神社情報
白幡八幡神社(しらはたはちまんじんじゃ)
御祭神:誉田別命
社格等:─
例大祭:9月14日
所在地:東京都足立区千住宮元町3-8
最寄駅:千住大橋駅・北千住駅
公式サイト:─
御由緒
八幡神社
白幡八幡宮が正式名称との事です。諸説ありますが、源家が奥州征伐に赴く際に武運長久を願って、渡し場に白旗を立てたことが始まりと言われています。
第十五代応神天皇として即位された誉田別命(ほんだわけのみこと)、別名『八幡の皇子』様が祀られています。
ここ宮元町の八幡神社は、明治四十一(1908)この地に建立されましたが、昭和二十年(1945)戦災により焼失、昭和三十四年(1959)再建されました。
以来、宮元町の鎮守様として武運長久、勝運、厄災除けの神様として、見守っていただいています。
毘沙門天
中国においては四天王のうち、武運・守護神とされており、北の守りをつかさどります。日本では四天王像として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼びます。
日本でも武運・守護神で有り、室町時代後半では京都の商人が毘沙門天像を買い求めたことにより、商売繁盛したことから金運や勝負事の神様、はては無病息災の神様の一面まで加わりました。七福神の一尊とされたのもこの頃からです。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2019/07/25
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※1月-7日のみ社務所が開いて直接頂ける。
※その日以外は本務社の「千住神社」で御朱印対応をして頂ける。
歴史考察
千寿七福神の毘沙門天である白幡八幡宮
東京都足立区千住宮元町に鎮座する神社。
旧社格は無格社、古くは「仲町氷川神社」の境外社とされていた。
源氏が白旗を立てて戦勝祈願した事が社号の由来と伝わる。
現在は「千住神社」の兼務社となり、千寿七福神の毘沙門天を担っている。
普段は無人の神社であるが、正月の七福神巡り期間だけ社務所が開所する。
源義家が白旗を立てて戦勝祈願した伝承
当社の創建には源義家(八幡太郎)の伝承が残る。
源頼義(みなもとのよりよし)の嫡男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。
源義家が奥州征伐の際、渡裸川の渡し場に源氏の旗印である「白旗」を立て戦勝祈願したと云う。
現在の千住大橋のやや上流。
現在は隅田川であるが、古くは裸になって徒歩で渡った事から渡裸川と呼ばれる事があった。
この白旗が当社の起源となる。
千住宿と掃部宿が開発・仲町氷川神社に白旗を奉納
文禄三年(1594)、千住大橋が架けられる。
慶長二年(1597)、日光街道・奥州街道の宿駅として「千住宿」を指定。
日光街道(日光道中)と奥州街道(奥州道中)の宿場町。
日本橋から最初の宿場町で、江戸四宿(品川宿・板橋宿・内藤新宿・千住宿)の1つ。
運輸交通の要衝であり、千住大橋沿いに橋戸河岸が置かれ、千住青物市場は御用市場として栄えた他、岡場所と呼ばれる非公認の遊廓があり飯盛女(私娼)を置き、岡場所(遊郭)としても発展した。
慶長三年(1598)、石出掃部介が千住宿に接して掃部宿(かもんじゅく)を開発。
元和二年(1615)、「仲町氷川神社」が掃部宿の鎮守として遷座すると、当地の名主であった庄左衛門が先祖伝来の「源氏の白旗」を奉納し「白幡八幡社」として合祀された。
石出吉胤(いしでよしたね)とも称する。
江戸時代に掃部宿を始め千住周辺の多くを開発した地域開発者。
元和二年(1615)、掃部堤(かもんづつみ)を築いていて、これが現在の墨堤通り。
また千住大橋の架橋工事にも参加している。
掃部宿や掃部堤は葛飾北斎が『富嶽三十六景』で描いている。
馬が走るのは石出掃部介の新田開発によって築かれた掃部堤(かもんづつみ)。
現在の墨堤通りにあたり当時の掃部宿を描いている。
江戸時代後期の浮世絵師で、世界的にも著名な画家。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、生涯に3万点を超える作品を発表。
化政文化を代表する一人。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(掃部宿)
八幡社
白幡八幡と號す。當社に源義家奥州征伐の時、かの渡裸川の渡へ建し白幡を持傳へ建しが、後失ひしと云。其幡は元名主庄左衛門が家に傳へしを當社へ納めしなどいへど、かれが先祖掃部亮は慶長の頃、當所へ来りしと云は其いふところ更に論ずべくもなし。前と同持。
掃部宿の「八幡社」として記されているのが当社。
「仲町氷川神社」の末社の項目ではなく、独立した神社として記されている。
そのため「仲町氷川神社」に合祀されたと御由緒などには見る事ができるが、この頃には別の神社として扱われていたものと思われる。(同じ境内にあったと推測できる)
源義家の白旗伝説、名主による奉納の伝承なども記されている。
明治後期に現在地へ遷座・戦後の再建
明治になり神仏分離。
明治四十一年(1908)、現在地に社殿を建立し遷座。
当時は「仲町氷川神社」の境外社(摂社)と云う扱いであった。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが当社の鎮座地で、今よりやや北側にあったようだが基本的には変わらない。
現在の国道4号線(日光街道)はまだなく、現在で云う旧日光街道がメインストリートであったため、地形的な差などが窺える。
暫くの間は「仲町氷川神社」の境外社(摂社)と云う扱いであったが、その独立し無格社となった。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
昭和三十四年(1959)、社殿が再建。
これが現存している。
平成五年(1993)、地元の商店街などによって千寿七福神が設定。
平成十八年(2006)、一部七福神の場所替えが行われ、当社は毘沙門天を担った。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
日光街道沿いに鎮座する小さな神社
最寄駅の千住大橋駅や北千住駅からは徒歩10分以内の距離に鎮座。
国道4号線(日光街道)沿いに鎮座しているので分かりやすい。
鳥居は明治四十一年(1908)建立で、当社が当地に遷座した時に建立されたもの。
鳥居の横に昭和八年(1933)の社号碑が置かれているが、向きが鳥居と違う方向を向いている。
東に面している鳥居に対して南に面する社号碑で、中々に不思議な組み合わせ。
鳥居を潜るとそう広くはない境内。
右手に手水舎。
水盤も鳥居と同様に当地へ遷座時のものが残っている。
戦後に再建された朱色の社殿
鳥居を潜ってやや右前に朱色の社殿。
旧社殿は東京大空襲によって焼失。
昭和三十四年(1959)に鉄筋コンクリート造によって再建を果たした。
控えめな社殿ではあるが、鉄筋コンクリート造によって耐火仕様となっている。
扁額には「白幡八幡宮」の文字。
社殿の前に一対の天水桶。
奉献と三つ巴紋が施された古い天水桶。
明治四十二年(1909)奉納で、当社が当地に遷座した翌年に奉納されたもの。
千寿七福神の毘沙門天像
社殿の右手に毘沙門天像。
千寿七福神の毘沙門天を担う。
平成五年(1993)に地元の商店街などによって千寿七福神が設定された当初は、別の寺院が設定されていたが、平成十八年(2006)に一部七福神の場所替えが行われ当社が毘沙門天を担当。
毘沙門天の旗幟も数多く並ぶ。
仏教における天部の仏神でる武神。
インドを発祥とし、中央アジア、中国など日本以外の広い地域で信仰される。
日本では中世には福の神として信仰を集め、室町時代末期に日本独自の信仰である「七福神」とされ、江戸時代以降は特に勝負事に御利益があるとして信仰を集めた。
御朱印は正月7日まで・それ以降は千住神社で対応
御朱印は元日-7日の「千寿七福神巡り」期間は境内にある社務所にて対応。
それ以外は基本的に無人社となる。
無人時の御朱印対応は本務社の「千住神社」にて受け付けている。
御朱印は「白幡八幡宮」の朱印、右下に「千住宿鎮座」。
墨書きでは「八幡神社」となっている。
所感
源氏の旗印である白旗が社号由来になっており、源氏の伝承が残る当社。
創建時は「仲町氷川神社」に合祀されていたようだが、明治になり現在地に遷座。
その後、独立して無格社となり、戦後の再建を経て、現在は「千寿七福神巡り」では毘沙門天としても地域を盛り上げ信仰を集めている。
日光街道の大通りに面した小さな神社ではあるが、地域の憩いの場になっている。
参拝時は地域の老人会の人々が境内でレクリエーションをしていて、挨拶をしたら皆さん楽しそうに返してくれたのが印象的である。
神社画像
[ 鳥居 ]
[ 社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 社殿 ]
[ 天水桶 ]
[ 毘沙門天像 ]
[ 社務所 ]
[ 御神木 ]
[ 旗幟 ]
[ 玉垣 ]
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