築土神社 / 東京都千代田区

神社情報

筑土神社(つくどじんじゃ)

御祭神:天津彦火邇々杵尊
相殿神:平将門公・菅原道真公
旧社格:村社
例大祭:9月15日
所在地:東京都千代田区九段北1-14-21
最寄駅:九段下駅
公式サイト:http://www.tsukudo.jp/

御由緒

 社伝によれば筑土神社は、天慶三年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和二年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町二番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治七年に筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和二十年空襲で社殿などを悉く焼失し、二十九年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわち田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/02/17(御朱印拝受)
参拝日:2017/02/14(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/05/28(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。

[2017/02/17拝受]

[2015/05/28拝受]

授与品・頒布品

平将門霊神御札
初穂料:1,000円
社務所にて。

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考察

平将門を祀る築土明神

東京都千代田区九段北に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧田安郷(九段・飯田橋周辺)の鎮守。
平将門公を祀るために創建された神社で、幾度も遷座を繰り返している。
江戸時代には隣に牛込東部鎮守「筑土八幡神社」が並ぶ形で鎮座していた。
氏子崇敬者からは「築土明神」と呼ばれる事も多く、毎年正月に授与される勝守が有名。

平将門の首を祀り将門塚の近くに創建

社伝によると、天慶三年(940)に創建と伝わる。

天慶三年(940)、承平天慶の乱(平将門の乱)にて平将門が討死。
朝敵として討たれた将門の首は平安京へ運ばれ、晒し首とされた。

晒し首の刑罰である「獄門」が、歴史上で最も古く確実に確認されているのが将門である。

その後、将門縁の人々が密かに将門のを平安京より持ち去り、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・大手町の将門塚近く)の観音堂に祀って「津久戸明神」と称した。
これが当社の創建とされている。

同じような伝承が伝わるのが、将門の首塚と伝えられている大手町の「将門塚」。
かつては盛土があり内部に石室があったため、将門の古墳であったとされている。

(佐藤隆三・江戸傅説)

こちらは大正十五年(1926)に刊行された佐藤隆三著『江戸傅説』より「将門塚」の写真で、盛土があり、古墳として崇敬されていた様子が伝わり、古くはこうした首塚であったのだろう。
当社の創建の地もこの将門塚周辺であったため、かつては当地に将門伝説が根付いていた事が分かる。

当社には、将門の首を持ち帰った際に使われた首桶や、かつては将門の首そのものが安置されていたとも伝わっており、篤く信仰されていた。

首桶は東京大空襲によって焼失してしまい、写真が残るだけとなっている。

同じく将門公を祀る「神田明神」も、古くは将門塚の近くに鎮座していたものの、当時はまだ将門公を祀っておらず、当社が江戸において最初に将門公を祀るために建立された神社と見る事もできるであろう。

神田神社(神田明神) / 東京都千代田区
東京十社・江戸総鎮守。天下祭と呼ばれた江戸随一の神田祭。『ラブライブ!』の聖地・コラボも。将門塚(大手町)の祟りを鎮めるために将門公を祀る。江戸設計を指導した天海・徳川幕府によって江戸総鎮守とされる。浮世絵に描かれた当社。御朱印。御朱印帳。

中世から江戸時代にかけて遷座を繰り返す

文明十年(1478)、太田道潅が江戸城の北西に社殿を造営し遷座。

太田道灌は江戸城を築城した人物として知られ、江戸城鎮守の内の一社として当社を崇敬した。

天文二十一年(1552)、上平河村の田安郷(現・九段坂上周辺)に遷座。
江戸城田安門付近に鎮座していた事から「田安明神」とも呼ばれるようになったと云う。

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
すると江戸城拡張のため、下田安牛込見附米倉屋敷跡(現・JR飯田橋駅付近)に遷座。

元和二年(1616)、江戸城外濠拡張のため、「筑土八幡神社」隣に遷座し、「築土明神」に改称。
それ以来、東京大空襲で全焼するまで、両社は隣り合って鎮座していた。

筑土八幡神社 / 東京都新宿区
牛込東部鎮守。新宿区最古の石鳥居・珍しい庚申塔。戦後に再建された社殿・境内社宮比神社。平安時代に創建の伝承。伝教大師(最澄)による神像・筑土の由来。江戸時代は「築土神社」が隣に遷座し並び立つ形に。江戸名所図会に描かれた当社。御朱印。
当社の氏子の大半は「田安明神」と呼ばれていた頃の旧鎮座地に留まったため、江戸時代は当社の氏子地域の中に当社がなく、当社と氏子地域が離れるという事態になっていた。
当社が「筑土八幡神社」の隣に遷座したのは、当社の別当寺であった「成就院楞厳寺」(現・廃寺)が天正年間(1573年-1593年)に筑土八幡町に移転していたため、当社も続く形で移転したものと思われるが、但し末社であった「世継稲荷神社」はその場に残されたため、将門公の神霊を江戸城より外に配置し、江戸城を守護させたと見る事もできる。

江戸時代は「筑土八幡神社」と並び立つ形に

両社が並び立っていた様子は、江戸の切絵図からも見て取れる。

(小日向絵図)

こちらは江戸後期の牛込・磔川周辺の切絵図。
右下が北の切絵図となっており、当社は図の中央に描かれている。
左に見えるのが江戸城へ繋がる牛込御門である。

(大久保切絵図)

当社周辺を拡大したものが上図になる。
左下に「八幡宮」「築土明神」とあるのが当社の鎮座地。
「八幡宮」が「筑土八幡神社」であり、「筑土明神」が当社である。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「筑土八幡宮」「同明神社」として描かれている。
二社が並び立つ様子が実に分かりやすく描かれている。
同じ境内にありながらもあくまで別々の神社として機能していた様子も伺える。

その証拠に、それぞれ別々に参道、鳥居、神門などが設けられている事が挙げられるだろう。
実際に氏子区域も違っていた。

当社が鎮座していた場所に江戸城普請のため当社が遷座してきて、そのまま並び立って存続していった姿が分かる史料として貴重である。

明治以降と戦後の再建と遷座

明治になると神仏分離。
明治七年(1874)、天津彦火邇々杵尊を主祭神として「築土神社」へ改称。

明治政府が朝敵であった将門公を主祭神にしている事を問題視したためで、教部省の指示により将門公は相殿に格下げされてしまう。

明治四十年(1907)、村社に列する。
明治以降も戦後まで、当社と「筑土八幡神社」の両社は並ぶ形で崇敬を集めた。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿など多くが焼失。
代々伝わっていった将門公の首桶や肖像画などの社宝も焼失してしまっている。

昭和二十一年(1946)、再建に際して千代田区富士見へ遷座。
区所有地を無償で譲り受ける形で社殿を再建している。
こうして戦後の復興の中で、300年以上続く「筑土八幡神社」と隣に並ぶ形での鎮座の形は終わる事となる。

当社の氏子地域は、「筑土八幡神社」の隣に遷座する前の「田安明神」と呼ばれていた時代の氏子地域を引き継いでいたため、江戸時代から長い間、氏子地域と当社が離れた場所にあるという状況になっていた中、再建にあたって本来の氏子地域に戻そうという機運が高まり、遷座したとされている。

昭和二十九年(1954)、区立中学校の建設予定地と境内が重なるため、区所有地を譲り受けていた当社はもう1度移転を余儀なくされ、「田安明神」時代から当社の末社で取り残されていた「世継稲荷神社」の境内へ再び遷座しており、これが現在の鎮座地となる。

平成二年(1990)、御鎮座1050年記念大祭を斎行。
平成六年(1994)、社殿老朽化に伴い、社殿を新築し、境内に地上8F建てのオフィスビルが完成。
同年、境内末社の木津川天満宮に祀られていた菅原道真公を相殿に祀った。

当社の氏子区域は、九段北1・2丁目、九段南1・2丁目、飯田橋1-4丁目、一ツ橋1丁目、富士見1・2丁目、北の丸公園。
北の丸公園にある「日本武道館」も当社の氏子地域である。
なお、将門公を崇敬する一部氏子には、「成田山新勝寺へ参詣してはいけない」という禁忌が代々伝わっており、これは成田山「新勝寺」は、平将門の乱鎮圧のために建立されたという起源をもつ事からで、これは当社に関わらず、将門伝説の残る地には伝わっている事が多い。

九段北の坂の途中にあるビルの奥に鎮座

最寄駅は九段下駅になり徒歩すぐで、九段北一丁目の交差点を西側に急な坂を上って行くと、その坂の途中左手に鳥居が見える。
ビルに囲まれた形で鳥居があり、境内にあるビルは平成六年(1994)に建てられた九段アイレックスビル。

鳥居を潜ると、ビルの柱の間を突っ切る形の参道。
その先、左手に手水舎。
ビルを抜けると正面やや右に社殿となる。

社殿は平成六年(1994)に新築されたもの。
鉄筋コンクリート造になっており、手狭な境内ながら迫力ある社殿。
巴紋の他、将門公が使用したと伝わる九曜紋も施されている。

本殿も同様に鉄筋コンクリート造によるもの。
ビルの奥に鎮座しているが、社殿がある場所は吹き抜けの空間となっており、配慮を感じる造り。

区内最古の狛犬・力石・世継稲荷など

手水舎の近くに一対の狛犬。
安永九年(1780)に奉納されたもの。
区内最古とされていて区指定有形民俗文化財となっている。

社殿の右脇には境内社の世継稲荷神社へ続く参道。
その途中に力石が置かれている。
こちらも区指定有形民俗文化財。

力石の先に境内社の世継稲荷神社。
当地に末社として元々鎮座しており、当社が遷座してきた形となっている。

九曜紋や繋ぎ馬の神紋・正月期間限定の勝守

御朱印は社務所にて。
ビルの内部が社務所となっているのでそちらで授与品なども頂ける。
御朱印には平将門公に因んだ、九曜紋や繋ぎ馬も押して頂ける。

御朱印同様に当社の絵馬には九曜紋と繋ぎ馬が記されている。
この繋ぎ馬は当社の登録商標となっており、御朱印にも押されている。

正月期間(毎年1月1日-1月15日まで)には、「勝守(かちまもり)」という御守が頒布。
多くの勝利を収めた将門公に因んだ当社独自の御守で「勝利を収める御守」として人気が高い。
正月期間を過ぎると通常の御守タイプの勝守のみ頒布となる。

当社は、日本武道館の氏神でもある事から、近年では、武道を志す人々からも人気の御守となっている。
武道の神様・平将門由縁のお守り。正月限定の「勝守」。

所感

平将門を祀る神社として崇敬を集めた当社。
幾度も遷座を繰り返しており、江戸時代から戦後までは「筑土八幡神社」と並ぶように鎮座し崇敬を集めた。
戦後も2度の遷座によって現在の鎮座地となるのだが、現在の鎮座地はかつて「田安明神」と呼ばれていた地域であり、長年かけて当社の氏子地域に戻ってきたと云える。
当社が幾度も遷座されたのは様々な事情があっただろうが、平将門という御祭神の影響を強く受けたとも思える。
将門公は時代と共に評価が変遷しており、祟りのある御霊信仰として、江戸鎮守の守り神として、朝敵として、様々な評価や思惑が入り混じり、複雑な経緯を経て現在に至っているのであろう。
将門公を崇敬する人にとっては古くから大切な神社であり、今も多くの崇敬を集めている。

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神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]

[ 狛犬 ]






[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 世継稲荷神社参道 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 参道]

[ 力石 ]


[ 世継稲荷神社 ]


[ 社務所 ]


[ 社殿裏手 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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