櫻田神社(桜田神社) / 東京都港区

神社情報

櫻田神社(さくらだじんじゃ)

御祭神:豊宇迦能売大神
社格等:村社
例大祭:9月22日
所在地:東京都港区西麻布3-2-17
最寄駅:六本木駅
公式サイト(Twitter):https://twitter.com/Sakuradajinjya

御由緒

治承四年(1180)源頼朝の令により霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に鎮座。寛永元年(1624)には現在の場所に遷られた。文治五年(1189)頼朝公が30貫の田畑を寄進、一般農家の田と区別するため、御神田の畔に桜を植えたのが「桜田」の由来という。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2017/01/01(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/10/15(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※桜の御朱印はオリジナル御朱印帳限定の御朱印。
※オリジナル御朱印帳の御朱印は墨書ではなく印判によるもので、3種が最初から押印されている。
※2015年/2016年は神社及び七福神の御朱印は1月15日を以って終了との掲示あり。
※神社の御朱印は書き置き(日付は入らない)のみ頒布。

[2017/01/01拝受]
(御朱印帳限定御朱印)

[2017/01/01拝受]
(通常御朱印)

[2017/01/01拝受]
(寿老神御朱印)

[2015/10/15拝受]
(通常御朱印)

御朱印帳

初穂料:3,000円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
沖田総司ゆかりの神社のため、新選組のだんだら模様をデザインした御朱印帳。
当社らしい桜と沖田総司の家紋、当社の神紋の組み合わせとなっている。

2016年6月19日に頒布を予定していたものの、あまりの反響で頒布が中止になったもの。
2017年元日より頒布が開始となり1月8日までの限定頒布。(今後も頒布の予定有り/詳細:Twitter
御朱印帳には限定御朱印・通常御朱印・寿老神御朱印(いずれも墨書ではなく印判)の3種が最初から押印されており、さらにオリジナルのしおりがセットになっている。

[ 表面 ]

[ 裏面 ]

授与品・頒布品

しおり(御朱印帳とセット)
初穂料:─
社務所にて。

御朱印帳にセットで付いてくるオリジナルのしおり。


歴史考察

沖田総司ゆかりの神社

東京都港区西麻布に鎮座する神社。
旧社格は村社で、麻布桜田町(現・西麻布)の鎮守。
稲荷信仰の神社で、かつては「霞山稲荷大明神」「霞山桜田明神」なとど呼ばれた。
現在は港七福神の寿老神を担っている。
沖田総司がお宮参りした神社であり、沖田総司ゆかりの神社としても知られる。

源頼朝の命により渋谷重国が創建

社伝によると、治承四年(1180)に創建と伝わる。

同年、源頼朝の命により武州豊島郡の領主であった渋谷重国が建立したとされる。
創建の地は霞山と呼ばれた地であったため、「霞山稲荷大明神」と称された。
現在の霞ヶ関桜田門外に鎮座していたと云う。

霞山の地名は、霞ヶ関の山(高台)にあった事による。

渋谷重国とは頼朝の御家人であり、武勇人柄共に頼朝に重宝されたと伝わる人物。
相模渋谷氏の一族で、現在の渋谷の地名はこの渋谷氏が由来とされている。

白い狐の伝説・霞山稲荷大明神

当社は稲荷信仰の神社であり、白い狐の縁起が残っている。

渋谷重国が霞ヶ関の山を焼いて狩りをしようとすると、白い狐が出現。
白い狐が天に向かって気を吐いたところ、十一面観音が現れたという。
重国は驚き源頼朝に乞うて社を創建したという伝説。

稲荷信仰の神使は狐。
こうした白い狐の伝説から稲荷信仰の神社「霞山稲荷大明神」として崇敬を集めたのであろう。

桜田の由来となった逸話

文治五年(1189)、源頼朝が奥州征伐の際に30貫の田地(神領)を寄進。

その際に、一般農家の田と御神田を区別するため、御神田の畔ごとに桜の木を植えたと伝わる。
そのため、この御神田を人々は「桜田」と唱えるようになった。
更に当社の付近も「桜田村」と称したと云う。

これが「桜田」の地名由来であり、当社の「櫻田神社」社号由来にもなっている。
この事から当社は「霞山桜田明神」とも称されていた。

桜田の地名は平安時代にも見え、谷間に水田があり「狭倉田」と呼ばれたことから転じて「桜田」と云う説もあり、諸説ある。

江戸城を築城した太田道灌による再興

文明年間(1469-1487)、太田道灌が社殿を改修し当社を再興。

道灌は当社に太刀甲胃等を寄進し、それらは長く当社の社宝として伝えられていた。
なお、弘化二年(1845)に、青山大火と呼ばれる大規模な火災が発生した際、惜しくも道灌寄進の宝物は焼失してしまっている。

太田道灌は江戸城を築城した武将として名が知られる人物。
江戸城の内堀である門の1つが桜田門(当時は小田原口と呼ばれていた)であり、そうした江戸城近くの桜田村の鎮守として崇敬をしたのであろう。

現在地へ遷座・江戸切絵図から見る当社

天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
その後、家康が江戸に開府すると、江戸城から近い霞ヶ関周辺には諸大名屋敷が連なるようになる。

こうした影響を受け、慶長年間(1596-1615)に櫻田溜池付近へ遷座。
更に寛永元年(1624)、現在の鎮座地へ遷座をしている。

氏子も共に遷ったとされ、当地は麻布桜田町と呼ばれるようになる。
なお、当社が遷座する前の氏子区域である西新橋一帯(芝桜田)は現在も一部区域が当社の氏子区域となっている。

こうした麻布桜田町の様子は江戸の切絵図からも見て取れる。

(麻布絵図)

こちらは江戸後期の麻布や現在の六本木周辺の切絵図。
左が北の切絵図となっており、当社は図の中央左下に描かれている。

(麻布絵図)

図を時計回りに90度回転(北を上に)させ、当社周辺を拡大したものが上図になる。
分かりやすいように当社の位置に赤い円を付けさせてもらった。
小さく「霞山イナリ」と記されており、現在よりもやや広い社地ではあったようだが、そう変わらぬ小さな境内であった事が分かる。

当社前の通りに「サクラ田上丁」「同中丁」「同下丁」とあるように、当地周辺が桜田町(麻布桜田町)と呼ばれた一角であり、桜田の地名は当社に由来する。
こうした桜田町の鎮守として崇敬を集めた。

現在の六本木ヒルズは上図の毛利甲斐守の屋敷あたりである。

江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「霞山稲荷社」として描かれているのが当社。
鳥居も複数建ち、立派な社殿(本堂)を見る事ができる。
境内社も多くあり、こうした様子からも既に町として発展した当地から、崇敬を集めていた事が伺える。
当社前も古くから賑わいのある通りだった事が伝わる。
なお、当時の別当寺は「観明院」(現在は廃寺)であった。

沖田総司お宮参りの神社

幕末には、新選組の一番隊組長として有名な沖田総司がお宮参り(お初参り)に参詣。

沖田総司は、陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎の子として、江戸の陸奥国白河藩下屋敷で誕生。
生年については天保十三年(1842)または十五年(1844)の2つの説があるものの、夏に生まれたとされている。

当時の陸奥国白河藩の藩主は阿部家であり、当社のほぼ隣に陸奥国白河藩下屋敷が置かれていた。
先程の江戸切絵図を見てみると分かりやすい。

(麻布絵図)

赤い円が当社であり、青い円が沖田総司が生まれたとされる陸奥白河藩阿部播磨守の下屋敷。
正に当社に隣接しており、当社の氏子区域であった事が分かるだろう。

当地周辺が沖田総司の生誕地とも云え、お宮参り(お初参り)した神社が当社となる。
そのため沖田総司ゆかりの神社として、新選組ファンの方には知られている。

沖田総司の墓がある「専称寺」(元麻布3丁目)も当社からほど近い。

乃木将軍のお宮参りの神社

さらに乃木希典(乃木将軍)も同じくお初参りに参詣している。

乃木希典は、嘉永二年(1849)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次の三男として、江戸の長府藩上屋敷に誕生。
この長府藩上屋敷というのが、毛利甲斐守邸である。

(麻布絵図)

赤い円が当社であり、緑の円が乃木将軍が生まれたとされる長府藩上屋敷の毛利甲斐守邸。
こちらも当社の氏子区域であった事が分かるだろう。

乃木将軍の着用した産着は当社に寄進されたという。
こちらは、現在「乃木神社」に譲渡され社宝となっている。

乃木将軍夫妻をお祀りする神社。明治天皇を慕い殉死・昭和天皇の教育係。質素と謹厳の代名詞。乃木坂の地名由来。御朱印。御朱印帳。

明治になり櫻田神社へ改称・戦後の再建

明治になり神仏分離。
別当寺であった「観明院」は廃寺となったものの、当社の神職となった。
明治五年(1872)、村社に列した。

明治二十八年(1895)、現在の「櫻田神社」に改称。
麻布桜田町の鎮守として社号を改めたという事であろう。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿など境内の殆どが焼失。
戦後の昭和二十六年(1951)、再建に至っている。

昭和四十二年(1967)、住居表示の実施に伴い、麻布桜田町は西麻布3丁目・六本木6丁目に振り分けられる事となり、江戸時代から続く麻布桜田町の地名は消滅。
当社の社号に桜田の文字は残る事となり、旧地名の保存にも一役買っている。

昭和五十年(1975)、社殿を改築し現在に至っている。
現在は港七福神の寿老神を担っている。

境内案内

六本木ヒルズ近くに鎮座・港七福神の寿老神

六本木ヒルズのほぼ隣とも云える都心に鎮座している当社。
『江戸名所図会』にも描かれていた当社前の通りはかつて「櫻田通り」と称していたが、テレビ朝日が出来てからは「テレ朝通り」と呼ぶようになり、現在はテレ朝は移転し六本木ヒルズが出来ている。

こぢんまりとした境内ではあるが鳥居を潜ると細い参道が続く。
参道の先、右手に手水舎。
その先に石段があり、石段手前には狛犬が置かれている。

石段の先には二之鳥居。
その先すぐに社殿となる。

社殿は昭和二十六年(1951)に再建されたもの。
昭和五十年(1975)に改築され現在に至っている。

この社殿の右手に、港七福神の寿老神が祀られた社殿。
なお、2017年の港七福神めぐりは1月9日までとの事。
これまでは1月15日まで開催していたのだが、開催期間が短くなっているので注意されたい。

あとは境内の左手に社務所があるだけのこぢんまりとした境内となっている。

新選組らしさのあるオリジナル御朱印帳

御朱印は社務所にて。
港七福神めぐりの期間外は、書き置き(日付は入らない)の御朱印のみ頒布となっている。

2017年元日から1月8日までオリジナルの御朱印帳の頒布が開始された。
沖田総司ゆかりの神社のため、新選組のだんだら模様をデザインした御朱印帳。
当社らしい桜と沖田総司の家紋、当社の神紋の組み合わせとなっている。

御朱印帳には限定御朱印・通常御朱印・寿老神御朱印(いずれも墨書ではなく印判)の3種が最初から押印されている。
このうち右の桜の御朱印はオリジナル御朱印帳限定の御朱印で、この御朱印帳以外では拝受できないもの。
さらにオリジナルのしおりがセットになっている。

実はこの御朱印帳、2016年6月19日に頒布を予定していたものの、あまりの反響で頒布が中止になったもの。
こうして元日より限定で頒布となった。(今後も頒布の予定はあるとの事)

初穂料は3,000円と少しお高めであるが、沖田総司や新選組といった題材はファンも多いため、こうした展開は面白い試みだろう。
今後も色々と施策をして頂けたら面白いと思う。

所感

かつては霞ヶ関・桜田門外に鎮座していた稲荷信仰の当社。
江戸時代になってから現在地に遷座し、麻布桜田町の鎮守として崇敬を集めた。
麻布桜田町には諸大名の屋敷が置かれていた事もあり、幕末には沖田総司や乃木将軍といった著名な人物のお宮参りの神社としても有名である。
この事から沖田総司ゆかりの神社として有名で、沖田総司や新選組ファンの方が沖田総司の墓がある「専称寺」と共に訪れる事も多い。
現在は通りを挟んで斜め向かいに六本木ヒルズがあり、その中でこぢんまりと境内を維持している。
小さな神社ではあるが、こうした西麻布・六本木エリアで境内が維持できているのが喜ばしい。

神社画像

[ 社号碑・一之鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 狛犬 ]


[ 二之鳥居 ]

[ 社殿 ]


[ 寿老神 ]

[ 社務所 ]

[ 案内板 ]

Google Maps