大井鹿嶋神社 / 東京都品川区

神社情報

大井鹿嶋神社(おおいかしまじんしゃ)

御祭神:武甕槌神
社格等:村社
例大祭:10月第3土曜・日曜
所在地:東京都品川区大井6-18-36
最寄駅:大森駅・大井町駅・立会川駅
公式サイト:http://kashimajinja.wix.com/omatsuri

御由緒

 当神社は平安朝の中の頃、人皇第六十二代冷泉天皇の御代、安和二年(969年)に南品川常行寺の僧、尊栄法印が常陸の国、鹿嶋神宮より御分霊を勧請し当地に祀ったのが始まりである。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2018/01/15(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/05/09(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

[2018/01/15拝受]

[2016/05/09拝受]

歴史考察

大井村総鎮守の鹿嶋さま

東京都品川区大井に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧大井村の総鎮守。
かつては祭礼として相撲が奉納されており、江戸郊外三大相撲の一社として知られていた。
立派な境内には戦前の社殿や、幕末の旧本殿が現存している。
正式名称は「鹿嶋神社」であるが、他との区別のため「大井鹿嶋神社」とさせて頂く。
近くには境外摂社に「水神社」という水神を祀る神社が鎮座。

平安時代に常陸国一之宮「鹿島神宮」より勧請

社伝によると、安和二年(969)に創建と伝わる。
「常行寺」の僧・尊栄法印が、「鹿島神宮」から御分霊を勧請し創建したと云う。

「常行寺」(品川区南品川)は、嘉祥三年(850)に慈覚大師(円仁)が開基となり創建したと伝わる古刹。古くは当社からも近く大井村にあったと云うが、承応二年(1653)に大井村から南品川に移転している。
「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)は、常陸国一之宮で全国に鎮座する「鹿島神社」の総本社。東国随一の古社として古くから現在に至るまで崇敬を集め続けている。
常陸国一之宮。鹿島神社の総本社。東国三社。奥宮。国の重要文化財の社殿。奈良の鹿の発祥。御朱印。御朱印帳。

同時に当社の別当寺として現在も隣接する「来迎院」(寺号・常林寺)を建立。
慈覚大師(円仁)が作ったとされる薬師如来像を安置したとされる。

神仏習合のもとで「来迎院」と同じ敷地内にあり、「鹿島社」「鹿島大明神社」と称された。

その後の荒廃と中世の再興

その後、別当寺「来迎院」と共に当社は荒廃。
無住となり大破したと伝わる。

貞和三年(1347)、「来迎院」は了覚法印と云う僧によって再興。

同じ敷地内にあった当社も同時期に再建されたものと見られる。

以後、大井村の鎮守として崇敬を集めた。

徳川家光が鷹狩に訪れ休息所を建立した伝承

江戸時代に入ると、当地一帯は徳川将軍家の放鷹の地となる。
三代将軍・徳川家光は、度々鷹狩に訪れ別当寺「来迎院」にも立ち寄ったと云う。

家光は、付近の景色を賞賛し「来迎院」境内に休息所を建立。
以後、「来迎院」を篤く崇敬し、42歳の厄年にあたって節分の日に参詣したと伝えられている。

正保年間(1645年-1648年)、休息所にて堀田加賀守が家光に茶を献じたため、休息所は「大井の御殿」と呼ばれ、「来迎院」は「御茶屋寺」とも称された。
これらは別当寺「来迎院」の寺伝であるが、当社も同じ敷地内で共に崇敬を集めたため、当社にも参詣したものと推測される。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(大井村)
鹿島社
除地一段四畝。村の南方にあり。当村の鎮守なり。相傳ふ安和二年の頃常陸国鹿島明神を勧請せりと。本社九尺四方、拝殿七間に六間半、前に石の鳥居あり、柱間九尺許。拝殿の西北に二間に二間半の神楽堂あり。豊歳を祈んがため毎年六月仲村民こぞりて神楽を奏す。九月十五日にも神事ありといふ。
末社。稲荷社。弁天社。共に本社の側にあり。
別当常林寺
(中略)又云貞享の頃連年旱魃ありしが、時の住僧栄往法印村内九頭竜権現の社地なる柳の清水と云を加持水となし、当社に於いて祈雨の神事を行ひしに、忽好雨降て其年豊なりしとなり。今もこの遺例によりて毎年六月中旬法楽の神事あり。(中略)

大井村の「鹿島社」と記されたのが当社。
大井村の鎮守だった事や、安和二年(969)に「鹿島神宮」からの勧請が記されている。

また神楽を奏すという一文と神楽堂があったとの記載から、祭礼時に様々な奉納が行われていたようで、これらが当社に伝わる「大井囃子」の元にもなったものと思われる。
当社には「大井囃子」という祭囃子があり、文政三年(1820)に大井村の豪農を発起人として始められた目黒囃子の系統だという。

戦後しばらくの間途絶えていたが、現在は地元の有志により復活し、品川区の指定無形文化財となっている。

別当寺「来迎院」は院号ではなく寺号の「常林寺」の名で記されている。
こちらは長くなるので一部中略とさせて頂いた。

また現在は当社の境外末社である「水神社」についても記されている。
別当寺「常林寺(来迎院)」の項目にもあるように、「九頭龍権現社」というのが現在の「水神社」。

(大井村)
九頭龍権現社
年貢地村の中程にあり。祭禮毎年四月十五日及び七月十五日神酒を供ふ。常林寺の持。此社の側に年ふりたる柳樹ありて、その本に古井あり柳の清水と唱ふ、旱打續きし時も涸ることなしといふ。

当社と同様に「常林寺(来迎院)」が別当寺を担っていて、「柳の清水」と称され崇敬された。

江戸時代には桜の名所としても知られるように

大井村の鎮守として崇敬を集めた当社であるが、江戸時代には当社や「来迎院」の境内には、多くの桜が植えられていたと云う。
春になると桜の名所としても知られたと伝わり、この事は天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』にも記されている。

(江戸名所図会)

「鹿島大明神社」として記されているのが当社。
当社や別当寺「常林寺(来迎院)」が共に記載されている。

境内桜多く春時一奇景観たらむ

境内には桜が多く植えられていて、春になると名所として知られていた。

この後の文久二年(1862)、本殿が造営。
これが現在は旧本殿として現存している。

江戸郊外三大相撲に数えられた奉納相撲

当社では、古くから祭礼時に相撲が奉納されていたと伝わる。
いつ頃から伝わるものかは不詳であるものの、古来より奉納相撲は当社の有名な行事であったと云う。

文化十四年(1817)、奉納相撲が一時中断。
弘化四年(1847)、当時の大井村名主・大野貫蔵が代官に願出て復興。

現在、奉納相撲は行われていないものの、昭和初期まで行われていたと伝わっていて、遠方から泊りがけで参加する人もいる程賑わったと云う。

同じく奉納相撲が盛んであった「渋谷氷川神社」「世田谷八幡宮」と共に江戸郊外三大相撲の一社に数えられた。

渋谷区南端一帯(旧下渋谷村・旧下豊澤村)総鎮守。月替り御朱印・縁結び御朱印帳・毎月15日は縁結び御朱印。江戸氷川七社の一社に数えられる。渋谷最古とされる神社。江戸郊外三大相撲である金王相撲。常盤御前の伝説が残る常盤松。金王相撲跡の土俵。
世田谷総鎮守。江戸郊外三大相撲の一社。境内の土俵や力石・奉納相撲。源義家(八幡太郎)による創建。世田谷城主・吉良頼康による再興。世田谷村の鎮守として発展。江戸時代に描かれた当宮。広く立派な境内・荘厳な社殿・綺麗な弁天池。御朱印。

明治以降の歩み・大井村の総鎮守

明治になり神仏分離し、別当寺「来迎院」とは同一敷地内で分離。
「鹿嶋神社」に改称し、当社は村社に列した。

明治八年(1875)、敷地内に簡易普通小学校が開校。

同校はその後移転しているが、これが品川区立大井第一小学校である。

明治二十二年(1889)、市制町村制が施行されるが大井村は単独で大井村を継続。
当社は大井村の総鎮守として崇敬を集めた。

明治三十九年(1906)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、現在も変わらない。
当社付近や線路に沿って町家が発展してきているが、東部はのどかな農地であったのが分かる。
かなり幅広い範囲の大井村には村社など神社が多く置かれていたが、当社はそれらの総鎮守とされた。

昭和六年(1931)、現在の社殿を造営。
これが現存しており、旧社殿も境内末社として移設して現存。

昭和六十二年(1987)、しながわ百景に認定。
境外社の「水神社」も同様に認定されている。

境内案内

池上通り沿いに鎮座・緑溢れる境内

最寄駅は大森駅もしくは大井町駅で、両駅の中間地点に鎮座。
池上通り沿いに鎮座していて、社頭は交通量や人通りも比較的多い。
池上通り沿いに面して西向きの鳥居は、大正十五年(1926)に建立されたもの。

こちらが表参道になっており西側を向いているのだが、かつては海の方角、東側を向いており、別当寺の「来迎院」と共用していた参道も存在。海の方角はおそらく「鹿島神宮」側を向いていたのだと思われる。

鳥居を潜ると緑溢れる境内が広がる。
池上通り沿いにありながら境内は静かで清々しい。
境内には古い大木も多く存在。
大井村の総鎮守とされた当社は、今も古き良き景観を維持。

参道の左手に手水舎。
綺麗に管理され水が張られている。

立派な戦前の社殿・幕末に造営された鎌倉彫の旧社殿が現存

社殿は昭和六年(1931)に建てられたもの。
檜造りの社殿になっていて実に立派な造り。
重厚感を感じる社殿からは大井村の総鎮守たる氏子の気持ちが伝わる。
状態もよく維持されていて素晴らしい。

社殿の右手には旧本殿が現存している。
鳥居が置かれ、その先にあるのが覆屋に保護された旧本殿で、文久二年(1862)に造られたと云う。
旧本殿には大変精巧な鎌倉彫が施されていて実に見事。
覆屋から中を見れるようになっているので、ぜひ精巧な造りをご覧頂きたい。
かつては周囲に小さな境内社がいくつもあったそうだが、現在の社殿が造られ旧本殿がこの場所へ遷された際に、旧本殿内に合祀という形でまとめられている。
そのため天祖神社、金刀比羅神社、稲荷神社、三峯神社、八幡神社が合祀された境内社となっている。

品川区指定天然記念物のタブノキ・アカガシ

旧本殿の手前には立派なタブノキ。
品川区指定天然記念物に指定されていて樹齢約200年で、境内中央付近にも同様のタブノキがある。

さらにその奥、社殿や旧本殿の裏手には立派なアカガシ。
こちらも樹齢約200年ほどで、品川区指定天然記念物。

いずれも樹齢約200年ほどの大木となっていて、古き良き境内が比較的維持されている。
そのため静謐な良い境内。

奉納相撲を偲ばせる力石

当社では、古来より奉納相撲が盛んで、「渋谷氷川神社」「世田谷八幡宮」と共に江戸郊外三大相撲の一社と知られた。

渋谷区南端一帯(旧下渋谷村・旧下豊澤村)総鎮守。月替り御朱印・縁結び御朱印帳・毎月15日は縁結び御朱印。江戸氷川七社の一社に数えられる。渋谷最古とされる神社。江戸郊外三大相撲である金王相撲。常盤御前の伝説が残る常盤松。金王相撲跡の土俵。
世田谷総鎮守。江戸郊外三大相撲の一社。境内の土俵や力石・奉納相撲。源義家(八幡太郎)による創建。世田谷城主・吉良頼康による再興。世田谷村の鎮守として発展。江戸時代に描かれた当宮。広く立派な境内・荘厳な社殿・綺麗な弁天池。御朱印。
江戸郊外三大相撲とされた三社のうち、当社を除く二社には、現在も土俵があり奉納相撲が行われているのだが、当社の境内には残念ながら現在は土俵が存在しておらず、奉納相撲も昭和初期を最後に行われていない。

現在、奉納相撲を偲ぶ事ができるのは、社殿の右手に置かれた力石。
当時の村人たちが力比べに使ったもので、奉納相撲が盛んだった地には多く残る。

力石が置かれた一画には「不老門」と記された石碑。
詳細不明であると云うが、名前から察するに健康長寿に関わるものか。

平安京大内裏の豊楽院の北門に「不老門」と名付けられた門があり、豊楽院は平安京の中でも大嘗会・競べ馬・相撲などが行われた所とされている。奉納相撲もあったようなので、そちらとの関係も推測できる。

鹿島立ち・交通旅行安全の神としての信仰

鹿島信仰の神である武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、古くから武神として武家から崇敬を集めた御祭神であるが、現在では交通安全・旅行安全の神としても崇敬を集めている。
これは古くからある「鹿島立ち」という言葉に由来している。

「鹿島立ち」は「旅行に出発・出帆すること。門出。」を意味する。
元々は常陸国一之宮「鹿島神宮」に由来する言葉であり、「鹿島神宮」「香取神宮」の二神が国土を平定した故事からとも、国を守るために防人として旅立つ東国武士が道中の無事を「鹿島神宮」に祈願した事からとも伝わる。

そのため「鹿島神宮」から勧請された当社も、この「鹿島立ち」の言葉より交通安全・旅行安全の神として崇敬を集めており、授与品にも交通安全系のものが多く用意されている。

私事の余談になるのだが、筆者も「鹿島立ち」の言葉にあやかって全国の一宮巡りを「鹿島神宮」で拝受した専用の御朱印帳を使い巡拝した。
常陸国一之宮。鹿島神社の総本社。東国三社。奥宮。国の重要文化財の社殿。奈良の鹿の発祥。御朱印。御朱印帳。

御朱印は社務所にて。
いつも丁寧に対応して下さる。

岩窟の中にある境外社の九頭龍権現水神社

当社から徒歩数分の距離には、境外社として「水神社」が鎮座。
鎮座地は「東京都品川区南大井5-14-9」と当社からも近い。

住宅地の一画の狭い境内であるが、中々に雰囲気のある場所。
神仏分離によって御祭神は水葉乃女命だが、創建時は水神とされる九頭龍権現を祀っていた。
現在も社号碑には「九頭龍権現水神社」の文字。

貞享年間(1684年-1688年)に連年の旱魃が続いたため、「柳の清水」と呼ばれた当地の水を加持水として「鹿嶋神社」で雨乞い祈願をしたところ雨が降って豊作となったと云う。
貞享二年(1685)、村民たちの手によって水神(九頭龍権現)を祀ったのが始まりとされている。

当時は「九頭竜権現社」と呼ばれていて『新編武蔵風土記稿』にも名が残る。
明治時代までは日照りになると村人が雨乞いをしていたと伝えられている。

溶岩を積み上げた岩窟の中に祠が置かれている。
これが中々な雰囲気となっており、小さいながらも綺麗に管理。
こうして綺麗に維持されているのも、崇敬者による崇敬の賜物であろう。
左手にはかつての御祭神であった九頭龍権現の祠の姿も。

この溶岩を積み上げた洞窟の前には、小さいながらも神池が存在。
このようにフェンスで囲われていて中に入る事はできない。
今も「水神の池」として維持されていて、鯉などの姿も。
一応、お水取りもできるようになっており、湧水は「柳の清水」と呼ばれ、歯痛を止めるのにご利益があったとされている。
昭和期までは水が湧き出ていたようだが、現在はポンプで水を汲み上げている。

なお、同社に因みこの周辺は「大井水神町」という町名であったが、昭和三十八年(1963)に現在の大井に町名変更となっている。

「水神社」は「鹿嶋神社」よりもほど近い境外社であり、興味深い信仰と雰囲気のある神社になっているので、ぜひこちらまでも足を運んで参拝しておきたい。

所感

大井村の総鎮守であった当社。
かつては奉納相撲が行われ、江戸郊外三大相撲の一社に数えられたように、地域からの崇敬を大いに集めていたようで、その一端を感じる事ができる。
戦前の社殿や、幕末の旧社殿が現存しているのも素晴らしい。
境内からは田舎の鎮守のようなどこか懐かしい香りがしており、池上通り沿いにありながらも、大変落ち着ける空間となっているのが特徴。
「鹿島立ち」の言葉があるように、現在は交通安全・旅行安全の神としても崇敬されている。
また境外社の「水神社」も独特な雰囲気があり、地域の方々により大切にされているのが伝わる。
どちらも合わせて参詣する事で、大井村の歴史や信仰をより感じる事ができる、とても良い神社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]



[ 旧本殿(境内社) ]









[ 狛犬 ]


[ タブノキ ]



[ 力石 ]


[ 石碑 ]

[ 御籤掛 ]

[ 石碑 ]

[ 神楽殿 ]

[ 石碑 ]

[ 大井囃子案内板 ]

[ 神輿庫 ]



[ 社務所 ]

[ 境内 ]

[ アカガシ ]


[ 案内板 ]


【境外社・水神社】

[ 社頭 ]

[ 社号碑 ]

[ 鳥居 ]

[ 参道 ]


[ 手水舎 ]

[ 祠 ]







[ 境内裏手 ]

[ 水神の池 ]




[ 案内板 ]

[ 二宮金次郎像 ]

[ 手水石 ]

[ 案内板 ]

[ 記念碑 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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