品川貴船神社 / 東京都品川区

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神社情報

品川貴船神社(しながわきふねじんじゃ)

御祭神:高龗神・素盞嗚尊
旧社格:─
例大祭:6月7日に近い日曜日
所在地:東京都品川区西品川3-16-31
最寄駅:大崎駅
公式サイト:─

御由緒

當社は元明天皇の御代和銅二年九月藤原伊勢人の勧請に依り創建せられ、當地方最古のお宮であります。
御神威は古来より誠に廣く深く、品川(旧三ツ木村)の鎮守として氏子の崇敬厚く昔から信仰の中心として永く栄えて参りました。
御社殿は昭和廿念五月戦災を蒙りましたが、西品川氏子六地區の崇敬奉賛の熱意により再建せられました。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2015/08/28(御朱印拝受)
参拝日:2016/08/24(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/07/23(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※以前は印刷したものを綺麗に貼って下さる形だったが、最近は墨書きをして頂ける。

[2016/08/28拝受]御朱印

[2015/07/23拝受]御朱印

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考察

西品川の鎮守

東京都品川区西品川に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、西品川の鎮守。
正式名称は「貴船神社」だが、他との区別から「品川貴船神社」とさせて頂く。
元品川総鎮守「荏原神社」の元鎮座地に鎮座している神社である。

荏原神社の元鎮座地・同一のご由緒

社伝によると、和銅二年(709)に藤原伊勢人の勧請により創建したと伝わる。

藤原伊勢人は、奈良時代末期から平安時代初期の廷臣。
「鞍馬寺」の起源となった伽藍を建立したと伝わり、桓武天皇により造東寺長官に任命され「東寺」を建立したともされている人物。
畿内を中心に活躍した人物のため、ご由緒のように関東への縁があるのかは怪しいところではあるが、伝承として伝わるものである。

この和銅二年(709)に創建したというご由緒は「荏原神社」のご由緒と同一のもの。
というのも、当社の鎮座地は「荏原神社」の旧鎮座地であるため、かつて同じ神社であったと推測でき、創建に至るご由緒も同一のものとなっているのであろう。

荏原神社 / 東京都品川区
元品川総鎮守。准勅祭社。南の天王さんの愛称。龍神を祀る神社。品川神社との関係。大國魂神社・くらやみ祭との関係。かっぱ祭と呼ばれる天王祭。見事な社殿が現存。御朱印。

荏原神社」のご由緒にはもう少し詳しく記されており、そちらによると、大和国(奈良県)「丹生川上神社」より高龗神(龍神)を勧請して創建したと伝わる。

「丹生川上神社」は延喜式内社(名神大社)であり、二十二社に数えられる古社。
御祭神の一柱に高龗神がおり、高龗神は水の神として知られる。
龗は龍の古語であるため、龍神ともされている。

東京湾に面した当地において、かつては更に海が近く海に面していたと推測でき、海との繋がりが重要な地であった。
そのため当地に水の神が祀られたというのは自然な事であろう。

「貴布禰大明神」と呼ばれており、水の神を祀る神社として崇敬を集めた。
この時代はまだ当社と「荏原神社」は同一の神社であったと推測できる。

遷座によって荏原神社と分立

その後、「貴布禰大明神」が現在の「荏原神社」の鎮座地(品川区北品川2丁目)に遷座。
遷座した後も当地には「貴布禰大明神」が残され、地域の村民により祀られる事となる。
こうして「荏原神社」と当社が分立したと見る事できるだろう。

この遷座した年代は明らかになっていないのだが、「荏原神社」では宝治元年(1247)に、京都の「八坂神社」より牛頭天王を勧請しており、これが後の「南の天王さん」という愛称に繋がる事となる。
「品川貴船社」として水神を祀る神社として崇敬を集めていた当社だが、この頃からは「天王社」として呼ばれる事も増えていく事になる。

当社の御祭神を見てみると、創建時の水の神・高龗神と、牛頭天王が習合した素盞鳴尊を祀っている。
この事から「荏原神社」と分立したのは、それ以降と見る事ができるであろう。

史料などから推測するに、遷座したのは江戸時代の中期と思われる。
それまでは当地に鎮座していた「貴布禰大明神」が、遷座によって南品川鎮守として遷る事になるのだが、当地周辺の村民たちによって旧鎮座地にそのまま崇敬されお祀りされ続けたのが当社、という事になるのではないだろうか。

享和三年(1803)に「貴布禰大明神」から、現在の「貴船神社」に改められた。
imageこの事から、この頃には既に「荏原神社」が遷座し、分立していたのであろう。

江戸時代の史料から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(南品川宿上)
貴布禰社
除地一段七畝八歩、枝郷三ツ木にあり、其地の産神なり。前社の舊地に祀ると云是なり。本社方六尺拝殿二間に九尺、前に木の鳥居を建、常には神體を北品川宿稲荷社中に置、例祭九月九日彼所より神輿を奉遷して祀ると云。稲荷神主小泉出雲持。
末社。
稲荷社、本社の右にあり。
大山祇社、本社の左にあり二宇共に小社なり。

品川宿近くの枝郷三ツ木という地域にあり「貴布禰社」として記されているのが当社。
「前社の舊地に祀ると云是なり」の一文にある前社が「荏原神社」の事であり、既にこの時代には「荏原神社」が遷座して分立していた事が分かる。

ここで注目すべきは「常には神體を北品川宿稲荷社中に置」「稲荷神主小泉出雲持」という箇所。
北品川宿の「稲荷社」というのは、今の「品川神社」の事である。

品川神社 / 東京都品川区
東京十社・品川鎮守。北の天王さん・北の天王祭。都内最大の高さの富士塚「品川富士」。双龍鳥居・備前焼狛犬。源頼朝による創建。徳川将軍家からの篤い崇敬。稲荷社や牛頭天王社と記された当社。境内社の阿那稲荷神社など。東海七福神・大黒天。御朱印。

当時は「品川神社」の管轄であった事が分かり、この辺の事情がとても興味深い。

品川鎮守の荏原神社と品川神社

品川鎮守は元々「荏原神社」が担っていた。
江戸時代に入ると「品川神社」の別当寺を徳川家光が建立した「東海寺」が担うようなり、徳川将軍家との繋がりも強くなったため「品川神社」の力も強いものとなっていく。

いつしか品川の鎮守は北と南に分かれるようになる。
品川宿も南品川宿・北品川宿と分かれて呼ばれる事も多かった。

南品川宿の鎮守が「南の天王さん」と呼ばれる事となる「荏原神社」。

荏原神社 / 東京都品川区
元品川総鎮守。准勅祭社。南の天王さんの愛称。龍神を祀る神社。品川神社との関係。大國魂神社・くらやみ祭との関係。かっぱ祭と呼ばれる天王祭。見事な社殿が現存。御朱印。

北品川宿の鎮守が「北の天王さん」と呼ばれる事となる「品川神社」。

品川神社 / 東京都品川区
東京十社・品川鎮守。北の天王さん・北の天王祭。都内最大の高さの富士塚「品川富士」。双龍鳥居・備前焼狛犬。源頼朝による創建。徳川将軍家からの篤い崇敬。稲荷社や牛頭天王社と記された当社。境内社の阿那稲荷神社など。東海七福神・大黒天。御朱印。

江戸時代にはこうして二社で品川鎮守を担うようになったと考えるのが自然であろう。
実際に江戸時代にはこの二社が朱印争いを起こしている。

徳川将軍家より「品川大明神」として5石の朱印社領地を賜っていたのだが、二社がその所有権を巡って争うようになったため、2石5斗ずつニ分に分けられた歴史がある。
この頃から南北の分断があったように思う。

さらに拗れる事となったのが、明治維新後の准勅祭社(後の東京十社)という制度である。
明治元年(1868)に「品川貴船社」が准勅祭社に指定されている。
この「品川貴船社」とは「品川神社」の事なのか「荏原神社」の事なのか、これが現在も拗れており、両社共に旧准勅祭社を称する事態となっており、関係もあまりよろしくない。

個人的には「品川貴船社」とは二社を合わせて品川鎮守として准勅祭社に指定したと推測しており、上述の江戸時代に朱印地を二分したように、二社で品川鎮守と見られていたのではないだろうか。
そしてその繋がりを感じるのが当社である。

荏原神社」の旧鎮座地に鎮座しており、同一のご由緒をもつ当社。
元々は同一の神社であった事は間違いなく、遷座の際に分立したのであろう。
そして上述した江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に記されていたように、当社はこの時代は「品川神社」の管轄であった。

この事からも南品川宿鎮守「荏原神社」の旧鎮座地にあり、北品川宿鎮守「品川神社」の管轄下にあった当社は、品川鎮守の両社と縁のある神社であり、争いの多かった品川の鎮守を語る上で重要なハブ的な存在だったのではないだろうか。

神仏分離と戦後の再建

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により旧社殿が焼失。
再建までは少し時間がかかる事となる。

戦後の昭和四十二年(1967)になり社殿が再建。
西品川氏子六地区の崇敬の熱意により再建が叶った。

現在は西品川の鎮守として崇敬を集めている。

奥まった住宅街に鎮座

最寄り駅は大崎駅になるのだが、中々に入り組んだ細い路地の先の住宅街に鎮座している。
imageお隣は西品川保育園となっており日中は子どもたちの声が賑やか。

鳥居の左手に布袋像が置かれている。
image元は国際自動車の創始者である波多野元二が社屋建設の際に社屋に造り祀っていたもの。
社屋移転に際して、氏神である当社に遷座されたという。

鳥居を潜ると参道になっており、この敷地は賃貸駐車場となっている。
imageその先に二之鳥居、そして境内となる。
image二之鳥居を潜ると左手に手水舎があるのだが、平日は水が張られていない事が多い。

社殿は昭和四十二年(1967)に再建されたもの。
image戦災から再建までに少し時間がかかったものの、無事再建に至った事からも、氏子による崇敬と熱意を感じさせてくれる。

境内社は社殿の左手に、満潮宮・三ッ木稲荷神社・大山衹社の合祀殿。
imageさらにその左手に祖霊社が鎮座。
imageこの祖霊社の一角に文政十一年(1828)の銘がある「石造観世音菩薩供養道標」が置かれている。
image居木橋村と枝郷三ツ木(当地)を結ぶ碑文谷道にあったものが移設されており、「西めくろ(目黒)」といった道標になっているのが分かる。
品川区指定史跡となっている。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

所感

西品川の鎮守である当社。
住宅街の奥まった場所に鎮座している小さな鎮守であるが、戦後に氏子の努力によって再建されたように、今もなお氏子によって崇敬を集めている事が伝わる。
荏原神社」の旧鎮座地に鎮座しており、江戸時代には「品川神社」の管轄下にあった当社は、南北の品川鎮守を結ぶ大変興味深い神社で、品川鎮守の一端を担っていたのだろう。
個人的にとても興味深い位置づけの神社であり、様々な歴史や推測を楽しませてくれる神社である。

神社画像

[ 社号碑・一之鳥居 ]
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[ 布袋像 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 参道 ]
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[ 二之鳥居 ]
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[ 境内 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 絵馬掛 ]
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[ 満潮宮・三ッ木稲荷神社・大山衹社 ]
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[ 祖霊舎 ]
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[ 道標 ]
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[ 裏参道 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 社務所 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 案内板 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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