駒留八幡神社 / 東京都世田谷区

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神社情報

駒留八幡神社(こまどめはちまんじんじゃ)

御祭神:天照大神・応神天皇
旧社格:村社
例大祭:10月中旬の土・日曜
所在地:東京都世田谷区上馬5-35-3
最寄駅:若林駅
公式サイト:─

御由緒

祭神は天照大神、応神天皇。北条左近太郎入道成願は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治三年(1308)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。その後世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母と際を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/11/22

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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考察

上馬鎮守の八幡さま

東京都世田谷区上馬に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上馬引澤(現・上馬)の鎮守。
かつては「駒留八幡宮」とも「若宮八幡宮」とも呼ばれていた。
当地の領主による創建など、現在の上馬の信仰が詰まった神社となっている。

当地の領主による創建・駒留と呼ばれた由来

社伝によると、徳治三年(1308)に当地の領主であった北条左近太郎入道成願が、篤く信仰していた八幡大神を勧請して創建したと伝わる。

八幡大神を勧請する土地を探す際、馬に乗り、その馬が立ち止まったところに社殿を造営する事とした。
その馬が立ち止まったところが当地であり、当地に社殿を造営した事から、馬(駒)が止(留)まるで「駒留」、「駒留八幡宮」と称されるようになった。

この時、御神体と共に経筒を納めていて、「徳治三年北条左近太郎入道成願」と記された経筒が江戸時代に発掘されており、これが当社の創建年代を特定する史料にもなっている。

世田谷城主側室の悲劇・サギソウ伝説・若宮八幡宮と称されるように

永禄年間(1558年-1570年)、世田谷城主であった吉良頼康には、寵愛した常盤という側室がいた。
その常磐は身ごもっていたものの、あらぬ疑いをかけられ自害する事となる。

この常磐の死は世田谷区の花に制定されている「サギソウ」の伝説にも伝わる。

今から400年以上も昔、世田谷城主 吉良頼康には奥沢城主大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりました。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがっていた白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。世田谷区公式サイトより)

昭和四十三年(1968)、区民の公募によってこのサギソウを「世田谷区の花」に制定している。

世田谷区の花 鷺草(サギソウ)についての詳細と育て方をご紹介しています。

頼康は、常磐の死と死産した子を聞いて嘆き悲しみ、死産した子を当社に祀る事としたため、当社は「若宮八幡宮」とも称されるようになる。
そして境内社の「厳島神社」には、弁財天として常磐を祀ったと伝わる。

江戸時代の領主大久保氏からの崇敬・上馬の鎮守となる

江戸時代に入ると、慶長十四年(1609)に馬引澤村が大久保氏の領地となる。
それ以降、上馬引澤(現・上馬)の鎮守と崇敬を集めた。

天和二年(1682)、領主・大久保忠誠が当社を修造した際に、経塚という地から壺を発見し、その中には経筒が納められていたという。

これが上述の「徳治三年北条左近太郎入道成願」と記された創建時の経筒である。
忠誠は社殿修造した際に、新たに法華経6部を書写し経筒に納めて、塚を築いて埋蔵したとされ、下記の絵がその経筒を描いたものとなっている。

%e7%b5%8c%e7%ad%92(新編武蔵風土記稿より)

寛政十一年(1799)、大久保伊賀守藤原忠雄は、社殿、厨子を修復寄進。
幣帛料として田地3反5畝を奉納している。

江戸時代の史料から見る当社

この絵が描かれている、文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(馬引澤村)
八幡社
除地七百六十三坪。上馬引澤の中ほどにあり。そのところの鎮守なり。駒留八幡と稱す。鎮座の年代その詳かなることをきかす。身體は左の手に半弓を執て巌上に立たまふ長一寸三分の像なり。相傳ふ天和年中領主大久保伊賀守本尊経塚駒留八幡宮、北條左近太郎成願奉安鎮所、徳冶三戊申年十月二十三日と錆たる銅板あり。按に此銅板の文は疑ふべし。全く経筒によりて後世いかにも此本尊の古くより建ることをしらしめんが為、いつの頃にや住僧のかく修し置るものと見えたり。経筒の文によれば尤古社にして、その證も亦明かなれば、徳治の頃よりも前に建し社と見ゆるを、かくしなせるはおこのわさならずや。又の傳へに始め左近太郎この地へ八幡宮を勧請せしとて、馬に打乗その止る所こそ鎮座の地なれど新誓せしが、果してこの地にとどまりし故宮を造営し、駒留八幡とは祝ひ祭りしと、これも後世よりいひなせしことにて、駒留八幡と云には別にゆへあるも知べからず。社頭は高さ所にて前に石階二十級を設けり。丘上には老松数十株ありて神さびし宮地也。
相殿一座若宮八幡。相傳ふ永禄の頃世田谷の城主、吉良左兵衛佐頼康の寵妾常盤と云しものありしが、故有て横死せり、その頃懐妊の身なりしかば堕體して男子の死骸出たるを、頼康ききてことにいたありて愁嘆の余若宮八幡にまつりて当社に納むと、事は若林村の條にも載せたり。
本社。拝殿二間に三間半。これより石階を歴て内宮に至る。内宮二間に九尺。前に石燈籠二基を立。
鳥居。社地の入口にあり両柱の間九尺。
末社。天神社。本社に向ひ右の丘の中腹にあり。稲荷社。同じあたりにあり。弁天社。鳥居に向て左方池中にあり、常盤の霊をまつると云、当社に附し除地別に十三歩あり。

馬引澤村の「八幡社」として記されているのが当社。
この頃の馬引澤村は、村民たちが上馬引澤・中馬引澤・下馬引澤の3地域に分けていて、当地は上馬引澤という地域にあり、当社は上馬引澤の鎮守であった。

上述したような領主による創建、世田谷城主の側室の悲劇、大久保氏による再興なども詳しく記されている。
やや高台に鎮座して、古い松の木が生茂る神聖なる土地であったようだ。
なお、別当寺は「宗円寺」(上馬3丁目)が担っていた。

明治以降の歩み・戦前の境内整備

明治になり神仏分離。
馬引澤村は、上馬引沢村・中馬引沢村・下馬引沢村に分離。
明治五年(1872)、上馬引沢村の鎮守として、村社に列している。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行に際し、上馬引沢村・下馬引沢村・野沢村・弦巻村・世田ヶ谷新町・深沢村の6村が合併し「駒沢村」が成立。
なお、駒沢の地名は、馬引沢村の馬(駒)と野沢・深沢の沢を合わせて名付けられた合成地名である。

明治四十年(1907)、社号を「駒留八幡宮」に改称。
明治四十二年(1909)、三軒茶屋(旧中馬引沢村)に鎮座していた天祖神社を合祀している。

昭和七年(1932)、世田谷区が成立すると当地は世田谷区上馬町となる。
古い地名である上馬引沢から引沢の文字が取られ、上馬となった事が分かる。
これが現在の上馬に繋がっていく。

戦後になると、現在の「駒留八幡神社」に改称している。
昭和四十一年(1969)、社務所、神楽殿、神輿庫などを改築。
img_2776昭和五十三年(1979)、江戸時代の作とされている宮神輿を修復。

余談になるが、上馬の鎮守が当社であり、下馬の鎮守が「駒繋神社」である。
どちらも駒(馬)の文字が入っているように、地名も含め当地と馬への縁は深い。
下馬鎮守。かつては「子の神(ねのかみ)」と称された由来。源氏ゆかりの神社。源頼義・義家(八幡太郎)の伝承。源頼朝の伝承・駒繋と呼ばれる由来。下馬と上馬に繋がる馬引澤村の地名由来。江戸時代に描かれた当社。緑に囲まれた鎮守の杜。御朱印。

重厚な拝殿と塚の上に建つ本殿

最寄駅である若林駅からは徒歩10分以内で、環七通りと世田谷通りが交わる若林交差点の近く、環七から少し入ったところに鎮座。
img_2806境内は意外と広く、一之鳥居は平成になってから塗り替えられたもの。
img_2804一之鳥居の先には石段があり、二之鳥居となっている。

二之鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎。
img_2801参道脇には狛犬が置かれ、正面に社殿。

社殿は大きなものではないが、重厚感のある造り。
img_2798飾り気はないものの拝殿の彫刻は見事。
img_2778本殿が塚の上にあるのが特徴的となっている。
img_2794これは天和二年(1682)に領主・大久保忠誠が、発掘した経筒を埋蔵して塚を築いたという逸話に基づくものであろう。
その塚の上に本殿が建っているものと思われる。
img_2789拝殿よりも明らかに高い位置に本殿があり、横から見ると中々に面白い形をしている。

多くの境内社・信仰を伝える一角

社殿の左手には多くの境内社が鎮座している。
img_2781境内社までの鳥居と参道があり、多くの境内社が整備されている。

一番奥にあるのが、世田谷城主・吉良頼康が寵愛した常盤を祀った厳島神社。
img_2788自害をした常磐は弁財天としてこちらに祀られている。
現在は水が張られてはいないのが少し侘しさを感じてしまう。

その右手には戦没者慰霊殿。
img_2784左手には駒留稲荷神社。
img_2786さらにその隣に小さな社が並んでいる。
img_2787左が菅原社・榛名社・三峯社で、右が御嶽社。
img_2790鳥居のすぐ左手には女塚社。
img_2791その左手に古い庚申塔が置かれている。

上馬周辺の信仰を感じさせてくれる一角。
これらは旧上馬引沢村と旧中馬引沢村に祀られていたものが、明治の合祀政策で当社境内に遷座したものが多い。
地域の鎮守として中心にあった事が伝わる。

御朱印は社務所にて。
img_2775丁寧に対応して下さった。

所感

上馬の鎮守である当社。
当時の領主によって創建され、村民だけでなく、その時代時代の領主達からの崇敬を集めた。
常磐の悲劇のエピソードは、現在の世田谷区の花「サギソウ」にも繋がっている。
塚の上に鎮座する本殿にも、古い伝承が残されているように、当地の信仰や歴史が詰まった興味深い神社となっている。
この日も地域の方が参拝に立ち寄る姿を多く見かけ、今もなお地域から崇敬されるのが伝わる、古き良き鎮守だと思う。

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神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]
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[ 二之鳥居 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 本殿・拝殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 境内社鳥居 ]
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[ 戦没者慰霊殿]
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[ 厳島神社 ]
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[ 菅原社・榛名社・三峯社・御嶽社]
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[ 駒留稲荷神社]
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[ 女塚社 ]
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[ 庚申塔 ]
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[ 石碑 ]
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[ 絵馬掛・御籤掛 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 社務所 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 石碑 ]
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[ 案内板 ]
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