丸子山王日枝神社 / 神奈川県川崎市

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神社情報

丸子山王日枝神社(まるこさんのうひえじんじゃ)

御祭神:大己貴神(大国主神)
旧社格:村社
例大祭:8月13日-15日(丸子山王祭)
所在地:神奈川県川崎市中原区上丸子山王町1-1455
最寄駅:新丸子駅
公式サイト:http://home.n06.itscom.net/hiejinja/

御由緒

 丸子山王日枝神社の御祭神は 「大己貴神」、またの御名を「大国主神」、人々には「大黒様」として広く親しまれ、医薬の神、農業・商工業・漁業の守護神、縁結び・福の神として信仰されています。
 当社は、所蔵の「由緒書」によれば、今から1200年ほど前の平安時代の初め、大同四年(809)六月十四日に創建されました。
 京都に平安京をつくった第五十代桓武天皇の御子の貞恒親王の次男恵恒僧都(山本平左衛門尉恒重)と弟の次郎左衛門尉恒明が滋賀県大津市の日吉大社の御分霊を勧請し、丸子庄総鎮守(中原区丸子地区の守り神)「丸子山王権現」として創建された神社です。
 治承二年(1178)には小松内大臣平重盛公により社殿が再建され、今も社宝とされている小太刀を奉納したと伝えられています。
 また、徳川時代の寛永十九年(1642)八月十七日には三代将軍家光公からご朱印二十石をたまわっていました。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/09/20(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/11/10(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※授与所に人がいない場合は境外にある社務所に要連絡。

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考察

中原区丸子氏神の山王さま

神奈川県川崎市中原区上丸子山王町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上丸子村の鎮守。
かつての丸子庄(現在の中原区丸子地区)の総鎮守とされている。
正式名称は「日枝神社」だが、他との区別のため「丸子山王日枝神社」とさせて頂く。

丸子庄の総鎮守・丸子の歴史

社伝によると、大同四年(809)に創建とある。

桓武天皇の御子の貞恒親王の次男・恵恒僧都(えこうそうず)と弟の次郎左衛門尉恒明が、滋賀県大津市にある日吉・日枝・山王神社系の総本社「日吉大社」の御分霊を勧請したとされる。
丸子庄総鎮守「丸子山王権現」として創建したと伝わる。

丸子地区の歴史は大変古く、多摩川沿いの沖積低地としては珍しく古墳が築造されており、鉄剣や埴輪も出土している土地であり、古くは「丸子庄」と呼ばれていた。
(これらの遺跡は大正時代に多摩川の堤防工事のため撤去されてしまっている。)

鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』からも「丸子庄」の文字を見る事ができ、大変歴史の古い土地、地名であった事が分かる。
当社は、そうした丸子庄の総鎮守として創建している。

なお、「丸子」は「まりこ」と読まれており、「まるこ」と読まれるようになったのは近世に入ってからであり、地名の由来は、「丸子部(まりこべ)」という古代における服属型部民が暮らしていた事が由来とされている。

平重盛による社殿造営・領主の変遷

治承二年(1178)、平重盛(平清盛の嫡男)により社殿が再建。
現在も社宝として残る小太刀を奉納したとされている。

当社が鎮守した丸子庄は、時代によって様々な権力者が領主として支配した。

鎌倉時代になると上述の『吾妻鏡』に丸子庄を葛西清重に賜ったことが記されている。
南北朝時代には丸子庄が三千院から護良親王へ譲渡。
これは正中二年(1325)、天台宗の「三千院文書」の中に、武蔵国丸子庄の文字が見れるものである。

室町時代には「丸子保」と呼ばれ、かなり広大な地域であったようだ。
戦国時代には、江戸城を築城した事でも有名な太田道灌が争いの中、丸子郷へ陣を移しており、その後には後北条氏の支配下にあった事が分かる。

後北条氏が支配している頃には丸子郷が「上丸子」「下丸子」と分かれるようになったようで、上丸子村が成立している。
当社には文化財として当時の後北条氏による印判状が所蔵されている。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡。
同年、関東移封によって江戸入りした徳川家康の支配へと移っていく事となる。

江戸時代の当社・徳川家からの朱印状

江戸時代に入ると、寛永十九年(1642)に三代将軍・徳川家光より御朱印二十石を賜っている。

元々、徳川家康が江戸入りした頃には、御朱印二十石が確定していたそうなのだが、朱印状の下付が遅れていたため、徳川家の代官頭4名の連署によって朱印状の保証をしていた文書が残っている。
家光の代にようやく朱印状が届き、以後は御朱印二十石の神社として崇敬を集めた。

元文五年(1740)には社殿を建立。
img_0912拝殿と幣殿は大正十二年(1923)の関東大震災の際に倒壊したものの、本殿は当時のものが今も現存している。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(上丸子村)
山王社
村の東方にあり、御朱印20石。本社2間に3間幣殿2間に2間半。拝殿は2間半四方。前に鳥居を立つ。鎮坐の初は詳かならず。御朱印を賜ひしは寛永19年8月17日なり。当社の縁起あれど後人付会せしものとみえて取べきことなし。ことに貞治庚申などあらぬ年号をしるしぬれば考ふるによしなし。もし貞治は治承の誤にて支干は更に誤り載せしにや。是のみならず其載する所何れもうけがひ難きことともなればここにのせず。
寶物剣一振。長さ僅に9寸5分なり銘はなし。
鎗一筋。銘日向守正氏の五字えりたり。これらは小松内大臣重盛の納めたりといへどもたしかなることをしらず。
古文書二通。
駒形社。本社に向て左にあり。9尺四方。
稲荷社。本社に向て右にあり、1間四方。
釈迦堂。境内にあり。是は村内大楽院の持。
神主山本丹波。吉田家の配下なり。いづれの頃より当社の神主となりしや家系を傳へざれば詳ならず。按に社傳にも神宮寺の名は見え神主のことは記さず。旦社地の釈迦堂は村内大楽院の持なれば、昔は当社も大楽院の持にて山本氏の神主となりしは遥に後のことなりと土人いへり。今は大楽院にては当社のことにはあづからず。

「山王社」として記されている。
徳川家からの御朱印を賜った事などを記してあり、御由緒にもあるように平重盛からの奉納として社宝についても記されている。
かつては「大楽院」(川崎市中原区上丸子八幡町)が別当寺であったとされているが、この頃には別当寺ではなかったようだ。
それでも神仏習合の中、境内にあった釈迦堂は「大楽院」の所有だったそうで、丸子地区の鎮守として信仰の中心になっていた事が分かる。

明治維新後の歩み

明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。

明治二十二年(1889)、上丸子村・小杉村・宮内村・上小田中村・下小田中村・新城村の6村が合併して、中原村が成立。
当地は中原村大字上丸子となる。

大正七年(1918)、村内の八幡社・天神社・大六天社・熊野社・神明社・諏訪社・杉山社を合祀。
明治以降の合祀政策の影響を受けたものと思われる。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生し、本殿は無事であったが、拝殿と幣殿が倒壊している。

大正十五年(1926)、東京横浜電鉄が開通。
「新丸子駅」が設置され、この駅名によってかつては「まりこ」と呼んでいた地名だが近世に使われだした「まるこ」の読みが定着する事となった。

昭和三年(1928)、拝殿と幣殿が再建された。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
戦前の社殿であるが現在とほぼ変わらぬ造りなので、改修されながら現存しているのが分かる。

昭和十八年(1943)、上丸子が上丸子天神町・上丸子八幡町・新丸子町・新丸子東・丸子通に分立。
戦後の昭和三十二年(1957)、当社を中心とした上丸子山王町が分立。

当社はこうしたかつての丸子地区、丸子連合九町の氏神として現在に至っている。

江戸時代の本殿が現存・神使の神猿像

新丸子駅から多摩川の土手沿いに行った住宅街に鎮座している。
img_0937境内は比較的広くいつも綺麗に整備されているのが特徴。

鳥居を潜ると左手に手水舎、その後参道が続く。
参道の両脇には神猿像が置かれている。
img_0914山王信仰の神使は猿であり、氏子崇敬者によって奉納されたもの。
img_0915右手の神猿像は子を抱えている。

社殿は中々に立派な権現造。
img_0927拝殿と幣殿は大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊してしまったため、昭和三年(1928)に再建されたものとなっており、第二次世界大戦の戦火を免れている。

本殿は元文五年(1740)に造営されたものが現存。
img_0930本殿は三間社流造・銅板瓦棒葺。
川崎市内に現存する江戸時代の神社本殿で三間社となっているのは当社のみ。
正面向拝には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻があるそうだ。

川崎市内唯一の三間社流造の遺構であり、細部の意匠も素晴らしい。
武蔵国橘樹郡にて、江戸時代に建築された社殿を代表する一つであろう。

丸子地区の歴史が詰まり整備された境内

比較的広い境内には見どころも多数。
綺麗に整備されており、地域からの崇敬が篤い事が伝わる。

社殿の右手には境内社の「稲荷神社・大鷲神社」の合祀殿。
img_0928大鷲神社は昭和二十六年(1951)に、日本一の酉の市で有名な浅草の「浅草鷲神社」から勧請で、既に境内にあった稲荷神社と合祀する形となった。
以降、11月の酉の日になると「酉の市」が開催され、非常に賑わう事となっている。

参道左手には木遣塚。
img_0918中原鳶工業組合が奉納した碑。

その先に神輿庫(奉安庫)があり、さらに先に敬神祈念碑が置かれている。
img_0922平重盛による再建800年を記念し、昭和五十四年(1979)に総本社「日吉大社」より豊臣秀吉寄進の御神橋(国の重要文化財)の橋脚1基を当社境内に移して敬神記念の碑として置かれたものである。
そのため通称、秀吉の石橋とも呼ばれる。

社殿の裏手には丸子地区の古い信仰の名残を見る事ができる。
img_0908多く置かれた古い稲荷社。
img_0909さらに江戸時代の庚申塔なども並ぶ。
img_0910その他、古い社号碑なども置かれている。

社殿の裏手右側には御神木。
img_0932樹齢700年の杉の樹根で、明治時代には高さ30m、周囲8mの3本が連なる巨木であったとされ、「山王さんの大杉」と呼ばれ親しまれていたもの。
明治時代に1本、大正時代に1本と倒れ、唯一残っていた1本も昭和九年(1934)に伐採されてしまったが、今もなおこうして樹根のみだが大切に安置されている。

他にも囃子舞台と一体となった町内会神輿庫や、授与所や山王会館と一体となった神楽殿など、境内整備が進む、地域に親しまれ崇敬されているのが伝わる。

御朱印は授与所にて頂ける。
資料としても優秀な当社についてのリーフレットも一緒に頂いた。
鳥居の右手すぐに授与所があるので、そちらのインターホンを押したら対応して下さったのだが、御朱印は境外にある(西側の通りを挟んだ向かい側)社務所で行うらしく、境外にある社務所を往復して下さり、お手数をおかけしてしまった。
img_0906授与所が留守の場合は、境外にある社務所に連絡するとよいだろう。

所感

丸子地区の総鎮守として創建され崇敬を集めてきた当社。
比較的規模も大きく、丸子橋を渡る際に時折参拝するのだが、いつ来ても綺麗に整備されているのが素晴らしい。
江戸時代の本殿など古い信仰を伝えるものから、近年になって奉納され整備されたものまで、丸子地区一帯の歴史や信仰を感じさせてくれる。
1月には元日祭・びしゃ祭(おびしゃ)・丸子どんど焼きがあり、2月には節分祭、4月に山吹祭、8月には例大祭である丸子山王祭、11月には酉の市と、多くの行事がお祭りがあり、丸子地区の方にとってはお馴染みのお祭りで大変賑わう。
その地域の歴史と信仰を感じさせてくれる鎮守は、崇敬され続けてきた証拠であり、当社も正に丸子地区を伝える鎮守である。
川崎市を代表する良社の1つであろう。

神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]
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[ 鳥居 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 参道 ]
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[ 神猿像 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 拝殿・本殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 案内板 ]
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[ 稲荷神社・大鷲神社 ]
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[ 御神木 ]
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[ 旧社号碑 ]
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[ 八百八橋 ]
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[ 庚申塔 ]
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[ 稲荷社 ]
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[ 木遣塚 ]
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[ 奉安殿(神輿庫) ]
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[ 敬神の碑 ]
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[ 授与所 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 山王会館 ]
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[ 神輿庫・囃子舞台 ]
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[ 案内図 ]
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[ 案内板 ]
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[ 社務所(境外) ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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