大森山王日枝神社 / 東京都大田区

神社情報

大森山王日枝神社(おおもりさんのうひえじんじゃ)

御祭神:大山咋命・大己貴命
旧社格:村社
例大祭:9月第3土・日曜
所在地:東京都大田区山王1-6-2
最寄駅:大森駅
公式サイト:─

御由緒

当社は、遠く古のころ、土地の豪族酒井氏により、近江の国比叡山の麓にあります日吉神社の祭神、山王権現を当地に勧請祭祀されてものであります。
その後、延宝五年(1677)円能寺が別当することとなり、明治初年まで同寺の管理下にあったのであります。
そのころは、「山王権現」または単に「山王さま」と呼ばれていました。
江戸幕府編纂の地誌『新編武蔵風土記稿』に「社地地頭除地七畝二十歩」大井村の堺によりてあり当社あるを以てこの辺りを土俗に山王村と呼ぶ、「本社九尺四方拝殿二間半前に石の鳥居を立つ」と記載されています。
明治元年、神仏分離令の禁令と共に円能寺の手を離れ、日枝神社と名を改めたのであります。
ご祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)と大巳貴命(おおなむちのかみ)の二柱が合祀されています。
大山咋命は木花咲耶姫の父神で比叡山の地主神として尊ばれる神様。大巳貴命「おおなむち」とは古代語で大地主と言う意で田畑を神になぞらえたものと言われています。
この神社は古来、安産・子育て・縁結び・に霊験あらたかと言われています。(頒布の用紙より)

参拝情報

参拝日:2016/12/17

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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歴史考察

大田区(大森)山王の地名由来となった神社

東京都大田区山王に鎮座する神社。
旧社格は村社で、山王信仰の神社。
大森駅周辺の大田区山王の地名は当社が由来である。
現在は「天祖・諏訪神社」の兼務社となっている。

酒井氏の邸内社として創建

社伝によると、創建年代は不詳。
かつては新井宿村の名主・酒井権左衛門の邸内社であったと伝わる。

酒井氏が山王信仰の総本社である近江国「日吉大社」より勧請したとある。
酒井権左衛門の先祖の代より祀られていたのか、酒井権左衛門の代に祀られたのかは不明であるが、酒井氏の邸内に祀られていた邸内社であったとされている。

延宝五年(1677)、別当寺を「圓能寺」が担う事となり管理下となった。
なお、「圓能寺」は現在も隣接しており、現在は「成田山新勝寺」の末寺となっている。

東京 大田区大森にある圓能寺。“大森のお不動さま”として古くから親しまれております。

新井宿義民六人衆の悲劇

当社のある新井宿村には、古くから「新井宿義民六人衆」という伝承が伝わっている。
新井宿に代々伝えられる悲しくも英雄の伝承。

実はこの伝承に、名主の酒井権左衛門という人物が登場する。

延宝元年(1673)、旱魃と翌年の多摩川の氾濫による洪水で疲弊した新井宿の農民たちは、領主である木原家に年貢の減免を願い出たが認められなかった。
こうした暴政と過酷な年貢の取り立てに耐えかねた新井宿村の農民は、死を賭して老中へ駕籠訴えをするか、奉行所の白州へ駆け込み願をとる他なしと覚悟を決める。
延宝四年(1676)、村人の代表者6人が江戸へ赴く事となる。
しかし密告によって目的を果たす前に領主の知るところとなり、この訴えが幕府役人に届くと領主が咎められてしまうため、全員が捕らえられた上で斬首という最期を遂げる。

直訴を試みた罪は重く、6人は天下の大法を犯した大罪人とされた。
葬式はもちろん墓を建てる事も許されず、遺族もお家断絶となったという。
この事から6人の亡骸は、菩提寺すら引き取る事をためらう事となり行き場を失ってしまう。

そこで「荒藺ヶ崎熊野神社」の別当寺「善慶寺」が亡骸を引き取り、禁を破って葬って供養したという。
img_1941こちらはその「善慶寺」の本堂。
6人は領主によって極悪非道の反逆人とされたままであったため、明治の頃までは「6人もの」と呼ばれ、名前を口にするのも憚られたとされている。

旧新井宿村の熊野神社。万葉集で詠まれた荒藺ヶ崎。善慶寺の山門の先にある参道。急勾配で緑が生茂る男坂。女坂にある衆善稲荷神社・義民六人衆。熊野三山を勧請して創建。「日光東照宮」の余り木を使い社殿を造営。御朱印。

現在では新井宿義民六人衆顕彰会が組織され「善慶寺」にて年々慰霊感謝祭が盛大に催されている。

JR京浜東北線の大森駅から区役所通りを池上方向へむかい約一キロ、大森郵便局と道路をへだてて向いの善慶寺に、「新井宿義民六人衆墓」はあります。

酒井権左衛門の斬首とその後の当社

この「新井宿義民六人衆」6人の名は以下の通り。

名主:酒井権左衛門(38歳)
年寄:鈴木大炊之助(47歳)、平林十郎左衛門(55歳)、間宮太郎兵衛(39歳)、酒井善四郎(53歳)
百姓代:間宮新五郎(47歳)

いずれも当地のリーダー格とも云える身分の人々であり、他の農民に比べたら裕福な身分の者たち。
生活に窮するような事がない身分の6人が、苦しむ農民のために命をかけ処刑された事になる。

当社は名主・酒井権左衛門の邸内社であったのは上述した通りで、その家主が延宝四年(1676)に処刑されてしまった事が分かる。
遺族もお家断絶になってしまい、邸内社であった当社は行き場所を失ってしまう。
そこで翌年の延宝五年(1677)、「円能寺」が別当寺となり管理する神社となったのであろう。

当社が今も篤く崇敬されているのは、こうした悲しい英雄の伝承にまつわる神社であるからに違いない。

江戸時代の史料から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(新井宿村)
山王社
社地地頭除地七畝二十歩。大井村の界によりてあり。当社あると以此邊を土俗に山王村と呼ぶ。本社九尺四方幣束をたてて神体とせり。拝殿二間に二間半。前に石の鳥居をたつ。勧請の年代詳かならず。
末社。稲荷社。本社に向て左にあり。
別當圓能寺。

新井宿村の「山王社」として記されている。
大井村の境に鎮座していて、新井宿村内でも当地周辺を村民たちは山王村と呼んだという。
もちろん山王の地名は当社からきている。
これが現在の大田区山王の地名由来でもある。
なお、地域の人々は「山王さま」と呼んで崇敬したと伝わる。

明治以降と戦後の再建

明治に入り神仏分離。
その影響で、これまでの「山王社」から「日枝神社」に改称されている。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行に際し、新井宿村と不入斗村が合併し入新井村となり、大正八年(1919)には町制によって入新井町となっている。

大正十二年(1923)、社殿を新築。
これによって村社に列した。

昭和七年(1932)、大森区が成立し、大森区山王という住居表示となる。
元々、新井宿村の中の山王村と呼ばれた当社を中心とした地域が、こうした住居表示となった。
これを基にして後に現在の大田区山王となっていく。
当社はこうした山王の鎮守として崇敬を集めた。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。

昭和三十五年(1960)、氏子の寄進や努力によって再建を果たしている。
現在は「天祖・諏訪神社」の兼務社となっているが、氏子の社守の方がいらっしゃる事も多く、常に綺麗に整備されている。

旧大井村濱川町(浜川町)総鎮守。東海七福神・福禄寿。天祖神社と諏訪神社の合祀によって誕生。平安時代より鎮座する天祖神社。江戸時代初期に創建の諏訪神社。江戸時代の史料から見る当社。両社の間に架かる泪橋(浜川橋)。立派な弁天池。御朱印。

大森駅近くに鎮座・再建された素晴らしい社殿

最寄駅は大森駅で北口から出て少し北上すると、池上通り沿いに鎮座。
夜間などは門が閉じているので早朝以降に参拝したい。
右隣には旧別当寺の「圓能寺」がある。

鳥居は旧社殿が改築された大正十二年(1923)のもの。
鳥居を潜って右手に手水舎。
参道の両脇にある狛犬も大正十二年(1923)に奉納されたもの。
関東大震災や戦災を経験した中でも、こうした石製の建造物は頑丈に残っている事が多い。

社殿は昭和三十五年(1960)に再建されたもの。
空襲で焼失した旧社殿を、氏子の人々が再建しようと努力された事が伝わる素晴らしい社殿。
旧社殿をなるべく忠実に再現しようと試みたようで、それだけ氏子の気持ちが伝わる。
戦後に再建された社殿でこうした細かい彫刻が施されているのは珍しく、実によい造り。
一見すると江戸後期から明治にかけての作風と思われる箇所も多く、とても戦後の再建には見えない。
こうした再建時の気持ちが伝わる社殿というのは、見ていて飽きない。

境内社・当地の歴史を伝える庚申塔など

社殿の左手には境内社が並ぶ。
大きめの鳥居があり、その先に二社が並ぶ形。
左手は栄利稲荷神社、右手は山王稲荷神社となっている。
『新編武蔵風土記稿』にあった末社稲荷社は恐らく右手の山王稲荷であろう。
この途中に文政二年(1819)の道標なども置かれている。

さらに右手奥には庚申塔が並ぶ。
左の庚申塔は貞享元年(1684)のもの、右の元禄十三年(1700)のものとどちらも古い。
青面金剛像の姿と三猿という庚申塔らしい造りで、当時の信仰の一片を感じさせてくれる。
右手にはたぬき像が置かれているが、どこかの家に置かれていたものであろうか。

御朱印は社務所にて。
天祖・諏訪神社」の兼務社であり神職は常駐していないため、社守の方が滞在している時のみ拝受する事ができる。
この日は境内の掃除中であったお婆様が、お忙しい中とても丁寧に対応して下さった。
1から硯で墨をすりとても丁寧に揮毫して下さり有り難い。

所感

元は名主の邸内社であった当社。
その名主は年貢に苦しむ農民のために立ち上がり、「新井宿義民六人衆」のうちの1人として斬首されてしまい、お家断絶後に邸内にあった当社を隣の「圓能寺」が管理していたという歴史がある。
そうした歴史があるからこそ、山王地域の人々の当社に対する崇敬は、古くからずっと篤かったものと思われ、戦後に再建された際も気持ちの伝わる社殿で再建されたのであろう。
現在は兼務社であり神職の常駐はないものの、社守の方や氏子の方が掃除やお手伝いをされている姿をよく見かける事ができ、今もこの地の人々にとって大切な神社であるのが伝わる。
そうした地域の人々に支えられている神社は、いつ参拝してもとてもよいもので、参拝していて嬉しい気持ちになってしまう。

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神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 鳥居 ]


[ 狛犬・参道・拝殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 栄利稲荷神社・山王稲荷神社 ]


[ 栄利稲荷神社 ]

[ 山王稲荷神社 ]

[ 庚申塔 ]

[ 石碑 ]

[ 御神木 ]

[ 神楽殿 ]

[ 社務所 ]

[ 神輿庫 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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