お三の宮日枝神社 / 神奈川県横浜市

神社情報

お三の宮日枝神社(おさんのみやひえじんじゃ)

御祭神:大山咋命
相殿神:宇迦之御魂命
社格等:村社
例大祭:9月中旬(敬老の日前金・土・日)
所在地:神奈川県横浜市南区山王町5-32
最寄駅:吉野町駅・南太田駅
公式サイト:http://www.osannomiya-hie.or.jp/

御由緒

 日枝神社は、古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられましたが、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられています。
これは、山王宮→山の宮→おさんの宮と転訛したこと、更には《お三の人柱伝説》を付会して「お三の宮」と書かれ呼ばれるに至りました。
現在の横浜市の中心部、中区と南区に亘る大岡川と中村川、それからJR京浜東北・根岸線からお三の宮所在地まで(関外地区)広い範囲は、釣鐘の形をした入海でしたが、今からおよそ350年前に、江戸幕府並びに諸大名の御用達として広く石材木材商を営んでいた吉田勘兵衛良信という商人が、この入海を埋立て新田を築きました。(=吉田新田)
この大工事は、明暦二年七月十七日に鍬入れをしましたが、翌年の五月十日より十三日に亘る集中豪雨の為に失敗に終わります。しかし、万治二年二月十一日に再度試みて、寛文七年、十一年余りの歳月と八千三十八両の巨費により、市内最古で最大規模(およそ三十五万坪)を誇る新田開発を成し遂げることが出来たのです。
そこで勘兵衛は、新田の要処である大岡川と中村川の分岐点に、寛文十三年(1673)九月、新田の鎮守として、新田住民の安寧幸福や五穀豊穣を祈り、江戸の山王社(今の旧官幣大社日枝神社)より勧請し、山王社と併せて稲荷社を創建したのであります。
この御由緒により『横浜開拓の守護神』として、氏子をはじめ横浜の普く人々に御崇敬を戴いているのです。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2018/09/11

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※兼務社「吾妻神社」(横浜市中区本牧原)の御朱印も頂ける。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,200円
社務所にて。

オリジナル御朱印帳を用意している。
表面は社宝であり横浜随一の大神輿「千貫みこし」がデザイン。
裏面には神使である「神猿」がデザインされたもの。


横濱開港神社巡り集印帳
初穂料:1,000円
社務所にて。

「横濱開港神社巡り集印帳」を用意している。
「横濱開港神社巡り集印帳」は、横浜にある9社の御朱印を集印する専用御朱印帳。

元町嚴島神社の掲示より)

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

横浜開拓の守護神(関外総鎮守)・お三の宮

神奈川県横浜市南区山王町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、吉田新田(横浜関外地区40余ヶ町)の総鎮守。
吉田新田は現在の横浜の基礎を作った埋立地である事から「横浜開拓の守護神」とされる。
山王信仰の正式な社名は「日枝神社」であるが、現在は「お三の宮」「お三さま」として親しまれており、「お三の宮日枝神社」と称される事が多い。
9月中旬の例大祭は「かながわのまつり50選」にも選ばれ、横浜市内屈指の規模を誇る。

釣鐘型の入江が広がっていた横浜

社伝によると、寛文十三年(1673)に創建と云う。
吉田新田の総鎮守として創建された。

吉田新田(よしだしんでん)
江戸時代前期に江戸の材木商・吉田勘兵衛によって開墾された新田。
横浜関内地区の外側(関外)、南西側に伸びる低地の市街地の殆どが吉田新田の開発によって開墾された埋立地であるため、横浜の基礎を築いた新田と云える。

当地を含めた現在の中区・南区に跨るエリアは、かつて洲干湊(しゅうかんみなと)と呼ばれた釣鐘状の入江があり、湾口に砂洲が伸びて横浜村などの村落が形成。

吉田新田が開墾される前の様子を描いた資料がある。

(横浜吉田新田図絵)

上図は昭和十年(1935)に吉田家が出版した『横浜吉田新田図絵』。
まだ洲干湊と呼ばれた入江がある江戸初期の様子の想像図。
「入海」と書いているのが吉田新田として埋め立てられる事となる入江である。

(横浜吉田新田図絵)

同じく『横浜吉田新田図絵』より吉田家所蔵の古図。
釣鐘型の入江になっている事が分かり、頂上が大岡川の河口。
この釣鐘型の入江が吉田新田として埋め立てられ、横浜の基礎が作られていく。

横浜の基礎を作った吉田新田・鎮守として創建

明暦二年(1656)、江戸の材木商・吉田勘兵衛が、江戸幕府より新田開発の許可を得る。
広い田地を求めていた村民は大いに歓迎し、新田開発が開始。

明暦三年(1656)、梅雨による集中豪雨によって堤が崩壊。
全ての作業が水の泡となり、村民も再度の埋め立てには猛反対をしたと云う。

万治二年(1659)、説得に応じた村民と共に、幕府より再度許可を受けて新田開発を再開。
寛文七年(1667)、漸く新田が完成し、地名より「野毛新田」と名付けられた。

現在の横浜市内最古で最大規模(約35万坪)を誇る新田開発であり、11年余りの歳月と8,038両もの巨費で完成した。

同年、吉田勘兵衛によって、徳川将軍家から篤い崇敬を集めた江戸の「山王日枝神社」(現・東京都千代田区)より勧請し当社が創建され、野毛新田(吉田新田)の鎮守とされた。
当時は「山王社」「山王大権現」「山王宮」などと称された。

東京十社・皇城を守る山王さま。徳川将軍家からの篤い崇敬・徳川歴朝の産土神。浮世絵に描かれた当社。天下祭と呼ばれた山王祭。山王信仰を伝える山王鳥居・神使の猿像。境内社・猿田彦神社と庚申の日。国宝刀剣の展示もある宝物殿は無料。御朱印。御朱印帳。
新田開発の成功は、村民の努力に加えて神仏の加護があった事によるとして当社が創建、更に五穀豊穣を祈り「稲荷社」も合わせて創建されたため、当社には山王様と稲荷様が今も祀られている。
山王日枝神社」を勧請した理由は、吉田勘兵衛の氏神であったからと伝わる。
横浜の基礎を作った吉田新田の鎮守である事から「横濱開拓の守護神」とも称される。

寛文九年(1669)、新田開発成功を知った徳川第四代将軍・徳川家綱は、この功績を讃え新田名を野毛新田から「吉田新田」へと改称を命ずる。
更に吉田に苗字帯刀を許可。

延宝二年(1674)、検地が行われ吉田新田一帯は新田村となる。

(横浜旧吉田新田の研究)

上図は昭和十一年(1936)に石野瑛によって編纂された『横浜旧吉田新田の研究』。
完成した吉田新田を描いている。

新田の真ん中を流れるのは中川で現在の大通り公園。新田は6本の道によって「一つ目」から「七つ目」まで区切られ、中川より右側を北、左側を南とし、「北一つ目」「南七つ目」といった地名で呼ばれた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についても記してある。

(吉田新田)
山王社
除地。西の方にあり。村の鎮守なり。常清寺持。
稲荷社
除地。同じ方にあり。持同じ。

吉田新田の「山王社」と記されているのが当社。
吉田新田の鎮守であった事が記されている。

「稲荷社」と記されているのが、後に当社に合祀される事になる「稲荷神社」。
吉田勘兵衛の五穀豊穣を祈り当社と共に崇敬を集めた。

どちらも別当寺は「常清寺」が担っていた。

「常清寺」は当社の創建と同じく、吉田勘兵衛が開基となって創建された寺院。
吉田新田を守護する寺院として建立された。
日蓮宗 栄玉山 常清寺。横浜市にある久保山霊堂、加藤清正公、吉田勘勘兵衛良信翁、所縁の歴史ある寺院であります。

お三と呼ばれた女性の人柱伝説・お三の宮の由来

当社には「お三の宮」と呼ばれる由来の1つともされる「お三の人柱伝説」が伝わる。

最初の新田開発が梅雨の豪雨によって水の泡となり失敗。

吉田勘兵衛は、再び新田開発を行い成就するために氏神である「山王日枝神社」に参拝し、更に信仰する日蓮宗総本山「身延山久遠寺」(現・山梨県南巨摩郡)へ参詣した。
すると、夫の仇討ちのため諸国を流浪していた「お三」という女性に出会う。
勘兵衛は、家に暫く身を寄せて時期を待つよう促し、お三は勘兵衛家に仕えることになった。

万治二年(1659)、幕府より再度許可を受けて新田開発を再開したところ、お三は勘兵衛に向かい、次のように進言した。

「この事業は容易ではないですが、昔から人柱をたてるとその験があると聞き及んでいます。私が日頃の恩に報いるのはこの時です。」

自ら人柱になりたいと申し出たお三を、勘兵衛はやめるよう説得したが、お三は聞き入れなかった。
同年9月13日、当社裏にあたる波打ち際から白衣に身をつつんだお三は、合掌して天を仰ぎ大海に身を投じ、新田開発の人柱となった。

いつの頃か民間に広まった伝説であるが、幾つかの古い資料では民間訛伝(間違った言い伝え)と記してあるため、あくまで都市伝説的な言い伝えと思ったほうがよいかもしれない。

このような伝説を含め、当社が「お三の宮」と呼ばれるようになる事となる。

  • 「山王宮」→「山の宮」→「おさんのみや」に転訛。

こちらが当社公式の説で、読みが転訛したと云うのはよくある事で有力。

  • 上述の「お三」と呼ばれた女性の人柱伝説。

転訛して「おさんのみや」と呼ばれた当社に、後の「お三」の伝説が付会されたものとされる。

他にも諸説あるが、上記2つが組み合わされたものが有力である。

いずれにせよ「山王社」「山王大権現」「山王宮」などと呼ばれていた当社は、いつしか「お三の宮」「お三さま」と称され崇敬を集めるようになった。

横浜開港・吉田橋で分断された関内と関外(吉田新田)

安政五年(1858)、江戸幕府がアメリカ合衆国と結んだ日米修好通商条約(安政五カ国条約)により神奈川の開港が定められたが、幕府は東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け対岸の横浜村に開港場を新設することを決定。

安政六年(1859)、横浜港が開港され貿易を開始。

横浜市は同年を開港年、6月2日を開港記念日に制定している。

(横浜交易西洋人荷物運送之図)

上画像は文久元年(1861)に横浜絵の第一人者と呼ばれた歌川貞秀が描いた『横浜交易西洋人荷物運送之図』横浜市立図書館より)
多くの外国の商船が往来している横浜を描いている。

横浜絵(よこはまえ)
江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式で、横浜港、商館風建物、異国人の風俗などが描かれているのが特徴。

古くは寂れた漁村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展。
外国人居留地が形成され、我が国最初の洋風の近代都市計画が導入。

現・元町付近には堀川が開削され、旧横浜村があった砂州と太田屋新田は長崎の出島のような堀で囲まれた地域となり、そこへの連絡口として横浜初の鉄橋である「吉田橋」が架けられた。

関内の地名由来
陸路では吉田橋を通過しないと居留地に入ることができないようし、ここには関門と云う関所のようなものが設けられた。
関門より海側の居留地側を「関内」と云い、内陸側の伊勢佐木町方面・いわゆる吉田新田付近を「関外」といって区別。
現在の横浜関内の地名もこれに由来している。

吉田新田鎮守であった当社が「関外総鎮守」と呼ばれるのも、こうした理由によるもの。

(野毛橋ヨリ吉田新田の長縄手ニつゞき吉田橋西の詰ヨリ見かへり宮ケ崎の鼻老ノ婆岩并遠ク東海道筋ヲ見渡内浦を一覧の図)

上図は歌川貞秀が描いた『野毛橋ヨリ吉田新田の長縄手ニつゞき吉田橋西の詰ヨリ見かへり宮ケ崎の鼻老ノ婆岩并遠ク東海道筋ヲ見渡内浦を一覧の図』。
吉田橋が描かれており、左手には当社が鎮守していた吉田新田…いわゆる関外。
吉田橋の先、右手には関内として外国人居留地が広がっていた。

明治以降の歩み・戦前の古写真

明治になり神仏分離。
「日枝大神」に改称した後、現在の「日枝神社」に改称。
明治八年(1875)、村社に列した。

吉田新田は新田は6本の道によって「一つ目」から「七つ目」まで区切られ「北一つ目」「南七つ目」といった地名で呼ばれていたが、明治以降に多くの町が起立。市街地化が顕著となる。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
まだ吉田新田時代の名残りで田畑が広がっている。
興味深いのが当社を「御産宮」と記してあるという事。
当時から「おさんのみや」と呼ばれていたが、「御産宮」の字を充てていた事が分かる。

「山王宮」→「山の宮」→「おさんのみや」に転訛したという説が正しく、当て字はいろいろあった事が伺え、そのうちに「お三人柱伝説」も派生したものと思われる。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
社務所が類焼するものの社殿は猛火の間に建って無事だったと云う。

昭和三年(1928)、山王町が成立。
地名は山王信仰である当社に由来。

同年、本殿の改築と拝殿を建立。
更に神饌幣帛料供進社に指定され、正遷宮を行った。

(横浜吉田新田図絵)

上画像は昭和十年(1935)に吉田家が出版した『横浜吉田新田図絵』。
右の画像が「日枝神社」こと当社で、左の画像は同時に建立された「稲荷神社」。
「稲荷神社」は当社に合祀される事になるので、どちらも当社の姿とも云える。
まだ茅葺屋根だった頃の貴重な1枚。

(神奈川県神社写真帖)

上画像は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
「村社 日枝神社」として紹介されているのが当社。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が分かる。
鳥居も二之鳥居まであった事が伺える。
参道右に見える狛犬(砲弾狛犬)は現存。

(お三の人柱伝説の詳細の記述)
然しこれは幕末の頃に出た仮想説話で事実は山王の宮の転訛であると見るのが有力である。果して人柱があったかどうかは暫く措くとしてもおさんの宮の人柱説はかなり根強い信仰となって今に至るも口碑が残されている。

『神奈川県神社写真帖』に記載から抜粋したもので、お三の人柱伝説の詳細が記載され、注釈として幕末の頃に出た話だと記されている。民間信仰として根強い説が伝わっていて、当時から知られた伝説だった事が分かる。

昭和二十年(1945)、5月29日に横浜大空襲が発生。
甚大な被害を受け、再び社殿が焼失、戦後になり再建。

昭和二十七年(1952)、境内に幼稚園が開園。
現在も「お三の宮日枝幼稚園」として隣接している。

横浜市南区の幼稚園 お三の宮日枝幼稚園の公式ウェブサイトです。隣接するお三の宮日枝神社の杜に包まれて、子どもたちは“のびのび保育”で元気いっぱいです。 毎日の保育は神さまへのご挨拶で始まります。本園は、50有余年の長きに亘り、子どもの健全な育成に力を注いでいます。

昭和五十二年(1977)、当社と同じく吉田勘兵衛によって創建された「稲荷神社」を合祀。
「稲荷神社」の旧社殿は神楽殿の一部として利用されている。

平成二十五年(2013)、御鎮座340年奉祝事業として山王鳥居が建立。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

山王信仰の象徴である山王鳥居

最寄駅の吉野町駅から徒歩数分の距離で市立日枝小学校の向かいに鎮座。
この日は例大祭の数日前に参拝したため、社頭には多くの提灯が掲げられている。
鳥居は山王鳥居で平成二十五年(2013)に御鎮座340年奉祝事業として建立されたもの。

山王鳥居(さんのうとりい)
鳥居の様式の一種で、明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしている。
山王信仰の総本社「日吉大社(旧・日吉山王権現)」に始まった鳥居で、山王信仰の象徴とされる。

鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎。
この日は例大祭前の鳥居新築工事が行われており、現在は使用可能になっている。

全国的に珍しい砲弾狛犬

鳥居を進むと広く取られた参道。
鳥居のすぐ先、両脇に一対の狛犬が置かれている。

獅子山のようになった立派な狛犬。
明治四十年(1907)に建立されたもの。
昭和十一年(1936)に改築再建され、砲弾を抱えているのが特徴。
いわゆる「砲弾狛犬」と呼ばれるもの。
日露戦争後の時勢で建立されたものであるが、全国的に見ても大変珍しい。

砲弾狛犬(ほうだんこまいぬ)
通常の狛犬は玉持ち子持ちといったものであるが、砲弾を抱えている狛犬を云う。
全国的にも大変珍しく関東圏では、当社の他、4社しか見かける事ができない。

戦後に再建された社殿・社宝の獅子狗

社殿は戦後に再建されたもの。
大きな破風が特徴的な社殿。
状態もよく綺麗に維持されている。
本殿・幣殿・拝殿の権現造。

創建当時に吉田勘兵衛により奉納された獅子狗2体が現存。
社宝とされていて、現在は社殿の御扉の中、外陣に安置。(非公開)
画像は公式サイトにて。
お三の宮 日枝神社 公式サイト。古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられましたが、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられています。
社殿の裏手に古い石碑など色々置かれているが、残念ながら一般開放はされていない。

拝殿前に一対の狛犬。
こちらは平成の御大典奉祝記念で平成三年(1991)に建立された新しいもの。
阿吽のメリハリのある狛犬。

稲荷社の旧社殿を使用した神楽殿・創建当時の手水鉢など

社殿の左手に神楽殿。
当社と同じく吉田勘兵衛によって創建された「稲荷神社」の旧社殿の一部を使用。
「稲荷神社」は昭和五十二年(1977)に当社に合祀された。

参道の右手に招魂社。
氏子内の軍人軍属290余柱が祀られている。

境内の左手に古い手水鉢。
当社が創建当時に使用されていた水盤で、関東大震災や横浜空襲を経て、かなり損傷されたものの、現存して置かれている。
延宝二年(1674)の銘が残る大変貴重なもの。

その隣に苦難除けの石灯籠。
関東大震災後の大正十三年(1924)に奉納されたものだが、2011年3月11日の東日本大震災で倒壊。
隣接する幼稚園の下校時間に発生したものの、奇跡的にも車と車の間に落下して被害が出なかったため、安全なところに倒れ難から救った灯籠として「苦難除けの石灯籠」と呼ばれる。

吉田新田の用水堰の守護神だった堰神社

当社の境内ではなく隣接する境外末社として堰神社。
当社の社殿の北に位置して、山王橋側に鎮座。
大岡川の水を取りいれるために大堰をつくり、その傍らに町の守り神として創建。
堰と咳が通ずることから、咳に霊験があるとされ、平癒したときは赤飯、赤旗、線香を奉納する風習がある。
一画には男根を形どった石もあり、子宝を願う性神の石碑となっている。

横浜随一の千貫神輿・市内屈指の例大祭

堰神社の隣にあるのが大神輿庫。
かなり巨大な神輿庫になっていて、中には社宝である大神輿「千貫神輿」が納められる。
当社の千貫神輿は昭和九年(1934)に奉納されたもので、横浜随一の大きさを誇る。

また9月中旬(敬老の日前金・土・日)に開催される例大祭は、横浜市内屈指の規模を誇る。
「かながわのまつり50選」にも選定。
千貫神輿が1日かけて氏子町内を巡行する他、西暦奇数年に行われる本祭では、氏子30ヶ町約50基の町神輿が伊勢佐木町まで練り歩く「町内神輿連合渡御」が行われる。

お三の宮 日枝神社 公式サイト。古くは山王社・山王大権現・山王宮と称せられましたが、今では「お三の宮」「お三さま」と広く親しまれ、崇め称えられています。

御朱印・千貫神輿の御朱印帳・横濱開港神社巡りの一社

御朱印は社務所にて頂ける。
丁寧に対応して頂いた。

案内はないが兼務社「吾妻神社」(横浜市中区本牧原)の御朱印も頂ける。

オリジナルの御朱印帳も用意。
表面には当社の社宝である千貫神輿。
裏面には山王信仰の神使・神猿がデザインされたもの。

更に当社は「横濱開港神社巡り」に参加する一社で、専用の集印帳も用意。
横浜にある9社の御朱印を集印する専用御朱印帳。

元町嚴島神社の掲示より)

横濱開港神社巡り
お三の宮日枝神社」(南区山王町)
金刀比羅大鷲神社」(南区真金町)
中村八幡宮」(南区八幡町)
石川町諏訪神社」(中区石川町)
元町嚴島神社」(中区元町)
「北方皇太神宮」(中区西之谷町)
「本牧神社」(中区本牧和田)
「根岸八幡神社」(磯子区西町)
「八幡橋八幡神社」(磯子区原町)
横浜開拓の守護神(関外総鎮守)。横浜の基礎を作った吉田新田の鎮守として創建。お三と呼ばれた女性の人柱伝説。お三の宮の由来。横浜随一の千貫神輿・市内屈指の例大祭。山王信仰の象徴・山王鳥居。珍しい砲弾狛犬。横濱開港神社巡り。御朱印。御朱印帳。
酉の市で知られる横濱のお酉様。横浜橋商店街の一画に鎮座。桂歌丸ゆかりの地。横浜開港にあたり創建された金毘羅大権現。当社が創建された港崎遊郭・遊郭と共に歩んだ歴史。浮世絵に描かれた当社。赤線地帯であった永真遊郭街。横濱開港神社巡り。御朱印。
旧中村鎮守の八幡さま。平安時代に八幡大明神として祀られていた伝承。鎌倉幕府より幣帛が捧げられる。戦前の荘厳な社殿。明治の鳥居。文化財の水準点や高低几号標。江戸中期の地蔵庚申塔。明治に寄進された獅子山。平成の社殿。横濱開港神社巡り。御朱印。
石川町鎮守・はまのお諏訪さん。火防の神とされる御神徳。石川村の諏訪山に創建・諏訪信仰の神社。灯明が絶えず漁船の目標となった伝承。江戸時代の石川町と当社。明治以降の石川町と当社の歩み。戦後に再建された社殿。横濱開港神社巡り。御朱印。御朱印帳。
横浜元町鎮守。源頼朝が創建したと伝わる厳島神社。横濱村の鎮守であった清水弁天(横濱弁天社)。清水弁天と対となる杉山弁天と呼ばれた当社。関内厳島神社の分社。横浜村の元住民による町・横浜元町の歴史。御朱印は平日のみの対応。横濱開港神社巡り。

所感

吉田新田の鎮守として創建された当社。
現在の横浜発展の基礎を作ったとも云えるのが、江戸初期に埋め立てられた吉田新田。
関内に対して関外と呼ばれるエリアで、関外総鎮守と云う事もできるだろう。
「お三の宮」と称されるようになったのは、「山王宮」が転訛された由来が有力であるが、幕末頃から「お三の人柱伝説」が広まったようで、根強い信仰対象となっている。
現在も横浜屈指の規模を誇る例大祭、随一の千貫神輿など、篤い崇敬を集める当社。
戦後は境内に幼稚園が開園し、今も子連れの家族が多く集まる境内となっていて、地域に根付いた神社なのがよく伝わる。
横浜の歴史、吉田新田の歴史を伝える、良い神社である。

神社画像

[ 山王鳥居 ]






[ 玉垣・奉納提灯 ]


[ 手水舎 ]

[ 砲弾狛犬 ]




[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 御籤掛・絵馬掛 ]

[ 神楽殿 ]


[ 社務所 ]

[ 招魂社 ]

[ 手水鉢 ]



[ 石碑 ]

[ 苦難除けの石灯籠 ]



[ 石碑 ]

[ 案内板 ]

[ お三の宮日枝幼稚園 ]

[ 堰神社 ]





[ 大神輿庫 ]

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