神社情報
大森鷲神社(おおもりおおとりじんじゃ)
御祭神:日本武尊
社格等:─
例大祭:11月酉の日(酉の市)
所在地:東京都大田区大森北1-15-12
最寄駅:大森駅・大森海岸駅
公式サイト:─
御由緒
鷲神社は日本武尊を祀り江戸中期より武運開運商売繁盛の神として多くの人々の信仰を集めている。
毎年十一月の酉の日には祭礼(酉の市)が行われお守札を結んだ縁起の熊手は之を求めた人に賊宝をもたらし供に添えられた稲の穂は五穀豊穣の恵みにあづかると言われている。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2016/11/28(ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/11/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
御朱印
初穂料:300円
特設授与所にて。
※酉の市の日のみ御朱印を拝受できる。
歴史考察
大森のお酉さま
東京都大田区大森北に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
大森のお酉さまとして、11月の酉の日には「酉の市」が開催。
酉の市の日になると、大森銀座商店街・ミルパから当社までずらりと露店が並び立ち、多くの参拝者が訪れ城南地区随一とも云われる賑わいとなる事で有名。
江戸中期より信仰を集める
創建年代は不詳ながら、江戸中期より信仰を集めたと伝えられている。
御由緒なども不明とされており、当社に関する史料はあまり見られない。
かつては「鷲宮」と称されていた。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。
(不入斗村)
鷲宮
除地一畝四歩。字向にあり。八尺四方。是も密厳院持にて勧請の年代詳ならず。社傍に松樹三株たてり。
不入斗村(いりやまずむら)の「鷲宮」として記されているのが当社。
式内社である「磐井神社」の別当寺を担っていた「密厳院」が、当社の別当も担っていた。
「密厳院」の項目には「今の荒井宿村の境鷺宮の邊、当寺大門の跡なりと云。」と記されており、かつての「密厳院」は当社近くまでが境内の大寺であり、当社周辺に大門が置かれていたという事になる。
「密厳院」が火災などで境内が狭くなった際に、そのまま当地に残ったと推測できる。
不入斗村の地名由来
当社は不入斗村(いりやまずむら)の向という地域に鎮座していた。
不入斗村の南には式内社で規模も大きな「磐井神社」が鎮座しており、こちらが村の鎮守であった。

いずれも免租地(租税を納めなくても良い土地)であり、かつての寺社領などで貢納を免ぜられた不入権をもつ事から、そうした地名が付けられる例が多い。
当社があった不入斗村も同じような理由であろう。
当時の当地は耕地がほとんどであり、幕府から鷹の餌を採る餌差が任命され、鷹の餌となる小鳥(鳩や雀)などを捕まえる役割であった。
そうした村に鎮座していた当社は、江戸中期より武運開運商売繁盛の神として信仰されたと伝わる。
明治以降の歩み
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
この頃に「鷲神社」に改称したものと見られる。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に際し、不入斗村と新井宿村が合併し入新井村となり、当地は入新井村不入斗と呼ばれた。
明治三十九年(1906)の古地図がある。
当時の入新井村の地理関係を確認する事ができる。
(今昔マップ on the webより)
現在の当社の位置に鳥居の記号が見られるように、この頃から同じ場所に鎮座していた。
駅と当社周辺はやや人家があったようだが、周囲はほとんど耕地だった事分かり、こうした地域の中で、古くから崇敬されていた神社だった事が伝わる。
昭和七年(1932)、大森区が成立し、大森区入新井という住居表示となる。
こうしてかつての不入斗の地名は消える事となる。
昭和二十八年(1953)、社殿が再建。
これが現存している。
昭和三十九年(1964)、順次行われていた住居表示によって入新井も消滅。
かつての不入斗村周辺は、現在の大森北1-6丁目となっている。
現在では11月酉の日の「酉の市」が大いに賑わう事で有名。
露店の数は100を超え、城南地区でも随一と称される賑わいを見せる。
普段は商店街にある静かな神社
最寄駅は大森駅になり、大森銀座商店街・ミルパのアーケード街を抜ける。
アーケードの先、信号を渡った左手に当社の鳥居が見えてくる。商店街の一画に鎮座しており、普段は大変静かな神社となっている。
そうした商店街の中にありながらも意外と境内は奥行きなどがある。これらは地域や商店街によって維持されており、地域からの崇敬の賜物であろう。
手水舎は用意されておらず(使用されていない手水石のみ)、参道の先に社殿。
社殿は昭和二十八年(1953)に再建されたもの。この日は夕方の時間帯だったため、防犯上、社殿の扉が閉まっているが、日中は開いていてお賽銭を入れたり、社殿内を見る事も可能となっている。
小さいながらも綺麗に維持されているのが伝わる。
境内右手には神楽殿。あとは社務所と鷲会館があり、いずれも地域の方が使う貸しホールなどになっていて、地域の方向けに開放されている。
このように普段は地域の方がたまに参拝に訪れるだけの小さな神社。
普段は御朱印もやられていない。
しかし、これが「酉の市」になると、多くの人で賑わう事となる。
城南地区随一の賑わいを見せる酉の市
11月の酉の日の「酉の市」は大森の名物。
露店が100以上も立ち並び、境内には熊手商も並ぶ。
その規模は城南地区随一とも云われ、大森を代表するお祭りとなっている。
大森駅から当社までの間にある、大森銀座商店街・ミルパには露店がずらりと立ち並ぶ。アーケード街には多くの露店、さらに商店街のお店も露店を出したりと大盛り上がり。
この賑わいが当社、さらに当社の先までずらっと続く。多くの露店、そして人々で賑わい、まさに城南随一の賑わいとなる。
普段は静かな鳥居の前も酉の市になるとこの賑わい。日によるが、2016年の二の酉は祝日と重なったため、普段よりも更に多くの人々が参拝に訪れており、この鳥居からぐるっと右手の鷲会館裏手まで参拝列が続くという光景となっていた。
結果的に、参拝まで1時間もの行列となっており、それだけ地域からの崇敬を集めている事が伝わる。
行列に並び鳥居を潜ると、普段とは違う当社の姿を見る事ができる。多くの参拝者と提灯、熊手商も出ており、とても賑やかな光景。
参拝を終えると、左手に特設の授与所が設けられており、そちらで「開運熊手守」を授与して頂く事ができる。
参道や西側参道には多くの熊手商が立ち並ぶ。あたりでは勢いのある掛け声が響く。
一の酉:11月1日(月)
二の酉:11月13日(土)
三の酉:11月25日(金)
御朱印は酉の市の日のみ頂ける。
鳥居を潜ってすぐ右手の特設授与所にて。
御朱印にはほぼ列が出来ていないので、そう待つ事なく頂く事ができたが、参拝列が大変な事になっていたので時間には余裕を見たほうがよいだろう。
普段の酉の市でも参拝まで20分30分待つ事が多い。
所感
江戸時代の頃より当地で崇敬を集めてきた当社。
かつての当地は耕地ばかりであまり人が住んではおらず、そうした地域の中で細々と大切にされていたものだと思われる。
明治以後、そして戦後と大森周辺が発展し、多くの人々が住むようになり、当地周辺は商店街となる中で、今でも小さいながらこうして境内が維持されているのは、やはり地域の方々からの崇敬によるものであろう。
普段は静かな神社も、酉の市になると物凄い賑わいとなり、これが正に当社に対する地域の崇敬の現れとも云う事ができる。
例え参拝列が1時間以上でも、しっかりそれに並び参拝していく姿を見れば、地域の方々が当社に感謝し崇敬している事がよく伝わり、そういう気持ちがあるからこそ、城南地区随一の盛り上がりとなるのであろう。
普段は静かであるが、地域一帯となった良い酉の市を有する神社である。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 手水石 ]
[ 愛國の碑 ]
[ 倉庫 ]
[ 神楽殿 ]
[ 鷲会館 ]
[ 社務所 ]
[ 西側鳥居 ]
[ 祠 ]
[ 案内板 ]
[ 酉の市(2016年二の酉) ]
コメント
実際に鷲神社に行ってみました。
入り口にある祠ですが、何かを踏んでいるように見えるのですが、何を踏んでいるのでしょうか。
■大森さま
コメントありがとうございます。
あの祠ですが、おそらく庚申塔の祠だったと思います。
鮮明な画像が残っていませんので、また後日参詣した際に詳しく見ておきますが、
庚申塔の場合は、一般的に本尊とされる青面金剛が彫られる事が多く、合わせて三猿が彫られる事が多いです。
踏みつけているとの事ですので、三猿ではなく邪鬼なのでしょう。
青面金剛の姿としてはいくつか見られるのですが、
三叉戟を持ち憤怒相で2匹の邪鬼を踏みつける姿で描かれる事が多いです。
青面金剛は民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した本尊であり、夜叉神でもあります。
邪鬼を踏む事で悪いのを押さえ、それが三尸(さんし)と呼ばれる悪い虫を押さえる庚申信仰に繋がったのだと思います。
参考になれば幸いです。