常陸國總社宮(總社神社) / 茨城県石岡市

石岡市

【神社情報】

常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)
總社神社(そうしゃじんじゃ)

御祭神:伊弉諾尊・大国主尊・素戔嗚尊・瓊々杵尊・大宮比売尊・布留大神

社格等:常陸国総社・県社
例大祭:9月15日・9月の第3月曜日を含む土日月(常陸國總社宮大祭/石岡のおまつり)


所在地:茨城県石岡市総社2-8-1
最寄駅:石岡駅

公式サイト:http://www.sosyagu.jp/

【御由緒】

略記
千三百年もの昔、現在の石岡市は常陸国の国府が置かれ繁栄を極めておりました。国府の長官たる国司が新たに就任すると、国内の神々を参拝するのが習わしでした。その社の神を一箇所に集め祀ったのが総社だと考えられています。
社伝によれば聖武天皇の天平年間、勅命によって天神地祇六柱を国内六府の地に勧請合祀し、
国家の鎮護、皇室の御守護、民衆の幸福を祈願したとございます。当神社は六所明神を御祭神とする最も古い総社のひとつと称え奉られております。中世には一宮鹿島神宮と並び、夢ある毎に鎌倉将軍家より奉幣がございました。社宝「総社文書」は当時を記す貴重な史料です。時代は下り戦国時代には大掾氏をはじめ武家の崇敬篤く、永享年間には太田道灌が奥州下向の際に、
参籠祈願を行い和歌を残し、軍配を奉納いたしました。旧社格・県社。

例大祭(石岡のおまつり)
九月十五日と敬老の日を最終日とする三日間は「石岡のおまつり」と呼ばれる当神社の例大祭。重さ約一トンの大神輿をはじめ、四十基ほどの山車・幌獅子が練り歩く勇壮なお祭りには毎年四十万人もの見物客が訪れます。

(※頒布の紙より)

【参拝情報】

参拝日:2015/09/03

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【御朱印】

初穂料:300円

社務所にて。

挟み紙は御由緒などが書かれたものになっていた。

常陸國總社宮
【御朱印帳】

初穂料:1,000円
社務所にて。オリジナルの御朱印帳を用意。
関東三大祭りの1つに数えられる例祭「常陸國總社宮例大祭」(別称:石岡のおまつり)の様子がデザインされた御朱印帳。

※追記
手塚プロとのコラボによる御朱印帳も頒布開始している。

他に全国総社会による総社用御朱印帳を用意。(初穂料:1500円)
総社会用御朱印帳は通常サイズより縦長なやや特殊サイズ。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

【考察】

 常陸国総社・関東三大祭り 

茨城県石岡市に鎮座する神社。

古代・常陸国の総社とされ、旧社格は県社。
新字体の「常陸国総社宮」の表記も用いられ、別称として「總社神社」と称される事もある。
また氏子衆からは「明神さま」と呼ばれる事が多い。

毎年9月に行われる例祭「常陸國總社宮例大祭」は別名「石岡のおまつり」と呼ばれ、「川越氷川神社」の「川越氷川祭」・千葉県香取市(旧佐原市)の「佐原の大祭」と共に関東三大祭りの1つとされる。

 石岡市には国府が置かれる 

創建年代は不詳とされているものの、社伝によれば奈良時代である天平年間(729年-749年)に創建とされている。
これは、律令制度で国府が置かれたとされる時代と重なっているものの、この当時はまだ総社という制度が確立されていなかったとされるので、実際はもう少し後の創建になるかもしれない。

かつて石岡市には、常陸国の国府が置かれていた。
国府が置かれていた地域には、全国各地「府中」などの地名が残っているところが多く、石岡市にもその名残が色濃く残っている。

古代の令制国家において、国府に新たな国司が着任する際、赴任国内の神社を巡って参拝することが国司にとっての最初の仕事であり、習わしとされていた。
総社制度とはそれを簡略化した制度であり、国内の神々を一箇所にまとめた総社を設ける事で、総社に詣でれば国内神社巡回を省く事ができるというもの。
そのため総社は一般的に国府の近くに置かれている事がほとんどで、常陸国の国府が置かれた石岡にも当社が置かれたという事になる。
創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、天慶年間(938年-947年)に大掾氏が常陸府中(石岡)に府中城を築城した際に鎮守のために現社地に遷したという。
この総社制度は平安時代末期には確立していたとされ、少なくとも当社はその頃には創建していたと推測できる。

 一之宮・鹿島神宮との関係 

当時は国府にあるので「国府の宮」と呼ばれ、その後現在の御祭神である天神地祇の六柱の神が祀られるようになって「六所の宮」となり、さらに「総社」と改めている。
この六柱の主祭神だが、総社によくあるようにその国の一之宮から六之宮を祀っている訳ではなく、天神地祇の六柱の神が祀られている。

その証拠に常陸国一之宮である「鹿島神宮」の祭神、武甕槌大神は祀られていない。
これは常陸国には「鹿島神宮」という非常に力の強い一之宮があったため、「鹿島神宮」は別格として総社にはお祀りせず、それとは別に天神地祇の六柱の神をお祀りしたものと推測できる。

実際に「鹿島神宮」と対になる「香取神宮」のあった下総国の総社「六所神社」も、当社と同様に天神地祇の六柱の神をお祀りしている事からも分かる。
大変力がある一之宮が存在していた常陸国と下総国らしい事情が垣間見えて面白い。

古代、中世にかけて当社は一之宮の「鹿島神宮」と共に、常陸国で強い力を持ち、奉幣の祭祀が行われていた。
鎌倉幕府の将軍家からの奉幣も多かったという。
さらには永享十二年(1440)には、太田道灌(江戸城築城などで有名)が奥州へ向かうにあたって武運を祈るため参拝し、戦に勝って戻った折に軍配団扇1握と短冊2葉を寄進している。

江戸時代には、本殿に加え、幣殿・拝殿・神宮寺を有しており、規模の大きな神社だった事が分かる。
寛永四年(1627)、藩主の皆川隆庸が現在の社殿を再建。
その後、天和三年(1683)松平信定がに拝殿を修築している。

明治になると郷社に列している。
明治十九年(1886)、拝殿・神門の修築と本殿を銅の瓦葺に変更。
明治三十三年(1990)には、県社に昇格している。
氏子衆による寄付なども大変多かったという。

 江戸初期の本殿が現存 

現在の本殿は、寛永四年(1627)に再建されたものが修復されながら現存。

石岡市指定有形文化財に指定されている。
拝殿は昭和三十九年(1964)に火事により焼失。
昭和六十年(1985)に再建されたもの。

同年には社務所・参集殿なども新築されている。

拝殿前には樹齢500年の大樟の御神木。

旧拝殿が焼失した昭和三十九年(1964)の火事にも耐え、現在も生きているものの、一部の木肌が未だに黒く焦げており、今でもその火事の様子を偲ばせている。

 手塚プロとのコラボも 

拝殿脇には日本武尊が東方遠征の折、この地に立ち寄りここに腰を下ろして休まれたと言い伝えられている、日本武尊の腰掛石がある。

最近では当社は手塚プロダクションと共に、手塚治虫の「火の鳥ヤマト編」とのコラボを行っており、隣には案内板も置かれていた。

授与品・頒布品にも御守など、火の鳥とのコラボ品がいくつか存在している。

茅葺屋根の随神門や土俵も 

随神門は茅葺き屋根になっているのが珍しい。

随神門外には土俵があるのも面白い。

常陸國總社宮大祭に合わせて相撲大会が執り行われる。
この奉納相撲は江戸時代から行われていた神事。

御朱印は社務所にて。
オリジナル御朱印帳も用意されている。
また全国総社会による総社用の御朱印帳も用意していた。

 所感 

常陸国の総社として現在も崇敬を集める当社。
もう時期行われる例祭の「石岡のおまつり」の準備も着々とされていた。
全国的には多くの総社は中世に廃れ、後に再興される事はあるものの、かなりの割合で現在まで廃れてしまっている事が多く、中にはどれが総社だったのか分からない場合もあったりする。
実際に当社と同様に天神地祇の六柱の神を祀っているお隣の下総国の総社「六所神社」もかなり廃れて、かつての面影はほとんど残っていない。

その中で、現在まである程度の規模を維持して、石岡の人々の崇敬を集め続けた当社は、総社としては比較的珍しく凄い事ではないだろうか。
石岡の人々に崇敬され続ける姿が今も見受けられて、実に素晴らしい事に感じる。

【Google Maps】

神社画像
[ 参道入口 ]
[ 社号碑 ]
[ 大鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 随神門 ]
[ 本殿・拝殿 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 御神木 ]
[ 神武天皇遥拝所 ]
[ 十二末社 ]
[ 旧参道 ]
[ 神楽殿 ]
[ 神井 ]
[ 各境内社 ]
[ 日本武尊 腰掛石 ]

[ 社務所・参集殿 ]

[ 土俵 ]
[ 神輿庫 ]
[ 御由緒案内板 ]
【Google Maps】

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