大森神社 / 東京都大田区

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神社情報

大森神社(おおもりじんじゃ)

御祭神:久久能智命
社格等:村社
例大祭:9月14・15日に近い土・日曜
所在地:東京都大田区大森北6-32-12
最寄駅:平和島駅
公式サイト:─

御由緒

 天正年間の創建と伝えられる。当時この辺りは海辺であり、里人達は漁業をもって生活をしていた。ある時黄金色に輝く像が岸辺に流れつき里人達は畏れて沖へ流すこと三度に及んだが元の場所に寄り来たるので社を建てて、この像を祀ったのが当社の起源といわれている。そのため、この社を寄来明神と称し、また寄来神社と称した。明治元年に神伯 白川資訓王より大森神社の社号並びに額面を賜わり、その後昭和7年10月大東京都実現の折に大森神社と公称するようになった。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2016/07/22

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。

大森神社

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歴史考察

木の神を祀る神社

東京都大田区大森北に鎮座する神社。
旧社格は村社。
旧大森村の美原(三原)地区の鎮守。
かつては「寄来神社」「寄来明神」と称されており、関東圏では珍しい木の神・久久能智命(ククノチ)を御祭神とする神社である。

創建にまつわる伝説

社伝によると、天正年間(1573年-1593年)に創建とある。

かつてこの地域は海辺であり、村民は漁業で生活を営んでいた。
ある時、海上に金色に光り輝く像が岸辺に流れ着いた。
村民達は畏れて像を沖に押し流したものの、再び元の場所に流れ着く。
その度に沖に押し流すものの、3度押し流しても、元の場所に寄って来るため、祠を建ててこの像を祀ったのが起源とされている。

この金色に光り輝く像は、阿弥陀像だったとも伝えられている。

寄来明神と称される・美原地区の由来

像が何度も元の場所に「寄り来たる」という創建由来から「寄来明神」「寄来神社」と称され、村民たちから崇敬を集めた。
また「寄来神社」の社号から、福が寄って来るとされたという。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(東大森村・西大森村・北大森村)
寄来明神社
除地7畝15歩、村の北の方海邊より西へいりてあり。相傳ふ中古弥陀の立像海岸へ流れ来しを、取上て守に祭れり故に寄来と号すと。本社九尺四方拝殿三間半に二間、祭礼年々九月十五日、社地の北方に社を守れるものの庵室あり。

「寄来明神社」と記されており、創建由来についても記載されている。
かつては北方に庵室がありそちらが管理していたようだ。
この当時は大森村が東大森村・西大森村・北大森村の3村に分離していた時代であるが、当社はその字名の南原・中原・北原の鎮守であった。

なお、南原・中原・北原の3つの原を集めて「三原(みはら)」と総称。
そのため当社は大森村三原地区の鎮守と云える。
いつしか、これが転じて美称し「美原」と書かれるようになり、その名残が現在もいくつか残っている。

代表的なのが、現在の大田区大森本町から大森東にかけて、旧東海道がほぼ当時の道幅のままで残っており、そちらが現在も「美原通り」と呼ばれている事だろう。

神仏分離と現在

明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。

明治元年(1868)に神祇伯・白川資訓王より「大森神社」の社号並びに額面を賜わったとされる。
昭和七年(1932)、東京市に編入する際に現在の「大森神社」に正式に改称している。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿を焼失。
戦後の昭和三十八年(1963)に再建された。

上述のように美原地区の鎮守であった当社は、かつて旧東海道(美原通り)まで社地があり、今より規模の大きな神社だったとされる。
第一京浜/国道15号(旧・1號國道)が通るようになり、第一京浜の拡張と共に社地も削られていく事となる。
さらに境内の裏手には京浜急行が通り、国道と鉄道に挟まれる形で、現在のこぢんまりとした規模となっていった。

木の神である久久能智命と推論

当社の御祭神は久久能智命(ククノチ)である。
かなり珍しい御祭神であり、関東圏ではあまり見ない御祭神となっている。

日本神話の神産みにおいて、イザナギ・イザナミの間に産まれた神。
「木の精ククノチ」として産まれており、木の神と云えるだろう。

何故このような珍しい神が祀られているのか非常に興味深い。
資料などは焼失しているため不明との事だが、かつては浜辺で漁村であった当地に、木の神が祀られているというのは何とも不思議に思う。

ここからは筆者の推論になるのだが、品川区東品川の「寄木神社」との関係があったのでは、と推測している。

南品川漁師町の鎮守社。石蔵造りの本殿。かっぱ狛犬。伊豆長八の漆喰細工。日本武尊と弟橘姫命の伝説。源義家と兜島の伝説。荏原神社の末社。御朱印。

かつて「寄来神社」と呼ばれていた当社と、同じ読みである「寄木神社」。
同じく当時の海沿いにあり漁業を営む漁村に鎮座していた。

寄木神社」は日本武尊の伝説から、日本武尊と弟橘姫命を御祭神としているのだが、社伝では木片が流れ着いた事が創建由来とされている。
また『新編武蔵風土記稿』に記載された「寄木神社」の項目には「北大森村にも同社あり」という一文が記されており、これが正に当社の事であろう。

この事から「寄来神社」とされていた当社も「寄木神社」とされる事があったのではないだろうか。
そして「木」の社号から、木の神を祀ったという推論。
もしくは社伝にある流れ着いた阿弥陀像が木像であったのならどうだろうか。

いずれにせよ推論に過ぎないが、関東圏では珍しい久久能智命(ククノチ)をお祀りする当社は、とても興味深い神社である。

こぢんまりとした境内

第一京浜(国道15号)沿いに鎮座する当社。
image上述したように、かつては今より広い社地を有していたのだが、第一京浜の拡張と共に社地が削れててしまい、現在はこぢんまりとした境内になっている。

鳥居を潜って左手に手水舎。
image小さい神社ながらもいつも水はしっかりと張られている。
手水舎の左手には百度石の姿を見る事ができる。
imageまだ社地が広かった当時、当社に百度参りした人がいたのだろう。
当社が大いに崇敬された証拠でもある。

そして正面には朱色に塗られた社殿。
image戦後の昭和三十八年(1963)に再建されたとあるが、比較的新しさを感じる。
image境内からは本殿をあまり見る事ができないのだが、境外に出て裏手に回るとこうして本殿の姿を拝む事もできる。

境内社は社殿左手に二社が並ぶ。
image左手が椿神社で、右手が稲荷神社。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して下さった。

所感

平和島駅よりすぐの第一京浜沿いにこぢんまりと鎮座する当社。
かつては旧東海道(美原通り)まで伸びた社地を有していたものの、現在は社地が削られてしまっており、往年の姿を見る事はできない。
社殿も戦後の再建であり、歴史を感じさせるのは百度石など極一部となっているが、境内は綺麗に整備されており、現在も地域からの崇敬を集めているのが伝わる。
御祭神である木の神・久久能智命は関東圏では大変に珍しい神であり、御神徳を求める崇敬者もいるようだ。
古くは浜辺であり漁村であった当地に何故木の神が祀られたのか。
個人的にはとても興味深い神社である。

神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 灯籠 ]
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[ 境内社(椿神社・稲荷神社) ]
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[ 社務所 ]
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[ 百度石 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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