三谷八幡神社 / 東京品川区

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神社情報

三谷八幡神社(さんやはちまんじんじゃ)

御祭神:誉田別命
社格等:村社
例大祭:9月6日に近い土曜・日曜(小山両社祭)
所在地:東京都品川区小山5-8-7
最寄駅:武蔵小山駅・西小山駅
公式サイト:─

御由緒

 隣接の小山八幡と深く関わり、同社の社伝によれば長元三年(1030年)源頼信公の奉斎を始めとし、大田道灌の尊崇あり江戸時代の始め宗教上の爭いから三谷の名主石井助太夫が八幡神像を三谷の出世稲荷社の宮地に遷座鎮祭し三谷地区の氏神とされた。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2016/07/19(ブログ内の画像撮影)
参拝日:2015/05/08(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。

三谷八幡神社

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歴史考察

武蔵小山総鎮守の八幡様

東京都品川区小山に鎮座する神社。
旧社格は村社で、武蔵小山一帯の鎮守。
正式名称は「八幡神社」であるが、当地が古くは小山村の三谷地区と呼ばれていたため「三谷八幡神社」と呼ばれる事が多い。
西小山寄りの近隣にある「小山八幡神社」と関係が深く分祀という形ではあるが、江戸の頃には軋轢があったとされるものの、現在は両社合同で例大祭「小山両社祭」が行われる。

小山八幡神社からの分祀

当社は近隣の「小山八幡神社」から分祀にて創建とされている。
これには「小山八幡神社」との宗教上の軋轢があったと伝わる。

小山八幡神社」は長元三年(1030)創建の八幡様で、小山村一帯の鎮守であった。
その後、江戸時代の延宝・元禄年間(1673年-1704年)に宗教上の軋轢があったとされ、これが原因で三谷地区の名主石井助太夫が「小山八幡神社」の八幡神像を屋敷内に遷した。

さらにその後に当地にあった出世稲荷の境内に遷座し、「三谷八幡」と呼ばれるようになり、小山村三谷地区の鎮守となった。

旧小山村鎮守。荏原七福神・大黒天。かつて妙見菩薩を合祀・妙見八幡宮。三谷八幡神社と宗教上の軋轢。現在は両社合同で「小山両社祭」が開催。御朱印。

宗教上の軋轢の原因

宗教上の軋轢とは何であったのか。
これは江戸時代の頃の「小山八幡神社」を見ると分かりやすい。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「小山八幡神社」についてこう書かれている。

(小山村)
妙見社
除地三段五畝、字瀧の原にあり。社は丘の上にあり。三間に四間。妙見八幡宮の五字を扁す。是によれば元は八幡を相殿とするにや。祭礼は年々九月二十八日、神楽を社前に奏す。鳥居あり。両柱の間九尺。前に石階十二級あり。当村摩耶寺の持。
末社、稲荷社、第六天社。以上共に小祠。

これは当社ではなく、「小山八幡神社」についての記述であるが、江戸時代の頃には「妙見社」として記されているのが分かる。
当時は「妙見八幡宮」とされ、妙見信仰と八幡信仰が相殿されていた。
創建時は八幡神を信仰する八幡信仰のみの神社であったのだが、江戸時代に入り妙見神を合祀され、いつしか妙見信仰の力が強くなっていたようだ。

別当寺が日蓮宗の「摩耶寺」であり、日蓮宗には妙見信仰(妙見菩薩)との繋がりが深かったため、こうした経緯になったものと思われる。

これが当社が創建に至った「宗教上の軋轢」という事になる。
元々、八幡神のみ祀っていた当社に、妙見神を祀るようになった。
これが軋轢となり、御由緒にあるように三谷地区の名主石井助太夫が「小山八幡神社」の八幡神像を屋敷内に遷したものと思われる。
邸内社として祀った後に、出世稲荷があった当地に遷座させ、当社が創建したのであろう。
いわば氏子間での争いで分離したと云う事もできる。

明治維新後・武蔵小山の歴史

江戸時代の武蔵小山一帯は畑や竹薮、雑木林が中心の田舎であった。
江戸・東京市中で出回る筍のほとんどを生産していたとも云われ、筍の産地だった事からも、どれほど閑散としていた田舎であったのかは想像に難くない。

明治になり神仏分離。
当社は小山村三谷地区(現在の武蔵小山一帯)の鎮守として崇敬を集める。

大正十二年(1923)には、小山駅(現・武蔵小山駅)が開業。
大正十二年(1923)に関東大震災が発生で壊滅的な状況となる。
その翌年の大正十三年(1924)には「武蔵小山駅」に改称された。
この頃には今の武蔵小山駅周辺に「三谷耕地整理組合」が成立し、耕地整理事業が行われている。

こうした駅の開業や耕地整理、関東大震災後は武蔵小山駅を中心として当地は武蔵小山と呼ばれるようになり爆発的に人口が増加。
昭和七年(1932)には村社に列したのも、こうした人口の増加によるものだろう。

武蔵小山一帯は戦時中に東京大空襲による多大な被害を受ける事となる。
当社も東京大空襲によって社殿が焼失している。

戦後は武蔵小山一帯の区画整理が進む。
当社も昭和三十二年(1957)に社殿が再建されている。

この頃にはかつて「東洋一」とも称された「武蔵小山商店街(パルム)」が完成。
現在も都内では最長の800mのアーケードを有する都内でも有数の人気の誇る商店街となっている。

なお、武蔵小山駅を中心に「武蔵小山」と呼ばれるのだが、現在の周囲の町名表記は「小山」「小山台」「荏原」「西五反田」「平塚」「目黒本町」「下目黒」などであり、「武蔵小山」という地名は存在していない。
これらは上述の「三谷耕地整理事業」が行われた地域であり、当社の氏子区域と重なるため、当社は「武蔵小山総鎮守」と云う事ができるであろう。

現在は両社協力で小山両社祭が開催

当社こと「三谷八幡神社」は、「小山八幡神社」と宗教上の軋轢で分離する形で創建したのは上述した通りである。
こうした氏子間の対立があった両社だが、現在は大変良好な関係を築いている。
毎年例大祭は両社が合同で行うのがその証拠とも云えるだろう。

毎年9月第1週の土曜日曜には両社によって「小山両社祭」が開催。
付近の町会から7基の大神輿や山車が繰り出し賑わう。

こうした宗教上の軋轢を乗り越え、今は協力関係にある事が喜ばしい。
当日の武蔵小山は大変な熱気に包まれ、毎年壮観であり「しながわ百景」にも選ばれている。

綺麗に整備された境内

武蔵小山の商店街エリアから少し外れた住宅街の一角に鎮座。
image社号碑は鳥居前の他に、境内の角(交差点側)にも建っている。
imageこちらには「武蔵小山総鎮守」の文字。

鳥居を潜り左手に手水舎、奥に社殿という形。
image戦時中の東京大空襲によって旧社殿は焼失。
昭和三十二年(1957)に社殿が再建されており、現在も大変綺麗に維持されている。

社殿の左手には境内社として「稲荷神社」が鎮座。
imageこちらがいわゆる「出世稲荷」になるのであろう。
元々、当地にはこのお稲荷様が祀られており、宗教上の軋轢によって邸内社になっていた当社の八幡神が、後に「出世稲荷」がある当地に遷座してきたという形となっている。
いわばこちらが土着の神様ということができるかもしれない。

御朱印は社務所にて。
imageご年配の宮司様が丁寧に対応して下さり、色々お話も聞かせて下さった。

また、境内に隣接する形で「金山地蔵尊」が祀られている。
image江戸時代初期から八幡通りと碑文谷道の交差する辻にあったとされる。
大正期に行われた三谷耕地整理事業で当社の境内に遷された。
戦後の昭和二十九年(1954)に劣化と戦災のため、お堂と石像が再建された。
他に江戸時代の庚申塔群も並んでおり、当地周辺の古い信仰を感じる事ができる。

所感

武蔵小山一帯の鎮守である当社。
武蔵小山という地名は存在していないため、武蔵小山一帯の総鎮守である。
近隣の「小山八幡神社」との軋轢によって創建した当社だが、今は両社合同で例大祭「小山両社祭」を行うように、大変良好な関係となっているのが喜ばしい。
江戸時代以前、さらには明治にかけても筍の産地である閑散とした片田舎であった武蔵小山であるが、大正になり駅が開業し人口が爆発的に増加、さらに戦後の区画整理やパルムを始めとした商店街によって、今では人気の駅・街となっている。
そうした武蔵小山を鎮守する当社は、武蔵小山の発展と共に歩んできたとも云える。
そう大きな神社ではないのだが、いつ参拝しても綺麗に整備された境内から、今もなお地域の人々による崇敬の篤さを感じさせてくれる神社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]
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[ 社号碑 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 出世稲荷神社 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 社務所 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 石碑 ]
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[ 案内板 ]
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[ 金山地蔵尊 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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