新田神社 / 東京都大田区

神社情報

新田神社(にったじんじゃ)

御祭神:新田義興公
社格等:府社
例大祭:10月10日
所在地:東京都大田区矢口1-21-23
最寄駅:武蔵新田駅
公式サイト:http://nittajinja.org/

御由緒

 清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称した。新田義興公はその七世の裔新田義貞公の第二子で、幼名を徳寿丸と申され、後醍醐天皇の御前にて元服されて従五位左兵衛佐に任ぜられた。義興公は幼少より智・勇に勝れ、殊に後醍醐天皇よりは「義貞の家を興すべき人なり」と、義興という名を賜わった。
 義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元二年十二月(1337年)、北畠顕家卿と共に鎌倉を攻略、翌三年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破された。正平七年(1352年)には宗良親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫く関八州に号令された。
 その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されたが、武蔵・上野の豪族等に擁立されて再び東国に入られた。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗した。そこで、国清は竹沢右京亮・江戸遠江守らに命じて卑怯な計略をめぐらした。
 正平十三年(1358年)十月十日、江戸・竹沢らの用意した舟で矢口の渡しを渡ろうとされたところ、舟が川の中流にさしかかると、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げた。
あざむかれたと気付かれた時は、すでに遅く、舟は沈みかけ、ときの声とともに、江戸・竹沢らの軍勢に矢を射かけられ、終始一貫その忠儀を尽くされた義興公と従士十三人は矢口の渡しで壮烈なる最後を遂げられた。
 その後、十月二十三日悪計加担の渡し守等は多摩川にて難船水死し、江戸遠江守は矢口にて義興公の怨霊に悩殺され狂死した。基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ち、竹沢・畠山も罪悪を訴える者があり基氏に攻められ諸所流浪の末死んだ。
 この後も義興公の御霊が「光り物」となって矢口附近に夜々現れ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれ社祠が建てられ、「新田大明神」として広く崇め奉られた。これが新田神社の起こりである。
 江戸時代に於ては「新田大明神縁起」をもとに、蘭学者平賀源内が脚色した浄瑠璃「神霊矢口渡」が上演され、大名・武士から町人に至るまで武運長久・家運隆盛の守護神として広く崇敬を集め参詣者絶えることなく今日に至る。
 明治六年一月府社に列し、同四十二年九月には特旨を以て従三位が追贈せられた。(頒布のパンフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/10/12(御朱印拝受)
参拝日:2017/05/29(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/10/04(御朱印拝受/御朱印帳拝領)
参拝日:2015/05/06(御朱印拝受)
ほぼ隔月

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※2017年9月より新田大明神の墨書きとなった。
※2017年4月より破魔矢などのスタンプが押されたカラフルな御朱印となった。
※兼務社の「矢口氷川神社」の御朱印も頂ける。

[2017/10/12拝受]
(新御朱印)

[2017/05/29拝受]
(旧御朱印)

[2016/10/04拝受]
%e6%96%b0%e7%94%b0%e7%a5%9e%e7%a4%be(旧御朱印)

[2015/05/06拝受]新田神社(旧御朱印)

御朱印帳

初穂料:1,500円(御朱印代込)
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
2016年9月頃より黒を基調とした御朱印帳の頒布を開始した。
破魔矢、新田義興公の兜、御神木と実に新田神社らしいデザイン。
なお、以前はピンク色の桜柄の御朱印帳で可愛らしいものを用意していた。(画像:Twitter

[ 表面 ]
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[ 裏面 ]%e6%96%b0%e7%94%b0%e7%a5%9e%e7%a4%be%e5%be%a1%e6%9c%b1%e5%8d%b0%e5%b8%b32

授与品・頒布品

ペットおまもり
初穂料:600円
社務所にて。

他の神社でもたまに同タイプをお見かけするが、裏には新田神社の刺繍が入っている。
各社向けに刺繍などは変わっている。
色はピンクと青の2種類有り。

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パンフレット
初穂料:─
社務所にて。

2015年参拝時は御朱印やお守りをお受けした際に、こちらのパンフレットを頂いた。
26ページになるフルカラーのパンフレット。(現在は頒布されていない)

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歴史考察

新田義興公を祀る神社

東京都大田区矢口に鎮座する神社。
旧社格は府社で、南朝の忠臣である新田義興公をお祀りしている御霊信仰の神社。
社殿の後方には円墳があり義興の遺骸を埋めた墳墓と伝わる。
平賀源内『神霊矢口渡』の舞台になるなど縁が深く、破魔矢発祥の地として知られる。
現在は多摩川七福神の恵比寿を担っている。

南朝の忠臣・新田義興という武将

社伝によると、創建は正平十三年/延文三年(1358)とされる。
謀殺された新田義興を、村民たちが墳墓を築き、義興の霊を鎮めるために神としてお祀りし、墳墓の前に当社を創建した。

新田義興(にったよしおき)は、南北朝時代の武将。
南朝の総大将・新田義貞の次男。
南朝の忠臣とされ、無類の勇将として名を馳せた。

南朝の総大将であった父の義貞は、鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となったものの、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立。
後醍醐天皇側について南朝方の武将として戦死した人物である。

父・新田義貞は福井県「藤島神社」に祀られており、建武中興十五社の一つに列せられている。

そうした南朝総大将・新田義貞の次男が、当社に祀られている新田義興である。
元服に際して吉野で後醍醐天皇に謁見した際に「誠に武勇が器用である。義貞の家を興すべき人なり」として義興の名を給るほど無類の勇将と伝えられていた。

父の義貞、さらに兄の義顕が戦死した後も、南朝方の中心として、弟の義宗や従兄弟の脇屋義治ら新田一族を率いて鎌倉奪還を目指し、武蔵野合戦など各地を転戦していたとされている。

この事から南朝の忠臣として知られる。

義興の侍女・少将局の悲劇

新田義興については『太平記』に顛末を詳しく記されている。

足利尊氏が没した半年後の正平十三年/延文三年(1358)、義興は好機と捉え鎌倉奪還のため挙兵。
これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、関東管領の畠山国清は、義興の進出を畏れ奸計を用いて殺害しようとする。

鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町幕府が関東における出先機関として設置した鎌倉府の長官。関東管領(かんとうかんれい)とは、その鎌倉公方を補佐するための役職。

新田の元家臣であり足利側に寝返った竹沢右京亮を使い、再び新田側に寝返ったと装い近づかせたものの、容易に信用される事がなく、そこで竹沢は京都から選りすぐりの美女を義興に与えて巧みに取り入り、時間をかけ謀殺の機会を狙う事となった。

この美女が、少将局(しょうじょうのつぼね)である。
京都から来た16・17歳ぐらいの上臈(高級女官)であったとされており、義興は大変気に入り侍女としたと伝えられている。

こうして少将局を与えた竹沢は義興に取り入る事に成功した。
少将局も、竹沢と共に義興謀殺の企みに加わわりながらも、次第に義興に心惹かれていったと云う。

いよいよ時期到来と見た竹沢は、義興を自宅へ招いて謀殺するために、一族郎党を集めて自宅付近に隠れ、宴の際に謀殺しようと試みた。

それを知った少将局が義興へ「夢見が悪いので7日間は外へ出ないように」といった文を届け、竹沢の招待に応じないように懇願。
義興はその文を見て外出をせず、窮地を脱する事となる。

しかし、この事が露見して少将局は竹沢一族郎党によって殺害されてしまう。

村民が少将局を弔って塚を建てたのが女塚と呼ばれる塚で、大田区西蒲田に鎮座する「女塚神社」であると伝えられている。
西蒲田(旧女塚村・旧御園村)鎮守。少将局のカラフル御朱印。新田義興と侍女・少将局(しょうじょうのつぼね)の悲劇。少将局の墳墓とも伝わる女塚・女塚村の由来。女塚村鎮守の八幡社。明治になり八幡社が女塚に遷座。本務社は「蒲田八幡神社」。御朱印。

矢口の渡しでの謀殺

少将局を使った謀殺に失敗した竹沢は、関東管領の畠山国清に援助を求める。
そして江戸遠江守とその甥・江戸下野守が密かに300騎余を率い参加。

竹沢は協力する兵が鎌倉に多数いるので、密かに鎌倉入りするべきだと唆し、これを信じた義興は、少数の側近のみを従え、夜明けに多摩川「矢口の渡し」に誘い出された。

竹沢は背後に射手150人を隠し、江戸遠江守や江戸下野守は300騎余を率いて対岸の茂みで待ち伏せをし、更に船頭を買収して舟底に穴を空けさせ、両岸から挟撃する手はずとなった。

義興と家臣が川の中ほどに漕ぎ出したところで、船頭が穴の栓を抜き逃げてしまう。
背後からは射手による矢が飛んできたため、進退窮まった義興ら主従は対岸に泳ぎ着いて江戸遠江守側の敵兵と斬り合いとなり討死。(自刃したとも伝えられる)

%e7%a5%9e%e9%9c%8a%e7%9f%a2%e5%8f%a3%e4%b9%8b%e6%b8%a1(香蝶楼国貞・神霊矢口之渡)

こちらは香蝶楼国貞(三代豊国)が、天保十四年(1843)から弘化四年(1847)にかけて制作した『神霊矢口之渡』と云う錦絵。
窮地に立たされた義興とその御家来衆が描かれている。

こうして無類の勇将と讃えられた南朝の忠臣、新田義興は謀殺されてしまう。

同様に討ち死にした御家来衆は当社近くの「十寄神社」に祀られている。
新田義興公と御家来衆を祀る神社。南朝の忠臣・新田義興。矢口の渡しでの謀殺。祟りを鎮めるため新田神社と十騎神社の創建。当社に参拝後に新田神社へ参拝すると願い事が叶う伝承。古い社号碑。多摩川七福神・毘沙門天。本務社は「徳持神社」。御朱印。

義興公の祟りを鎮めるために創建

義興を謀殺した江戸遠江守、竹沢右京亮は鎌倉公方の足利基氏のもとへ馳せ参じる。
関東管領の畠山国清に褒賞され、それぞれ数ヶ所の恩賞地を拝領した。

ここから義興の祟りと伝わる出来事が始まる。

遠江守が恩賞地へ向かう際、謀殺に協力した船頭の舟が矢口の渡し場に迎えに来たところ、暴風雨が起こり船頭は川に落とされて死んでしまう。
驚いた遠江守は引き返すも義興の怨霊が現れて落雷により落馬。
遠江守はその数日後に狂死した。
畠山国清の夢にも義興が現れ、陣地近くの家や仏閣などが落雷により焼失。

(江戸名所図会)

こちらは『江戸名所図会』に描かれた矢口古事の様子。
謀殺された義興が現れ、遠江守の祟る様子を描いている。

このように義興の祟りと思われる事態が、謀殺した側の人物に相次ぐ事となった。
さらに謀殺の現場となった矢口付近には夜ごと光り物が現れて人々を悩ますようになる。

そこで、正平十三年/延文三年(1358)、当地の村民たちが墳墓を築き、義興の霊を鎮めるために神としてお祀りし、墳墓の前に当社を創建。
この墳墓は現在も「御塚」として当社境内に残されている。
これが当社の創建起源であり当時は「新田明神社」と称された。

これらは『太平記』にも記されており、当社は義興の霊を鎮めるための御霊信仰の神社という事が分かる。

新田氏の末裔である徳川家からの崇敬・江戸庶民からの人気

江戸時代になると徳川将軍家より篤い庇護を受けるようになる。

徳川氏(徳川将軍家)が新田氏の末裔であるとされた事による。

徳川将軍家からの庇護、さらには武家諸氏より信仰を受ける神社として発展。

更に天才・奇才とも言われる平賀源内とも深い繋がりがあり、お祀りしている新田義興公やその弟の逸話を平賀源内が脚色した脚本『神霊矢口渡』の浄瑠璃や歌舞伎が上演。(詳しくは後述)
江戸庶民からも大変な崇敬を受けるようになる。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(矢口村)
新田明神社
村の中央にあり。新田左兵衛佐義興の霊を祀れり。社地は古より検地せしことなければ、歩数をしらずと云。縁起の略に云。新田大明神は、左中将義貞朝臣の次男左兵衛佐藤義興を祭れるなり。(中略)野人村老集りて義興の亡霊を一社の神に祭り、墳墓をきづき竹樹を植て新田大明神と名づけける。これ延文三年十月なり。さればこの邊に立よる人は、忽神罰を蒙りけるにより神職をはじめ里人に至るまで近よらず。又いつのころよりか正月十日、十月十日二度の祭礼をこなひしより、年々おこたらずと云々此縁起は延宝年中林春斎のえらひしものなりといへば、多くは古書を閲して抄出せしならん今、太平記・神明鏡・南方紀傳等の書と参考するに、大抵はたがひなし。
本社。宮作、石壇の上にあり。壇の大さ二間に三間。
幣殿。四間に二間。茅葺なり。本社を少ばかり、へだてて前にあり。
鳥居三基。木にて作る。其中前にたてるものには新田大明神の五大字を扁す。
鐘。神楽堂の前にあり。銘文あれどもいとちかきものなれば略せり。楼もありしが、今は損壊して廃したり。
絵馬堂。三間に二間。拝殿に向て左にあり。
神楽堂。同ならびにて前の方にあり。二間に三間。
末社
稲荷社。同ならびにて、拝殿の脇にあり。小祠。
牛頭天王社。稲荷の脇にあり。尤小祠。
疱瘡神社。同ならびにあり。前に鳥居をたつ。
三峯社。同ならびの隅、古墳の方にあり。
稲荷社。拝殿に向ひて左の方別当本堂のならびにあり。
神馬殿。神楽堂に向ひてあり。神馬の形を作りて安ぜり。
新田義興墳。本社の後ろあり。墳の径七-八間、上に竹薮十竿生たり。人この墳に触る者あれば、忽祟ありとて、廻りに柵をゆひまはし、竹のかれしも取去ることをおそれてそのまますておけり。相傳ふ此墳は義興の屍及びその時の舟をこほちて埋みし印の塚なり。そのかみは玉川今の墳の後をながれしにより、川邊の方を正面としてきつきたるゆへ、社をいとなむに及て墳前菜地なかりしかば、後の方へみやつくりせしかど、今に正面の方へも石の鳥居をたてり。墳の側に石碑あり。是は近き頃松平大学頭頼寛の建立なり。(銘・略)
別当真福寺

大変長くなるため、一部中略とさせて頂く。

矢口村の「新田明神社」として記されているのが当社。
当社境内に現存する道標にも「新田大明神」と記されている。

人気の神社であったため、大変長い記述がされている。
中略とした箇所には、御由緒にもあるような新田義興公の伝承・神霊矢口渡などが大変細かく記されており、あまりに文字数が長くなるため割愛させて頂いた。

別当寺は「真福寺」が担っていた。
境内社の数も多く大変立派な境内だった事が分かる。

こうした当社に対する膨大な記述からも、大変な崇敬を集め江戸周辺から人気を博した神社だった事が伝わる。

江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

新田明神社(江戸名所図会)

「新田明神社」が当社で、「真福寺」というのは当社の別当寺(現在は廃寺)。
境内の規模は現在とあまり変わらない規模を誇る。
配置も現在とかなり近く、本殿の裏手に墳墓(義興の墓)が描かれている。
鳥居は表参道だけで三基もあり崇敬の篤さを感じさせる。
境内社も三峯社、稲荷社、天王社と存在していたようだ。

(江戸名所図会)

注目すべきは社頭の街道で、何やら物を売っている姿が見られる事。
こちらはおそらく「義興の矢」という矢だと思われる。
当社の門前の茶店で売られていたもので、これが「破魔矢」の起源とされる。

破魔矢発祥の地・平賀源内『神霊矢口渡』の舞台

当社は「破魔矢の発祥の地」とされる。
現在もこうして社殿の前に破魔矢のオブジェが建っている。
これには天才・奇才と称された平賀源内と新田氏の伝説が関わってくる。

御祭神として祀られている新田氏には、その先祖である平安時代中期の武将・源頼光から「水破」「兵破」という二本の矢が家宝として伝わっていたという伝説が残る。

この伝説から、宝暦年間(1751年-1764年)には、当社の門前の茶店で「義興の矢」という矢が売り出されていたとされる。
上述の『江戸名所図会』で描かれた社頭の街道で売られていたのが、それであろう。

そこに目をつけたのが平賀源内。
エレキテルの復元などで有名で、発明家・本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家など多才な人物として知られる。
「土用丑の日のうなぎ」を考案した人物でもあり、日本初のコピーライターと見る事もでき、更に現在の魔除けのお守り「破魔矢」を考案したともされている。

源内は「義興の矢」を元に、矢を魔除けのお守り「矢守」として売り出すことを当社に進言。

明和七年(1770)、新田義興の謀殺と「水破・兵破」の矢の伝説を元に、自ら脚色脚本した浄瑠璃『神霊矢口渡』という演目を上演。
寛政六年(1794)、大変人気を博したため、浄瑠璃だけでなく歌舞伎にもなって大ヒットし、江戸庶民に知れ渡る人気演目となる。

上述した香蝶楼国貞(三代豊国)の錦絵の他に、『神霊矢口渡』を題材とした浮世絵・錦絵が多く作られたのも、こうした江戸庶民からの人気ゆえの事だろう。

%e6%ad%8c%e5%b7%9d%e8%8a%b3%e5%93%a1(歌川芳員・新田義興の霊怒て讐と報ふ図)

こちらは歌川芳員が嘉永五年(1852)に描いたもの。
謀殺された新田義興が祟りとして現れ、関係者へ雷を落とす姿を描いている。
他にも多くの浮世絵・錦絵の題材として取り上げられている。

こうして新田義興をお祀りする当社は、『神霊矢口渡』の舞台として、江戸庶民から人気を博し、大いに崇敬者が増え人気を博した。
その結果、平賀源内が発案した魔除けの「矢守」も庶民に広まる事になる。

源内が進言した当社の「矢守」を広めるために、源内自ら浄瑠璃・歌舞伎の演目を脚本したともとれる訳で、今で言うメディアミックス展開といってもよいのではないだろうか。改めて平賀源内という人物の多才さに驚かされる。

(端午玩具集・下)

こちらは大正十四年(1925)に芸艸堂が出版した『端午玩具集・下』に描かれたもの。
新田神社「御守弓矢」と描かれており、他の史料にも「矢守」といった名で見る事ができる。

当時は「矢守」という名で出していたのだが、これが江戸後期になって他の神社でも似たようなのを出すようになり、「破魔矢」と呼ばれるように。
これが正月の縁起物として現代に伝わったとされており、「破魔矢」の起源ともされる。

「破魔矢」の由来には諸説あり、もう1つの由来にはかつて正月に行なわれていた行事の1つにハマ打ちというものがあり、「ハマ」という的を空中に投げて弓矢で射落とし、その結果で1年の運勢を占うというもの。「ハマ弓」「ハマ矢」から「破魔矢」という語源が出来たというのが有力であるが、当時の史料を見ると弓と矢がセットで縁起物とされていたため、現在のように「矢」のみで魔除けとさせたのは、源内の影響が強いように思える。

いずれにせよ、江戸時代に入り、徳川将軍家や武家よりの崇敬を集めただけでなく、こうして平賀源内によって江戸庶民からも人気の神社になったのは間違いない。

神仏分離と現在

明治になり神仏分離。
社号を「新田明神社」から「新田神社」へ改称。

明治四年(1871)、当時の品川県によって社殿が新しく造営。
明治六年(1873)、府社に列した。

明治四十二年(1909)、勅命により御祭神の新田義興公に従三位が追贈。

当時は南北朝正閏論が取り沙汰された時代であり、色々な事情があったのであろう。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当社の鎮座地は今も昔も変わらない。
当時の地図にも「新田神社」と記してあるように、目印になるような神社だった事が分かる。
周囲は田畑が多いが当社前は開けた地域であった。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿などが焼失。

昭和三十五年(1960)、「明治神宮」の仮殿を使い再建。
これが現存する社殿である。

昭和五十二年(1977)、宝物殿が造営。
以後も境内整備が行われ、今もなお多くの崇敬を集めている。

平成二十六年(2014)には、多摩川七福神が開始され、当社は恵比寿を担っている。

境内案内

明治神宮より下付され再建した社殿

武蔵新田駅から商店街を抜けた先に鎮座する当社。
綺麗に整備され清々しい境内となっている。
鳥居を潜ると大きな御神木があり、その先に手水舎。
正面に綺麗な社殿となる。

参道の先にある社殿は、昭和三十五年(1960)に再建されたもの。
明治神宮」で仮社殿として建てられていた神明造の本殿と幣殿を特別に下付される。
そこで復元奉建し再建に至った。
実に立派で格式高い社殿となっている。

明治天皇・昭憲皇太后。初詣で日本一の参拝者数。人口の鎮守の森。国民の勤労奉仕。戦後の復興。神宮御苑・清正井。御朱印。御朱印帳。

拝殿の左手前には大きな破魔矢のオブジェ。
上述したように「破魔矢発祥の地」とされる事による。

境内社の稲荷社と立派な御神木

境内社は社殿の右手に稲荷神社。
『江戸名所図会』にも描かれていた稲荷社が綺麗に整備されている。

その向かいに御神木である欅(ケヤキ)が立つ。
樹齢700年とされる欅の木。
こちらには御神木の生命力を感じさせるエピソードが残っている。

江戸時代には雷が落ち、先の大戦の戦災では真っ二つの状態になってしまう。
しかし、今もなお新緑の季節になると青々と葉をつける。
御神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若返り」の御利益が授かると言い伝えられている。

他にも立派な神輿庫や宝物殿が整備されている。

義興公の墳墓である御塚・祟りの伝承

社殿の裏手にあるのが御塚とされる義興公の遺体を埋葬したとされる墳墓。
『江戸名所図会』にも描かれており、直径15mの円墳。

この中に入ると必ず祟りがあるとされており、古くから「荒山」「迷い塚」と云われ畏れられている。

この御塚の前には「矢口新田神君之碑」とされる石碑。
延享三年(1746) 石城国守山藩主・松平頼寛が建立したもので、当社の由緒が記されており、大田区の文化財に指定。

近くには力石や古い道標、旧一之鳥居の納所が置かれている。
当地の歴史を感じさせてくれる一角。

近くには、祟りとして言い伝えられている「うなる狛犬」。
義興を謀殺した足利基氏家臣の畠山一族の者やその血縁者末裔が当社付近に来ると、決まって雨が降り、この狛犬が唸ったと伝えられている。

元は対の狛犬であったが、戦災によって一体が壊れてしまい、現在は一体のみ置かれている。

こうした御霊信仰らしい、祟りや禁忌とも云える言い伝えが残っているのが当社の特徴であろう。

石の卓球台・LOVE神社といったユニークな境内

上述のように由緒ある建造物、祟りといった恐ろしさを伝承しつつも、境内整備によって新しい物、ユニークな物を取り入れ、参拝者を楽しませているのも当社の特徴。

社殿の左手、唸る狛犬や御塚がある近くには「石の卓球台」が置かれている。
近所の人々が集まる場所として愛される事を願って造られたという珍しい卓球台。

社務所にて無料でラケットとピンポン球を貸し出してくれるので、この卓球台で遊ぶ事ができる。たまに参詣すると近所の子供達や親子、高校生などがこちらで遊んでいる姿を見る事ができ、何とも微笑ましい光景に感じる。

さらにLOVE神社という面白い彫刻も。
多摩川アートラインプロジェクトの浅葉氏によって作成された彫刻であり、大勢の若者たちの集える場所となり、ここで写真を撮ったカップルが幸せになるように願われているのだという。
絵馬掛けにもハート型の縁結び絵馬が多く掲げられている。

また最近ではコスプレの撮影場所としても利用されている。
当社境内を使用したイベントが開催され(許可制)、土日などは許可を得て参加しているコスプレイヤーの方が撮影場所として利用している姿を見かける事が多い。

このように地域の方々を楽しませるような境内整備がされており、こうした融合が当社の特徴であろう。何とも面白い試みだと思う。

矢守(破魔矢)が押されたカラフルな御朱印

御朱印は社務所にて。
いつもとても丁寧に対応して下さる。

オリジナルの御朱印帳も用意している。
兼務社の「矢口氷川神社」の御朱印も頂ける。

大田区矢口地区の鎮守。多摩川七福神・大黒天。大田区唯一の氷川神社。御由緒は不詳・創建年代の推測。氏子区域に鎮座する「新田神社」と共有の神輿や山車。児童公園と一帯になった境内。戦後に再建された社殿・三社稲荷。本務社は「新田神社」。御朱印。

2017年4月より御朱印がカラフルなものへと変更。
「破魔矢発祥の地」として矢守がデザインされている。

2017年9月より「新田神社」の墨書きから「新田大明神」の墨書きに変更。
江戸時代以前に新田大明神・新田明神と呼ばれた当時の歴史を伝えてくれる。

2015年に御朱印を拝受した際には、26ページになるフルカラーのパンフレットも頂いた。
現在は頒布を行っていないが、御由緒などの他に、当社の宝物である『新田大明神縁起』という絵巻物をフルカラーで詳しい説明付きで掲載してあったりと、実に手の込んだもの。
リーフレットを用意しているところは数多くあるが、これ程力が入ったパンフレットを無料頒布している神社は珍しいと思うし、資料として実に貴重なもので有り難い。

授与品も豊富に用意されているのでお受けするのもよいだろう。

所感

御霊信仰の神社として崇敬を集める当社。
新田義興の最期と祟り、その霊を鎮めるための創建。
江戸時代に入って徳川将軍家からの崇敬、そして平賀源内との繋がりなどなど、江戸庶民からも崇敬を集めた当社は、今もなお多くの崇敬を集めている。
何よりも個性的な境内が参拝者を楽しませてくれる。
由緒ある社殿、祟りなどの伝承を持つ御塚、そして卓球台などの面白さが融合した境内は、既存の崇敬者だけでなく新しい層を取り込もうという、神社関係者や氏子による努力であり、こうした試みはとても素晴らしい事に思う。
今もなお多くの崇敬を集め、それでいてどこかディープな要素もある当社は、他にはない個性的な良社であり、個人的にもとても好きな神社の一社。
なお、近隣の「武蔵新田商店会」では当社を中心に「多摩川七福神」や「武者パレード」など様々なイベントを催しており、当社と共に街を挙げて盛り上げようという気概を感じ、とても楽しいエリアとなっている。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]


[ 狛犬 ]


[ 御神木 ]



[ 稲荷神社 ]


[ LOVE神社 ]

[ 御籤掛 ]

[ 社務所 ]

[ 宝物殿 ]


[ 神輿庫 ]




[ 絵馬掛 ]

[ 石の卓球台 ]



[ うなる狛犬 ]


[ 石碑]


[矢口新田神君之碑]


[ 力石 ]


[ 道標 ]

[ 御塚(墳墓) ]


[ 旧一之鳥居 ]


[ 案内板 ]




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