神社情報
今戸神社(いまどじんじゃ)
御祭神:應神天皇・伊弉諾命・伊弉冉命・福禄寿
社格等:村社
例大祭:6月第1土・日曜
所在地:東京都台東区今戸1-5-22
最寄駅:浅草駅
公式サイト:─
御由緒
当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(1063)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の岩清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡八幡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。
應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比咩神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。
昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。
今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2016/10/19(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/05/03(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
授与所にて。
※他に浅草名所七福神・福禄寿の御朱印も頂ける。
御朱印帳
初穂料:1,500円
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意している。
表面に招き猫で裏面に福禄寿を描いたもの。
水色・紺色・ピンク色を用意。(限定なども有り)
※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。
歴史考察
女性から人気の神社
東京都台東区今戸に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧今戸町の鎮守。
元は八幡信仰の神社であり「今戸八幡宮」と呼ばれていた。
現在は浅草名所七福神の福禄寿、東京下町八社福参りの一社を担っている。
近年は縁結びの神社として特に女性から人気を博しており、諸説あるものの「招き猫発祥の地」「沖田総司終焉の地」としても知られる。
源氏縁の八幡社として発展
社伝によると、康平六年(1063)に京都「石清水八幡宮」から勧請とある。
源頼義・義家父子が奥州討伐(前九年の役)の際に当地に立ち寄った際に勧請したと伝えられている。
永保元年(1081)には、源義家(八幡太郎)が、後三年の役の際に当地を通り、戦勝祈願をしたとされ、凱旋の際には社殿を修復したとある。
その後も、文治五年(1189)の源頼朝の奥州征伐の際や、建久年間(1190年-1198年)にも社殿の修復造営を行ったと伝わっている。
平安時代から鎌倉時代にかけては、源氏縁の神社として大いに発展し、多くの崇敬を集める神社だったと思われる。
その後、室町時代に入り戦乱によって衰退の憂き目を見る事となる。
江戸時代の再興・今津と呼ばれた今戸の歴史
江戸時代に入ると当社が再び再興される事となる。
寛永十三年(1636)、三代将軍・徳川家光により官材を賜り、社殿と境内が再建。
以後、今戸村(旧今津村)の鎮守として崇敬を集めた。
今津とは新しい港と云う意味で、当地よりやや北にある石浜の港に次いで新しく出来た港という意味になるのであろう。
今津を今戸に改めた年代は不詳であるが、正保年間(1645年-1648年)の文献には「今戸」の名を見る事ができるため、江戸時代初期には改められていたようだ。
正徳三年(1712)には、「今戸村」が分けられる事になる。
町奉行支配で町屋として発展した「今戸町」と、農村部である「今戸町在方分」である。
当社は今戸町区域にあり、町屋の中で崇敬を集めた鎮守であった。
江戸時代に描かれた当社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「今戸八幡宮」として描かれている当社。
境内の配置などは現在とかなり違いはあるものの、町屋として発展した今戸の様子と、今戸町の鎮守として崇敬を集めた様子が描かれている。
右手に描かれているのが別当寺だった「八幡山無量寺松林院」。
明治維新後の改称と戦後の再建・近年のブーム
明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生し社殿が焼失。
その後すぐに再建されている。
昭和十二年(1937)、隣接していた「白山神社」を合祀。
これによって「今戸八幡宮」から「今戸神社」へ改称された。昭和二十年(1945)、東京大空襲によって再び社殿が焼失。
戦後の昭和四十六年(1971)、現在の社殿によって再建された。
現在では、浅草名所七福神の福禄寿、東京下町八社福参りの一社を担っている。
さらに近年はパワースポットブームや縁結びの神社として特に女性から人気の神社となっている。
平成以降は、「招き猫発祥の地」「沖田総司終焉の地」としても名乗りを上げており、知名度が高まっている。
これについては諸説あるので、詳しくは後述させて頂く。
招き猫と縁結びを押し出した境内
浅草駅からやや歩いた隅田公園近くに鎮座。鳥居の前には「招き猫発祥の地」「沖田総司終焉の地」といった看板も立てられている。
鳥居を潜ると参道が伸び、途中にある金網の狛犬は江戸時代のもの。金網で囲まれていて見にくいが文政五年(1822)に奉納されたものである。
参道を進み右手に手水舎、そして社殿となる。
社殿は昭和四十六年(1971)に再建されたもの。鉄筋コンクリート造の社殿で、やや色あせてはいるが色彩が豊か。
拝殿には大きな招き猫と福禄寿が置かれている。この招き猫が御朱印帳にデザインされている招き猫。
手前には干支である猿の像も置かれており、他にも至るところに招き猫の姿を見る事ができ、「招き猫発祥の地」を前面に押し出した境内となっている。
境内にはちょっとしたガーデニングされたエリアや、洋風の椅子やテーブルが置かれた休憩所も。神社の境内において個性的な要素であろう。
御朱印は授与所にて。浅草名所七福神・福禄寿の御朱印も拝受できる。
縁結びや招き猫に関する授与品が大変多く揃えられており、右手の社務所にもズラリとその様子を見る事ができる。
縁結びの神・縁結び会
当社は縁結びの神社として知名度が高い。
パワースポットブームなどにも乗り、多くの女性からの支持を集めている。
縁結びの神とされているのは、昭和十二年(1937)に当社に合祀された「白山神社」の御祭神が伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)の夫婦神を祀っているためであり、平成に入ってから注目を集めた。
参道右手にある御神木の周りは絵馬掛けとなっている。このほとんどが縁結びの絵馬で、縁結びの神社として人気を博しているのがよく伝わる。
絵馬は珍しい真円形のデザインの絵馬。これは縁と円の語呂を掛け合わせた遊び心のあるデザインとなっている。
そして珍しい要素に「縁結び会」という不定期開催の会がある。
平成二十年(2008)より宗教活動の一環として行われているもので、いわば当社主催の婚活(カップリング)パーティーのようなもの。
色々と決まりごとがある上に不定期開催なので、興味がある方は公式サイトを確認しておくとよいだろう。
招き猫発祥の地
当社は「招き猫発祥の地」を自称している。
境内には上述した拝殿の大きな招き猫など、他にも多くの招き猫を見る事ができ、前面に押し出しているのが伝わる。
特に社殿左手にある招き猫の像は縁結びやパワースポットと絡み人気。以前は携帯電話の待受画面に設定しておくと御利益がある、といった旨の看板も立っていた。
またアニメ「夏目友人帳」では、放映前に、当社でヒット祈願が行われた。
1期「夏目友人帳」の前には「ニャンコ先生招き猫」が、2期「続 夏目友人帳」の前には「黒ニャンコ招き猫」が奉納されている。これらは社務所の奥に置かれているので作品のファンはご覧になるのもよいだろう。

そうした「招き猫発祥の地」として知られる当社であるが、実は「招き猫発祥の地」を自称するようになったのは近年になってからである。
平成の招き猫ブームや縁結びブーム、パワースポットブームに乗じて自ら看板を掲げ、その結果として多くの招き猫が奉納された。
当社を発祥の地としている理由が、当社が今戸焼の産地である今戸の鎮守(氏神)であった事によるものとなっている。
今戸焼による招き猫が、実在する最古の招き猫であるため、今戸の鎮守であった当社が「発祥の地」という論拠となっている。
今戸焼・丸〆猫と歴史的検証
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』には、当社と共に今戸の特産品であった今戸焼も描かれており、当社が今戸焼の産地の氏神であったのは間違いない。
こちらが今戸の特産品であった「今戸焼」。
このように江戸時代の当地周辺では、今戸焼といった焼き物が盛んであった。
今戸焼の起源は天正年間(1573年-1593年)とされており、歴史を持つ焼き物。
そして、実在する最古の招き猫である「丸〆猫(まるしめのねこ)」(現在の招き猫とはポーズや形も随分と違う)が今戸焼で作られたのも事実である。
嘉永五年(1852)年に記された「武江年表」には、その丸〆猫についてこうある。
すると夢枕に愛猫が現れて「自分の姿を作り人形とすれば福徳自在となる」と告げたので、老婆は今戸焼にて愛猫を土人形にして「浅草神社」鳥居辺りで売りに出したところ、大評判になったという。
このように江戸時代後期には、実在する最古の招き猫が存在していた事は間違いなく、嘉永五年(1852)に歌川広重が『浄るり町繁花の図』として描いた錦絵では、その姿を絵で見る事もできる。
当時人気であった人形浄瑠璃を商売の戯画で表現した意欲的な錦絵。
この左上に招き猫=丸〆猫が描かれているのが分かる。
西行の銀猫の逸話をパロディに、出家した西行が店先で今戸焼の招き猫を売っている様子であり、これが招き猫が江戸時代後期に存在していたことを絵として証明する、最古の史料である。
なお、江戸東京博物館に所蔵されているので実際にご覧になるのもよいだろう。

その形状は現在の招き猫とは随分と違う。
こうした古い文献や錦絵から、江戸時代後期には丸〆猫と呼ばれる、今戸焼製の招き猫があったのは事実であり、これが実在が確認される最古の招き猫である。
しかし、上述の文献にもあるように、老婆が「浅草神社」鳥居辺りで売りに出したところ評判になった、という場所が具体的に明記されている事から、最も古い記録を有する「発祥の地」は「浅草神社」である。
そのため近年になって、特に平成の招き猫ブーム以後に自称するようになったというのが正しい。
上述したように江戸時代後期から見られる「横座りで頭を正面向きにして招く」ポーズの「丸〆猫」とは何ら関係のないものとなっている事は、少し残念である。
沖田総司終焉の地とその検証
また当社は「沖田総司終焉の地」としても名乗りをあげている。
新選組一番隊組長であり、若い天才剣士が労咳(肺結核)で夭逝してしまうという生涯から、今も多くの創作作品に登場する事が多い。
鳥居前にも看板が立ち、境内にも石碑が置かれている。「総司終焉之地碑」の石碑は平成になってから建てられたもの。
現在、沖田総司の終焉の地とされるのは2箇所ある。
研究者達の間でも長年論争が起きており、その1箇所が正に当社となっている。
新選組二番隊組長であり大正時代まで生きた永倉新八が記した『同志連名記』に「江戸浅草今戸八幡 松本良順先生宿にて病死」と記されており、これが根拠となっている。
江戸に引き上げた時、沖田総司の労咳はかなり進行していたため、幕府陸軍軍医・松本良順の医学所で治療を受けていたが、薩長軍の江戸入りに際して、沖田総司を含む患者たちは当社に収容されたと伝わっている。
新選組が見直されるきっかけとなった第一人者・子母澤寛による昭和四年(1929)刊行の『新選組遺聞』に、近藤勇の一人娘タマと結婚し近藤家を継いだ近藤勇五郎の談話として、総司が慶応四年(1868)2月末に今戸から千駄ヶ谷に駕籠で移されたことが書かれている。
同じく昭和六年(1931)『新選組物語』には「千駄ヶ谷池尻橋の際にあった植木屋平五郎というものの納屋」の記述があり、これらを千駄ヶ谷説は根拠としている。
例えば、沖田総司が死の間際に、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、衰えを痛感した沖田は付き添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたと伝わる有名な逸話も、子母沢寛による創作というのが有力だ。
そのような中、平成になってから、近藤家とゆかりの深い医師・吉野泰三が近藤家を継いだ近藤勇五郎に質問し記したという、明治二十一年(1888)付けの書簡が公表された。
そこには「東京千駄ヶ谷於病死」と記されており、子母澤寛の著作以前に、近藤勇五郎が沖田総司終焉の地を明らかにしていた事となり、千駄ヶ谷説は創作ではないという事が判明。
但し、千駄ヶ谷に移されるまでは、当社にて松本良順の治療を受けていたのは間違いなく、沖田総司ゆかりの神社と云う事はできるであろう。
所感
今戸の鎮守として崇敬を集めた当社。
現在は「招き猫発祥」「縁結びの神」「沖田総司終焉の地」「縁結び会」といったフレーズでアピールする事に成功し、間口の広さで女性を中心に多くの参拝者を集め、週末や休日になると、普段あまり参拝をしないような層も含め、多くの参拝者で賑わう。
かつては「今戸八幡」と呼ばれた源氏縁の八幡信仰の色合いは薄くなってしまっているが、古くから今戸の鎮守として崇敬を集めた神社だった事は間違いがない。
その一方で、検証したように史実とは食い違う面で自称する事も多いため、その点については参拝された方でも感じる印象が違うのではないだろうか。
個人的には間口を広くする事で興味を持ってもらい、篤く崇敬されるのはよい事だとは思うし、それらは神社側の努力であり成功しているのがよく伝わる。
ただ、どうしてもその部分が前面に出過ぎてしまうと、地域の鎮守としての魅力が薄れてしまうという弊害も出てきてしまうため、このバランスがとても難しい問題であると思う。
しかし、こうやって女性の参拝者で溢れている姿を見ると、こういう方向性も現代での一つの形であり、評価するべきなのだろう。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 狛犬 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 招き猫・福禄寿 ]
[ 本殿・拝殿 ]
[ 招き猫像 ]
[ 狛犬 ]
[ 今戸焼発祥之地碑 ]
[ 沖田総司終焉之地碑 ]
[ 授与所 ]
[ 社務所 ]
[ 休憩所 ]
[ 御神木・絵馬掛 ]
[ 神輿庫 ]
[ 裏参道 ]
[ 案内板 ]
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