池尻稲荷神社 / 東京都世田谷区

神社情報

池尻稲荷神社(いけじりいなりじんじゃ)

御祭神:宇迦之御魂神
旧社格:村社
例大祭:9月第3日曜
所在地:東京都世田谷区池尻2-34-15
最寄駅:池尻大橋駅
公式サイト:http://www.ikejiri-inari.com/

御由緒

 世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)をお祀りしたもので、今から約1300年前の昔、和銅四年の二月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は、「稲がなる」イナリの別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大な御神徳のあられる神様ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内に祀られています。
 当池尻稲荷神社は、今から約350年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村・池沢村の両村の産土神(ウブスナガミ)として創建鎮座になったもので、それより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。俗信仰として古くから「火伏せの稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられており、又、江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が掲載されています。
 当時は大山街道(現在の旧道)のほとりに、常光院の一隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(今の二子玉川方面道路)と津久井往来(今の上野方面バス道路)の二つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休憩して江戸入りする道筋にあり、又、江戸から大山詣での人々が大坂(現在、目黒区青葉台通り、三菱UFJ銀行青葉台分館を経て大橋への坂道、当時は大変な急坂で農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤く、現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳のあらわれであります。
 なお、境内にある手水舎の井戸水(涸れずの井戸)は京都伏見の薬力明神の神託による霊水として知られております。(頒布の用紙より)

参拝情報

参拝日:2016/12/07(ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/01/19(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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考察

池尻鎮守のお稲荷様

東京都世田谷区池尻に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧池尻村・池沢村(現在の池尻)の鎮守。
涸れずの井戸の伝承が残る稲荷信仰の神社。
稲荷信仰の総本社「伏見稲荷大社」稲荷講の東京での講元を担っている一社でもある。

江戸時代に開拓された池尻村と池沢村・池尻の地名由来

社伝によると、創建は明暦年間(1655年-1657年)とある。

大山道沿いにあった当地の「常光院」(現在は廃寺)の一角に勧請されたという。
旧池尻村・池沢村の鎮守として崇敬を集めたと伝わる。

池尻村は、江戸時代になってから開拓された村である。
江戸時代の史料には、水田よりも畑が多く大変のどかな農村であったと記されている。
食物神・農業神として篤く信仰された稲荷神を氏神としたのは自然な事であろう。
こうして開拓された池尻村の鎮守として創建された。

池尻村は、目黒川の支流であった北沢川と烏山川が合流する付近であり、その合流場所には水が溜まり池のような沼沢地帯となっていた。
「尻」とは出口や地形の終わりを意味する言葉であり、池のような沼沢地帯が終わり、目黒川へ水が流れでるあたりという意味で「池尻」と名付けられたのであろう。

なお、現在これらの川は暗渠となっていて、その上が緑道として整備されている。
北沢川緑道・烏山川緑道が合流する地点が、目黒川緑道(池尻4丁目)と云う名で整備されており、ここが当時は池のような沼沢地帯となっていて「池尻」の由来となった場所である。
「北沢川緑道」と「烏山川緑道」の2つの緑道が合流する地点から、遊歩道は「目黒川緑道」と名前が変わり、2つの緑道を流れる「せせらぎ」もここで合流し、「目黒川緑道」のせせらぎとして流下していきます。

旧大山道沿いに鎮座・大山道とは

当社は、かつての大山道沿いに鎮座していた。

大山道とは、相模国大山の「大山阿夫利神社」(神奈川県伊勢原市)への参詣者が通った古道の総称。

「大山阿夫利神社」は、雨乞いの聖地として江戸町民からの崇敬を集めた神社である。

関東総鎮護の神社です。神奈川県伊勢原市。ご祈願・各種行事・アクセスガイド・大山のハイキングコースなどについてご紹介しております。

江戸時代には「大山阿夫利神社」に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣したため、江戸の各地に大山へ繋がる大山道が整備される事となる。

現在の国道246号(玉川通り)も、かつては大山道と呼ばれていた。
現在も246沿いには所々に旧道が残り、その旧道沿いには庚申塔など、かつての信仰を見る事ができる。

その大山道沿いにあったのが「常光院」で、その一角に当社が鎮座。
当時は矢倉沢往還(現・二子玉川方面道路)と津久井往来(現・上町方面道路)の二つの街道からの人々が、三軒茶屋(三軒の茶屋があった事が地名の由来)で休憩して、江戸入りする道筋にあったため、道中の無事を願う多くの参詣者で賑わったという。

こうして池尻村・池沢村の鎮守として、大山道を利用する旅人によって崇敬を集めた。
中でも当社は「火伏の稲荷」「子育ての稲荷」として崇敬を集めたという。

江戸時代の史料から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(池尻村)
稲荷社
除地一段十二歩。池澤村境往還の傍にあり。当村及池澤の鎮守なり。本社九尺四方拝殿二間に三間。巽の方に向ふ。鳥居あり。是より本社まで三十間許。神体木像長七寸。その容常ならず烏帽子を戴き背に袋を負ひ手に鎌を握り岩石に腰を掛たる老翁なり。祭礼年々九月二十三日。

池尻村の「稲荷社」と記されているのが当社。
池尻村と池沢村の鎮守だった事が分かる。
規模としては現在よりも少し社地が広かったようで、御神像の姿についても記されている。
同じ境内にある「常光院」が別当寺であった。

江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

「北澤粟島社」「池尻祖師堂」と描かれた一枚で、下に描かれているのが「池尻祖師堂」。
「池尻祖師堂」とは当社の別当寺であった「常光院」の事であり、この境内に当社がある。
前に通る大通りが「大山道」で現在の246号となっている。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

当社を中心に拡大したのが上絵となる。
「祖師堂」と書かれたのが別当寺の本堂で、その隣にある「いなり」と書かれたのが当社だろう。
境内に小川が流れる雅な境内であった事が伺え、その小川の途中に井戸らしきものが見える。
これがおそらく涸れずの井戸(後述)ではないだろうか。
水との関わりも深かった神社だった事が伝わってくる。

涸れずの井戸・薬水の井戸の伝承

江戸時代より有名だったのは当社境内にある「涸れずの井戸」といわれる井戸。

どんなに日照りが続いても涸れる事がなく豊かな水をたたえていた事から、いつしかそう呼ばれるようになったという。
当時の大山道には、赤坂一ツ木(現在の「赤坂豊川稲荷」付近)から池尻村まで適当な飲用水がなく、街道を行き来していた多くの旅人が、当社にある井戸で喉を潤し重宝しており、特に雨乞いのための大山詣では必ず立ち寄ったとされている。
当然、旅人だけでなく、池尻村の村民からも大いに重宝されたのだろう。

いつしか「薬水の井戸」とも言われるようになり、「病気の平癒を心に三度念じ、神の薬として飲みほせば薬力明神の力により、病気立ちどころに快癒する」と伝えられるようになった。
こうした伝承からも、当社の井戸がどれほど重宝され信仰を集めたのかが伝わる。

時代は下って大正年間には、大変な渇水の年があり、付近の井戸はどれも枯渇してしまったのに、当社境内の井戸だけは豊富に水が湧いていたと伝えられている。

この井戸は現在も涸れる事がなく、今は手水舎に引かれており、手水舎の水がこの「涸れずの井戸」の水とされている。

明治以降の池尻は軍事地域として発展

明治になると神仏分離。
廃仏毀釈の影響を受け、別当寺の「常光院」は廃寺となっている。
当社は村社に列した。

明治十二年(1879)、池尻村が池沢村を編入。
当社は、江戸時代の頃より池尻村・池沢村の両村鎮守であったため、同じ氏子地域が合併したという事になる。

明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、世田ヶ谷村・経堂在家村・池尻村・若林村・三宿村・太子堂村・下北沢村・代田村や飛地などが合併して「世田ヶ谷村」が成立。
当地は世田ヶ谷村の池尻となり、後に池尻町となる。
その後、畑ばかりの農村地域だった池尻が、劇的に発展する事となる。

明治二十四年(1891)、騎兵第一大隊の兵舎が造られる。(現在の池尻4丁目)
明治三十年(1897)、駒沢練兵場が造られる。(現在の池尻1丁目2丁目)
このように農村だった池尻が、急に軍事地域と変貌を遂げる事となった。

明治三十九年(1906)の古地図がある。
当時の当地周辺との地理関係を確認する事ができる。

今昔マップ on the webより)

赤丸で囲ったのが当社であり、当時の地図にもほぼおなじ位置に神社の記号を見る事ができる。
当社の南側が広大な駒沢練兵場になっているのが分かり、正に軍事地域となっていた。

池尻が軍事地域として発展すると共に、商店や旅館が街道沿いに増えるようになり人口も増大。
大正十二年(1923)の関東大震災後は爆発的に人口が流入している。

戦時中と戦後の歩み

第二次世界大戦が勃発すると、軍事地域となっていた池尻は空襲の標的とされた。
特に昭和二十年(1945)の東京大空襲では、池尻一帯は悉く被災する事になる。

そうした中でも当社は、境内にあった2本の大ケヤキによって風向きが変えられた事で、社殿の焼失は免れたという。
なお、当時の御神木であった松の木は、戦時中に枯れてしまっているのだが、現在も直径125cm程の切株として大切に保存されている。

戦後になり、昭和三十八年(1963)、社殿の大規模修繕事業が行われる。
その翌年の昭和三十九年(1964)、国道246号の拡幅のために境内の一部が削られている。

平成二十三年(2011)、社殿屋根の修繕事業が行われて現在に至っている。

地下から汲み上げる手水舎・戦火を免れた社殿

池尻大橋駅より玉川通り(国道246号)を西に少し歩くと、通り沿いに鎮座している。
大通り沿いに鎮座しているので分かりやすい。

一之鳥居を潜ると参道が続き二之鳥居。
その先に手水舎がある。
上述した「枯れずの井戸」「薬水の井戸」の伝承は、この手水舎に繋がっている。
井戸の水は現在も枯れておらず、今はこの手水舎に引かれており、地下から汲み上げた水となっている。

その先、右手に社殿となり、現在の社殿は戦火を免れたものが現存。
昭和三十八年(1963)に大規模修繕事業で修繕し、平成二十三年(2011)にも屋根の修繕を行っている。
そのため屋根や向拝の部分だけ新しい木となっているのが分かる。
多くの寄進によって修繕が行われており、当社に対する崇敬の篤さを感じさせてくれる。

都市部に鎮座しているためビルに囲まれた境内となっている。
国道246の整備によって社地も削られたりしたものの、そうした中でもこうして境内が維持できているのは素晴らしい。
御神木は戦時中に枯れてしまったが、「松陰神社」から分けてもらった楠の木の苗木が立派に成長して御神木となっている。

水と蛇にまつわる境内社

境内社には蛇にまつわる社が二社鎮座している。

手水舎の前に「水神社」。
「水の神様=蛇」として蛇をお祀りしている。
社殿には蛇の絵馬が置かれているのが印象的。

社殿の左手には清姫稲荷神社。
御神体が白蛇と伝えられている。

なお、清姫は平安時代の「大日本国法華験記」「今昔物語集」に安珍・清姫伝説として登場する姫。
平安時代に、思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が、激怒のあまり蛇に変化し、紀州(和歌山県)「道成寺」にて鐘ごと安珍を焼き殺すといった説話である。
こうした伝説を元に、能・長唄・浄瑠璃・歌舞伎などの題材としても取り上げられており、当社の境内に祀られているのも、そうした関連によるものであろうか。
そのため「芸事や学業成就の神」として崇敬されている。

このように水や蛇にまつわる境内社がある当社。
「涸れずの井戸」が涸れることなく湧き出ているのも「蛇神様」のお陰として崇敬を集めたのだろう。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して下さった。
当社の社務所には「伏見稲荷大社稲荷講東京池尻扱所」の看板も掲げられているように、稲荷信仰の総本社「伏見稲荷大社」の講元の一社でもあるようだ。

所感

池尻の鎮守として崇敬された当社。
江戸時代に開拓された当地の氏神として、お稲荷様を祀ったのは自然な事であろう。
そして大山道沿いの神社として、村民だけでなく旅人からも崇敬を集めた。
江戸時代の大山詣では雨乞いのために行うものであり、当社に伝わる「涸れずの井戸」、そして水神社や清姫稲荷神社といった「水の神様=蛇」をお祀りする境内社と、稲荷様でありながら、何かと水との縁が深い神社に感じる。
何よりも「池尻」の地名も、そうした水との繋がりが深い地名である。
明治以降も池尻の発展と共にあった当社。
現在も多くの方が参拝に立ち寄る姿を見る事ができ、崇敬の篤さを感じる事ができる神社である。

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神社画像

[ 社号碑・一之鳥居 ]


[ 二之鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 神狐像 ]


[ 清姫稲荷神社 ]

[ 水神社 ]


[ 御神木 ]

[ 案内板・御籤掛 ]

[ 旧御神木保管所 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 社務所 ]

[ 神楽殿 ]

[ 神輿庫 ]


[ 南側鳥居 ]

[ 旧大山道碑 ]

[ かごめかごめの像 ]

[ 案内板 ]

Google Maps