神社情報
道野辺八幡宮(みちのべはちまんぐう)
八幡神社(はちまんじんじゃ)
御祭神:誉田別尊
社格等:─
例大祭:5月5日(春祭)・10月15日(秋祭)
所在地:千葉県鎌ケ谷市道野辺中央5-6-10
最寄駅:鎌ヶ谷駅
公式サイト:http://www.hachiman-gu.com/
御由緒
当社は鎌ケ谷市を代表する大神社として道野辺八幡宮と尊称され、市民及近隣住民より崇敬されて居ります。
御祭神は八幡大神と申し上げ誉田別尊ほかを御奉祀して居ります。御創建は悠久の歴史の中で生成流転栄枯盛衰により貴重な資料が逸散、世情人心の変遷に遭って史実と伝承伝説が風化し今俄に断定する事は出来ないが俚伝によれば、中沢城(東城西城)築城に関わりこの地を城地の鬼門と目し厄除け方除けの神、弓矢兵馬の神、文武勝運守護の神として鎌倉時代に、又土地の伝説として平将門が下総を征服し市川大野の地に宮殿を建てた折中沢にも築城したと云う事が有りその時、鎮祭されたものと云う。
御神徳は御祭神の御事磧よりして、厄除開運、殖産興業、学芸成就、子守育成、安全息災、勝運守護に著しく霊験あらたかなものがある。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2016/10/06(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/05/07(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
授与所にて。
御朱印帳
初穂料:1,300円
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意している。
菊に左三つ巴の神紋が散りばめられた淡くカラフルで素敵な御朱印帳。
2015年に参拝した際は用意されていなかったので、最近になって頒布を開始した様子。
(公式サイトより)
※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。
歴史考察
鎌ケ谷市の総鎮守
千葉県鎌ケ谷市道野辺中央に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
現在は鎌ケ谷市及び近隣の総鎮守とされている。
「道野辺八幡宮」は通称であり、正式名称は「八幡神社」。
当社の案内や公式サイトでも「道野辺八幡宮」を使う事が多い。
千葉県神社庁より規範神社に指定されている。
将門伝説が残る土地
当社の御由緒については不確定な伝承の要素がかなり強い。
そのため、まずは社伝に伝わる御由緒を記していきたい。
将門伝説が深く関わってくる。
平将門が下総国を征服した際、中沢城(詳しくは後述)を築城。
中沢城の鬼門にあたる当地に、厄除け方除けの神、弓矢兵馬の神、文武勝運守護の神として創建したとされる。
代表的なのは、当社からもほど近い市川市の大野町周辺(市川大野)になり、将門にまつわる伝説が数々伝えられている。
大野町(旧大柏村)の鎮守である「駒形大神社」は御祭神の一柱に将門公を祀っている。
その市川大野からほど近い鎌ケ谷市周辺にもこういった将門公に由来する伝承が伝えられたという事になるのだろう。
所在不明である中沢城の謎
上述の通り、将門公が「中沢城」を築く際に鬼門にあたる当地に創建したとあるのだが、この「中沢城」の存在がとても謎めいている。
伝承のみが存在を支えている所在不明の城となっている。
地域の伝承によれば、将門公が下総国を征服した際、上述した将門伝説が多く残る現在の市川市大野町に「大野城」を築城。
この大野城は遺構があり実在していたのが確認されているが、こちらも中世の城という調査結果があり、将門公の時代とは合わないものの、上述の通り将門伝説が多く眠る地域なので、何らかの関連があった可能性もある。
そして中沢城は、大野城の築城の際に共に築かれたとされている。
所在不明の中沢城があったとされる場所の候補は2箇所あり、ひとつは道野辺東城・西城、もうひとつは中沢根郷とされている。
特に道野辺のあたりは、古くから東城、西城、高堀といった地名が残っているため、何らかの城郭が築かれていた可能性もあるのだが、上述の通り発掘調査の結果では中沢城の存在を裏付けるような結果は出ていない。
もし中沢城が実在していたとしたら、平安時代中期頃の創建となるのであろう。
しかし現実的には伝承上の城と見るのがよいかもしれない。
真偽は定かではないが、いずれにせよ、当地周辺には将門公と結びつけるだけの地域の崇敬があった事が窺い知れる。
江戸時代の鎌ケ谷市
現在の鎌ケ谷市は、江戸時代の鎌ケ谷村・粟野村・中沢村・道野辺村・佐津間村・串崎新田村・軽井沢新田村の7つの村が集まってできた市である。
更に小金牧という幕府が軍馬育成のため設置した放牧場の一画も、現在の鎌ケ谷市の一画。
これら一帯を江戸時代の頃には「釜原」と呼ぶ事が多かった。
中でも、当時のこの地域の中心であったのは鎌ケ谷村である。
現在の新京成線・鎌ヶ谷大仏駅周辺となっている。
本行徳河岸から八幡・鎌ヶ谷・白井を経て木下河岸までの「木下街道」(きおろしかいどう)の街道筋にあり、鎌ケ谷宿という小さな宿場町となっていた。
鎌ケ谷宿は全盛期には7軒の旅籠があったという。
安永五年(1776)には、商人・大黒屋文右衛門が「鎌ヶ谷大仏」を建立。
鋳造青銅製で高さ1.80m・台座含めて2.30mと小さな大仏。
現在も当時の面影を偲ばせてくれる。
文化二年(1805)に編纂された『木曽路名所図会』に、当時の鎌ケ谷の様子が描かれている。
多くの馬の姿、さらに木下街道、右上には筑波山、左上には富士山が描かれている。
左下に描かれているのが、鎌ヶ谷大仏である。
大変のどかな地域であった事が分かる。
他にも渡辺崋山が「四州真景図」にて釜原として鎌ケ谷一帯を描いていたりと、文人墨客が旅の途中に利用した地域でもあった。
なお、この鎌ケ谷村の鎮守だったのは、現在も鎌ヶ谷大仏のほぼ向かいにある「鎌ヶ谷八幡神社」(鎌ケ谷1丁目)であり、当時はこちらの神社がこの一帯から崇敬を集める神社であった事が分かる。
江戸時代の道野辺
一方で、当社が鎮座している地域は道野辺村。
木下街道から奥まった所にあり、鎌ケ谷の中心であった鎌ケ谷村からやや外れたところである。
大きな道(木下街道)のほとりという意味で、道野辺。
鎌倉時代以前からの古い集落であった。
江戸時代は大名・本多氏の領地であり、本多氏が駿河国田中藩主になった後は駿河国田中藩の飛地となっていた。
そうした道野辺村の鎮守が当社だったかというと、そうではない。
道野辺村の鎮守は「根頭神社」という土着の神を祀る神社であった。
現在も当社から近い位置に鎮座している普段は無人の神社である。
参道が見事で「ちば遺産100選」に選定されている社叢の鎮守となっている。
現在のような規模の大きな立派な境内を有する神社ではなかったのは間違いない。
地域の中心であった鎌ケ谷村の鎮守が「鎌ヶ谷八幡神社」。
そこからやや外れた道野辺村の鎮守が「根頭神社」。
では、当社こと「道野辺八幡宮」はどのようにして、今のような「鎌ケ谷市総鎮守」となったのか。
それは明治以降・戦後の話となっていく。
明治以降と戦後の古地図から見る当社の変遷
明治になり神仏分離。
鎌ケ谷村の村社に「鎌ヶ谷八幡神社」、道野辺村の村社に「根頭神社」が列した。
明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、鎌ケ谷村・初富村(明治になって開墾された村)・粟野村・中沢村・道野辺村・佐津間村の6村と、印旛郡根村から分村した軽井沢地区、さらに串崎新田飛地が合併して「鎌ケ谷村」が成立。
これが現在の鎌ケ谷市となっていく。
明治三十六年(1903)の古地図がある。
当時の鎌ケ谷村(特に道野辺周辺)の地理関係を確認する事ができる。
(今昔マップ on the webより)
旧道野辺村の鎮守であった「根頭神社」は現在と同じ位置に見る事ができ、また別当寺として栄えた「妙蓮寺」の姿も見る事ができる。
しかしながら、当社こと「道野辺八幡宮」の姿が当時の地図では見る事ができないのである。
すなわち、当時は地図に記されないほど小さな祠であったものと推測できる。
大正十二年(1923)、北総鉄道船橋線(現・東武鉄道野田線)開通。
当社から比較的近い場所に、現在の鎌ヶ谷駅が開業。
こうして鉄道の開業と共に、鎌ケ谷一帯の中心地は、鎌ヶ谷大仏や「鎌ヶ谷八幡神社」がある旧鎌ケ谷村一帯から、鎌ヶ谷駅周辺(旧道野辺村)へと遷っていく事となる。
戦前の昭和七年(1932)の古地図を見てみよう。
(今昔マップ on the webより)
現在の地理にかなり近い地図となっており、駅も線路も細かい道も記されている。
左下には鎮守であった「根頭神社」の地図記号を見る事ができるが、当社の位置に神社の地図記号が記されていない。
現在の当社くらいの規模の場合は、確実に記されているものの、地図上に見当たらない事から、この時点でも当社は小さな祠であったと思われる。
その後、戦後の昭和四十年(1965)の古地図でも当社の姿を見る事ができないのである。
当社を地図上で見る事ができるようになるのは、昭和五十一年(1976)の地図となる。
(今昔マップ on the webより)
左下には鎮守であった「根頭神社」、そして当社の鎮座地に神社の地図記号を確認できるようになる。
この事から、戦後の昭和四十年代のあたりに、当社が現在の規模になった事が分かる。
昭和四十六年(1971)、市制施行によって現在の鎌ケ谷市が成立。
鎌ケ谷市が成立するにあたって、市の総鎮守を建立しようという機運が高まったのではないだろうか。
鎮座地は市の中心となっていた鎌ヶ谷駅から程近い当地となり、そうして当社が現在の規模に整備されていき「鎌ケ谷市総鎮守」となったのであろう。
そのため現在では鎌ケ谷市の中心神社として崇敬を集めている。
長い参道と新しい社殿
鎌ヶ谷駅からやや南西の住宅街に鎮座していて、表参道は東南に面している。
社号碑には「道野辺八幡宮」ではなく「八幡神社」の文字。
一之鳥居の先には石段と長い参道が整備。
車などで入る場合は北参道から入っていく形になっていて途中に駐車場がある。
北参道の途中の参道からやや外れた場所に朱色の両部鳥居。
参道を進むと二之鳥居。
境内はとても綺麗に整備されており、全体的に新しい印象を受けるのは、鎌ケ谷市の成立にあたってこうして見事な境内に整備されたからであろう。
参道左手にやはり新しい手水舎があり、平成二十四年(2012)に新しく建て替えられた。
参道途中に狛犬が置かれている。
社殿は大変立派な佇まい。
拝殿は平成二十年(2008)に増築されたもので、現在も新しさを感じる。
旧社殿はこの拝殿の後ろに本殿として鎮座しており、拝殿が増築された際は旧社殿を50mほど後ろに移動させ、こうして新しい拝殿が増築された。
扁額には正式名称の「八幡神社」ではなく、通称である「道野辺八幡宮」の文字が記されている。
整備された境内と境内社・骨董市と福市
境内はとても綺麗に整備されており崇敬の篤さを感じさせてくれる。
境内社は参道左手に天満宮学神社。
その左手には御食津神社と少彦名命神社、さらに小祠がいくつか並ぶ。
鬱蒼とした緑が綺麗に整備されている一画となっている。
二之鳥居を潜って左手には御神馬舎。
御大典記念として中には本物に見間違うような造形の御神馬が奉納されている。
二之鳥居を潜って右手には豊洲神社。
工場守護の文字を見ることができ、この隣に稲荷社も置かれている。
御朱印は社殿の左手にある授与所(御祈祷受付所)にて。
丁寧に対応して下さった。
オリジナルの御朱印帳も用意している。
なお、毎月第2土曜日に境内で骨董市が開かれるとの事。
毎月第1土曜日には福市が開催される。
こうした境内の利用も地域に親しまれる要素であろう。
所感
鎌ケ谷市の総鎮守として地域からの崇敬を集める当社。
御由緒には将門伝説が記されており、真偽は定かではないものの、地域からの将門公に対する崇敬を感じる事ができる。
史実として見ていくと、江戸時代の頃までは鎌ケ谷の中心は、鎌ヶ谷大仏や「鎌ヶ谷八幡神社」がある一帯であり、当社周辺の道野辺村はその外れにある小さな集落だった事が分かる。
その道野辺村の鎮守は当社からもほど近い「根頭神社」であり、当社は小さな祠であったと思われるが、戦後になり鎌ケ谷市が成立するにあたり、鎌ケ谷市の総鎮守として、当社が今の規模に整備されていった事が窺える。
現在の規模として見るのならば歴史が浅い神社ではあり、境内も新しさを感じるが、地域からの崇敬を集め、鎌ケ谷市の総鎮守としての役割を担っているのが伝わる。
綺麗に整備された境内は清々しく、鎌ケ谷を代表する神社である。
神社画像
[ 一之鳥居・社号碑 ]
[ 石段 ]
[ 参道 ]
[ 北参道 ]
[ 両部鳥居 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 岩座 ]
[ 手水舎 ]
[ 狛犬 ]
[ 拝殿 ]
[ 授与所 ]
[ 参集殿 ]
[ 天満宮学神社 ]
[ 境内社 ]
[ 少彦名命神社 ]
[ 小祠 ]
[ 御食津神社 ]
[ 御神馬舎 ]
[ 境内社 ]
[ 社務所 ]
[ 豊洲神社 ]
[ 自動車お祓所 ]
[ 案内板 ]
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