神社情報
下野國一社八幡宮(しもつけのくにいっしゃはちまんぐう)
御祭神:誉田別命(応神天皇)・大帯姫命(神功皇后)・姫大神
社格等:県社
例大祭:4月10日
所在地:栃木県足利市八幡町387
最寄駅:野洲山辺駅・足利市駅
公式サイト:─
御由緒
社伝によると、天喜四年(1056)八幡太郎の名で有名な源義家が、陸奥の豪族、安倍頼時父子を討伐(前九年の役)するため当社付近の大将陣に宿営し、戦勝を祈願して現在地に小祠を創建し、山城の国(現京都府)の男山八幡宮を勧請したという。
康平年間に凱旋した義家は神の恵みに感謝し、公自ら兵器を奉納した。文明八年(1476)八月、長尾景長は境内社木伐採の禁制を出し保護を加え、その後の元和七年(1621)十一月、江戸幕府より二十石の朱印社領を許されているが、この時の設計図や費用明細書などが現存している。
当社は八幡太郎源義家・義国父子の手厚い信仰により源姓足利氏代々の氏神として保護されてきた。明治四年に社格が制定され、同五年郷社、同三十五年には県社に列せられた。
当社は古くは足利荘八幡宮と呼ばれ、下野国内第一の八幡宮として、下野国一社八幡宮、一国一社八幡宮とも称した。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2016/07/06
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。
歴史考察
下野国第一の八幡宮
栃木県足利市八幡町に鎮座する神社。
旧社格は郷社の後に県社に昇格。
正式社号は「八幡宮」のみであるが、下野国第一の八幡宮(国府八幡宮)として「下野國一社八幡宮」と称されることが多い。
境内社には三大縁切り稲荷のひとつとされる「門田稲荷神社」が鎮座しており、こちらの知名度も高く全国から参拝者が訪れる。
八幡太郎による創建・裏手には古墳群
社殿によると、源義家(八幡太郎)による創建とある。
天喜四年(1056)、源義家(八幡太郎)が、前九年の役の際に奥州へ向かう途中、当社付近に陣を構え戦勝を祈願。
当地に小祠を創建し、山城国(京都府)「石清水八幡宮」を勧請し創建とされる。
関東圏には、源頼義・源義家(八幡太郎)親子の勧請と伝えられる八幡信仰の神社が多い。
都内の八幡神社の結構な御由緒に登場するし、栃木県でも源頼義・義家親子の勧請と伝えられる八幡神社が多く残されている。
当宮の御由緒には源義家(八幡太郎)の名しか出てこないのだが、創建年代が事実であるのならば年代的に源頼義・義家親子による創建と思われる。
特に源義家は山城国「石清水八幡宮」で元服したことから自らを「八幡太郎」と称す程、八幡信仰に篤い人物であり、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。
すなわち足利を発展させた源姓足利氏(後の足利将軍家)の祖先である。
源氏の氏神=八幡様を強く印象づけた1人でもあるため、当宮のように御由緒に残される事が多い。
なお、当社の裏手は「八幡山古墳群」という100基近くの古墳群となっており、創建より前の古代の時代より神聖な地であった事が分かる。
そうした神聖な地に神社を創建する事は比較的よくある事であり、当宮もそういった経緯があったのかもしれない。
源義国という人物と源姓足利氏発祥の地
御由緒には記されていないのだが、源義国(足利義国)という人物がいる。
当宮を創建した源義家(八幡太郎)の子であり、足利氏・新田氏の祖にあたる人物。
康治元年(1142)には、源義国が父である源義家から伝えられた開発地を、京都の「安楽寿院」に寄進した事から足利荘が成立。
「安楽寿院」は鳥羽上皇が建てた寺院であり、そこに寄進した事で、後に管理や支配などの変化はあったものの、足利は足利荘という荘園として戦国時代末期まで続く事になる。
久安六年(1150)、京都にいた源義国は右近衛大将である藤原実能と争いを起こしてしまい、藤原実能の屋敷を焼き払い勅勘(天皇からの処分)を受ける。
そのため源義国は、足利の別業に下向する事となった。
別業(なりどころ)とは古代貴族の別荘のようなものである。
足利荘を成立させたように、父である源義家より、足利の土地を伝えられていたため、足利の別業に下向したのは自然な事であろう。
この足利の別業とはどこであるのか、古来議論されていたが、当社周辺という説が有力とされている。
源義国が足利に住む事になったのは晩年の事であり、当地に住んだのは僅か数年の事ではあるが、これが足利は源姓足利氏の発祥とされた一因である。
本姓は源氏であるが足利荘に住んだため、源義国の次男・源義康が足利氏を称した。
そのため源姓足利氏とされる。
これが後の室町幕府の足利将軍家である。
ちなみに源義国の長男・源義重は新田氏と称した。
足利氏と新田氏は後の南北朝時代に争う事になるのだが、実は同祖の関係にあたる。
こうした事で、源義国が下向したとされる当地は「源姓足利氏の発祥の地」とも云えるだろう。
当宮にも「源姓足利氏発祥之地」といった石碑が建てられている。
まだ足利荘が成立していた頃の当宮は「足利荘八幡宮」と呼ばれたそうだ。
源姓足利氏による庇護
上述の通り、源姓足利氏発祥の地ともされる当宮周辺。
当然、源氏の氏神でもある八幡様をお祀りする当宮は、庇護を受ける事となる。
特に室町時代になり、源姓足利氏が足利将軍家となり天下人となってからは、隆盛を誇ったようである。
文明八年(1476)、長尾景長が境内の木伐採の禁制を出し保護を加えと伝わる。
長尾景長は、山内上杉家(関東を治めた上杉家)の家宰を務めた人物で、画家としても優れた才能を見せた人物として知られる。
下野国足利庄勧農城(現在の足利市岩井町の岩井山にあった中世の城)城主であり、足利と深い繋がりがあった人物であった。
江戸時代に入ると、元和七年(1621)、徳川将軍家より二十石の朱印社領を賜っている。
この時の本社設計図や検地帳などが宝物として現存しており、これらは栃木県の重要文化財に指定されている。
多くの重要文化財が残っており足利の歴史を知る上でも大変貴重である。
こうした伝承からも、源姓足利氏や時代の権力者より庇護を受けた神社であった事が分かり、多くの方に崇敬を集めたのであろう。
当社の神紋には葵紋を見る事もでき、徳川家から使用を許可されていた事も伝わる。
神仏分離と現在
明治になり神仏分離。
明治四年(1872)に郷社に列した。
明治三十五年(1902)には県社に昇格している。
戦時中も戦火を免れたようで、上述の通り多くの文化財が残る。
平成九年(1997)には、拝殿などの保存修理が行われた。
現在は下野国内第一の八幡宮として、「下野国一社八幡宮」とも「一国一社八幡宮」とも称され崇敬を集めている。
多くの文化財が残る境内
鎮座地である八幡町の地名は、当然当宮が由来しているのであろう。
県道40号線沿いに、趣のある鳥居が見えてくる。
入口の銅造鳥居は、寛政四年(1793)に建立されたものが現存。
足利市の重要文化財となっている。
その奥にあるのが足利市天然記念物のクロマツ。
何とも面白い形となっているが、推定樹齢は約600年とされる。
参道の左手に手水舎があり、この日はまだ大祓の茅の輪が残っていた。
その奥に二之鳥居。
石段の先に社殿となっている。
社殿は文化十一年(1814)に再建されたもの。
拝殿は入母屋造りで見事な造り。
平成九年(1997)に保存修理されており、彫刻の色彩も素晴らしい。
普段は公開されていないのだが、拝殿には見事な天井絵が描かれているという。
本殿には大変細かい彫刻がされておりとても見事。
八幡宮本殿附八幡宮本社再建図として栃木県の重要文化財に指定されている。
この社殿の裏手が八幡山古墳群となっている。
古くから神聖な土地だった事が伝わる。
他にも立派な宝物庫や神楽殿などが建てられている。
御朱印は社務所にて。
宮司さんがとても親身になって色々教えて下さっただけでなく、氏子総代の方を紹介して下さり、とても詳しく歴史などをご教示頂いた。
日本三大縁切稲荷・門田稲荷神社
境内社として「門田稲荷神社」と「八坂神社」が鎮座。
鳥居の先に「門田稲荷神社」で、途中の左手に神輿庫を兼ねた「八坂神社」となっている。
実はこの境内社のうち「門田稲荷神社」が、縁切り稲荷として有名。
全国各地から縁切りを求めて参拝者がやってくるので、八幡宮よりもこちらを目当てに参拝しに来る方も多いそうだ。
古くは現在地より南西の門田郷に鎮座していたため、門田稲荷と呼ばれていたとある。
明治四十五年(1912)、当社の境内社である稲荷社に「俗称縁切稲荷」が合祀。
これにより縁切り稲荷として名を馳せる事になる。
縁切りに関する古い絵馬が現存しており、今では日本三大縁切稲荷の一つに数えられるという。
日本三大縁切稲荷は、東京千駄ヶ谷の「榎木稲荷神社」、京都の「伏見稲荷大社」、そしてこの「門田稲荷神社」となるようだ。
氏子総代さんが言うには、足利は古くから足利織物の産業で栄えた地。
織物業は女性の仕事であったため、女性が働く事が多かったものの、旦那が博打などで浪費する事も多かった時代、女性から縁を切る事ができないため、こうした縁切り稲荷を頼ったのだろう、との事であった。
駆け込み寺といった文化があったが、正にそれのお稲荷さん版だったのかもしれない。
男女間、病、薬、賭け事等の縁切の他、病気や災難等との縁切の御神徳があるとされる。
全国各地からの参拝者・恐ろしい絵馬の数々
全国各地から、さらには海外からも縁切りを求めて参拝者が訪れる。
そのため絵馬掛には物凄い数の切実なる絵馬が掛けられている。
絵馬掛けを最近になって3基に増設した上に2月に整理したそうだが、それでもすぐに埋まるくらいであり、その絵馬の内容が中々に恐ろしいものが多い。
さすがにこちらで記載する訳にもいかないのだが、切実な縁切りだけでなく、怨念めいた見ているこちらが恐怖するような絵馬もかなり多いのが特徴。
萌えおこしの舞台にも
そんな恐ろしい面もある縁切り稲荷であるが、実は足利の「萌えおこし」に一役買っている。
平成二十二年(2010)、当宮境内社である「門田稲荷神社」と「足利織姫神社」が中心になって「あしかがひめたま」という萌えおこし企画が開始。
「あしかがをげんきにしよっ」をキャッチコピーに、萌えキャラが活動をしている。
公式サイトも用意されており、定期的にイベントなども開催されているのでそちらをご覧になるのがよいだろう。
こうした要素もあり、萌えキャラの絵馬も用意されている。
上述のような悪縁切りの切実な絵馬、怨念がこもったような恐ろしい絵馬と共に、萌えキャラの絵馬も掛けられていて、何とも不思議な空間となっているのも面白い。
何にせよ本社である八幡宮よりも、境内社である「門田稲荷神社」を目的に参拝しに来る人が多いのは、こうした縁切り稲荷として、萌えキャラの聖地としての要素が強いのだろう。
所感
下野国第一の八幡宮として崇敬を集めている当宮。
源姓足利氏発祥の地として、足利氏や時代の権力者から庇護された歴史を持つ、足利を代表する神社の一社であろう。
江戸時代の社殿が現存していたり、他にも重要文化財が多数現存しているのが素晴らしい。
そして境内社の縁切り稲荷こと「門田稲荷神社」は、他のお稲荷さんとは違った何とも独特の雰囲気があり、切実な縁切りを求める参拝者にとって重要な神社である事が伝わる。
宮司さんや氏子総代さんがとても丁寧に教えて下さり、色々と良くして下さったのも印象的で、またぜひ参拝したい。
足利の歴史と信仰が詰まった良社である。
神社画像
[ 社号碑・銅造鳥居 ]
[ 銅造鳥居 ]
[ クロマツ ]
[ 案内板 ]
[ 手水舎 ]
[ 茅の輪 ]
[ 二之鳥居・狛犬 ]
[ 狛犬 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 石段 ]
[ 狛犬(天保年間) ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 奥・八幡山古墳群 ]
[ 石碑 ]
[ 境内末社 ]
[ 門田稲荷神社鳥居 ]
[ 門田稲荷神社 ]
[ 八坂神社(神輿庫) ]
[ 八坂神社・門田稲荷神社 ]
[ 宝物館 ]
[ 神輿庫 ]
[ 社務所 ]
[ 石碑 ]
[ 忠魂碑 ]
[ 案内板 ]
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