寒川神社 / 神奈川県高座郡

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神社情報

寒川神社(さむかわじんじゃ)

御祭神:寒川大明神(寒川比古命・寒川比女命)
社格等:延喜式内社(名神大社)・相模国一之宮・国幣中社・別表神社
例大祭:9月20日
所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916
最寄駅:宮山駅・寒川駅
公式サイト:http://samukawajinjya.jp/

御由緒

相模國を始め、関八洲総鎮護の神として古くから朝野の信仰が殊のほか篤く、およそ千六百年前、雄略天皇の御代に奉幣のことが記されており、以後、御歴代の奉幣、勅祭が行われたとあります。醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模國唯一の名神大社と定められました。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/11/04(御朱印拝受/御朱印帳拝領/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/01/11(御朱印拝受)
参拝日:2015/07/15(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:お気持ち
客殿にて。(日によっては社務所にて対応)

※案内はないが「八方除」の御朱印も有り。(追記:2017年7月時点では八方除御朱印をやられていないとの情報を頂きました。)

[2016/11/04拝受]
(新御朱印)

[2016/11/04拝受]
(八方除御朱印)

[2016/01/11拝受]
(旧御朱印)

[2015/07/15拝受]
(旧御朱印)

御朱印帳

初穂料:1,300円
売店にて。

オリジナルの御朱印帳を複数用意している。
黒を基調とし、渾天儀と北斗七星を描いたもの。
裏には方位盤がデザインされている。
防水カバーも付けて下さる。
御朱印をお受けする客殿や頒布品の置いてある授与所ではなく、売店にて販売している。

[ 表面 ]
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[ 裏面 ]
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[ 御朱印帳一覧 ]
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授与品・頒布品

交通安全ステッカー
初穂料:300円
人形奉斎殿前にて。

授与所ではなく人形奉斎殿の前にセルフ式で置かれていた。

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歴史考察

相模国一之宮

神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する神社。
相模国の一之宮。
延喜式内社であり相模国唯一の名神大社。
旧社格では国幣中社、現在は神社本庁の別表神社となっている。
八方除の守護神と知られる大社である。

古代より鎮座の古社

創建年代は不詳とされている。
古代より土着の神として祀られていたものと思われる。

相模川沿いには相武国造(さがむのくにのみやつこ)と呼ばれる相模国東部を支配した国造がおり、高座郡(現在の海老名市付近)には、相模国の国府が置かれていたとされ、海老名市国分付近に相模国分寺があった。

当社はそこから10km圏内にあり、相模国一之宮としての格式を持っている。
相武国造の氏神が当社であると推定されており、こうした当時の国造や土着の豪族が造営したと推定できる。

雄略天皇年間(457年-479年)に奉幣の記録、さらに神亀四年(727年)に社殿建立の記録がある。
他に『続日本後紀』にて承和十三年(846年)に仁明天皇から従五位下を授る記録が存在している。

相模国唯一の延喜式内名神大社

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』には「寒川神社」として記載。

『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。

相模国には計13社の式内社があり、そのため「式内十三座」とも「延喜式内相模十三社」とも呼ばれる。
その中で、当社は相模国唯一の国幣大社に列しており、特に名神祭に預る名神大社にも列した。
このように古くから朝廷にまで名が知られた大社であった事が分かる。

こうしていつしか相模国の一之宮として崇敬を集めるようになる。
img_2255関八州鎮護の神・総鎮守として士民信仰の中心として信仰の篤い神社となる。

鎌倉幕府からの篤い崇敬・鎌倉幕府の滅亡と共に荒廃

中世に入ると相模国と関わりの深い武将からの崇敬を集めている。

治承三年(1179)、社殿が再興される。
寿永元年(1182)、源頼朝・北条政子が嫡男の安産祈願をしており、嫡男誕生の時、奉幣の使を立て、神馬などを奉納している。
建久三年(1192)、再び安産祈願をしており、この時に誕生したのが後の三代将軍・源実朝である。

このように頼朝・政子夫妻からの崇敬も篤かった。

建久五年(1194)、社殿修理の記録があり、鎌倉幕府による庇護があったのだろう。
建保二年(1214)、鎌倉幕府二代執権・北条義時による奉幣御使。
宝治元年(1247)、「宝治合戦」と呼ばれる鎌倉幕府の内乱があり、その時にも当社へ神馬や御剣の奉納がされている。

鎌倉時代には、鎌倉将軍家・そして執権北条氏など、鎌倉幕府より相模国の一之宮として篤い崇敬を集めた事が分かる。

しかし、その後の記録が途絶える事となる。

これは後醍醐天皇の討幕運動で、足利尊氏・新田義貞らにより鎌倉幕府と北条氏一門が滅亡した影響を強く受けたのだろう。

この時の戦乱の影響を受け戦火に巻き込まれたと見られており、当社は長らく荒廃した状態が続く。

後北条氏による再興

再興となるのは、後北条氏(小田原北条氏)が相模国を平定した後となる。

大永二年(1522)、北条氏綱によって社殿が再興される。
この時納められた棟札に「北条」と署名したのが、北条姓を名乗る初見とされている。

北条氏綱は、伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵国の半分・下総国の一部そして駿河国の半分にまで拡大させ、後北条氏の隆盛時代を作った人物であり、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる武将である。

大永年間(1521年-1527年)には一之宮である当社の他にも、箱根三所大権現(現・箱根神社)、相模国総社の相模六所宮(現・六所神社)伊豆山権現(現・伊豆山神社)の再建といった寺社造営事業を盛んに行っている。
いずれも鎌倉幕府の滅亡と共に荒廃した寺社であり、再建復興をする際に氏綱は「相州太守」を名乗った事で、内外に相模国の支配者としての立場を示したと云えるだろう。

天文十五年(1546)、氏綱の嫡男である北条氏康が社殿を再興。
永禄二年(1559)、後北条氏により社領を寄進されている。

このように戦乱の世で相模国を治めた後北条氏によって、当社は篤く庇護されていく事となる。

武田信玄による参拝・奉納の兜

戦国時代には武田信玄が行軍中に当社を参拝。
その際に、自身の纏っていた兜と太刀を奉納し除災招福を祈願している。
小田原城包囲をした時と思われるので、永禄十一年(1568)の事であろう。

そのうちの兜は、現在も当社の方徳資料館に「六十二間筋兜鉢」として所蔵されている。

%e5%85%9c寒川町公式サイトより)

現在は国指定重要美術品・神奈川県指定重要文化財となっている。

徳川将軍家からの庇護・江戸時代の史料から見る当社

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡。
同年、徳川家康が関東への領地替え(関東移封)によって江戸入りする事となる。

天正十九年(1591)、徳川家康から100石の朱印地を賜る。
100石というのは相当なものであり、相模国一之宮へ対する崇敬の現れと云えるだろう。
このように江戸時代には徳川将軍家からの庇護も篤く、その後も社殿の造営などがされている。

天保年間(1830年-1844年)に編纂された『新編相模国風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(宮前村)
寒川(左牟加波)神社
社地二萬千四百五十九坪なり。幣殿拝殿あり。神名帳に載る所、當國の大社にして、今も一宮と號す。(中略)社傅に祭神は、應神天皇なり。鎮座の年代は貞観十一年十一月十九日と云へと、是神位を授けられし年月を誤りしなり。(中略)承和十三年九月從五位下を授をる。(中略)寿永元年八月、頼朝の嫡男誕生の時、當社へも奉幣の使を立てれ、神馬以下寄納せらる。(中略)其後建久三年八月、右府誕生の時も例によりて奉幣あり。(中略)同五年十一月、社頭修理の事あり。(中略)健保二年十月にも奉幣使を立てる。(中略)寶治元年八月、怪異によりて使を立てれ、奉納等の事あり。(中略)其後大永二年九月、北條氏氏綱願主として社頭再興あり。(中略)天文十五年三月、左京太夫氏康も再興せり。(中略)其頃北條氏より社領として二十七貫文の地を寄附せらる。(中略)御入國の後、天正十九年十一月、社領百石の御朱印を下さる。例祭五月五日。當國諸折に散在せる五社(中略)の神輿を淘綾郡國府六所宮社地神揃山に集會し、神事あり。
神寶。兜一頭。武田信玄着領の物と云ふ。鉢乃鉢附板の三存し、餘は損失す。總て、黒漆鉢の内に天照太神宮、八幡大菩薩、春日大明神と三行に掘り、三月とあり。其餘に般若心經全部を彫れり。
本地堂。護摩堂。供所。
鐘樓。文化十一年再鋳の金を掛く。
隨神門。
末社。稲荷。山王。日月天。辨天二。
別當薬王寺。

詳細説明部分などは大変長くなるため中略とさせて頂いた。
高座郡の宮前村に鎮座しており、式内社としての記述や一之宮としての記述、上述したような中世の歴史などが記されている。
本地堂や護摩堂などから神仏習合の様子を見て取れ、別当寺は「薬王寺」(現在は廃寺)であった。

明治以降と戦後の歩み

明治になり神仏分離。
別当寺であった「薬王寺」は廃寺となっている。
明治四年(1871)、国幣中社に列した。

明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、高座郡一之宮村・中瀬村・岡田村・小谷村・大蔵村・小動村・宮山村・倉見村・田端村・下大曲村・大曲村が合併し、寒川村が成立。
これが現在の高座郡寒川町であり、寒川の地名は当社から取ったものである。

明治二十八年(1895)、本殿を新築造営。
この時の旧殿は高座郡寒川町倉見の「倉見神社」に払い下げられ現存している。

大正十二年(1916)、関東大震災により社殿が破損。
大正十四年(1918)、国費と氏子崇敬者の浄財によって社殿の造営を着工し、昭和七年(1932)に竣工した。

戦後になると旧社格制度は廃止され、現在は神社本庁の別表神社となっている。
平成九年(1997)には、現在の社殿が大改築された。
img_2227現在も八方除の守護神として関東一円から参拝者が集まり、正月の三が日にはのべ40万人が初詣に訪れる。

なお、TV放送の関係者には古くから「視聴率祈願の神社」として知られ、新番組開始前に参拝を行うことが多いとの事である。

寒川大明神の謎・寒川の語源

興味深いのが御祭神である。

「寒川大明神」と称され、御祭神は「寒川比古命」と「寒川比女命」とされる。

これらの二柱は『古事記』や『日本書紀』に登場せず、詳細が不明な神。
当地一帯では縄文や弥生時代の遺跡なども発掘されており、相当古い時代から、土着の信仰があったのではと推測できる。

しかし、江戸時代の史料などを見ると当社の御祭神は「八幡神(応神天皇)」とされている事も多い。
史料によってまちまちで、その多くは寒川神とも八幡神ともされている。
元々土着の神であった寒川大明神が、鎌倉幕府からの庇護などによって、後に源氏の氏神である八幡神と習合していったものと思われる。

当社の御祭神が現在の「寒川比古命」と「寒川比女命」に定まったのは明治になってからの事。
明治七年(1874)に、教部省が『皇太神宮儀式帳』に載る末社牟瀰神社の祭神が寒川比古命・寒川比女命であるから当社の御祭神も同様であろうという説を出し、明治九年(1876)にこの説を採用した。

このように御祭神として古くから一定を見なかったのも、やはり土着の神であった故に、時代によって変遷が起こったものではないだろうか。

「寒川」の語源については諸説あり、やはり有力な説がない。

民俗学者の柳田国男はサムの古い意味を「清い」という意味で「聖なる水」の意味と記している。

他にも諸説あり、やはり謎の多い土着の神社である。

レイライン・パワースポット・八方除

当社の場所はレイラインとも関係していると云われる。

レイラインとは、特別な日、特別な場所に、聖地が一直線に並ぶ現象の事。

具体的には当社から見る、日没がこうなる。

夏至には丹沢の大山に日が沈む。
春分・秋分には富士山に日が沈む。
冬至には箱根の神山に日が沈む。

大山には「大山阿夫利神社」、富士山には「富士山本宮浅間神社」、神山には「箱根神社」と、それぞれ古くから信仰の対象になった聖地の山であり、そうした聖地と当社が、夏至・冬至・春分・秋分の特別な日に直線状に並ぶ事になる。

駿河国一之宮。浅間神社の総本社。浅間造本殿。浅間信仰の歴史・富士曼荼羅図。湧玉池。富士山山頂に奥宮。御朱印。御朱印帳。

こうした太陽との関係は偶然とは思えず、古くから当地が霊地として選ばれ、古来信仰対象の地であった事を伺わせてくれる。
そのため現在ではパワースポットとしても名高い。

古くは相模湾が当社付近まで入り込んでおり、当社は相模湾に面していたと推定されている。
レイライン+相模湾の海という条件から、現在の御神徳である八方除に繋がったと思われる。

八方除とは、家相、地相、方位、日柄等からくる全ての悪事災難を取り除くことであり、方災厄除とも言える、方位信仰にまつわるもの。
方位信仰である九曜星を重要視しており、当社にも方位盤や渾天儀といったものが置かれている。
img_2222占星術・陰陽五行・天体信仰といった方位信仰に関する神仏が祀られていたのだろう。

八方除についてご案内します。古来唯一、八方除の相模國一之宮 寒川神社公式サイトです。寒川神社は、古くより八方除の守護神として信仰されています。

境内案内

境内から1km離れた一之鳥居・二之鳥居

当社の参道は当社境内から南に1kmほど続く。

JR相模線の踏切近くに一之鳥居が立つ。
img_2275昭和四年(1929)、相模鉄道株式会社の寄進されたもの。
参道は車道になっており車両で通る1kmほどの参道。

参道途中には鉄筋コンクリート造による大鳥居(二之鳥居)。
img_2274明治五年(1872)に老朽化によって撤去されたものの、氏子崇敬者の浄財によって昭和四十一年(1966)に再建されたものとなっている。
鉄筋コンクリート造りで当時は関東一と呼ばれた大鳥居である。

このまま三之鳥居まで車道での長い参道が続く。

整備された広い境内・神門では迎春ねぶたも

参道の先、境内の前には平成二年(1990)に立て直された三之鳥居が立つ。
img_2252手前には神池橋があり平成二十三年(2011)に架け直された太鼓橋になっている。
img_2256三之鳥居右手には整備された神池がある。

三之鳥居の先には綺麗に整備された参道が続く。
img_2257左手に大きな手水舎があり、その先に立派な神門。

神門は平成五年(1993)に竣工したもの。
img_2263重層の門となっており、実に重厚感のある造り。

この神門では、新年から2月の節分まで、神話にちなんだ迎春ねぶたが飾られるようになり、夜にはライトアップもされていて新たな名所となっている。
%e7%a5%9e%e9%96%80こちらは平成二十八年(2016)正月に参拝した時の迎春ねぶた。
この迎春ねぶたが開始されたのは、平成十三年(2001)の事。
平成二十四年(2012)まではその年の干支にちなんだ干支ねぶたが飾られていたが、干支が一巡した平成二十五年(2013)からは神話ねぶたが飾られている。

現在の神門が造られるより前の、旧神門は南門として移築されている。
img_2241昭和四年(1929)に竣工した門で、現在の神門のようなスケールではないものの当時を偲ぶ事できる。

スケールの大きな圧巻の社殿

神門の先には立派な社殿で、これぞ一之宮の大社と言うべき風格。
img_2235大正十四年(1918)に国費と氏子崇敬者の浄財によって社殿の造営を着工し、昭和七年(1932)に竣工した社殿で、平成九年(1997)に大改築された。
img_2234青空が映える美しい社殿。

この社殿の右手に八方除にまつわる渾天儀のモニュメント。
img_2219なお、古い渾天儀は当社の方徳資料館(神嶽山神苑内)に展示されている。

境内社は参道左手、車道を挟んで宮山神社。
img_2247宮山地区にあった7社をまとめて祀っている。
他に神嶽山神苑内に御祖神社が鎮座。

社殿左手の西廻廊先には神嶽山神苑(かんたけやましんえん)がある。
img_2273平成二十一年(2009)に開苑した神苑で、池泉回遊式の日本庭園や茶屋や資料館も併設している。
各種御祈願・大祓祈願申し込みを人のみ入苑できる形となっている。

カラフルになった御朱印と豊富な御朱印帳

御朱印は、客殿もしくは社務所にて。
img_2259日によって対応場所が違うので尋ねるのがよいだろう。
初穂料はお気持ちとの事。
なお、神門を入った右手に授与所があるが、そちらでは御朱印はやられていない。

御朱印は2016年10月中旬よりカラフルなものとなった。(画像右)
%e5%be%a1%e6%9c%b1%e5%8d%b0案内はないが八方除の御朱印も拝受できる。(画像左)
(追記:2017年7月時点では八方除御朱印をやられていないとの情報を頂きました。)

オリジナル御朱印帳は複数用意している。
こちらは授与所や客殿では頒布されておらず、境内入ってすぐ右手にある売店にて販売。
img_2238特に方位信仰にまつわるを渾天儀がデザインされた御朱印帳の人気が高い。
img_2428境内にはこうした売店の他、軽食を食べる場所などもある。
名物の八福餅はあんこで包んだ美味な餅で、お土産にも人気となっている。

所感

相模国一之宮として格式高い当社。
八方除の御神徳や歴史から、当地が古くから霊地として選ばれていた事が推定できる。
謎の多い御祭神も、この地が土着の人々により崇敬され続けてきたものであろう。
鎌倉幕府からの崇敬と荒廃、後北条氏の再興、徳川将軍家からの庇護と、相模国や関八州に関わる武将たちからの崇敬を集め、一之宮としての歴史を感じる事ができる。
境内にある建物などの多くは明治以後・戦後に造られたものが大半であるが、それらも崇敬者達の浄財によるものであり、多くの崇敬者によって支えられているのが伝わる。
私事としては、当社に毎年参拝しているのだが、その度に快晴となるのが嬉しい。
一之宮らしい格式のある大社で、一之宮の中でも好きな一社である。

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神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]
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[ 二之鳥居(大鳥居) ]
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[ 神池橋・三之鳥居・社号碑 ]
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[ 社号碑 ]
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[ 神池橋・三之鳥居 ]
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[ 三之鳥居 ]
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[ 参道 ]
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[ 神池 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 神馬舎 ]
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[ 神門 ]
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[ 社殿 ]
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[ 渾天儀 ]
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[ 御神木 ]
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[ 授与所 ]
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[ 西廻廊 ]
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[ 客殿 ]
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[ 社務所 ]
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[ 納札殿 ]
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[ さざれ石 ]
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[ 南門 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 旧一之鳥居 ]
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[ 人形奉斎殿 ]
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[ 御籤掛 ]
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[ 末社・宮山神社 ]
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img_2249
[ 平和塔 和光 ]
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[ 売店・土産屋 ]
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[ 神嶽山神苑入口 ]
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[ 案内板 ]
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Google Maps

『寒川神社 / 神奈川県高座郡』へのコメント

  1. 名前:ぷりん 投稿日:2017/07/02(日) 12:01:07 ID:54ee5e961 返信

    いつも勉強させて頂いております。
    寒川神社の御朱印ですが、現在は、八方除けの御朱印はないそうで、一種類のみだそうです。
    情報提供までに、コメントさせていただきました。

  2. 名前:神社メモ 投稿日:2017/07/02(日) 19:54:53 ID:20c681622 返信

    ぷりん様

    コメントありがとうございます。
    現在、八方除けの御朱印はやらなくなってしまったのですね。
    御朱印もカラフルになったりと変更がありましたので、
    その影響かもしれませんね。

    記事内の情報、修正させて頂きます。
    教えて下さりありがとうございました。

    また何かお気付きな点がありましたら、教えて頂けたら幸いです。