神社」とさせて頂く。
現在は「葛飾八幡宮」の兼務社となっている。
景行天皇の勅願により国府台に創建
社伝によると、第十二代景行天皇(在位71年-130年)の勅願によって創建と云う。
現在も石碑には「景行天皇勅願所」の文字を見ることができる。
第十二代天皇(在位71年-130年)。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の父として知られる。
即位53年-54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国を巡幸したとされる。
創建地は現在の市川市国府台(こうのだい)。
国府台公園の市川市スポーツセンター付近に鎮座していたとされている。
かつてこの一帯は大樹が多く「六所の森」と呼ばれていた。
現在も小さな「下総総社跡」の碑が残る。
この旧鎮座地や国府台周辺の歴史は大変古い。
国府台の北部には現在は宅地化されているものの、丸山遺跡という旧石器時代の遺跡があり、弥生時代には規模の大きな環濠集落があったことが発掘調査によって明らかになっている。
古墳時代には、国府台周辺に数十もの古墳が築かれたと推定されており、旧鎮座地からも竪穴住居の遺構が見つかっている。
このように大変古い時期から人々の生活が営まれていたのが、国府台という土地であり、古くから祭祀など行われた神聖な土地が、旧鎮座地であったものと推測できる。
下総国の国府が置かれた国府台
日本に律令制が成立し、令制国となると当地周辺は「下総国」に属する事になる。
下総国の国府は、当時の葛飾郡(現・千葉県市川市国府台)に置かれ、国府台周辺からは国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。
国司が政務を執る施設が置かれた都市。
古代において下総国の政治的な中心が市川市周辺であった。
当社は正に下総国の政治的な中心地に鎮座しており、下総国の総社としての扱いを受けた。
総社の成立とその役割
当社は下総国の総社とされる。
各国の国府近くには「総社」と呼ばれる神社が置かれる事が多かった。
特定地域内の神社の御祭神を集めて祀った神社を「総社」と呼ぶ。
当時の律令制において、国司が着任後に行う最初の仕事は、任国内の諸社に神拝する事であった。
しかしながら、各国は大変広く移動には多大な労力がかかる。
そこで平安時代になると、国府の近くに有力な御祭神を集めて祀った「総社」を設け、総社を詣でることで各社の巡拝を省く事が制度化された。
正に効率化によって誕生したのが「総社」と云う事ができるだろう。
当社の御祭神と一之宮「香取神宮」の関係
下総国総社とされた当社の御祭神は以下の六柱。
大己貴尊(あああなむちのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
大宮売尊(おおみやのめのみこと)
布留之御魂(ふるのみたま)
彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)
六柱の神を祀ることから「六所之宮」と称された。
現在の「六所神社」の名称も御祭神が由来している。
一方で下総国一之宮「香取神宮」の御祭神は、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)である。
国司が赴任後、一番最初に神拝していた神社が一之宮であり、上述のように効率化によって誕生した総社の役割を考えるのであれば、一之宮「香取神宮」の御祭神が祀られていないのは不思議に感じるが、これには当時の事情があったのであろう。
さらに、当社に祀られる六柱は、関東圏の総社で良く祀られる神々である。
いわばこの六柱が関東圏での代表的な神々であり、別格である「香取神宮」を除き、これらの神々をまとめて祀ったのが下総国の総社であったと云えるだろう。
戦乱による荒廃と再興
平安時代に入ると、国府周辺は戦乱に巻き込まれる事となる。
長保三年(1003)、平維良の乱が発生。
平維良は下総国府を焼き討ちにし、官物を掠奪。
当社を含め国府台の土地は灰燼に帰したと伝えられている。
平安時代中期の武将。
長保三年(1003)に下総国府を焼討ちし官物を掠奪したかどで押領使・藤原惟風の追補を受け、越後国に逃亡した。
こうした戦乱により国府自体が荒廃。
律令制の崩壊によって、荒廃が加速していったのは想像に難くない。
文明十一年(1479)、太田道灌が国府台に仮陣を置き、弟の太田資忠らが国府台城を築いた。
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
その後、下総国一帯を治めた千葉氏の支配下に置かれるが、戦国時代に同氏が衰退。
すると里見氏・後北条氏などの介入が相次ぎ、国府台合戦の舞台となる。
戦国時代に下総国の国府台城一帯で北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた2度に渡る合戦。
国府台城は下総国の玄関口的な役割を果たしていた。
こうして幾度も戦火による荒廃を繰り返し、次第に疲弊していった事が窺える。
当社は総社としてよりも村の鎮守としての役割が色濃くなっていく。
江戸時代の国府台・歌川広重が描いた景勝地
天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
以後、徳川将軍家によって朱印地を賜っている。
幕府よりり寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。
朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。
泰平の世となり、戦乱によって疲弊した国府台も復興を遂げる。
江戸庶民からは江戸近郊の景勝地として人気を博した。
国府台城跡は、歌川広重も描いている。
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。
ここに記されている利根川とは江戸川の旧称であり、小高い崖が現在の里見公園付近。
江戸時代の国府台ののどかな様子である。
『名所江戸百景』に描かれた中では最も江戸から遠い一枚。
当社はこうしたのどかな国府台一帯の鎮守の一社であった。
中でも須和田村・六反田村と呼ばれた2村の鎮守として崇敬を集めた。
明治以降の当社の歩み・現在地への遷座
明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。
明治十八年(1885)、陸軍省が国府台に陸軍教導団を設置。
当社の旧鎮座地も押収。
大日本帝国陸軍において下士を養成した組織。
教導団廃止後も旅団が配備され終戦まで置かれるなど、国府台周辺は軍都として整備された。
明治十九年(1886)、現在地へ遷座。
須和田村と呼ばれた当地の鎮守として崇敬を集めた。
湿地帯で湿田のある所を古くは「すわ」と呼び、そのことから「諏訪田」と呼ばれ、後に転じて「須和田」となったと見られる。
明治二十二年(1889)、市制町村制によって、須和田村・国分村・曽谷村・下貝塚村・稲越村が合併し、五常村が成立。
明治二十三年(1890)、五常村が国分村に改称。
当社は国分村須和田の鎮守となった。
明治三十六年(1903)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で、当時には既に当地に遷座していた事が分かる。
合併後の国分村の地名も見る事ができ、当社が鎮守していた須和田の地名も残る。
街道の整備もされておらず、実にのどかな農村だった事が窺える。
戦後になり境内整備が進む。
現在は「葛飾八幡宮」の兼務社となっている。
境内案内
須和田の鎮守・府中六所宮の碑
市川市須和田の住宅街の一画に鎮座。
かつて下総国の総社とされた当社であるが、現在は小さな鎮守となっている。
社頭には当社の歴史を伝える碑。
上掲した「景行天皇勅願所 府中六所宮」の社号碑が総社としての歴史を伝えている。
その隣には御由緒書きの案内板。
ブランコも設置された地域の鎮守
鳥居は大正八年(1919)に奉納されたもの。
関東大震災や戦災などを免れ現存。
鳥居を潜り参道右手に児童遊具。
地域の鎮守として整備された懐かしい光景。
だいぶ古くなってはいるが、神社と児童遊具の組み合わせは親しみを感じる。
その先、参道の右手に手水舎。
現在は無人社であるが、水が張られ手ぬぐいも置かれていたりと、氏子によって毎日管理されている事が窺える。
比較的簡素な社殿・当時の市長による改築記念碑
社殿は比較的簡素な造り。
それでも綺麗に維持されているのが窺える。
昭和四十年代に改築された社殿が現存。
木造の本殿は年季が入っているのが伝わる。
鳥居潜ってすぐ右手に改築記念碑が立つ。
「下総府中六所神社」とあり、当時の市川市長・富川進の銘。
第十四代十五代市川市長
昭和四十一年(1966)から昭和四十九年(1974)まで市川市長を務めた。
当地の歴史を伝える多くの古い石祠や碑
参道の左手には古い石碑や小祠などが並ぶ。
当地周辺の古い信仰を伝える一画。
いずれも須和田周辺に祀られていたものが遷されたのであろう。
古い庚申塔や道祖神と思われる碑も。
この一画に境内社。
御由緒や御祭神は不明であるが、遷座前には末社が4社あったと史料にあるため、そういった末社や祠がこうして一緒に遷ってきたと思われる。
須和田自治会館や消防団倉庫など氏子交流の地
境内には須和田自治会館も置かれている。
2015年に参拝時は古い建物であったが、2016年に現在の会館が竣工。
鳥居前の左手には消防団の倉庫。
須和田地域の住民にとって大切な場所なのが窺え、地域交流・鎮守の場として、氏子より崇敬を集めている事が伝わる。
御朱印は本務社の葛飾八幡宮にて
御朱印は本務社である「葛飾八幡宮」にて。
案内はないが御朱印の対応をして頂けるので、お願いするのがよい。
御朱印は若干の変更があり。
左が2015年に参拝時、右が2018年に参拝時のもので、朱印も角の部分など新しく変更になった事が分かる。
所感
下総国総社と伝わる当社。
現在は総社として崇敬を集めたとは想像できない、とても小さな神社となっている。
それでも各国の総社は一部を除き廃れている神社も多く、総社に比定される神社が見つからない例もあるため、現在もこうして鎮守として残っているのは貴重であろう。
幾度もの荒廃を経ながらも、国府台の鎮守として、須和田地域の鎮守として、氏子による崇敬が篤かったからこそ再興され残っている云えるかもしれない。
現在も須和田一帯の鎮守として、地域の交流の場として大切にされている事が伝わってくる。
下総国の古い歴史と信仰の一端を窺う事ができる貴重な神社である。
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