金王八幡宮 / 東京都渋谷区

神社情報

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)

御祭神:応神天皇(品陀和気命)
社格等:郷社
例大祭:9月14日
所在地:東京都渋谷区渋谷3-5-12
最寄駅:渋谷駅
公式サイト:http://www.geocities.jp/ynycr674/

御由緒

当八幡宮は、第七十三代堀川天皇の寛治六年正月十五日(1092)鎮座。
桓武天皇の曾孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗のうち日月二旒を持って秩父妙見山に納め八幡宮と崇め奉った。武基の子武綱は、嫡子重家とともに後三年の役(1087)の源義家の軍に三百余騎を従え一番で参向し、仙北金沢の柵を攻略した。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜った。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請した。
重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀川天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とした。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦の石が保存されている。当八幡宮は、「八幡宮」又は「渋谷八幡宮」と称していたが、金王丸の名声にちなみ、後に「金王八幡宮」と称されるようになった。渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)を領したので、当八幡宮は鎌倉街道(現・八幡通り)大山道(現・青山通り、道玄坂)を中心とする青山、渋谷の総鎮守として現在も数多くの崇敬をあつめている。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/05/02(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/02/08(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※兼務社の「豊栄稲荷神社」の御朱印も頂ける。

[2017/05/02拝受]

[2016/02/08拝受]

御朱印帳

初穂料:1,500円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
当宮の御由緒にも伝わる渋谷金王丸をデザインしたもの。
裏面は境内にある金王桜となっている。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

渋谷・青山の総鎮守の八幡さま

東京都渋谷区渋谷に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、渋谷・青山の総鎮守。
江戸時代には「江戸八所八幡宮」の一社に数えられた。
渋谷の歴史を伝える神社であり、渋谷金王丸の伝説が社名由来。
最近では、映画化もされた冲方丁の小説『天地明察』の舞台としても知られる。

源義家(八幡太郎)と河崎基家による創建

社伝によると、寛治六年(1092)に創建とされる。
桓武平氏秩父氏の一族と源義家の伝承が伝わっている。

秩父別当であった平武基は、源頼信による「平忠常の乱」平定で功を立てる。

平武基(たいらのたけもと)は、桓武平氏秩父氏の当主だった武将。平将門の曾孫であり秩父別当を務めた。

武基は、頼信が使用していた八旒の軍旗のうち日月の二旒を拝領。
日月の軍旗を秩父妙見山(武甲山とも伝わる)に納めて「八幡宮」と崇め奉ったと云う。

旗や幟の数え方には「旒(りゅう)」を使う。

武基の子である平武綱は、源義家(八幡太郎)に従い「後三年の役」で先陣を務め軍功を上げた。
その功によって武蔵国豊島郡谷盛庄(現在の渋谷)を賜り、義家から一字を貰い基家の名も賜ったと云う。

武綱は他にも武蔵国橘樹郡河崎(現在の神奈川県川崎市)を所領としていたため、姓を河崎に名を基家とし、河崎基家(かわさきもといえ)を名乗る事となる。

寛治六年(1092)、源義家(八幡太郎)は、「後三年の役」での勝利は基家の信奉する八幡神の加護であるとして、妙見山の月旗を奉じて当地に「八幡宮」を勧請した。
これが当宮の始まりとされている。

現在の御由緒では、源義家(八幡太郎)が妙見山の月旗を奉じて祀ったとされているが、江戸時代の史料には、河崎基家が妙見山の月旗を奉じて祀ったと記されている。河崎基家による創建と見るのが自然であろう。

渋谷氏と渋谷城・渋谷の地名由来

河崎基家の嫡男・河崎重家は、堀河天皇より渋谷の姓を賜る。
以後、渋谷氏を名乗るようになり渋谷重家となる。

渋谷氏を賜った事については、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に記されているので一部抜粋。

重家京都在勤の時、賊徒、渋谷灌介盛国と云ものを禁中にて搦捕ければ、時の天子堀川院賞せられ、土佐守に任し、渋谷を以て氏に命せらる。其後所領なれば爰に住せり。ゆえに渋谷の地名起れり。

要約するとこうなる。

河崎重家が京の御所の警備に当たっていた時、侵入した賊を生け捕りにする。
賊の名は「渋谷権介盛国」と云い、重家はこの功によって、堀河天皇より賊の名字である渋谷の姓を賜った。
その後、所領した地を住居とし、これが渋谷地名の起こりである。

賊の名字を賜るとなると現代人の感覚では伝わりにくい部分であるが、賊であった「渋谷権介盛国」の名を紐解くとその意味が分かってくる。

当時は慣例によって領地としていた本領の名称を名字とする事が多かった。
権介というのは地方の在庁官人が使用した名である事から、渋谷という地を支配していた領主が「渋谷権介盛国」という賊であった事が分かる。
すなわち、賊の渋谷姓を賜ったという事は、賊が所領していた渋谷という土地そのものを賜ったと考えれば、自然な事であろう。

賊が所有していた渋谷という地は、当宮の古い社記に「賊は相模国の住人渋谷権介盛国なりと云」とある事から、相模国の渋谷という領地を所有していたと見られる。
相模国には古くから相模国高座郡渋谷荘(神奈川県大和市周辺で、現在も高座渋谷駅といった駅名が残る)という地域があり、これがその所有地であったのだろう。

相模国高座郡渋谷荘には、渋谷重家の一族が移り住み相模渋谷氏と云われるようになる。

重家は、父・基家が源義家より賜った武蔵国豊島郡谷盛庄(現在の渋谷)も所領としていたため、当地にも当宮を中心として居を構えた。

これが渋谷城という平城であったとされる。
現在も当宮の境内には城の石とされる石が1点が保存されている。
渋谷氏は当宮を「渋谷八幡宮」と称し、一族の鎮守として代々尊崇したと伝わる。

渋谷氏が渋谷城を築き居を構えた事から、武蔵国豊島郡谷盛庄と呼ばれていた当地は後に「渋谷」と呼ばれるようになる。
渋谷氏の由来を見ると相模国高座郡渋谷荘に行き着くため、現在の東京都渋谷の地名由来は、現在の神奈川県大和市周辺の高座渋谷にあると云えるだろう。
渋谷地名由来には諸説あるが、筆者は歴史的観点からこの説を推したい。

社名由来となった渋谷金王丸の伝説

「渋谷八幡宮」と呼ばれていた当宮が、「金王八幡宮」と称されるようになったのには、渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)という人物が由来である。

渋谷金王丸は、渋谷重家の子とされる人物で、出生にはこうした伝説が残る。

重家にはしばらく子がなく跡継ぎでできなかったため、一族の鎮守とした当宮に夫婦で祈願したところ、妻の胎内に金剛夜叉明王が宿る霊夢を見た。
すると永治元年(1141)に子を授かる事ができ、常光と名付けられる。
霊夢で見た金剛夜叉明王の上下の二字を頂き金王丸とも称し、渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)と名乗ったと云う。

金王丸は大変謎が多い人物である。
金王丸としては、『平治物語』という平治の乱の顛末を描いた書物に登場。

源義朝(源頼朝・義経の父)に従い、保元の乱で功を上げる。
その後の平治の乱で義朝は破れ、義朝の愛妾である常盤御前にその死を伝えた人物が、義朝の郎党・金王丸であると記されている。

更に源頼朝の御家人・土佐坊昌俊という人物が、金王丸であるという説が残る。
当宮でも土佐坊昌俊が金王丸であるとしている。
金王丸は出家し剃髪をして土佐坊昌俊を名乗るようになり、義朝の霊を弔ったと云う。

金王丸が土佐坊昌俊であるという説は当時の史料では確認できていないが、当宮の古い社記には金王丸が昌俊であると記されている。

義朝の子である源頼朝が挙兵をすると、昌俊(金王丸)は密かに当宮に参籠して平家追討祈願をしたとされ、その後、頼朝の御家人として臣従する。

文治元年(1185)、頼朝と弟の義経が対立。
昌俊は頼朝から義経を討つように命令され、義経の館に討ち入る。
しかしながら、逆に義経と郎党に討たれ、六条河原で晒し首にされた。

土佐坊昌俊については『吾妻鏡』『平家物語』といった書物にその名を見る事ができる。江戸時代には歌舞伎などの演目にも好んで取り上げられた。

(歌川国貞・渋谷金王丸昌俊早打之図)

こちらは歌川国貞(後の豊国)が描いた『渋谷金王丸昌俊早打之図』。
渋谷金王丸にまつわる人物を描いており、左に描かれたのが渋谷金王丸。
当宮の御朱印帳にはこの金王丸がデザインされている。

当宮は、こうした金王丸の勇名にちなみ「渋谷八幡宮」から「金王八幡宮」と呼ばれるようになったと云う。
現在も境内には金王丸の像を祀る「金王丸御影堂」が置かれている。

青山氏(青山の地名由来)や春日局からの崇敬

江戸時代になると、青山忠成から崇敬を集める。

青山忠成(あおやまただなり)は、徳川家康から厚い信任を受けた武将・大名。家康が江戸入りすると江戸町奉行に任命され、原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広い屋敷地を賜っている。後に大名となり老中として幕政において重きをなした。
現在の青山の地名は、青山忠成の屋敷の一部であった事が由来とされている。

青山忠成は、渋谷一帯の氏神であった当宮を崇敬していたと伝わる。
青山氏が崇敬した事で、当宮は徳川将軍家との繋がりも持つようになる。

忠成の息子である青山忠俊は、慶長十二年(1607)に竹千代(後の三代将軍・德川家光)の傅役(教育係)を務める事となる。
こうした縁により、忠俊は氏神である当宮に家光の将軍就任を祈願。
家光の乳母・春日局は、当宮に護摩料金80両を寄進した。

竹千代(後の家光)と弟の国松(後の忠長)の間には世継ぎ争いがあったとも云われ、父である二代将軍・秀忠は国松を寵愛していた事から、三代将軍は国松であろうという風説が立った。これを憂い教育係の忠俊が当宮に祈願し、乳母の春日局が寄進をしたとされている。

慶長十七年(1612)、春日局と青山忠俊の寄進によって社殿が造営。
現在の社殿は当時の社殿を改修しつつ現存している。

以後、徳川将軍家からの庇護を受けている。

江戸切絵図から見る当宮

当宮の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(青山渋谷絵図)

こちらは江戸後期の青山渋谷周辺の切絵図。
右上が北の地図で、当宮は図の左に描かれている。

(青山渋谷絵図)

当宮周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当宮で「金王八幡宮」として記されている。
別当寺は「東福寺」で隣接して記されている。

当宮を中心に門前町が開かれており、上には「宮益坂」「道玄坂」など現在の渋谷に残る地名も見ることができる。
しかしながら周囲の多くは百姓地となっているように、当時の渋谷は大変のどかな農村だった事が伺える。

新編武蔵風土記稿から見る当宮

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当宮についてこう書かれている。

(中豊澤村)
八幡社
金王八幡と号す。古より中渋谷村の鎮守なり。分村の後も当村及中渋谷、又青山邊武家等の鎮守とす。神体被甲騎馬の像、長二尺、弘法大師の作と云。別当寺所蔵村岡五郎左衛門重義が書せし明応九年正月の縁起の略に、源義家奥州征伐の時、村岡五郎良文の孫秩父十郎武綱、同重家、父子従て軍忠を抽て其賞として義家の一字を賜はり、基家と号し氏を河崎と名つけ、当初谷盛の庄を宛行はる。又八幡加護の故を以て長元の昔源頼信秩父郡妙見山八幡社に納め置し日月二旗の内、月輪の旗を移し神体として八幡を造営し、又六孫王経基天慶中平将門追討の時の館跡残りしを一寺となし、親王院と名付け、当時の神体月輪の旗は霊物にて祟あることを第二十世住僧能澄夢想の告を蒙て、固く封して社下に埋め、今の神体に蒼しと云。後重家京都在勤の時、賊徒、渋谷灌介盛国と云ものを禁中にて搦捕ければ、時の天子堀川院賞せられ、土佐守に任し、渋谷を以て氏に命せらる。其後所領なれば爰に住せり。ゆえに渋谷の地名起れり。斯て重家当社に所願し永治元年八月十五日一子を儲け名を金王丸と号す。十七歳の時左馬頭義朝に従ひ鎌倉に趣く。其母名残を惜しみけれは自から像を彫刻して是を残せり。是今安する所の像なり。後長田忠致か許にて義朝横死の時、金王丸忠戦し従卒八人を討取、一方を切破て伊豆の土肥次郎か家に落行き後古郷に帰て義朝追福のため薙髪し、土佐坊昌俊と改号せしか。治承年中頼朝に従ひ、石橋山合戦の後密に此渋谷に来り、八幡に参籠せり。此時昌俊か諫に依て伯父渋谷重国と頼朝に従ひ、重国の次男次郎高重を以て昌俊の養子とす。文治元年十月朔日源義経謀叛の間へのりけれは、頼朝より義経追討のことを命す。昌俊採算辞すといへとも許されずよりて命に應せし時、霊像の薬師を賜はる。昌俊心安からさつ故ありて彼薬師に書を添て鞍馬山に納め、同月二十三日義経か館を襲て終に害せらる。其後養子高重鞍馬山に詣て弘法大師彫刻の八幡の像、及昌俊か納し薬師の像を得て鎌倉に携来り。頼朝の免許を蒙り渋谷に帰て当社の神体とすと云云。按するに此像縁起疑ふへき事多し。殊に重国当所に住せしと云は尤誤なり。渋谷庄司重国は相州高座郡渋谷庄に住せしこと「東鑑」等にも見へたり。又鐘銘に據は秩父六郎基家軍功の賞として当所を賜り、当社の別当院を建立し、寛治五年源頼家修冶を加へ、建久二年源頼朝殿堂を増修し、社参ありて僧宇の三号を賜ふ。後今の寺山院号に改む。又遥の星霜を経て大永年中の兵火に神社僧宇悉く烏有となる。慶長年中漸く再建に及ひ、元禄年中に至て別当慧順願上て新に社頭以下鐘棲坊舎に至るまで悉く落成すとあり。又記録に云、慶長年中青山常陸介忠成夢想のことありて厚く当社を信仰し、其子伯耆守忠俊も深く信しければ、春日局と謀て慶長十七年三月十三日竹千代君御武運のため、当社に於て御祈祷あり。九月十五日竹千代君御元服ましまし、同十七日社堂修造のため、春日局より金百両、伯耆守より材木若干を寄附す。元和元年八月より華表、瑞鑵等御寄附ありしよしを見ゆ。是に據ば、慶長以後幾程もなく再建成れり。鐘銘に元禄年間再建と云もの疑ふへし。
末社。高良明神、稲荷、天神。
絵馬堂。神楽堂。護摩堂。
鐘楼。寛永元年鋳造の鐘を掛く。
金王桜。金王丸彫像に頼朝より寄附せられしと云傳ふ。古木は枯て今は植継しものなり。花様一茎にして単弁重弁交錯す。此余松杉二株あり。囲各9尺許。共に神木とす。

中豊澤村の「八幡社」とされているのが当宮。
中豊澤村・中渋谷、青山の鎮守であった事が記されている。

かなり詳しい当宮の縁起を記している。
源義家(八幡太郎)と河崎基家による伝承と当宮の創建。
河崎重家と渋谷氏・渋谷の地名由来について。
渋谷金王丸と同一人物とされる土佐坊昌俊についての伝承。
青山忠俊と春日局による社殿造営。
いずれも上述で詳しく述べた事を補足する内容となっており、古くから当宮の縁起として伝わっていた事が伺える。

江戸名所図会に描かれた当宮

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「金王八幡社」として見開きで描かれている。
広大な社地を有していた事が分かり、実に見事な境内であった。
当宮の長い参道の先の鳥居周辺には門前町が開かれている事も伺える。

(江戸名所図会)

社殿を中心に境内を拡大したものが上図。
左手にある権現造の社殿が現存する社殿であり、その右手に隣接するように本堂などが置かれている。
これらは別当寺「東福寺」であり、同じ境内で神仏習合の中で崇敬を集めていた事が分かる。
中央には「金王さくら」があり、今も伝わる「金王桜」である。

(江戸名所図会)

次ページには「金王麿影堂」「金王麿産湯水」が描かれている。
「金王麿」とされているのがいわゆる金王丸で、いずれも当宮が管理していたようだ。
金王丸伝説の残る地として信仰を集めていたのが伝わる。

「金王麿影堂」は現在は境内にある「金王丸御影堂」であろう。
当時は当宮とは別の場所にあり、後に境内に遷座したものと思われる。

浮世絵に描かれた当宮と金王丸

当宮は江戸庶民からの金王丸の人気と共に浮世絵などにも描かれている。

(歌川豊国・江戸の花名勝会)

こちらは歌川豊国による『江戸の花名勝会』。
当時流行りの浮世絵形式で名勝や人気の人物などをまとめて描いたもの。
左下に描かれたのが「渋谷八幡金王桜」とあり当宮の金王桜である。
右下に描かれているのが歌舞伎役者の市川新之助。
上に描かれているのが当宮に所蔵されていた宝物。

金王桜は、頼朝が金王丸を偲び植えたとされる桜で、代々実生により植え継がれ、江戸時代には江戸三名桜の1つとされた。

(歌川豊国・俳優似顔東錦絵)

歌川豊国による『俳優似顔東錦絵』から「江戸名所図会 渋谷 金王丸昌俊」。
当宮の境内を背景に、金王丸を演じた役者を描いたもの。

現在は演目として見る事ができないが、古くは金王丸が江戸庶民から人気で題材として取り上げられていた。戦前までは児童向けの読み物にも「金王丸」を主役にしたものがいくつか収録されており、金王丸人気と共に当宮も崇敬を集めた事が伺える。

明治以降の歩み・明治の古地図から見る渋谷

明治になり神仏分離。
別当寺「東福寺」とは別々の形となった。

明治五年(1872)、村社に列した。
明治十六年(1883)、郷社に昇格している。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

当宮周辺を中心に堀内という地名が残っている事が分かる。
これは渋谷川が渋谷城の堀に使われていた歴史を伝えるもの。
渋谷城の堀の内側という事で堀内と呼ばれていた。
まだ現在のように発展する前の渋谷の様子で、「中渋谷」と呼ばれていた。

戦後に境内整備も行われ現在に至っている。
発展する渋谷・青山エリアにおいて今も総鎮守として崇敬を集めている。

境内案内

江戸中期の神門・渋谷の憩いの場である境内

渋谷駅から徒歩数分の場所に鎮座しており、参道には大鳥居が置かれる。
大鳥居を進むとその先に社号碑と鳥居。
石段の先に鳥居があり、その先が神門となる。

神門は江戸中期の造営と伝わる。
明和六年(1769)と享和元年(1801)に造られたとする二説が存在。
幾度か改修されつつ現存していて、渋谷区の文化財に指定されている。

神門を潜ると左手に手水舎。
正面に社殿となる。

境内には多くのベンチが置かれており、日中は常に人の姿で溢れる。
特に神楽殿前には常に人が座っていて、渋谷で勤める人や学生などが当宮境内で休憩している事が多く、渋谷の人々にとっての憩いの場となっている。
境内裏手には児童公園も置かれていて、渋谷にありながらのどかな一角。

江戸初期造営の社殿・江戸三名桜の1つ金王桜

社殿は慶長十七年(1612)に造営されたものが、幾度もの改修を経て現存。
春日局と青山忠俊の寄進によって造営されたと伝わる。
朱塗りの社殿に極彩色の彫刻。
定期的に改修整備され状態のよい立派な社殿である。
拝殿正面の左には虎の彫刻。
拝殿正面の右には獏の彫刻が施されている。

獏は世の安寧、虎は正しいまつりごとへの祈りが込められていると伝わる。

社殿の右手に金王桜(こんのうざくら)。
江戸時代の浮世絵などにも描かれた名所で、江戸三名桜の1つとされた。
桜の種類としては長州緋桜という種類になるようだ。

文治五年(1189)、源頼朝が当宮に太刀を奉納。その際、金王丸を偲び、金王丸の名を後世に残すべく植えたとされる桜で、代々実生により植え継がれ現在に至っている。

金王丸を祀る金王丸御影堂や境内社

境内社は神門を潜って右手に「金王丸御影堂」。
御祭神は渋谷金王丸常光で、金王丸の像を祀り、更に金王丸が所持した「毒蛇長太刀」も保存されていると云う。
『江戸名所図会』に描かれていたように、古くは当宮の境外にあったようで、その後当宮に遷座した。

毎年3月の最終週には金王丸の木像がご開帳される。

境内左手に「玉造稲荷社」。
元禄十六年(1703)に創建され、農村であった当時の渋谷の農耕神として崇敬を集めた。

その隣に「御嶽社」。
「武蔵御嶽神社」からの勧請と伝わる。

算額など無料展示している宝物館・『天地明察』の舞台

社務所の隣は「宝物館」として整備されている。
拝観無料で一般公開されていて、貴重な品々が展示されている素晴らしい空間。

入ってすぐ目につくのが古い神輿。
手前の神輿は鎌倉時代の作と伝わり都内最古の神輿とされる。

江戸時代初期に当宮の氏子が、鎌倉の「鶴岡八幡宮」の大祭に参詣した折、勝手に鎌倉から担いで持ってきて当宮に納めたと伝わるもの。
追手も差し出されたと云うが、途中で日が落ちたため追手は神輿を見失ったとされ、その場所を「暗闇坂(目黒目切坂)」と云う。
勝手に持ってきたという面白いエピソードが残る。
相模国一之宮格。鎌倉武士の守護神。源頼朝により現在地に遷座・上下両宮に整備。静御前が舞った若宮廻廊(現・舞殿)。源実朝の落命の地。江戸幕府による庇護。源平池・再建された旗上弁財天社。倒伏した大銀杏。表参道の段葛・若宮大路。御朱印。御朱印帳。

他にも当宮の歴史を伝える貴重な品々。
古い扁額や札、絵馬。
例祭で使ったと思われる獅子頭。
奉納された貴重な書物などが展示されている。

中でも特筆すべきが3点の算額。
嘉永三年(1850)、安政六年(1859)、元治元年(1864)奉納の算額が残っていて、いずれも渋谷区指定有形民俗文化財となっている。

算額(さんがく)とは、額や絵馬に和算の問題や解法を記して寺社に奉納したもの。和算において、問題が解けたことを神仏に感謝しますます勉学に励むことを祈念して奉納されたと伝わる。
こうした算額の繋がりから、冲方丁による時代小説『天地明察』の舞台としても登場。
主人公である渋川春海が、関孝和の算額を見た地として当宮が登場しており、重要なシーンで登場する。
岡田准一主演で映画化もされ、ロケ地としても使用された。

御朱印は社務所にて。
兼務社の「豊栄稲荷神社」の御朱印も頂ける。
渋谷金王丸をデザインした御朱印帳も用意している。

余談になるが当宮は外国人(オーストリア人)の神職がいる事でも話題になった事がある。

所感

渋谷の地名由来ともなった渋谷氏、その系譜の渋谷金王丸を社名に持つ当宮。
江戸時代に入ってからも青山の地名由来となった青山氏や春日局による崇敬、社殿の造営など、正に渋谷や青山の歴史を伝える神社であり、渋谷・青山の総鎮守として古くから崇敬を集めている。
渋谷の歴史を知る上で欠かせない氏神である。
渋谷というエリアにありながらも中々の広い境内を維持しているのも崇敬を集めているからこそ。
ベンチなども多く置かれて渋谷で働く人や学生などがよく座っており、渋谷の憩いの場になっている事が伝わる。
何より無料で一般公開している宝物館が素晴らしく、ただただ有り難い。
繁華街として発展した渋谷において、憩いの場となった良い神社である。

神社画像

[ 大鳥居 ]

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 鳥居・神門 ]

[ 神門 ]


[ 手水舎 ]

[ 参道 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿・幣殿・拝殿 ]

[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 渋谷城砦の石 ]


[ 金王桜 ]



[ 石碑 ]

[ 金王丸御影堂 ]




[ 玉造稲荷神社 ]



[ 御嶽神社 ]


[ 神楽殿 ]

[ 石碑 ]


[ 社務所 ]

[ 宝物館 ]








[ 児童公園 ]

[ 神輿庫 ]

[ 案内板 ]

Google Maps