神社情報
沼袋氷川神社(ぬまぶくろひかわじんじゃ)
御祭神:須佐之男命
社格等:村社
例大祭:8月第3土・日曜または第4土・日曜
所在地:東京都中野区沼袋1-31-4
最寄駅:沼袋駅
公式サイト:http://hikawa-n.or.jp/
御由緒
南北朝時代、人皇九十七代後村上天皇の正平年間(1346~1370年)に武蔵国一の宮である氷川大社(さいたま市鎮座)より御分霊を戴き、当地に奉祀する。
文明九年四月 太田道灌(おおたどうかん)が、豊島一族と合戦の折、戦勝祈願し道灌杉を奉納するなど、その御神徳の威光は強く、現在も「厄除ひかわ」と親しまれ、厄除祈祷に訪れる人は後を絶たない。(東京都神社庁より)
参拝情報
参拝日:2017/06/20
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
歴史考察
旧下沼袋村鎮守の厄除ひかわ様
東京都中野区沼袋に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧下沼袋村の鎮守。
正式名称は「氷川神社」だが、他との区別から「沼袋氷川神社」と称される事が多い。
江戸城を築城した太田道灌が戦勝祈願した伝承が残り、今も「厄除ひかわ」と親しまれる。
近年では、境内にある三本願い松や中野七福神でも知られる。
武蔵一宮氷川神社より勧請
社伝によると、正平元年/貞和二年(1346)に創建と伝わる。
武蔵国一之宮で氷川信仰の総本社「武蔵一宮氷川神社(大宮氷川神社)」(現・埼玉県さいたま市)より勧請されたと云う。

当地周辺は武蔵国豊嶋郡沼袋村と云い、今も昔も「沼袋」と呼ばれていた。
沼袋村の鎮守の一社として崇敬を集め、開拓神でもある氷川信仰を篤く崇敬したのであろう。
太田道灌が陣営を置き戦勝祈願
文明九年(1477)、太田道灌が「江古田沼袋原の戦い」の際に、当社に陣営を置き戦勝祈願をしている。
その際に、当社に杉の木を手植えしたと伝わり、これを「道灌杉」と呼んだ。昭和十七年(1942)に枯死しており、現在は遺物のみ残る。
高さ30mもの大木まで成長した立派な杉だったと云う。
江戸時代の史料から見る当社
江戸時代に入ると、沼袋村が上沼袋村・下沼袋村に分村。
当社は下沼袋村の鎮守として村民や領主から崇敬を集めた。
正保年間(1645年-1648年)、代官・野村彦太夫が社殿を修築している。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(下沼袋村)
氷川社
除地九段。小名大下前にあり。村の鎮守なり。本社二間四方、拝殿二間に三間南向。本地十一面観音、木の立像六寸五分なるを安す。前に鳥居をたつ。鎮座の年代詳ならず。上沼袋村清谷寺の持なり。
下沼袋村の「氷川社」と記されているのが当社。
村の鎮守だという事が記されている。
別当寺は上沼村の「清谷寺」(現・中野区沼袋3丁目)であった。
文久四年(1864)、石鳥居が建立。現在も二之鳥居として現存しており、文久四年の刻印が見える。
明治以降の歩みと戦後の整備
明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。
明治十三年(1880)、社殿を改築。
明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、新井村・上沼袋村・下沼袋村・上鷺宮村、下鷺宮村、江古田村、上高田村の7村が合併して野方村が成立。
当地は、野方村下沼袋となり、当社はその鎮守であった。
明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で、当社の鎮座地は今も昔も変わらない。
野方村の下沼袋という地域であるが、当社よりも結構西側(現・野方駅近く)まで下沼袋の範囲であった事が分かり、こうした広い範囲の鎮守として発展。
大正十一年(1922)、幣殿を増築。
昭和二十年(1945)、東京大空襲では比較的戦火を免れる。
戦後に入り、境内整備が進む。
大鳥居や玉垣、社務所など昭和に色々と改築・新設されている。
昭和六十三年(1988)、社殿を新たに造営。
昭和天皇御即位60年記念事業として造営されたものであった。
平成二年(1990)、中核派を称する過激派のゲリラによって社殿が焼失。
昭和社殿が新たに造営されて1年数ヶ月後の事であった。
平成三年(1991)、社殿が新たに再建。
これが現在の平成社殿となっている。参道の石碑には、昭和社殿と平成社殿、それぞれの奉賛者の名が彫られた石碑が並んでいる。
平成二十三年(2011)、七福神を奉斎。中野七福神として信仰を集めている
その後も境内整備が進み現在に至っている。
境内案内
表参道と裏参道の大鳥居・江戸時代の鳥居
最寄駅の沼袋駅で、北口を出て東に向かうと表参道となる。玉垣に囲われた立派な境内。
神前結婚式も行われる広々とした境内となっている。
一之鳥居を潜ると左手は参拝者用の駐車場で、正面に石段。この二之鳥居が文久四年(1864)に建立された鳥居で、現存している。
一方で裏参道にも大きな鳥居が立つ。黒鳥居となっていて、2011年の東日本大震災で倒壊した大鳥居を、翌年に再建立したもの。
裏参道側にも駐車場が設けられており、参拝者が多い事が窺える。
表参道の二之鳥居を潜って右手に手水舎。綺麗に整備されている。
ゲリラ被害にあった昭和社殿と再建された平成社殿
社殿は平成三年(1991)に造営されたもの。まだどこか新しさを感じる綺麗に整った社殿。
旧社殿は僅か1年数ヶ月でゲリラ被害に遭い焼失の憂き目にあっている。
しかしながら、平成二年(1990)中核派を称する過激派の標的となってしまう。
ゲリラ活動によって社殿が焼失。
氏子崇敬者の篤い協力によって、翌年に再建となった。目標額を上回る奉賛金が集まり、全国の神社からも多くの義援金が集まった。
氏子崇敬者たちの気持ちが伝わる社殿であり、地域からの篤い信仰を窺える。
木造による美しい造りとなっている。
境内社は社殿の左手に三社。右から御嶽神社、稲荷神社、天王社(八雲神社・諏訪神社・胡録神社が合祀)となる。
幸せを呼ぶ三本願い松・道灌杉の遺物
境内には「三本願い松」と呼ばれる、3本の松の木が信仰を集めている。境内社の前に立つ松が1本目。
社務所の横に立つ松が2本目。
その右手に立つのが3本目。
裏参道から入ったところで3本の松を見る事ができる。
参道の左手には道灌杉の遺物。文明九年(1477)、太田道灌が当社に陣営を置き戦勝祈願した際に植えたと伝わる杉。
昭和十七年(1942)に枯死してしまい、現在は遺物を残すのみとなっている。
当社は古くから「厄除ひかわ」の名で親しまれており、古くから厄除け災難除けの御神徳で知られていた事も、こうした伝承とつながるのであろう。
当社のみで巡れる中野七福神
表参道の石段を上ってすぐ左手に、中野七福神が整備されている。平成二十一年(2009)に奉賛されて整備された一画。
天皇陛下御即位20年と、天皇皇后両陛下御成婚50年記念して奉賛された。
現在は「中野七福神」と呼ばれる。七福神が全て置かれた一画で、当社の境内のみで七福神巡りができる。
安産祈願と子育て狛犬
七福神とは逆側、表参道の右手には力石が置かれた一画も。力比べに使い奉納された力石が綺麗に保管されている。
その一画の絵馬には安産祈願の絵馬が多く掲げられる。当社に安産祈願で訪れる参拝者が大変多い事が伝わる。
参道にある一対の狛犬。そのうち、右側の阿が子持ちの狛犬となっている事から「子育て狛犬」と呼ばれる。
この狛犬を撫でると安産になると信仰を集めていて、特に戌の日に安産祈願する方が多い。
御朱印は社務所にて。御朱印にも七福神が押されており、授与品には厄除けや安産祈願といったものも多い。
欅坂46が初詣に訪れファンも多く訪れる
平成二十九年(2017)1月6日、アイドルグループの「欅坂46」と、下部組織「けやき坂46」のメンバー全32人が、当社に初詣のため訪れて祈祷を受けている。


こうした事から、欅坂のファンの方々による参拝も多い。拝殿手前左手の「祈願絵馬」にそうしたファンの方々の絵馬を多く見る事ができる。
所感
下沼袋村の鎮守として崇敬を集めた当社。
現在もなお氏子崇敬者による崇敬の篤さが伝わる立派な境内を有している。
昭和社殿が造営された直後に、ゲリラ活動によって焼失、しかし翌年に平成社殿が再建されたエピソードからも、氏子崇敬者の当社への思いが伝わってくる。
境内整備も積極的に行われ、中野七福神はその最たるものであろう。
枯死してしまっているが道灌杉は当地の歴史を伝え、三本願い松と共に信仰された事が窺える。
規模も比較的大きく綺麗に整えられた地域を代表する良い神社である。
神社画像
[ 一之鳥居・社号碑 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 境内社 ]
[ 御嶽神社 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 天王社 ]
[ 三本願い松 ]
[ 道灌杉 ]
[ 神楽殿 ]
[ 社務所 ]
[ 三本願い松 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 力石 ]
[ 神苑 ]
[ 中野七福神 ]
[ 裏参道大鳥居 ]
[ 裏参道 ]
[ 石碑 ]
[ 玉垣・案内板 ]
[ 石碑 ]
[ 神輿庫 ]
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