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概要
六郷総鎮守・源氏ゆかりの八幡さま
東京都大田区東六郷に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、六郷一帯の総鎮守。
源氏の氏神である八幡さまとして、源頼義・義家(八幡太郎)父子による創建や、源頼朝の戦勝祈願など、源氏ゆかりの伝承が数多く残されている。
境内にも頼朝寄進と伝わる手水石や、鎌倉御家人の梶原景時寄進と伝わる神橋が残る。
毎年1月7日の人日の節句(七草の節句)には、子供たちによる流鏑馬祭が行われる事でも知られる。
神社情報
六郷神社(ろくごうじんしゃ)
御祭神:誉陀和気命(応神天皇)
社格等:郷社
例大祭:6月上旬・1月7日(流鏑馬祭)
所在地:東京都大田区東六郷3-10-18
最寄駅:雑色駅・六郷土手駅
公式サイト:https://rokugo.or.jp/
御由緒
当社は、多摩川の清流に南面する古い八幡宮であり、六郷一円の総鎮守としてひろく崇敬されています。
社紀によれば、源頼義・義家の父子が、天喜五年(1057)この地の大杉に源氏の白幡をかかげて軍勢をつのり、岩清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい、前九年の役に勝利をおさめたので、その分霊を勧請したのが、当社の創建とされています。
文治五年(1189)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久二年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。今なお境内に残る大きな手水石には、このとき頼朝が奉献したものであり、神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康は十八石の朱印地を寄進し、慶長五年(1600)六郷大橋の竣功に際しては、神威をたたえてまつり、当社の神輿をもって渡初式を挙げました。また鷹狩りの途次にもしばしば参詣したと史書にみえます。当社が巴紋とともに葵紋を用いている所以です。
江戸時代には六郷八幡宮とも呼ばれていましたが、明治五年(1872)に東京府郷社に列し、同九年より六郷神社と改称して今日に至っています。
なお当社には、毎年一月七日に行われる流鏑馬(東京都無形民俗文化財)と、六月の祭礼時に少年少女が奉仕する獅子舞が伝承されています。(境内の掲示より)
歴史考察
源頼義・義家(八幡太郎)父子による創建
社伝によると、天喜五年(1057)に創建と伝わる。
源頼義・義家(八幡太郎)父子によって創建されたと云う。
河内源氏2代目棟梁。
長男は八幡太郎と称した源義家で知られ、後の源頼朝や足利尊氏といった武家の先祖にあたる。
源頼義の嫡男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。
源頼義・義家父子が前九年の役で奥州へ向かう際、当地にあった大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、源氏の氏神である八幡神に戦勝祈願をした。
すると軍の士気が大いに高まり前九年の役に見事勝利。
凱旋後、当地に「石清水八幡宮」から勧請し八幡宮を創建したとされる。
奥州の陸奥守に任命された源頼義が、奥州(陸奥国)で半独立的な勢力を形成していた有力豪族・安倍氏を滅亡させた戦い。
源氏の白旗を掲げた大杉は「白旗の杉」と呼ばれ御神木として信仰を集めた。
樹齢1,000年以上の御神木であったが、大正十一年(1922)に枯死してしまったため現在は根株がこうして保存されている。
源頼義・義家(八幡太郎)父子の伝承が残る八幡神社は都内に数多く残されていて、中でも当社は特に崇敬を集めた一社である。
源頼朝が故事に倣い戦勝祈願
文治五年(1189)、源頼朝は奥州合戦の際に、祖先の故事に倣い白旗を立て戦勝祈願を行った。
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
鎌倉を本拠として関東を制圧し、源義仲や平氏を滅亡させ、戦功のあった弟の源義経を追放、奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定。
頼朝は奥州藤原氏の征伐(奥州合戦)の際に、祖先である源頼義・義家父子の「前九年の役」を倣ったとされる。
奥州藤原氏の拠点である平泉攻略後も更に北上し、祖先が安倍氏を討った厨川柵へ赴き、同じように大将首を晒し首にして、「前九年の役」を再現している。
建久二年(1191)、奥州合戦に勝利した頼朝は、家臣である梶原景時に命じて当社の社殿を造営。
以後、当地が六郷と呼ばれていた事から「六郷八幡宮」と呼ばれ、八幡神を氏神とする源氏からの崇敬を集め続けた。
鎌倉幕府の有力御家人。
「石橋山の戦い」で頼朝を救ったことから重用され、都の貴族からは「一ノ郎党」と称されていた。
一方で源義経と対立し頼朝に讒言し最終的に義経を死に追いやった事でも知られる。
頼朝の死後に追放され一族滅亡している。
現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)は頼朝が寄進したと伝わる。
また境内に残る手水石(水盤)もこの際に頼朝が寄進したものと伝わっている。
更に神門前の太鼓橋は、頼朝に命じられ社殿を造営した梶原景時が寄進したものと伝わる。
このように、源氏ゆかりの神社として崇敬を集めた。
中世から江戸時代までの六郷と当社
創建後は、源氏ゆかりの八幡さまとして、武将だけでなく地域の村民たちより崇敬を集めた。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「多摩川の岸沿いの、八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の六村が、昔六郷村という一つの村であった」と云う旨が記されており、古い地名である六郷の総鎮守として信仰を集めた。
永享七年(1435)、社殿造営の記録が残る。
中世以降は戦乱によって領主が度々変更。
後北条氏(小田原北条氏)の時代には、後北条氏の客分である行方与次郎が六郷・蒲田・羽田・更に多摩川を渡った先の大師河原一帯を領していたとされる。
六郷・蒲田・羽田・更に多摩川を渡った先の大師河原一帯の領主。
行方弾正(なめかただんじょう)の名でも知られる。
享禄四年(1531)、行方半右衛門記銘が社殿造営の棟札が残っていたと云う。
天文十八年(1549)、行方弾正記銘の棟札が残っていたと云い、数代に渡って行方氏が六郷の領主であった事が窺える。
永禄十二年(1569)、武田信玄が後北条氏と対立を深め小田原を包囲した際には、行方弾正が当社を要害として戦に備えたと記されている。
こうした中、幾度も社殿改修などされ地域からの崇敬を集めた。
徳川家康より朱印地を賜る・徳川将軍家からの崇敬
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡。
同年、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
天井十九年(1591)、家康が当社に朱印地18石を寄進。
幕府などから寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。
朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。
慶長五年(1600)、六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、当社の神輿をもって渡初式を行ったと記録されている。
このように徳川将軍家より崇敬を集め、その証拠として八幡宮の巴紋と併せて徳川家の葵紋を用いる事が許されていた。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(八幡塚村)
八幡社
村の東側にあり。社地社領の内にあるをもって別に除地なし。當所及び高畑、古川、町屋、道塚、雑色等六ヶ村の総鎮守なり。武州式内神社考には、當社を稗田神社とす。然るに稗田神社と称するもの當所ともに四社あり。芝田町八幡社、蒲田村八幡社、及び鵜木村名主五郎右衛門が宅地に祀れる鵜森明神、この三社も皆、稗田神社なりと云。かくの如く所々にあれば、いづれをそれともさたむべからされど蒲田村八幡社は神祇菅吉田家より稗田の號をゆるされしと云。ときはこれを是とすべきにや當社のつたえに當所八幡宮は右大将頼朝の建立にして祭神三座ありと又云、頼朝の高祖義家、奥州征伐の時、鶴ヶ岡八幡宮に祈請ありてこの地に旗をたてられしに立願空しからさりし吉例あればとて、頼朝もまた奥州下向のとき、この地に旗をそたてをれけるさてこそ勝利ありしかば凱旋の後、新に建立ありしきとそ、これ建久二年の事にて當時の棟札今に存せりと或はいふ奥州征伐のときの勧請にあらず。石橋合戦敗北の後、安房國より上総國へ渡海ありて、ふたたび旗をあけたまひしとき當所に旗をたてられやがて開運の後、鶴ヶ岡八幡をこの所へ勧請して神輿の内に来由を書記し、かたく封して納めおかれしともいひ、又は頼朝の勧請にあらず竹内某建立せしともいひ傅へり。いつれの説を得たりとせにゃ知べからずこの後も世々修造ありしとて棟札存せり。小田原紀に永禄十二年武田信玄乱入のとき、六郷の行方弾正巳が屋敷の近所なる八幡を要害にかまえて、守りしとあるは當社のことなり。御入國の頃、東照宮御遊獵の次當社へ詣でたまひ、明る十九年十一月社領十八石の地を御寄附あり。其文左の如し。(中略)
表門(中略)。鳥居(中略)。裏門(中略)。鳥居二基(中略)。
本社(中略)。拝殿(中略)。
旗懸杉。本社の傍にあり。頼朝奥州征伐の時、妥に白旗を建られし所なりと云つとふ。
東照宮御宮(中略)。熊野稲荷合殿(中略)。八幡塚(中略)。
別當寶珠院(中略)。
八幡塚村の「八幡社」と記されているのが当社。
八幡塚村だけでなく高畑村・古川村・町屋村・道塚村・雑色村の鎮守である事が記されている。
これらがいわゆる六郷村と呼ばれていた一帯であり、六郷一円の総鎮守であった。
式内社「薭田神社」に比定される事なども記されているが、当社は頼朝の創建が伝わるため式内社ではないと云う事も記されており、源義家(八幡太郎)が白旗を掲げた当地に、頼朝も倣って白旗を掲げ神社を造営したと伝えられる旨が記されている。
このように頼朝による創建を記しているが、他にも諸説伝わる事も書かれている。
徳川家康が当社を詣で朱印地を授けた事や、境内には東照宮も造営されていた事が分かる。
御祭神が三柱から一柱に変更
当社は八幡信仰による八幡宮であり、創建時は「八幡三神」と呼ばれる三柱を祀っていた。
しかしながら、現在の当社の御祭神は八幡神である誉田別尊のみとなっている。
誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇(おうじんてんのう):八幡神。
神功皇后(じんぐうこうごう):応神天皇の母。
比売大神(ひめおおがみ):宗像三女神(むなかたさんじょしん)。
以上、誉田別尊を主神とした三柱を八幡三神と称する。
この経緯については『新編武蔵風土記稿』の当社本社の項目に詳しく記されている。
本社
二間に三間。祭神三座なりしかと今は一座となれり。社記に云いつの頃か祭禮の時、三座の神輿を各船にして多磨川に漕出せしに、一座の神輿を載せし船、大師河原の邊大野の鼻と云所にて船底より水さし入て水底に沈み、そのありかを矢へりかくて神輿は波浪のためにゆられて、上総國八幡の岸につきたりしを彼所の人取あけ社をたて祭れりとそ、又一座はことに荒神にして土人しばしば祟を受しにより衆議して神體を毀ち土中に埋みしと云。共にいふかしき説なりされば今神體は只一座となれり。祭禮は年ことに六月十五日なり。その指揮は神輿を昇出し往還をわたす。又獅子頭の仮面三箇を持出つ、其餘白木綿の割手三尺ばかりなるものを竹の先につけ、これを御旗絹と唱てかつきめくる、これ頼朝出陣の時の旗に擬せるなりとそ。この祭禮昔は年々八月十五日に行わて、神輿は隣村羽田村より船に奉し多磨川を漕めくりしかと前にいへるごとく一座の神輿水に没せし時より、今の日にあらため舟をもやめしとそ。又旱魃の時は獅子頭よいだめ雨を新るに驗ありと云。當社に世々造営の棟札の文の寫あり。其年代は建久二年、永享七年、享禄四年等三度にて其中、享禄の札には地官行方半左衛門殿台感、串田式部殿御代なりとありと云。
古くは三柱が祀られており、三座の神輿があったとされる。
しかしながら、一座の神輿が多摩川渡御の際に上総国に流されてしまう。
もう一座の神輿は、荒神でしばしば祟りを起こしたとされ、神職や氏子で相談した結果、土中に埋めてしまったと云う。
こうした経緯があり現在は八幡三神のうち二柱がおらず、主神の誉田別尊のみをお祀りしている。
江戸時代に描かれた当社と八幡塚の謎
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「八幡塚八幡宮」として描かれた当社。
実に興味深い史料となっている。
鳥居や神門、太鼓橋などやや位置関係は違いがあるものの、表参道の作りはほぼ現在と同じ。
また西側参道も現在の第一京浜(当時は東海道)に面しており、かなり近いものとなっている。
気になるのは表題にも書かれている「八幡塚」の存在。
社殿の奥の竹林に囲まれた中にひときわ目立つ八幡塚が描かれている。
この八幡塚がいつ頃からあり、そもそも何の塚であったのかについての資料は乏しい。
伝説では、創建に関わった源義家が奥州征伐の折に武器を納めて塚としたといった説や、頼朝が宝物神器を土中に埋めたといった説が残るが、実際のところ真偽は不明。
『四神地名録』には「土人の云い伝へには、数々の宝物神器を土中に埋めて塚とす。此の故を以って八幡塚と号せるよし」 と書いてある。
更に『新編武蔵風土記稿』には、別説を記している。
八幡塚
本社に向いて右の方、林の中にあり。前にいへる荒神の神體を捏めたるしるしの塚なり。村名もこの塚により起りしことは己に前に見へたり。
荒神でしばしば祟りを起こし、土中に埋めた神輿がこの「八幡塚」であるとの記述。
そして八幡塚村の村名もこれに由来しているとある。
この八幡塚であるが、実は現代に入って何度かの調査をされている。
昭和四十五年(1970)、中世陶器と土器が発見。
調査により壺の年代は12世紀末ものもであった事が判明し、八幡塚の築造は平安時代末から鎌倉時代初期であると推定できる。
平成五年(1993)、地中レーダー調査が実施。
この塚は今よりももっと大きな大きさだった事が分かっており、壺に埋納されたものは写経類と思われる事から、おそらく「経塚」ではないかと考えられている。
いずれにせよ、聖地として大切にされていた塚であったのだろう。
明治以降の歩み・六郷神社へ改称
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、郷社に列した。
明治九年(1876)、現在の「六郷神社」に改称。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い、八幡塚村・雑色村・町屋村・高畑村・古川村が合併し、六郷村が成立。
いずれも当社の氏子地域であり、六郷村の鎮守として崇敬を集めた。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。
「六郷神社」と記してあるように地図上で目印にもなる程の神社であった。
六郷村や八幡塚といった地名もあり、当社は一帯の総鎮守を担った。
昭和四十年(1965)、社殿の背後に六郷幼稚園を開園。
多くの氏子たちが神社で育つ。
昭和六十二年(1987)、鎮座九百三十年を祝して現在の社殿を造営。
その後も境内整備が進み現在に至っている。
境内案内
表参道には梶原景時寄進の太鼓橋
最寄駅は雑色駅もしくは六郷土手駅で、表参道は第一京浜沿いではなく南に面した参道。
鳥居の前には保護されている神橋。
建久二年(1191)に梶原景時が寄進したと伝わる太鼓橋。
当時の物が現存。
鎌倉幕府の有力御家人。
「石橋山の戦い」で頼朝を救ったことから重用され、都の貴族からは「一ノ郎党」と称されていた一方で、源義経と対立し頼朝に讒言し最終的に義経を死に追いやった事でも知られる。
頼朝の命で当社の社殿を造営したと伝わる。
社号碑は一部削り取られた跡がある。
おそらく「郷社」と記されていたと見られ、戦後に旧社格制度が廃止となり、GHQとの兼ね合いもあり削ったものであろう。
参道途中に一対の狛犬。
昭和十二年(1937)に奉納されたもの。
彫りが細かく筋肉隆々な造形。
第一京浜沿いの西参道
一方で第一京浜沿いにも参道があり、こちらから参拝される方も多い。
第一京浜に面しているのは表参道ではなく西参道。
『江戸名所図会』にも描かれているように、古くから通りに面した参道として利用されていた。
鎮座九百三十年を祝して造営された社殿
表参道正面には立派な社殿。
昭和六十二年(1987)に鎮座九百三十年を祝して造営された社殿。
総檜による権現造社殿。
近年造営された社殿であるが重厚で見事な造りとなっている。
本殿は覆殿になっていて享保四年(1719年)に造営されたものを改修しつつ現存。
数多くの境内社・白旗の杉の根株
境内社は表参道の左手に並ぶ。
氷川神社・天祖神社・三柱神社の合祀殿と、稲荷神社。
その横には六郷橋の親柱が保存。
明治七年(1874)に六郷橋が架けられた際のもの。
さらに頼朝などが源氏の白旗を掲げた伝承が残り、かつて「白旗の杉」と呼ばれた旧御神木の根株もこの一画に保存。
樹齢1,000年以上といわれ御神木として崇められていたが、大正十一年(1922)に枯れてしまい、今は根株のみこうして保存されている。
大田区最古の狛犬・頼朝寄進の手水石
社殿の左手は整備された神苑。
この一画に大田区最古の狛犬が置かれている。
原始的で個性的な表情を見せる狛犬で、貞享二年(1685)に奉納されたもの。
大田区最古の狛犬として区指定文化財となっている。
その奥には上述した頼朝寄進と伝わる手水石(水盤)。
梶原景時が寄進したと伝わる神橋と共に、当社の古い歴史を伝えるもの。
立入禁止の八幡塚
社殿の右手には立入禁止区域だが、「八幡塚」と呼ばれた一画が残る。
様々な伝承・伝説が伝わる塚。
当地がかつて「八幡塚村」と呼ばれていたもの、この塚にちなむ。
現在は関係者のみ立ち入りできる形で保護されている。
伝説では、創建に関わった源義家が奥州征伐の折に武器を納めて塚としたといった説や、頼朝が宝物神器を土中に埋めたといった説が残るが、実際のところ真偽は不明。
『四神地名録』には「土人の云い伝へには、数々の宝物神器を土中に埋めて塚とす。此の故を以って八幡塚と号せるよし」 と書いてある。
『新編武蔵風土記稿』では荒神でしばしば祟りを起こし土中に埋めた神輿がこの「八幡塚」であるとも記述されている。
この八幡塚は現代に入って何度かの調査をされている。
昭和四十五年(1970)、中世陶器と土器が発見。
調査により壺の年代は12世紀末ものもであった事が判明し、八幡塚の築造は平安時代末から鎌倉時代初期であると推定できる。
平成五年(1993)、地中レーダー調査が実施。
この塚は今よりももっと大きな大きさだった事が分かっており、壺に埋納されたものは写経類と思われる事から、おそらく「経塚」ではないかと考えられている。
いずれにせよ、聖地として大切にされていた塚であったのだろう。
六郷一帯が盛り上がる例祭や流鏑馬祭
毎年6月上旬には例大祭が開催。(以下画像は2017年例大祭のもの)
神輿渡御や獅子舞巡行が行われ地域一帯が大いに盛り上がる。
境内には大変多くの露店が出るのが特徴。
正に地域を代表する例祭と云えるだろう。
規模も大きく大変賑やか。
鳥居前では六郷はやしが鳴り響く。
境内では神楽の奉納。
地域の民俗芸能を伝える貴重な場。
毎年1月7日の人日の節句(七草の節句)には、子供たちによる流鏑馬祭が行われる。
東京都の無形民俗文化財に指定。
詳細は下記公式サイトをご覧頂きたい。
六郷神社のシンプルな御朱印
御朱印は社務所にて。
平成七年(1995)に新築された社務所はとても綺麗で、丁寧に対応して下さる。
御朱印は「六郷神社」の朱印、「八幡宮」の印、もう1つは読みにくいが「延命長寿」だろうか。
2016年、2017年、2020年と基本的に御朱印に変わりはない。
こちらは2024年に頂いた御朱印。
2017年参拝時は東京都神社庁による御朱印帳も用意されていた。(現在は頒布終了)
2020年参拝時は取り扱いなし。
所感
六郷一円の総鎮守として崇敬を集めた当社。
源氏のゆかりの地として、源頼義・義家(八幡太郎)父子・源頼朝・徳川家康といった源氏の流れを汲む人物達の伝承は、当社がこの地で崇敬を集めた証拠とも云えるだろう。
境内にある「八幡塚」は、かつての旧地名でもあり様々な伝承が伝わる塚で、現在は立入禁止区域となっていて目立たないものの色々と興味深い。
社殿裏手には「六郷幼稚園」という当社運営の幼稚園が置かれており、現在は子供達の声がよく聞こえる賑やかな境内となる時間帯も多く、多くの方が境内を通って歩くのは微笑ましい。
今も地域の方に親しまれ崇敬を集めているのが伝わるし、六郷一帯の信仰や歴史が伝わる良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
御朱印帳
東京都神社庁御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。
東京都神社庁による御朱印帳を用意。(2017年参拝時)
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
参拝情報
参拝日:2024/10/02(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2020/01/29(御朱印拝受)
参拝日:2017/06/12(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/03/09(御朱印拝受)
参拝日:2016/02/15(御朱印拝受)
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