女塚神社 / 東京都大田区

神社情報

女塚神社(おなづかじんじゃ)

御祭神:誉田別命
社格等:─
例大祭:7月23・24日
所在地:東京都大田区西蒲田6-22-1
最寄駅:蒲田駅・京急蒲田駅
公式サイト:http://onazuka.kamatahachiman.org/

御由緒

当社は以前、八幡社と呼ばれ女塚村429番地(国電蒲田駅東口付近)に鎮座していましたが、明治5年、京浜間に鉄道が敷設されるため、明治21年現在地に遷座され、女塚神社と改称されました。
現在の社地は、新田義興憤死のおり、侍女であった少将局が忠節を尽くしてともに害せられたのを村民が憐れみ、この地に祀ると伝えられ、八幡社を遷座する以前より村民の崇敬の厚い聖地でありました。現在も境内の一隅に女塚霊神の塚が残っています。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2017/05/02(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/10/04(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
蒲田八幡神社」社務所にて。

※普段は神職が常駐していないため、本務社「蒲田八幡神社」にて拝受できる。

[2017/05/02拝受]
(新御朱印)

[2016/10/04拝受]%e5%a5%b3%e5%a1%9a%e7%a5%9e%e7%a4%be(旧御朱印)

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歴史考察

少将局を祀る女塚と八幡神社

東京都大田区西蒲田に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧女塚村・旧御園村の鎮守。
当地は新田義興の侍女である少将局の墳墓があると伝わり、女塚の地名由来もそれに因む。
そうした少将局を祀っていた当地に、女塚村・御園村の鎮守であった「八幡社」が明治以降に遷座し、女塚村のみの鎮守となった経緯を持つ。
現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。

新田義興という南朝の勇将

創建年代は不詳。
南北朝時代(1336年-1392年)の創建と推定されている。

当社の歴史を紐解く上で大事なのが、新田義興という武将と、その侍女である少将局である。

新田義興(にったよしおき)は、南北朝時代の武将であり、南朝の忠臣とされる人物。南朝総大将・新田義貞の次男であり、元服に際して吉野で後醍醐天皇に謁見した際に「誠に武勇が器用である。義貞の家を興すべき人なり」として義興の名を給るほど無類の勇将と伝えられていた。

詳しくは新田義興公を祀る「新田神社」(大田区矢口)の記事をご覧頂きたい。

新田義興を祀る神社。破魔矢発祥の地。カラフル御朱印・兜の御朱印帳。平賀源内『神霊矢口渡』の舞台。少将局の悲劇・矢口の渡しでの謀殺。樹齢700年の御神木。義興の墳墓。石の卓球台などユニークな境内。多摩川七福神・恵比寿。御朱印。御朱印帳。

南朝総大将であった父の義貞、さらに兄の義顕が戦死した後も、南朝方の中心として、弟の義宗や従兄弟の脇屋義治ら新田一族を率いて鎌倉奪還を目指し、武蔵野合戦など各地を転戦していたとされている。

この事から南朝の忠臣として知られる。

新田義興と少将局の悲劇

新田義興については『太平記』に顛末を詳しく記されている。

足利尊氏が没した半年後の正平十三年/延文三年(1358)、義興は好機と捉え鎌倉奪還のため挙兵。
これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、義興の進出を畏れ奸計を用いて殺害しようとする。

新田の元家臣であり足利側に寝返った竹沢右京亮を使い、再び新田側に寝返ったと装い近づかせたものの、容易に信用される事がなく、そこで竹沢は京都から選りすぐりの美女を義興に与えて巧みに取り入り、時間をかけ謀殺の機会を狙う事となった。

この美女が、少将局(しょうじょうのつぼね)である。京都から来た16・17歳ぐらいの上臈(高級女官)であったとされており、義興は大変気に入り侍女としたと伝えられている。

こうして少将局を与えた竹沢は義興に取り入る事に成功した。
少将局も、竹沢と共に義興謀殺の企みに加わわりながらも、次第に義興に心惹かれていったと云う。

いよいよ時期到来と見た竹沢は、義興を自宅へ招いて謀殺するために、一族郎党を集めて自宅付近に隠れ、宴の際に謀殺しようと試みた。

それを知った少将局が義興へ「夢見が悪いので7日間は外へ出ないように」といった文を届け、竹沢の招待に応じないように懇願。
義興はその文を見て外出をせず、窮地を脱する事となる。

しかし、この事が露見して少将局は竹沢一族郎党によって殺害。
殺害された少将局の遺骸は打ち捨てられたままであったが、村人が憐れんで塚を建てて祀った塚が「女塚」であると伝わる。

現在も女塚小祠として当社境内に祀られている。
円墳らしき一角となっており、ここが少将局の墳墓であったとも伝わる。

この後に謀殺されてしまう新田義興を祀った神社が「新田神社」であり、その御家来衆を祀った神社が「十寄神社」となっている。
新田義興を祀る神社。破魔矢発祥の地。カラフル御朱印・兜の御朱印帳。平賀源内『神霊矢口渡』の舞台。少将局の悲劇・矢口の渡しでの謀殺。樹齢700年の御神木。義興の墳墓。石の卓球台などユニークな境内。多摩川七福神・恵比寿。御朱印。御朱印帳。
新田義興公と御家来衆を祀る神社。南朝の忠臣・新田義興。矢口の渡しでの謀殺。祟りを鎮めるため新田神社と十騎神社の創建。当社に参拝後に新田神社へ参拝すると願い事が叶う伝承。古い社号碑。多摩川七福神・毘沙門天。本務社は「徳持神社」。御朱印。

女塚村の成立と鎮守の八幡社

少将局の伝承以来、当地周辺は「女塚」がある事から「女塚村」と呼ばれるようになる。
村が成立した時期は不明ながら、江戸時代の頃には女塚村の史料を見る事ができる。

女塚村には、聖地としての上述の「女塚」とは別に、女塚村と隣接する御園村の両村鎮守として「八幡社」が崇敬を集めていた。
この「八幡社」が後に当社になるのだが、当時はまだ女塚とは別の場所に鎮座している。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(女塚村)
八幡社
除地四畝。村の東南にあり。當村及ひ御園村の鎮守なり。鎮座の年代を傳へす。棟札に慶長十九年落成のよしを記せり。此頃始めて造立せしにや。本社六尺四方拝殿に間に九尺、前に石の鳥居をして八幡宮の三字を扁す。祭禮年々正月十日、神楽を奏す。村内妙成寺持。

女塚村の「八幡社」と記されているのが、後の当社である。
女塚村だけでなく、隣の御園村の鎮守も担っていた。
村の南東にあり、現在の蒲田駅東口付近に鎮座していたようだ。
創建年代は不詳ながら、慶長十九年(1614)の棟札があった事から、おそらくこれが創建年だろう。
別当寺は「妙成寺」(西蒲田6丁目)が担っていた。

(女塚村)
女塚
除地一畝六歩。村の南にあり。一坏の小墳なり。小笹雑木おひ茂りて寂々たり。村老のつたへに、往昔当所に長者あり。その女の死しけるとここに葬りしと。又云いづこの人とも知らず美婦人この地にて害せられしに、里人あはれみてここに埋めし印の墳なりと。かかるいひ傳へのみにて其年代もつたへず。とにかくさだかならぬことあり、村名の由来する所なれば、別にゆへある人の墓なるべし。

一方で女塚村に「女塚」と記されているのが、現在の当社鎮座地である。
こちらには当地の長者の娘を葬った塚とも、旅の美しい婦人が害され殺されたのを哀れんで葬った塚とも記されており、少将局の伝承は記されていない。
色々な伝承が伝わるが、その年代も不明であり、いずれにせよ女性を祀った墳墓であったようだ。

明治になり八幡神社が女塚に遷座・女塚神社へ改称

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、日本最初の鉄道として「新橋駅-横浜駅」間に鉄道(現・東海道線)が敷設される事となり、女塚村・御園村の鎮守であった「八幡社」の社地を収容されてしまう。

明治二十一年(1888)、女塚村と御園村はそれぞれ鎮守を構える事にし、女塚村鎮守として「八幡社」を当地に遷座させ、これを機に「女塚神社」へ改称。
少将局の伝承が残る「女塚」があった場所である。村民たちより古くから崇敬された聖地に、鎮守を遷したという事になる。

それまでは、女塚村・御園村の鎮守であった当社であるが、遷座の際に女塚村の鎮守は当社が、御園村の鎮守は「御園神社」となり、分離している。
「おしゃもじ様」と呼ばれた御園村の鎮守。しゃもじと猿田彦命のカラフル御朱印。多摩川の洪水で流れ着いた猿田彦命の御神体。新編武蔵風土記稿から見る当社。御園村鎮守として整備され改称。蒲田駅西口の大通り沿いに鎮座。地域に利用される社務所。御朱印。

明治二十二年(1889)、町村制の施行に伴い、女塚村・御園村・北蒲田村・蒲田新宿村・鵜ノ木村が合併し、蒲田村が成立。
当地は荏原郡蒲田村大字女塚と呼ばれるようになり、その後は女塚町となっていく。

明治三十九年(1906)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
橙園で囲っているのが分離し御園村鎮守となった「御園神社」。
蒲田村「女塚」の文字を見る事ができ、当社は女塚地域の鎮守であった。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。

蒲田一帯は4月15日の「城南大空襲」と呼ばれる大規模な空襲によって焼け野原となっている。

昭和四十年(1965)、社殿が再建された。

昭和四十二年(1967)、順次行われていた住居表示によって女塚町が廃止。
西蒲田1・3・4・5・6・7、池上5といった住居表示となる。
旧女塚村は、主に西蒲田周辺と見ればよいだろう。

こうして現在の公式地名からは「女塚」は消失。
そうした中、女塚の地名由来であり、旧女塚村の鎮守であった当社が、「女塚神社」として旧地名の保全に一役買っているのは喜ばしい。

現在は「蒲田八幡神社」の兼務社となっている。

境内案内

小学校裏の小さな鎮守

蒲田駅からほど近い位置に鎮座する当社。
蒲田駅周辺の住宅街の一角、大田区立相生小学校の裏手に鎮座している。
鳥居の手前の参道(住宅街の道)には片隅に社号碑も置かれている。
社号碑には「女塚神社」の文字。

鳥居を潜ると右手に手水舎。
比較的新しく整備された手水舎で、水も張ってはり清める事ができる。
無人社ながらこうして綺麗に維持されているのは、氏子による手入れが行き届いているのだろう。

社殿は戦後の昭和四十年(1965)に再建されたもの。
女塚村と御園村の鎮守であった「八幡社」が当地に遷座し、戦後の再建となった。
朱色が鮮やかで状態も大変良く整備されている。

社殿手前に一対の狛犬。
こちらも社殿再建と同年の昭和四十年(1965)に奉納されたもの。

境内社は社殿右手に2社。
左が女塚稲荷社で、右が白山社となっている。

少将局を祀る女塚が今も残る

社殿左手にあるのが「女塚」の由来となっている塚である。
鳥居の先に小祠があり、少将局を祀る女塚霊神となっている。
全体を見ると円墳らしき姿を見る事ができ、こちらがかつての女塚で墳墓だったと推測できる。
現在はこうして立派な木が聳えている。
古くから村民にとって聖地とされ、村の地名由来にもなった当地に、鎮守であった「八幡社」を遷座させたとあって、当地の歴史と信仰が伝わる境内。

御朱印は蒲田八幡神社にて・少将局のカラフル御朱印

御朱印は本務社である「蒲田八幡神社」にて。

蒲田地区の中心的神社。カラフル御朱印・兼務社の御朱印も用意。古くから神聖な土地に鎮座。蒲田村から新宿村が分村・新宿村鎮守として式内社「薭田神社」より勧請。復興六十周年御社殿改修事業。京急蒲田駅近くに鎮座。八幡造の本殿・満願火伏稲荷。御朱印。

2017年5月より「蒲田八幡神社」とその兼務社全ての御朱印がカラフルな御朱印へと変更になった。
当社の御朱印に押されているのは少将局のスタンプとなっている。

女塚の地名由来にもなった、少将局(しょうじょうのつぼね)のスタンプが押される。
新田義興に肩入れしたため殺害された少将局の遺骸は打ち捨てられたままであったが、村人が憐れんで塚を建てて祀った塚が「女塚」であると伝わる。

所感

女塚の地名由来にもなった少将局の伝説が残る当地。
古くから村民たちより聖地として崇敬され、村名の由来ともなった「女塚」のある当地に、女塚村・御園村の鎮守であった「八幡社」が遷座してきて、明治になり女塚村のみの鎮守となった。
結果的に女塚と古くから村の鎮守であった当社が同じ敷地にある事で、より地域からの崇敬を集める事になり、こうして現在でも大切にされているのではないだろうか。
普段は無人の兼務社でありながら、境内は大変綺麗に整備されているのも、氏子崇敬者から大切に維持されているからこそ。
新田神社」「十寄神社」と共に、新田義興公にまつわる神社のうちの一社であり、比較的近くに鎮座しているので、一緒に参詣してみるのもよいだろう。

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神社画像

[ 社号碑・参道 ]

[ 鳥居 ]



[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]


[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 女塚稲荷社・白山社 ]

[ 女塚霊神 ]








[ 境内風景 ]

[ 神輿庫 ]

[ 社務所・町内会館 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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