江島杉山神社 / 東京都墨田区

墨田区

神社情報

江島杉山神社(えじますぎやまじんじゃ)

御祭神:市杵島比売命(弁財天)・杉山和一総検校
社格等:村社
例大祭:6月中旬
所在地:東京都墨田区千歳1-8-2
最寄駅:両国駅・森下駅
公式サイト:http://ejimasugiyama.shin-to.com/

御由緒

当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。
杉山和一(慶長十五年〈1610〉年~元禄七年〈1694〉年)は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。
江戸の山瀬琢一に入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠をした。
業が明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探ってみると、筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。
「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」
こうして、現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。寛文十(1670)年一月、和一は61歳にして検校の位を受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。
元禄五(1692)年五月九日将軍より総検校に任ぜられる。和一が八三歳の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みのものはないか」との問いに「唯一つ、目が欲しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜り更に和一が高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が敷地内に勧請されてた。翌年には壮麗な社殿が建立、本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七(1694)年五月十八日八四歳没。明治四年、当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。
明治23年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀、震災、戦災により二つの社殿とも焼失するが戦後昭和27年合祀し、島江島杉山神社となる。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/12/12

御朱印

初穂料:300円
杉山和一資料館(授与所)にて。

歴史考察

江ノ島弁財天と杉山検校を祀る神社

東京都墨田区千歳に鎮座する神社。
旧社格は村社で、千歳町の鎮守。
鍼の施術法ある管鍼法を創始し、世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した杉山和一(杉山検校)が、徳川綱吉から当地に屋敷を拝受し、和一が篤く崇敬した江ノ島弁財天(現「江島神社」)を勧請したのを始まりとする。
当地を本所一ツ目と呼んだ事から「本所一ツ目弁天社」と称された。
現在は江ノ島弁財天と、杉山和一を祀っており、境内には江ノ島の岩屋を模した岩屋が置かれている。

杉山検校と称された杉山和一と云う人物

社伝によると、元禄六年(1693)の創建とされる。
当社の創建には、現在は御祭神としても祀られている杉山和一と云う人物が深く関わる。
こちらは当社の岩屋に置かれた杉山和一の像。

杉山和一(すぎやまわいち)とは、伊勢国安濃津(現・三重県津市)出身の鍼灸師。
幼い頃に失明した盲人で、検校の地位となった事で杉山検校とも称される。
現在も日本の主流技法となっている鍼の施術法「管鍼法」を創始しただけでなく、世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した人物としても知られる。
検校(けんぎょう)とは、盲人の役職である盲官の最高位の名称。当道座(とうどうざ)と呼ばれた、盲人の自治的互助組織のトップは総検校と呼ばれた。音楽の演奏や作曲で活躍する者や、鍼灸・按摩の技術が優れたものが選ばれる事が多かった。

こうした杉山和一の屋敷が当地であり、和一が篤く崇敬した「江ノ島弁財天」を勧請したのが当社である。

江ノ島弁財天での修行・管鍼法を創始

慶長十五年(1615)、津藩(現・三重県津市)藩士の長男として杉山和一が誕生。
和一は幼い頃に伝染病によって失明し盲人となったため、家督を義弟に譲り、16歳の時に江戸で検校・山瀬琢一に弟子入りするが、不器用さが災いして22歳で破門されてしまう。

失意のどん底にあった和一は、芸能の神として知られた「江ノ島弁財天」へ参詣。
江の島の岩屋に篭って断食修行を行う。

江ノ島弁財天は現在の「江島神社」(現・神奈川県藤沢市江の島)。
滋賀県竹生島の「都久夫須麻神社」、広島県宮島の「厳島神社」と共に、日本三大弁財天の一つに数えられ、古くから多くの崇敬を集めていた。
江島神社 / 神奈川県藤沢市
日本三大弁財天。辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮。江島縁起・江の島の歴史・浮世絵。龍宮・龍恋の鐘。アニメ聖地。鎌倉江の島七福神・弁財天。御朱印。御朱印帳。

この際に「管鍼術」を思い付いたと伝わる。

管鍼術(かんしんじゅつ)とは、鍼の施術法の一種。現在も日本の主流の技法となっており、杉山和一の影響の大きさを窺える。

修行満願の日、和一が岩屋で石に躓いた時、手に何かが刺さった。
何かと思い確認してみると、枯葉にくるまった松葉であったと云う。
これが「管鍼術」の着想となった。

なお、和一が躓いた石は「福石」と呼ばれ、「江島神社」境内に現在も置かれている。
こちらが「江島神社」に置かれた福石。(2016年3月8日撮影)

その後、京都に上り入江豊明に弟子入り。
入江流を極めた後に、江戸に戻り開業すると大盛況となり、鍼の名人として知られるようになった。

検校となり世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設

寛文十年(1670)、和一は61歳で、盲人の役職である盲官の最高位「検校」となる。

天明二年(1682)、視覚障害者向けに鍼や按摩技術の取得教育を主眼とした「杉山流鍼治導引稽古所」を開設。

「杉山流鍼治導引稽古所」は、世界初の視覚障害者教育施設。多くの優秀な鍼師が誕生しただけでなく、現在も日本の盲学校が鍼灸を教えるのは、和一が杉山流鍼治導引稽古所を元に各所につくった鍼治学問所から発展したもので、現在まで影響力の高さが窺える。
視覚障害者教育施設開設年
日本:杉山流鍼治導引稽古所(1682年)
海外:パリのヴァランタン・アユイによる盲学校(1784年)

こうした名声を聞いた五代将軍・徳川綱吉は、和一を「扶持検校」として召し抱え、自身の施術にあたらせた。

元禄五年(1692)、盲人の自治的互助組織・当道座の長である総検校となる。
組織を再編し、視覚障害者が生計を立てる道を大きく開いた。

徳川綱吉から本所一ツ目の土地を拝受・江ノ島弁財天の分霊を勧請

元禄六年(1693)、献身的な施術に感心した徳川綱吉から、本所一ツ目の土地を拝受する。
これが現在の当社の境内を含む、約3,000坪余りの土地で、以下のような逸話が残っている。

施術に感心した綱吉は、和一へ「和一の欲しい物は何か」と尋ねた。
すると和一は「ただ一つ、目が欲しゅうございます」と答えたと云う。
この和一の要望に、綱吉は「本所一ツ目」と呼ばれていた土地を与えた。

更に、綱吉は、高齢の和一が江戸から「江ノ島弁財天」まで未だに月参りしているのを不憫に思い、与えた本所一ツ目の土地に、「江ノ島弁財天」の分霊を勧請。
これが当社であり、地名から「一ツ目弁天社」と称された。

綱吉から拝受した屋敷を「惣禄屋敷」と呼び、関八州の当道盲人を統括機関を置いた。更に当社内に「杉山流鍼治導引稽古所」も移している。

元禄七年(1694)、和一は85歳で没している。
和一の没後、弟子たちが境内に「即明庵」を建て、和一を祀ったと云う。

「一ツ目弁天社」と称された当社は、綱吉が古跡並みとするように取り計らった事もあり、大奥からの崇敬も篤かったと云う。

江戸切絵図から見る当社

江戸時代の当社については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(深川絵図)

こちらは江戸後期の深川や本所周辺の切絵図。
当社は図の左上に描かれている。

(深川絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲んだのが当社で「弁財天」と記されている。

当社の北側に架かる両国方面への橋が「一ツ目橋」と呼ばれ、この周辺が「本所一ツ目」と呼ばれていた事が窺える。

青円で囲っているのが「弥勒寺」。
杉山和一の墓所があり、東京都指定旧跡となっている。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「本所一目 辨財天社 深川八幡御旅所」として描かれた1枚。
中央に大きく描かれているのが当社であり、本所一ツ目の「弁財天社」である。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上図。
杉山和一が徳川綱吉より賜った土地に、実に立派な弁財天が置かれている事が分かる。
神門、鳥居、その先には弁天池と神橋も見る事ができる。
弁天の社殿はとても立派なもので、境内社として金毘羅社、稲荷社の姿も見える。

文字としては記されていないものの、境内の左上に鳥居と石碑らしきものが見える。これが恐らく和一の没後に弟子たちが建てた、杉山和一を祀る境内社だったのではないだろうか。

規模も大きく、本所周辺のみならず江戸でも有名な弁天様だった事が窺える。

この後の慶応二年(1866)には、現在も境内に残る岩屋が造られた。

明治以降の歩み・戦後の再建と合祀

明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、当道座が廃止され「惣禄屋敷」も没収されるが、当社は「江島神社」に改称して残される。

明治七年(1874)、村社に列する。
明治二十三年(1890)、杉山和一霊牌所「即明庵」も再興し、境内社「杉山神社」が創建。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
この頃には本所一ツ目という地名は見られずに、現在の地名でもある千歳町の地名を見る事ができ、当社の北の橋も一之橋という名で、一ツ目の名残は見られない。

本所千歳町が成立したのは明治二年(1869)。地名の由来はめでたい言葉という事から選ばれたと云う。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社も社殿が焼失する被害を受け、その後再建している。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって再び社殿が消失。
「江島神社」のみならず境内社「杉山神社」の社殿も焼失し、壊滅的な打撃を受けた。

昭和二十七年(1952)、再建にあたり「江島神社」と境内社「杉山神社」を合祀。
現在の「江島杉山神社」として再建を果たす。

昭和三十九年(1964)、破損していた岩屋を修復整備。
平成二十八年(2016)、社務所があった場所に社務所兼「杉山和一資料館」が竣工。

多くの境内整備が行われ現在に至る。

境内案内

西と南の2つの参道・珍しい点字の石碑

最寄駅の両国駅や森下駅からは徒歩数分の距離で、かつて本所一ツ目(現・千歳町)に鎮座。
参道は西と南に2つあり、西参道が表参道となる。
両側に家屋が建った参道になっているが、江戸時代の頃より西側が表参道であった。
参道を進むと境内の前にちょっとした空き地がある。
ラジオ体操広場と書かれていて、地域コミュニティの場として使われている。

一方で南側にも参道と鳥居。
隣には神輿庫も置かれ、鳥居には扁額が掛けられていて、こちらのほうが少し規模は大きい。

参道が交差するあたりに二之鳥居。
この二之鳥居の右手に石碑が置かれている。

大変めずらしい点字の石碑で、一説では世界唯一の点字の石碑だと云う。
大正十五年(1926)、杉山和一に正五位が追贈されたことを記念して建てられたもの。

手水舎裏の銭洗所・戦後に再建された社殿

二之鳥居を潜ると右手に手水舎。
手水舎の裏には、銭洗所が置かれている。
各地に銭洗弁天が鎮座するが、当社もこうして金銭を洗う事ができる。

正面に社殿。
昭和二十七年(1952)の再建の際に、「江島神社」と境内社「杉山神社」が合祀。
幾度かの修復が行われたようで綺麗な状態を維持している。
御祭神から福徳円満・芸能上達・学業成就の他、鍼灸按学術上達の御利益があるのが面白い。

御神宝は普段公開していないが、毎月5月初旬に行われる「両国にぎわい祭」に合わせて、「御神宝展」として一般開放されると云う。

境内社・整備された弁天池・区内最重量の力石

社殿の右手奥には境内社。
杉多稲荷神社という境内社で、古くから祀られていると云う。
「江戸名所図会」にも載っていた稲荷社であろう。

境内の右手には弁天池が整備されている。
渡る事も可能な太鼓橋が置かれる。
南参道に繋がっている形。
池には網が掛けられ保護されているが、中には鯉の姿も。
奥には弁財天像が置かれ、こちらは平成二十六年(2014)に安置された。
その奥には社務所で授与される勾玉を洗う場所も整備されている。

弁天池の一画には力石。
文化十二年(1815)に奉納された力石で、九拾三貫(約349kg)と重量感がたっぷり。

墨田区内には37個の力石が残っていると云い、墨田区内で最も重い力石として有形民俗文化財に登録されている。(東京都内でも2番目の重量)怪力として知られた金蔵が担ぎ上げたものという伝説も残る。
[ID:101114] 江島杉山神社境内力石 : 資料情報 | データベース | すみだ文化財・地域資料
すみだ文化財・地域資料のデータベースです

江の島の岩屋を模し江戸時代に造られた岩屋・内部には杉山検校像、宗像三女神、人頭蛇身の宇賀神像

弁天池の傍らに「いわやみちの碑」。
寛政八年(1796)の銘が残る碑となっていて、この奥に岩屋がある。
古くは寛政五年(1793)に築造されたと云い、現在のものは慶応二年(1866)に建てられた岩屋。
江の島の岩屋を模して建てられたもので、内部は自由に参観する事ができる。

内部はひんやりとした空間で、中々にゾワッとする一画。
岩屋の内部、正面に祀られているのが、杉山和一検校の石像。
薄暗い中に置かれた石像であるが、柔和で優しい表情をしている。

突き当りが丁字路のようになっていて、右手には宗像三女神の像。
「宗像大社」(福岡県宗像市)を総本社として各地に祀られている女神たち。
中央が当社の御祭神で弁財天と習合した市杵島比売命、向かって右が多紀理比売命、左が多岐津比売命だと云う。

左手には宇賀神の石像。
人頭蛇身となった宇賀神像で、かなりゾワッとする像。
宇賀神も弁財天と習合したとも云われる事から祀られている。

宇賀神(うがじん)とは、人頭蛇身でとぐろを巻く形で表される事が多い神。
老翁や女性の頭部を持ち、身体はとぐろを巻いた蛇となる。
宇賀は稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)に由来するものと思われるが、関係性や出自は不明な神。
その姿から蛇神・龍の化身とされる事もあり、弁財天と習合する事もある。
各石像の前には、小さな蛇が置かれているが、これらは社務所で頒布しているもので、参拝者がこちらに奉納したものとなる。蛇は弁財天の神使とされる事によるものであろう。

幕末に建てられ、昭和三十九年(1964)に修復された岩屋は、パワースポットとも云えるような不思議な空間になっているので、忘れずに参拝したい。

社殿の左手に杉山和一資料館。
かつて社務所のみ置かれていたが、平成二十八年(2016)に竣工し、現在は授与所の他、鍼灸に関する資料の展示室、コミュニティルームが集まる複合施設となっている。
御朱印や授与品もこちらで頂ける。

所感

杉山和一のゆかりである当社。
世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した人物であり、視覚障害者の生活の安定や地位の向上に多大な影響を与えた人物とも云える。
和一が創始した管鍼術は、現在も日本の鍼の主流となっているように、今も鍼灸師からの崇敬が篤い。
徳川綱吉に寵愛され当地を賜り、和一が崇敬した「江島神社」の弁財天を祀り創建、その後は和一も合祀された事で「江島杉山神社」と云う社名となっており、社名からもその歴史を伝えている。
綺麗に整備された境内には、江の島の岩屋を模したと云う、幕末に造られた岩屋が残る。
弁財天を祀る当社と、和一が崇敬した「江島神社」を思わせ、内部からは畏れを感じる程の空間で、こうしたものが残されているのは素晴らしい。
歴史と信仰を伝える良い神社である。

神社画像

[ 社号碑・西側鳥居 ]

[ 参道 ]



[ 南側鳥居 ]

[ 神輿庫 ]

[ 二之鳥居 ]



[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]






[ 狛犬 ]


[ 即明庵 ]

[ 杉多稲荷神社 ]


[ 境内 ]

[ 力石 ]

[ 太鼓橋 ]



[ 弁天池 ]

[ 銭洗所 ]

[ 弁財天像 ]

[ 美玉洗所 ]


[ いわやみち石碑 ]

[ 岩屋 ]




[ 杉山和一検校石像 ]



[ 宗像三女神石像 ]



[ 宇賀神石像 ]



[ 杉山和一資料館 ]


[ 石碑(点字) ]

[ 案内板 ]


Google Maps

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